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'''鹿内 春雄'''(しかない はるお、[[1945年]][[5月15日]] - [[1988年]][[4月16日]])は、[[日本]]の[[実業家]]。[[フジサンケイグループ]]の初代議長であった[[鹿内信隆]]の長男であり、それを継いで2代目議長を務めた。当時の愛称も「議長」だった。
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'''鹿内 春雄'''(しかない はるお、[[1945年]][[5月15日]] - [[1988年]][[4月16日]]
 
 
== 来歴・人物 ==
 
[[北海道]][[夕張郡]][[由仁町]]に父・信隆、母・英子の長男として生まれた。出生名は両親の名から一字ずつとった「信英(のぶひで)」で、幼少期はやや病弱だった。母・英子は[[祈祷師]]への強い信心を抱くようになり、依存する状態が長く続き、[[1960年]]12月には“春雄”と改名した。改名がどのような意図で行われたのか、信隆がどう対応したかはいまひとつ判然としない<ref>中川一徳著『メディアの支配者(下)』63頁</ref>。一部では父親の派手な女性関係で家庭が荒れて、父親に対する反感が強かったことと言われている<ref>佐野眞一 昭和嘘人伝 205頁 1989年 文藝春秋</ref>。
 
春雄は小学生の時分から母子ともども祈祷を受け、祈祷師に「病の原因を体内から吸い出してもらう」のを習いとするようになった<ref>中川一徳著『メディアの支配者(下)』63頁</ref>。
 
 
 
[[慶應義塾幼稚舎]]、[[慶應義塾普通部|普通部]]、[[慶應義塾高等学校|高校]]とエスカレーター式に進学したもののやがて学業成績は低迷の度を増し、[[1962年]]の2年時に[[落第]]が必至となることから中退。父親が[[早稲田大学|早稲田]]出身、姉妹が慶應出身であるから慶應でない環境で育てたいとの親の意向があったとの証言がある<ref>佐野眞一 昭和嘘人伝 202頁 1989年 文藝春秋</ref>。<br/>
 
1962年か1963年頃、アメリカへ[[留学]]。この留学は名ばかりで放蕩三昧の暮らしぶりだったと言われている<ref>佐野眞一 昭和嘘人伝 205頁 1989年 文藝春秋</ref>。高校の授業も出席せず、何度も退学の危機があり、その節々に現地の高校の入学を斡旋した大学教授の経歴もある人物に頼んで退学を免れたと言われている<ref>佐野眞一 昭和嘘人伝 203頁 1989年 文藝春秋</ref>。<br/>
 
現地の高校を卒業後は、[[ボストン大学]]に入学するも[[中退]]<ref name=shikanai>[http://kotobank.jp/word/%E9%B9%BF%E5%86%85%E6%98%A5%E9%9B%84 鹿内春雄とは] - コトバンク</ref>。中退の理由は病気に罹患したと言われ、[[車椅子]]で帰国したが、信隆は交通事故と対外的に説明していた<ref>佐野眞一 昭和嘘人伝 203頁 1989年 文藝春秋</ref>。
 
 
 
帰国後、[[日本経済団体連合会|経団連]]の[[植村甲午郎]]会長の[[秘書]]を経て、[[1970年]]に信隆が社長を務めていた[[ニッポン放送]]に入社。[[1977年]]6月にニッポン放送副社長、同年7月には[[産業経済新聞社|産経新聞社]]取締役に就任。[[1980年]]6月に[[フジテレビジョン|フジテレビ]]代表取締役副社長。[[1985年]]6月フジテレビ、産経新聞社、ニッポン放送の3社の会長になり、フジサンケイグループ議長に就任。1985年に「FCG構想」を発表し、フジサンケイグループの統一シンボル『[[目玉マーク]]』の制定、テレビ放送の高品位化、[[産経新聞]]の紙面カラー化とタイトル刷新などメディア改革を行った。
 
 
 
父が進めた「正論」路線は継承するものの「行革」キャンペーンは社会的に不人気と見るや路線変更し、代わって「[[コミュニケーションカーニバル 夢工場'87|夢工場]]」や映画『[[南極物語]]』『[[ビルマの竪琴]]』など大衆に夢を売るキャンペーンに奔走した。
 
