SUBARU

提供: miniwiki
2018/8/1/ (水) 18:52時点におけるja>Xczcによる版
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先:案内検索

株式会社SUBARU(スバル、英語: Subaru Corporation)は、日本重工業メーカーである。

かつての商号は、「富士重工業株式会社」(ふじじゅうこうぎょう、略称:富士重(ふじじゅう)・富士重工(ふじじゅうこう)、英語: Fuji Heavy Industries Ltd.、略称:FHI)であったが、2017年4月1日に自動車のブランド名として広く浸透していた「SUBARU」(スバル)に商号を変更した。

歴史

1917年(大正6年)5月、中島知久平(元海軍機関大尉)によって群馬県新田郡尾島町(現: 群馬県太田市)に設立された民営の飛行機研究所を前身とし、太平洋戦争第二次世界大戦)終戦後、GHQにより財閥解体の対象となった中島飛行機1945年(昭和20年)に富士産業と改称)がプリンス自動車工業と共に解体されたのが 、富士重工業のルーツである。

軍需から非軍需産業への転換、スクーターやバスなどの輸送用機器開発、企業分割などを経て、旧中島系の主要企業の共同により1953年(昭和28年)に富士重工業を設立、1955年(昭和30年)に参画各社が富士重工業に合併されることで企業としての再合同を果たした。

1958年(昭和33年)発売の軽乗用車スバル・360」と、その派生型である1961年(昭和36年)発売の軽商用車「スバル・サンバー」が技術的・商業的に大きな成功を収めたことで、以後「スバル」ブランドの自動車メーカーとしての地位を確立し、その他の分野にも多角的に進出しながら現在に至っている。

富士重工業の誕生まで

中島飛行機

中島飛行機は、主として太平洋戦争敗戦まで陸海軍の需要に応え、軍用機および航空用エンジン開発に取り組んだメーカーである。三菱重工業川崎航空機と並ぶ、日本最大規模の航空機製造会社であった。

特に技師長小山悌の指揮下、陸軍陸軍航空部隊)の歴代主力戦闘機・九七式戦闘機一式戦闘機「隼」二式戦闘機「鍾馗」四式戦闘機「疾風」[注 1]など、多数の著名な軍用機を送り出した。実戦投入は成らなかったが、日本初のジェットエンジン搭載機「橘花」の機体製造も中島の手に依っている。

航空発動機部門では、軍用ゆえの生産性や戦闘における生存性、前線での整備性などから空冷星型エンジンにほぼ特化しており、一式戦「隼」や零式艦上戦闘機(零戦)に搭載された「榮(ハ25)」、四式戦「疾風」や「紫電改」に搭載された「誉(ハ45)」などを開発した。

企業解体と非軍需産業への転進

日本の敗戦とともに、GHQより航空機の研究・製造の一切が禁止され、中島飛行機は新たに富士産業[注 2]と改称された。戦時中、最先端の航空機開発に取り組んだ技術者たちの生活は、各工場毎に、自転車、リヤカー、自動車修理、果ては鍋や釜、衣類箱、乳母車などの金属製品を作って糊口を凌ぐ日々へと一変した。

このような状況の中、太田と三鷹工場の技術者たちは、当時進駐軍の兵士たちが移動に利用していたアメリカ製のスクーターパウエル」に着目する。軽便な移動手段としての販路を見込めると考えられたことからスクーターの国産化が計画され、早速、敗戦後も残っていた陸上爆撃機「銀河」の尾輪をタイヤに利用して試作、1947年(昭和22年)に「ラビットスクーター」として発売した。ラビットは運転が簡易で扱いやすかったことから、戦後日本の混乱期において市場の人気を博し、会社の基盤を支える重要な商品となった。ラビットシリーズのスクーターは、モデルチェンジを繰り返しつつ富士重工業成立後の1968年(昭和43年)まで生産された。

また航空機製造で培った板金・木工技術を活用し、1946年(昭和21年)からバスボディ架装にも進出、特に従前の「ボンネットバス」より床面積を大きく取れるキャブオーバー型ボディの架装で、輸送力不足に悩むバス会社から人気を得た。さらに1949年(昭和24年)にはアメリカ製リアエンジンバスにならい、得意の航空機製造技術を生かした、日本初のモノコックボディ・リアエンジンバス「ふじ号」が完成。フロントエンジン型キャブオーバーバスより更にスペース効率に優れることから成功を収め、以降、日本のバスボディ・シャーシの主流はリアエンジンへ移行していった。

このようにして非軍需産業へ転進した富士産業であったが、1950年(昭和25年)8月、当時の政策によって財閥解体の対象となり、工場毎に15社以上に分割されてしまった。

