黒部川

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黒部川(くろべがわ)は、富山県東部を流れる一級河川。黒部川水系の本川である。

地理

富山県と長野県の境、北アルプス鷲羽岳(わしばだけ)に源を発し、おおむね北へと流れる。川全体の8割は深い山地を穿ちながら流れ、黒部峡谷と呼ばれる。黒部市宇奈月町愛本橋付近で山地を抜け、広さ1.2万haの黒部川扇状地[1][2]を流れる。この扇状地は黒部市、入善町にかけて広がり、その地形は海中にまで広がっている。黒部川の豊富な水量でこの扇状地は湧き水が多く、黒部川扇状地湧水群として名水百選のひとつにも選ばれている。本流は河口付近では黒部市と入善町の境界となり、日本海へと注ぐ。

富山県の七大河川(黒部川、片貝川早月川常願寺川神通川庄川小矢部川)の一。

流域の自治体

  • 富山県
富山市立山町黒部市入善町朝日町

自然

河口周辺は富山県指定の「黒部川河口鳥獣保護区」として鳥獣保護区に指定されている。連携排砂後、水質汚濁があったが国土交通省による2006年の水質調査結果により8年ぶりに水質日本一に返り咲いた。

歴史

江戸時代この地を領した前田氏は、防衛と技術上の問題から越中東部の常願寺川早月川片貝川、黒部川に橋を架けなかった。当時、黒部川は扇状地上でさまざまな流路に分かれて流れており、黒部四十八瀬と呼ばれていた。昨日渡れた場所も今日は本流になり渡れずといった状況は絶えずあり、北陸道では親不知に匹敵する難所となっていた[3]。また、黒部川上流部では、立山一帯も含めて藩の取り締まり(視察)の一環として奥山廻りも行われた。

黒部川に橋がないことはあまりにも不便なため、寛永3年(1626年)に北陸街道を大きく上流に迂回した愛本の地に初めて橋を架けた。しかし氾濫の度に流失を繰り返したために、前田綱紀寛文2年(1662年)に橋脚がない全長63mもの刎橋を作らせた。この愛本刎橋は日本三奇橋の一つに数えられたという。

1880年、上流部で大町市富山市を結ぶ立山新道が開通し、黒部川は船で渡る交通システムが整備されたが、わずか2シーズンで廃止された[4]1971年立山黒部アルペンルートが開通すると観光客が黒部ダムの天端を往来することが可能となった。ダムの上流側の黒部湖には「平の渡し」という渡し船があるが、ダム湖ができる前に黒部川に架かっていた橋の機能を代替するものとして運行されている。

名称の由来

このあたりは古くはアイヌ民族の祖先の一部が住んでおり、「クルペッ」(意味:魔の川)というアイヌ語の言葉が変化したものという説がある[5]

利水

黒部川は水量が多く高低差もあるため、水力発電に有利な条件を備えており、大正時代には日本電力(現在の関西電力)による水力電源開発が始められた。特に上流部では急峻な山岳地帯を舞台にして、壮絶とも言える工事が行なわれている。なかでも黒部ダム黒部川第四発電所関電トンネルといった通称「くろよん」と呼ばれる電源開発事業は最も有名であるが、その他にも戦前期の黒部川第三発電所の建設工事では「くろよん」を上回る犠牲者を出しているなど、黒部川の電源開発は多くの人命を失い、多大な労力を払いながらの事業となった。

一方、下流の扇状地でも、大正時代より灌漑用水などを活用した発電所建設が進み、全国でも珍しい低落差発電が行なわれている。

河川施設

ダム

連携排砂

黒部川上流部は土砂崩壊の激しい地域であるため、土砂が予想を上回る勢いで各ダムに堆積している。そこで出し平ダムでは排砂ゲートが設けられ、1991年平成3年)12月に初めての排砂が行われたが、これによって出し平ダムからヘドロが流されて漁業被害が起きたとされ、公害訴訟が起きている。これは出し平ダムで貯水開始から6年以上経過してダム湖に蓄積し変質したものを、薄める水が少ない冬にまとめて流したのが問題ではないかと考えられている。

これをふまえて下流域への影響を少なくする方法が検討され、また1995年(平成7年)7月11日に発生した豪雨で非常に大量の土砂が流出したため、3年間に3回、増水時に排砂放流を行った。増水時に排砂することで、下流への影響がダムの存在しない自然の状態に近くなるという行政による観測結果が得られた。

その後、下流に宇奈月ダムが完成し、2001年度(平成13年度)から連携排砂を行うこととなった。これは梅雨や台風で基準以上の増水が起きたとき、出し平ダムで排砂放流を行い、宇奈月ダムではまず洪水調節を行う。そして洪水のピークが過ぎるのを確認しながら宇奈月ダムも排砂を行うという方法である。