 
 
これから遡る1970年には、信隆が番組制作部門を[[日枝久]]などが旗揚げした労働組合潰しのためフジテレビから切り離していた。制作部門に組合員が多く彼らは地方や関連会社に左遷され、現場は活気が無くなり視聴率は落ち込み低迷した。このとき組合書記長だった日枝久や[[横澤彪]]など、のちのフジテレビを支える実力者も例外なく左遷させられた。
 
 
 
そんな父の姿を見てきた春雄は、父の反対を押し切り著名な放送作家などをブレーンにして機構改革を断行し外部委託だった制作部門を左遷させた社員とともに、フジテレビ編成局の下に戻し「編成主導」の番組制作を行った。当時編成と制作を融合させた機構改革は斬新的でその後、各局がその方法を取り入れるようになった。また組合員の復権も行い、実力があれば重用する人事も行った。その後の躍進に功績があった人物を後継者におき、日枝久も40代であったが役員に抜擢した。
 
 
 
こうした実力主義による改革は、フジサンケイグループ内では制作部門を中心に強力な支持を受け、フジサンケイグループは父・信隆による硬派路線を脱却して「軽チャー路線」とも呼ばれる黄金期を迎えることになる<ref name=shikanai />。フジテレビ社内では「ジュニア」と呼ばれた二世経営者であったものの、後のメディア経営の手本ともなる優れた手腕は別の評価を得るに至った。
 
 
 
1988年4月16日、肝炎の発症等により、知人の医師がいた[[横浜市立市民病院]]にて42歳で急死。妹の厚子による『厚子手記』によれば、「兄があんなに早く亡くなったのも、母の信仰がその理由の一つなのではないかと思っています。兄は亡くなる八年前に[[B型肝炎]]を患っていました。…ところが母は、西洋医学や病院を信じないので一切見せない。…N先生の作る[[漢方薬]]しか与えないのです。病院につれていって、しっかりした医療処置さえとっていれば、兄があんなに早く亡くなることはなかったのではないかと私には思えてならないのです」という<ref>中川一徳著『メディアの支配者(下)』148頁</ref>。
 
 
 
春雄の死後、信隆は厚子の夫・[[鹿内宏明]](当時は佐藤姓)と養子縁組し、産経新聞社・フジテレビ・ニッポン放送などグループの代表取締役会長職を引き継がせた。
 
 
 
春雄のフジテレビ副社長・会長時代に放送開始した番組としては、『[[オレたちひょうきん族]]』(1981年~1989年)、『[[なるほど!ザ・ワールド]]』(1981年~1996年)、『[[森田一義アワー 笑っていいとも!]]』([[1982年]]~2014年)、『[[おはよう!ナイスデイ]]』(1982年~1999年)、『[[FNNスーパータイム]]』([[1984年]]~1997年)、『[[ライオンのいただきます]]』(1984年~1990年)、『[[夕やけニャンニャン]]』(1985年~1987年)、『[[所さんのただものではない!]]』(1985年~1991年)、『[[ワイドワイドフジ]]』(1982年~1985年)、『[[FNNモーニングコール]]』([[1986年]]~1990年)、『[[FNN DATE LINE]]』([[1987年]]~1990年)、『[[FNNスピーク]]』(1987年~)、『[[タイム3]]』(1988年~1993年)などが挙げられる。
 
 
 
また、1987年からスタートした『[[FNSの日]]』(『[[FNSスーパースペシャルテレビ夢列島]]』→『[[平成教育テレビ]]』を経て現在は『[[FNS27時間テレビ|27時間テレビ]]』)の初代製作総指揮を務めた。
 
 
 
== 家族 ==
 
妻の美津子([[頼近美津子]])は、元[[日本放送協会|NHK]]アナウンサーで、1984年8月に結婚。1985年4月に長男が誕生し、翌1986年4月に次男が誕生している。父・信隆の命名に倣い、自らの「雄」をそれぞれの子供の名前に充てて命名している<ref>佐野眞一 昭和嘘人伝 205頁 1989年 文藝春秋</ref>。
 