富士重工業成立

1950年(昭和25年)6月に勃発した朝鮮戦争は、戦後不況にあえぐ日本に「朝鮮特需」をもたらしただけでなく、GHQの日本の占領政策を一変させた。1952年(昭和27年)4月、サンフランシスコ講和条約が発効すると、旧・財閥から民間賠償用としてGHQに接収されていた土地・建物の所有者に返還がはじまり、富士工業(太田三鷹工場)、富士自動車工業(伊勢崎工場)を中心とした旧・中島飛行機グループ内での再合同の動きがにわかに活発化、1952年(昭和27年)12月、大宮富士工業(大宮工場)、東京富士産業(旧・中島飛行機・本社)を加えた4社が合併同意文書に調印した。

同じ頃、1953年(昭和28年)の保安庁(現:防衛省)予算に練習機調達予算が計上され、航空機生産再開に向けて、ビーチ・エアクラフトT-34 メンターの製造ライセンス獲得に国内航空機メーカー各社は一斉に動き出した。当時、再合同の途上にあった旧・中島飛行機グループも再合同の動きを加速。1953年(昭和28年)5月には、鉄道車両メーカーとなっていた宇都宮車輛(宇都宮工場)が新たに再合同に参加することが決まり、1953年(昭和28年)7月15日、5社出資による航空機生産を事業目的とする新会社富士重工業株式会社が発足[注 3]

1954年(昭和29年)9月、6社が合併契約書に調印。1955年(昭和30年)4月1日、富士重工業は、富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車輛、東京富士産業の5社を吸収し、正式に富士重工業株式会社としてスタートした(当時の資本金:8億3,050万円、従業員:5,643名)。ロゴは「富士重工」で、「重」の1画目がない形になっており、長らく使用された。

旧・中島飛行機の発動機開発の拠点で、荻窪工場と浜松工場を引き継いだ富士精密工業は、中島飛行機再合同の動きが本格化した1952年(昭和27年)には、事実上、すでにタイヤメーカーのブリヂストンの資本下に入っており[注 4]、再合同には参加しなかった[注 5]。また、この時再合同に加わらなかった、富士機械工業[注 6]など3社は、のちに富士重工業の関連会社として加わっている。

富士重工業は、1966年(昭和41年)に東邦化学株式会社と合併し、存続会社を東邦化学株式会社とした。この存続会社の東邦化学株式会社は1965年(昭和40年)に商号を富士重工業株式会社と改めた上で合併しているため、一貫して継続した同一名称ではあるが、法律的には従来の富士重工業は1965年(昭和40年)に一旦消滅している。これは株式額面金額変更が目的の事務的なものである。

1966年(昭和41年)、それまで丸の内・内外ビルディングに所在していた本社機能が新宿駅西口(新宿区西新宿)に自社建設した「新宿スバルビル」に移転する。

その後の推移と業務提携

この節では自動車部門について述べる。

レオーネを発売した1970年代初頭から、本格的なアメリカ市場への進出を開始。オイルショック排気ガス規制などの消費者の自動車に対する要求の変化や、当時の円安を背景とした廉価性を武器に、国産他メーカーと同じくアメリカ市場での販売台数を飛躍的に伸ばすことに成功した。

1968年(昭和43年)から1999年(平成11年)まではメインバンク(日本興業銀行/現: みずほ銀行)が同じ日産自動車と提携、日産・チェリーパルサーサニーなどの委託生産を請負い、工場稼働率のアップを図っていたが、これら横置きエンジンの受託車両とスバル車とはボディ骨格からが大きく異なるため、設計や部品の共用化などが本格的に行われることはなかった。 しかし水面下では、インプレッサの企画段階において直列4気筒を横置きした試作車が作られ、水平対向の制約から逃れて「広い意味での汎用性」に重きを置く商品政策に舵を切る動きもあった。

1970年代中盤からは、南米オーストラリアを中心としたアジアオセアニア地方、中東ヨーロッパなどにも進出。1970年代以前には年産10万台にも満たなかった生産台数を、1970年代後半には20万台規模にまで増やし順調に企業規模を拡大した。

1985年(昭和60年)9月プラザ合意以降の急激な円高とアメリカ市場との「共生」が求められるようになった時代背景の中で、北米市場での深刻な販売不振に直面。1987年(昭和62年)、いすゞ自動車との共同出資で、スバル・イスズ・オートモーティブ (SIA)を設立して現地生産も開始した[注 7]が、主に魅力的な車種展開が図れなかったことや、企業規模から他国産メーカーと比べ製造コストを劇的に下げることができなかったことなどから、1989年には300億円もの営業赤字に転落。深刻な経営危機が報じられるまでになった。