関電と行政は「これまでの観測結果からダム湖に土砂が流れ込む量の90%以上は増水時であることが確認されており、黒部川が増水する度に(その年の最初の増水に合わせて)連携排砂、以後は増水に合わせて連携通砂を行い、ダム湖に土砂を蓄積せずに流すように運用している。ダムが無い自然の状態の土砂移動により近付けるように自然との共存を目指して運用改善の努力がなされている」と主張している。

関西電力の発電所

  • 愛本発電所 - 関西電力の発電所としては最下流に位置する。1936年6月4日発電開始(開設時は旧富山県電気局、現在の富山県企業局)。最大出力3万700kW、使用水量50.0m3/s、有効落差71.5m。
  • 音沢発電所 - 出し平ダムから取水する。1985年7月18日発電開始。最大出力12万4000kW、使用水量74.0m3/s、有効落差193.5m。[6]
  • 黒部川第二発電所 - (旧)柳河原発電所、愛本発電所に続いて建設された。黒部峡谷鉄道猫又駅付近にある。この発電所以降、電源開発はより上流部へと進められていく。小屋平ダムより取水。1936年10月30日発電開始。最大出力7万2000kW、使用水量47.2m3/s、有効落差177.0m。
  • 黒部川第三発電所 - 戦時体制下における電力需要を背景に建設された。黒部峡谷鉄道欅平駅に隣接している。この発電所及び仙人谷ダムの建設に伴って行なわれたトンネル工事は、地底において摂氏160度に達する高熱の岩盤を掘り進むという過酷なものとなった。劣悪な労働環境、地熱によるダイナマイト自然発火事故、物資輸送中の峡谷での転落事故、泡(ほう)雪崩による宿舎の全壊事故などの被害が重なり、全工区で朝鮮人労働者を含む300人以上が犠牲[7]となっている(ちなみに黒部ダム建設の殉職者は171人)。小説『高熱隧道』の舞台でもあり、映画『黒部の太陽』の伏線ともなっている。仙人谷ダムより取水。1940年11月22日発電開始。最大出力8万1000kW、使用水量33.6m3/s、有効落差278.3m。
  • 黒薙第二発電所 - 黒部川の支流である黒薙川に建設された。北又堰堤より取水。1947年12月26日発電開始。最大出力7600kW、使用水量6.2m3/s、有効落差152.6m。
  • 黒部川第四発電所 - 黒部川第四発電所の項目を参照。
  • 新黒部川第三発電所 - 黒部川第四発電所で利用した水の一部を再利用している。この導水路建設も戦前の黒部川第三発電所建設と同様、地熱との闘いとなった。仙人谷ダムからも取水。1963年10月7日発電開始。最大出力10万5000kW、使用水量46.0m3/s、有効落差269.0m。
  • 新黒部川第二発電所 - 新黒部第三発電所で利用した水を直接再利用している。発電施設はすべて地下にある。1966年9月29日発電開始。最大出力7万4200kW、使用水量46.0m3/s、有効落差189.8m。
  • 新柳河原発電所 - 宇奈月ダムによって(旧)柳河原発電所が水没するため、代替として建設された。出平ダムなどから取水。1993年4月1日発電開始。最大出力4万1200kW、使用水量50.9m3/s、有効落差93.2m。
  • 宇奈月発電所 - 宇奈月ダムから取水。2000年5月17日発電開始。最大出力2万kW、使用水量70.0m3/s、有効落差34.5m。

北陸電力の発電所

北陸電力の発電所はすべて愛本発電所の下流にある。

  • 黒東第一発電所 - 最大出力5300kW
  • 黒東第二発電所 - 最大出力10400kW
  • 黒東第三発電所 - 最大出力7200kW
  • 黒西第一発電所 - 最大出力6800kW
  • 黒西第二発電所 - 最大出力2200kW
  • 黒西第三発電所 - 最大出力1300kW

主な橋梁

黒部川河口よりの眺望

立山連峰と後立山連峰の風景 テンプレート:画像ラベル枠

ギャラリー

脚注

  1. 北日本新聞『立山・黒部 世界へ発信』
  2. 他に大型扇状地として那須野が原扇状地(4万ha)、胆沢扇状地(2万ha)などがある。
  3. 宇奈月町史編纂委員会編 『宇奈月町史』 宇奈月町、1969年。
  4. 「大山町史」第6章 交通・通信の発達 p544 大山町史編纂委員会編 1964年発行
  5. 北日本新聞 2017年8月13日付朝刊24面『ふるさと人物探訪2』より
  6. この発電所を最後に電力開発事業は終了している。なお、柳川発電所で使われた水車等が展示されている。
  7. 新潮社『高熱隧道』

関連項目

外部リンク