 
 
美津子との結婚以前に2度結婚歴がある。ニッポン放送時代の1970年に知人の紹介で結婚した1人目の妻との間には長女が生まれたが、妻は母・英子と折り合いが悪く破局。夫婦間で子供の奪い合いとなり、1975年には子供を奪い返しに来た妻を車で引きずるという傷害事件を起こしている。5年半の調停を経て1981年4月に離婚。その直後の5月に再婚した2人目の妻は元[[平尾昌晃]]夫人(平尾とは短大時代に結婚・1児をもうけるも3年で離婚していた)。2人目の妻との間に1982年6月に長男が生まれたが、その1か月後の7月に[[くも膜下出血]]を発症し死別している。
 
 
 
== 逸話 ==
 
*  ワンマンぶりが業界でも有名で、1984年3月に[[タモリ]]が降板し打ち切られるといわれていた『[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]』を春雄のツルのひと声で、タモリのギャラを大幅アップさせ継続を決めた<ref name="bunshun8431" >「Who's who スクランブル」『[[週刊文春]]』1984年3月1日号、56頁</ref>。また[[角川春樹]]と映画の[[試写会]]で同席したおり、角川を無視して[[角川映画]]を辛辣に批判し、声をかけた角川を「クン」付けで呼んで角川を激怒させた<ref name="bunshun8431" />。「映画界のドン」[[岡田茂 (東映)|岡田茂]][[東映]]社長でさえ「角川さん」と呼ぶのに、「さすがは鹿内副社長」と関係者を驚かせた<ref name="bunshun8431" />。
 
 
 
== 製作映画 ==
 
* [[プロ野球を10倍楽しく見る方法]](1983年4月29日公開)製作総指揮
 
* [[南極物語]](1983年7月23日公開)製作 - 第3回[[藤本賞]]
 
* プロ野球を10倍楽しく見る方法PART2(1984年4月21日公開)製作総指揮
 
* [[CHECKERS IN TAN TAN たぬき]](1985年4月27日公開)製作総指揮/製作指揮
 
* [[ビルマの竪琴]](1985年7月20日公開)製作 - [[第9回日本アカデミー賞]]企画賞
 
* [[ゲゲゲの鬼太郎 (1985年の映画)|ゲゲゲの鬼太郎]](1985年12月21日公開)製作代表
 
* [[ゲゲゲの鬼太郎 妖怪大戦争]](1986年3月15日公開)製作代表
 
* [[ゲゲゲの鬼太郎 最強妖怪軍団!日本上陸!!]](1986年7月12日公開)製作代表
 
* [[子猫物語]](1986年7月12日公開)製作指揮
 
* [[ゲゲゲの鬼太郎 激突!!異次元妖怪の大反乱]](1986年12月20日公開)製作代表
 
  
== 参考文献 ==
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昭和時代後期の放送経営者。
*佐野眞一 昭和嘘人伝 1989年 文藝春秋 ISBN 4-16-343670-7
 
  
== 脚注 ==
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昭和20年5月15日生まれ。鹿内信隆の長男。ニッポン放送副社長をへて,昭和55年フジテレビ副社長に就任。若者・子供向け路線で業績をあげる。60年父の跡をついでフジサンケイグループ会議議長に就任。昭和63年4月16日死去。42歳。北海道出身。ボストン大中退。
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しかない はるお
鹿内 春雄
生誕 1945年昭和20年)5月15日
北海道
死没 (1988-04-16) 1988年4月16日(42歳没)
神奈川県横浜市
出身校 ボストン大学中退
職業 実業家

鹿内 春雄(しかない はるお、1945年5月15日 - 1988年4月16日

昭和時代後期の放送経営者。

昭和20年5月15日生まれ。鹿内信隆の長男。ニッポン放送副社長をへて,昭和55年フジテレビ副社長に就任。若者・子供向け路線で業績をあげる。60年父の跡をついでフジサンケイグループ会議議長に就任。昭和63年4月16日死去。42歳。北海道出身。ボストン大中退。



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