しかし、折からの「バブル景気」によって資金調達のめどが順調に立ったことや、1989年1月レガシィの発売以来、順調に国内市場、北米市場での販売を回復することに成功。1990年(平成2年)には日産ディーゼル(現UDトラックス)の経営再建に手腕を発揮した川合勇のもとで地道なコスト削減努力が続けられ、WRCへの出場など、CI(コーポレーテッド・イメージ)の積極的な訴求効果とあわせ、年産30万台規模の世界的に見て比較的小規模なマスプロダクツ・メーカーとして現在に至っている。

バブル崩壊後、日産自動車が経営不振に陥り、経営再建の一環として日産自動車保有の富士重工業株の売却を決め、2000年(平成12年)に放出株全てがゼネラルモーターズ(GM)に売却された[注 8]

2005年(平成17年)10月5日にはGMの業績悪化に伴い、GMが保有する富士重工株20%をすべて放出。放出株のうち8.7%をトヨタ自動車が引き受けて筆頭株主となり、富士重工業とトヨタ自動車が提携することで合意した。トヨタとの資本提携によるスバルの恩恵は大きく、稼働率の下がっていたスバルの北米工場でトヨタ・カムリの生産を請け負ったり、品質管理やコストダウンの方法を学ぶなどして利益率を高めた。また北米特化の車作りに転換する一方で、風力発電事業や軽自動車生産から撤退するなどの「選択と集中」を行う一方、軽自動車保有層の受け皿としてダイハツ車のOEMを受け、販売を継続することとした[1]。こうした努力が2015年の利益率業界1位に繋がっている。また2012年の86/BRZの生産・販売もトヨタとの提携を生かそうと模索していたことがきっかけであった。

2010年(平成22年)8月、東京都新宿区の本社ビル(新宿スバルビル)が老朽化したことなどに伴い、建物を小田急電鉄に売却した上で本社機能を東京都渋谷区恵比寿に東京スバルの本社が入っていた「エビススバルビル(旧)」の跡地に新たに建て替える「エビススバルビル(新)」へ移転させることを発表。2014年(平成26年)8月18日、本社移転が完了した。なお、エビススバルビル(新)の一角はスバル恵比寿ショールーム(スバル スター スクエア)および東京スバル恵比寿店として機能する。

2013年(平成23年)1月、ロボット開発で国からの補助金を不正受給していたことが判明し、経済産業省新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)から計8億250万円の返還処分及び補助金交付停止処分を受ける[2]

2016年(平成28年)5月、2017年(平成29年)4月1日付で社名を「富士重工業株式会社」から「株式会社SUBARU」に変更することを臨時取締役会で決議した[3]

2016年10月1日、産業機器部門が自動車部門に統合されたが、その後12月7日に「2017年9月30日をもって事業を終息し、一部技術資産と米国販売子会社10月1日付けでヤマハ発動機へ譲渡する契約を締結した」と正式に発表した[4]。これにより、SUBARUは今後自動車生産と航空関連に特化した企業となり、商号変更とともに新時代を迎えることとなる。

シカゴ・トリビューンでは、スバルの北米市場での成功は、四輪駆動と安全性が裏付ける確かな商品群を、適正価格で販売できるからだと指摘している[5]東洋経済によると、米国における在庫回転期間は、他社が概して2か月のところスバルは半月程度に過ぎず、販売奨励金は570ドルであり、1000ドル以下は異例と報じている[6]

航空機再生産

1953年(昭和28年)9月、富士重工業はビーチ・エアクラフト社と「T-34 メンター」の製造ライセンス契約に調印。1955年(昭和30年)10月、国産1号機を完成させ、防衛庁への納入を開始した。さらに1957年(昭和32年)11月、戦後初の国産ジェット機「T-1 (練習機)(初鷹)」の開発に成功。中等練習機として1963年(昭和38年)までに66機を防衛庁(現: 防衛省)に納入した。

1965年(昭和40年)8月、民間向け軽飛行機FA-200「エアロスバル」の初飛行に成功。翌1966年(昭和41年)10月から販売を開始。低翼式の機体を採用したFA-200は低速時の安定性に優れ、アクロバット飛行なども可能な万能機として好評を博し、298機を生産した。

戦後初の国産旅客機「YS-11」の開発にも参加。主翼桁と尾翼を担当。この経験はのちに、1973年(昭和48年)12月、アメリカボーイング社ボーイング747の生産分担契約に結実し、1974年(昭和49年)には新世代旅客機ボーイング767の国際共同開発プロジェクトに参加。国際分業に大きな役割を果たした。

一方で1974年(昭和49年)、富士重工業はアメリカロックウェル・インターナショナル社と双発ビジネス機FA-300の共同開発を開始。1975年(昭和50年)11月に初飛行に成功、1977年(昭和52年)から販売を開始した。しかし、オイルショックの打撃によりロックウェル社が軽飛行機事業から撤退し計画は頓挫。FA-300は僅か42機で生産を打ち切り、富士重工業も小型機の自社開発を断念する結果となった。

以上のように民需(民間機)については限定された実績にとどまるが、官需(もっぱら陸海空の各自衛隊機)についてはT-34やT-1の後も順調に実績を重ねてきた。詳細は#航空宇宙部門の節を参照。民間機についても、1990年代以後の潮流として増えてきている国際・複数企業による共同開発にいくつか関与している。

生産部門

自動車部門

航空宇宙部門

産業機器部門

環境技術部門

  • エコ宇都宮工場(栃木県宇都宮市)
    • かつて鉄道車両や塵芥収集車・フジマイティーを生産していた。業界ではトップシェアを誇っていた。現在は航空機部品を主に製造している。

住宅事業部門

航空宇宙部門

日本航空業界の草分けである中島飛行機の後身で、現在も日本の航空宇宙業界で第三位であり、防衛省向け航空機の製造・開発及び定期整備やボーイング社向け分担生産を中心とし、その他 海上保安庁、消防や警察向けのヘリコプターの生産・整備も広く行っている。中でも固定翼機の主翼製造には業界屈指の技術と品質を誇り、ボーイングからボーイング787の開発に関わる企業の中で特に高度な能力を持つサプライヤーとして高く評価する表彰を受けているほか、対潜哨戒機P-1や輸送機C-2など(主に主翼を製造)の国内開発でも大きく貢献している。 40m超の主翼製造能力・設備は世界でもボーイング/エアバスに次ぐレベル。

複合材製品についても、世界屈指の技術力を持つ。 複合材料の実機適用は国内メーカーの先駆的役割を果たしている。

民間分野ではYS-11開発参加やFA-200販売で国産機の実績を積んでいる。

無人航空機の開発にも積極的であり、標的機や無人偵察機など自衛隊向けの機体を主とし、将来の無人機の活躍を見据えた複数の新型無人機開発に関わっている。 任務多様化、機能高度化に向け、様々な技術を研究・開発中である。

さらにはJAXAの超音速実験機D-SENDの製造・開発や航空自衛隊の先進技術実証機(後のX-2)の主翼・尾翼製造・開発など日本の航空宇宙産業発展のための高度な先進技術の研究開発にも数多く参加し、実績を残している。

沿革

  • 1958年(昭和33年)1月16日 - 第二次世界大戦後日本初のジェット機T-1練習機を開発し初飛行に成功する。
  • 1978年(昭和53年)1月17日 - T-3練習機が初飛行。3月から量産機が納入された。生産機数は50機。
  • 1987年(昭和62年)4月27日 - T-5練習機が初飛行。
    • 主力であった固定翼機製造からベルエアクラフトとのライセンス契約によるヘリコプタ製造(UH-1AH-1)へと製造の主軸を移してから固定翼機製造への積極的な参加をしていなかったが、富士重工業初の生え抜き社長であった竹中恭二(前社長)体制時の中期経営計画FDR-1により固定翼機製造を中心とした製造体制を再び本格化しJIS-Q-9100制定にあたり中心的役割を果たした。
  • 1994年(平成6年)4月9日ボーイング777の1号機がロールアウト。「世界最大の双発旅客機」の開発・製造に参加し中央翼を分担する。
  • 2002年(平成14年)7月9日 - T-3改が初飛行。2003年(平成15年)4月にT-7練習機として制式採用された。
  • 2002年(平成14年)6月 - エアバスA380に参加。垂直尾翼前縁・翼端、フェアリングを分担する。
  • 2005年(平成17年)に開発が決定したボーイング787の開発にも参加している(詳しくはYX共同開発を参照)。
  • 2008年(平成20年)から、MRJ(三菱リージョナルジェット)の設計のために技術者4名が出向している。

製品

防衛省(自衛隊)向

ライセンス生産
分担生産

民間向

自社開発
分担生産
ライセンス生産
  • 204B 中型物輸ヘリコプタ(ベルエアクラフト
  • 205B 中型物輸ヘリコプタ(ライセンスを受けて独自改良)

宇宙関連機器

産業機器

「ロビン」ブランドの小型汎用エンジンを開発・生産し、汎用エンジン業界ではシェア世界第4位。富士重工業内では唯一、米国と中国に生産拠点を持っていた。

これらのエンジンは取り扱いの容易さと抜群の耐久性などで、主に土木工事現場で使われるランマー発電機、コンクリートカッター、灌漑用のポンプ、構内作業車(モートラック)などに動力源として搭載された。また、ゴルフカートスノーモービルATV(バギー車)などに搭載されるエンジンも開発、生産していた。これらのエンジンのほとんどはOEM供給されているため、一般人の目に触れる機会はほとんど無いものの、スバル車ディーラーで頒布される情報誌「Cartopia」で時折紹介され、相応に認知された存在だった。

なお、富士重工業は、2016年10月1日をもって自動車部門の競争力強化のため、産業機器カンパニーをスバル自動車部門に統合し、既存商品の製造、販売、サービスに特化した上で、開発案件の停止による人員の自動車部門への配置転換など、将来的には事業縮小・撤退の意向であると発表した[7]。 そして2016年12月7日、「2017年9月30日付けで事業終了とし、一部技術資産と米国販売子会社を10月1日付けでヤマハ発動機へ譲渡する契約を締結した」旨を正式に発表した[8]

環境技術

現在は各種環境用プラント設備のみを生産している。それ以外の製品については後述。

住宅事業

富士重工では、小型のプレハブ住宅を製造しており、以前は通信販売で名高いセシールでも扱っていたことがある。

過去の商品

軽三輪

  • 「ダイナスター」

二輪車(スクーター)

二輪車(オートバイ)

  • 「ハリケーン」

バス車体架装事業

ファイル:FHI Fuji-go 001.JPG
「ふじ号」(富士TR014X-2)
ファイル:Nissann Diesel and FHI Makers plates 001.JPG
バス車体のメーカーズプレート

1946年(昭和21年)に小泉ボデー製作所(当初別会社)でスタートし、日本で初めてのフレームレスモノコック構造によるリヤエンジンバス「ふじ号」(1949年(昭和24年))の開発に成功。のちに富士自動車工業となり、スバル360等の開発を行ない、現在の主力であるスバルブランドの乗用車にも発展した事業である。この分野では「スバル」ブランドを使っておらず、エンブレムとしてもプレアデス星団をあしらったスバルのエンブレムではなく、カタカナの「フ」の字をあしらったエンブレムを使用している(右の写真を参照)。

一時期は民生デイゼル日産ディーゼル(現・UDトラックス)を中心に大型自動車メーカー5社[注 9]バス車体を架装し、バス車体シェア1位を誇っていたが、シャーシメーカーのバス車体メーカーの系列化(子会社での生産)で生産台数が減少した。1998年(平成10年)に三菱ふそう日野自動車の架装から撤退、2002年(平成14年)1月に日産ディーゼルがバス車体の架装を西日本車体工業(西工、福岡県北九州市小倉北区)に集約することを決定したため[9]、同年5月に事業存続は困難と判断し、伊勢崎製作所で行なっていたバス車体架装事業を終了する決定をした。このため、バス車体架装事業は日産ディーゼルとごく少数のいすゞ自動車を最後に2003年(平成15年)3月で終えた[注 10]。またボルボ社のシャシーを輸入し、アステローペシリーズと連節バスを製造していたが、これらも2000年(平成12年)に生産が終了している。

なお、伊勢崎製作所はその後スバルカスタマイズ工房(現:桐生工業伊勢崎工場)となり、販売済みの車両に対するアフターサービスを行なっている。

鉄道車両事業

1950年(昭和25年)頃から主に客車気動車を旧国鉄JR私鉄第三セクター向けに、また、群馬・栃木に路線を持つ東武鉄道向けには電車を生産していたが、生産両数の低下により2002年(平成14年)5月に事業存続は困難と判断し、宇都宮車両工場(現在のエコ宇都宮工場)で行っていた鉄道車両事業を終える決定をした。2003年(平成15年)2月新潟トランシス新潟事業所(新潟県北蒲原郡聖籠町)へ事業譲渡。JR四国2000系気動車などの振り子式気動車はすべて富士重工製。

最後に製造された電車は東武30000系電車(31406Fの4両)。最終製造車両は地元を走る真岡鐵道モオカ14形一般形気動車(2両)となった。

なお、先述の伊勢崎事業所でも、東京都電2500形(軌間1,067mmの杉並線専用車で、足回りは戦前の車両のものを利用。杉並線廃止後は車体のみ荒川線で再利用された)を製造していた。

生産された鉄道車両

気動車

他、第三セクターの特急・一般形気動車

電車

国鉄特急車両の製造歴もあり)

  • 国鉄(電車車両は改造だけであった)
    •  72系電車から72系970番台(後の103系3000番台車)への更新。モハ72形からクモユニ82形、クモニ83形への国鉄工場扱いによる受託更新工事もあった。
    • 非冷房車から冷房装置新設改造(AU75系・AU712系も同社製)工事も請け負った。
客車
貨車
  • 私有貨車の一部の車両等
    • タキ2800形(苛性ソーダ専用タンク車)
    • タキ5450形(液化塩素専用タンク車)
    • タキ7750形(苛性ソーダ専用タンク車)
    • タキ9800形(石油類専用タンク車)
    • タキ12200形(セメント類専用タンク車)
    • タキ18600形(液化アンモニア専用タンク車)
    • タキ45000形(石油類専用タンク車)
    • ホキ10000形(石炭専用ホッパ車)
  • 国鉄所有コンテナ(5000形(試作・量産)・6000形)
軌道モーターカー
  • 大型軌道モーターカー
TMC100・101・200・201・300・301・400・500・501
  • 除雪用モーターカー
MCR400-W・TMC400Sと大型軌道モーターカーの除雪型

スノーボード・自転車・望遠鏡

  • 1998年(平成10年)には、宇宙関連機器および航空機部門の技術を使って、中空桁構造オールドライカーボンのスノーボード「VTOL」が少数販売された。なお、販売はインターネットのみ当初は50枚限定で販売された。スバルと名乗らず別ブランドで販売された。現在は販売されておらず、貴重な製品である。
  • 2008年(平成20年)12月には、99台限定で自転車(クロスバイク)「SUBARU XB」が発売された。価格は36万円。マウンテンバイクに軽量大口径ホイールを装着して、オンロードでの走行性能を向上させた自転車で、レガシィなど富士重工の車と同様、オンロードとオフロード双方の走破性を合わせもつ自転車として「クロスバイク」と呼称している。また、2013年(平成25年)1月に、ブリヂストンサイクルとのコラボレーションによるクロスバイクが、SUBARU Online Shopにて販売している(ただし、仕様は全く異なる)。
  • 2009年(平成21年)12月には、屈折式天体望遠鏡「SUBARUメローペ80A」を発売した。外部の専門メーカーと富士重内部の開発チームの共作で、スバルブランドをイメージさせるブルーで塗装されているが、車の色とはやや異なり、車のボディに比べて曲率が大きい望遠鏡の鏡筒を仕上げるために専用塗料を採用している。現在このクラスの望遠鏡は、大部分が中国製だが光学系の製作や検査をすべて日本のメーカーが行っているのが特徴となっている。「メローペ」はプレアデス星団の最も下にある星の名称。

環境技術

不祥事・事件・問題・事故

汚職事件

1998年、富士重工会長・社長の川合勇と専務の小暮泰之が、海上自衛隊の救難飛行艇開発をめぐり賄賂を提供していたとして逮捕、辞任する事件が起きた[12][13]。賄賂を受け取った国会議員は富士重工の前身「中島飛行機」の創業者の一族、中島洋次郎元衆院議員であったが、2000年9月に懲役2年の実刑判決を受けた。しかし精神不安定に陥っていた中島は2001年に首を吊り自殺した[14]。富士重工側の2人は2006年に執行猶予つきの懲役刑が言い渡された。

リコール隠し

1996年、滋賀県にてレガシィがブレーキの故障によって正面衝突する事故を起こした。警察は捜査の結果、同様のトラブルが1994年1月、岡山・千葉両県で発生し、本社に苦情が寄せられたが内密に処理されていたことが判明。1997年には工場を取り調べた警察によって欠陥隠しが判明。ブレーキ以外にも多岐にわたる不具合が発覚し、警察から警告を受けたスバルは11車種147万台についてリコールを届け出た。1998年、東京地裁は富士重工業に過料140万円(7件分)の支払いを命じた。また、事故発生の危険性を十分認識しながら運輸省にリコールを届けなかったため事故が起きたとして、富士重工業の当時の品質保証本部の幹部2人を業務上過失傷害容疑で大津地検に書類送検した。2000年に大津地検は業務上過失傷害の罪で同社の品質管理責任者だった2人を略式起訴、一週間後に罰金各50万円の略式命令が下った[15][16][17]

2017年9月にはサンバー62万台がリコールとなったが、リコール対象は1999年〜2012年生産と古くに及ぶことに加え、多数の不具合報告と2013年、2015年と2度の行政指導があったにも関わらず遅いリコールとなったため、サンバー所有者の不信を招いた[18]。これについてスバルは「プーリーが外側に出ない構造であった」「対応に時間がかかった」としている[19]

補助金不正

2012年、クリーンロボット事業部において不正経理が行われていたと共に、経済産業省や行政法人からの委託事業・補助金事業について不正が行われていたと発表した。不正経理は2004年から2011年の間に行われ、架空発注の元に2億円以上の資金を不当にスバルから引き出し、主にクリーンロボット部部長が私的に流用していた。スバルは元クリーンロボット部部長を栃木県に刑事告訴した[20]

不正・無資格検査

1984年に運輸省でのレオーネの型式認定試験の際、事前の提出書類の数値よりも実際の車重が軽くなってしまったため、密かに重りとなる鉛数十kgを前後バンパーに詰めていたことが発覚。これによりレオーネの販売開始が遅れ、生産計画に混乱が生じた[21]

2017年9月に日産自動車が起こした無資格検査問題に伴い、自動車企業各社で調査がされた結果、スバルは群馬工場で30年以上に渡って無資格で検査をしていたことが判明した[22]BRZの兄弟車でスバルが生産を担当するトヨタ・86を含めて直近3年間の25.5万台がリコールとなった[23]

問題になった完成検査は日本国内車のみに適用されるもので、大別して①保安基準検査と②型式検査に分かれる。②型式検査の方法は各企業で異なるものの、国土交通省に申請し認可を受けた方法である必要があり、また①保安基準検査の基準と手法は全社共通である。完成検査員は、各企業内で「当該検査に必要な知識及び技能を有する者のうちからあらかじめ指名された者(=資格取得者)」が行う必要があった[24]。スバルでは、まず有資格者の監督下で無資格者が検査を行う→独り立ちして一定期間業務→筆記試験受験→資格取得という流れであったが、この「独り立ち」の時点では誰も監督していなかったことが問題とされた。また独り立ち期間中に完成検査員の印章を借りて押印することも常態的に行われていたという[23]。また同年12月に国土交通省に提出された調査報告書によると、研修自体が十分な時間に満たなかったことや、筆記試験で試験官が答えを教えるなどの不正をしていたことも判明。さらに国土交通省の立ち入り検査の際は、無資格者を意図的に現場から外すなどの隠蔽工作も慢性化していたことが分かった[25]。日産の不正と合わせて日本の完成検査制度の信頼が崩れたことで、貿易自由化交渉や経済連携への悪影響が懸念される[26]

佃モビリティ総研の佃義夫所長は国内の販売が減少状況で、メーカーは国が定めた点検手順を費用のみがかかる形式的な行為だとしていたと分析している。また韓国の中央日報は他国には無いもので、十分に監督されるわけでもない規制が問題の一端を提供したのだと日本が不要な規制を設けていたことを批判した[27]。ジャーナリストの井元康一郎は、既に完成検査の基準を凌駕する品質が確保されているため実際の検査を修業に使う行為や、現場の意見が強くルールも工場ごとの流儀で決まり経営側も改革を進められないなど、自動車製造など日本の古典的な製造業に由来する現象だと指摘している[28]

燃費・排ガスのデータ書き換え

上述の無資格検査が発覚した際、燃費の不正もあるという報告を受けて外部弁護士に調査を依頼したところ、同検査の一部である、抜き取りによる燃費検査と排ガス検査においてデータ書き換えが行われていたことが2018年3月に発覚した。燃費の検査行為は道路運送車両法の保安基準の対象外(=自主的なもの)である一方、排ガスの検査は対象内であるため同法に抵触する可能性がある。いずれも基準値の範囲内であるとして、リコールは行わない見込みであるが、これらの一連の問題を受けて吉永社長は会長職へ退いた[29]

翌4月に提出された報告書によると、少なくとも2012年12月から2017年11月までの間に903台において検査員および班長によるデータの書き換えがあった。また同期間以前のデータは既に無いが、「2002年から不正が行われていた」という証言もあり、同報告書はその可能性は否定できないとした[30]

エピソード

社歌

作詞は富士重工業の元社員。作曲は團伊玖磨。富士重工業時代に創立10周年記念として制定された社歌である。

SUBARUへの社名変更に際して「社歌を変えないでほしい」という従業員の声を受けて、社名変更後も社歌として使われることとなったが、富士重工業時代の歌詞には「富士重工」を連呼するパートがあるため、その部分は作詞者の了承を得た上で「わがスバル」に置き換えられた。[31]

「トヨタにはならないでください」

トヨタとの資本提携が決まったとき、豊田章一郎や渡辺捷昭から言われた言葉である[32]。また「これ以上、(トヨタの得意ゾーンの)円に入ってくれば即座にたたきつぶしますから、そのつもりで」[33]とも言われたという。

軽自動車生産からの撤退についてスバルの吉永は「ウチの規模で軽に開発リソースを割くよりも、世界で売れる車に特化する。勇気ある決断でも何でも無い。合理的に考えれば軽は撤退しかなかった」と語っている[34]

脚注

注釈

  1. 終戦後、アメリカに接収されて、140オクタンの高品質な燃料を使用しての綿密なテストの結果、アメリカをして「第二次大戦の日本戦闘機のベストワン」と絶賛させた。
  2. 「富士」は「富士山」に由来する。中島飛行機の創立者である中島知久平は、日本を代表する名山である富士山をこよなく愛した。
  3. 本社は東京都新宿区角筈(新宿スバルビル所在地)である
  4. 当時、ブリヂストン会長でもあった石橋正二郎個人が筆頭株主の会社(つまり、厳密にはブリヂストンの資本系列ではなかったが、銀行は事実上のブリヂストン支配の会社と認定していた)となっていた。
  5. 1954年(昭和29年)、戦前の立川飛行機の転進で、同じくブリヂストン傘下にあったプリンス自動車工業と合併、富士精密工業としてスタートした後、1961年(昭和36年)、プリンス自動車工業と名称を変更、スカイライングロリア皇室御料車プリンスロイヤルなどを開発。1966年(昭和41年)、日産自動車に吸収合併された。
  6. のちの富士ロビン。2007年に富士重工系列を離れマキタ沼津を経てマキタに吸収合併。
  7. OEMによる完成車の相互供給も行なわれたが、2003年(平成15年)いすゞのSIA撤退をもって関係を解消している。
  8. GM傘下在籍中には、同傘下のSAABにインプレッサ・スポーツワゴンのOEM車種サーブ9-2Xを提供したり、GMのタイ工場からオペル車のOEMであるトラヴィックなどの供給を受けていた。また2003年(平成15年)から開発がスタートした「B9トライベッカ」ではサーブ版を最初からサーブ側と共同開発する計画だった。
  9. 大型専業4社のほかにトヨタ自動車を含む。
  10. 最終生産車は、東濃鉄道に納入された日産ディーゼル大型観光バス

出典

  1. (2/2) 絶好調「スバル大変身」の原点は、トヨタからの“愛のムチ”だった - ビジネス+IT
  2. “不正受給:富士重に補助金8億円返還処分”. 毎日jp (毎日新聞社). (2013年2月1日). オリジナル2013年5月1日時点によるアーカイブ。. https://archive.is/20130501152717/http://mainichi.jp/select/news/20130201ddm012040186000c.html . 2013閲覧. 
  3. 富士重工業株式会社が「株式会社SUBARU」に社名を変更 (PDF)”. プレスリリース (2016年5月12日). . 2016閲覧.
  4. ヤマハ発動機と富士重工業の間で 汎用エンジンの一部および米国販売会社の譲渡に関する契約を締結”. ヤマハ発動機プレスリリース (2016年12月7日). . 2017閲覧.
  5. Why Subaru is one of the hottest automakers in the U.S. Chicago Tribune 2015年2月29日
  6. 売れすぎスバルは一体どこまで拡大するのか 東洋経済オンライン 2016年4月1日
  7. 富士重工業 産業機器カンパニーをスバル自動車部門へ統合”. 富士重工業プレスリリース (2016年5月12日). . 2016閲覧.
  8. ヤマハ発動機と富士重工業の間で 汎用エンジンの一部および米国販売会社の譲渡に関する契約を締結”. ヤマハ発動機プレスリリース (2016年12月7日). . 2017閲覧.
  9. “日産ディ、西日本車体へのバスボディー発注集約を発表”. NIKKEI NET (日本経済新聞社). (2002年1月16日). オリジナル2002年1月18日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20020118131653/http://www.nikkei.co.jp/news/sangyo/20020116CIII077616.html . 2017閲覧. 
  10. 富士重工業 塵芥収集車フジマイティーの生産を終了 (PDF)”. プレスリリース (2012年12月21日). . 2016閲覧.
  11. 事業譲り受けに関するお知らせ (PDF)”. 新明和工業 (2013年1月7日). . 2016閲覧.
  12. 当社前会長起訴についてのコメント
  13. 富士重工・川合会長逮捕——防衛産業の罠に墜ちた「名経営者」
  14. 日刊スポーツアーカイブ 中島洋次郎元衆院議員、首つり自殺
  15. SUBARU NEWS 当社の元社員が書類送検されたことについてのコメント
  16. 自動車の安全性確保とリコール制度の改善に関する意見書
  17. 失敗百選 ~富士重レガシィのアクセル緩まず、リコール隠し~
  18. サンバーリコール62万台!! 国は過去2度、スバルに行政指導していた!!
  19. サンバー大量リコールの舞台裏第2弾!!「事故は2013年7月に起きていた!!」
  20. クリーンロボット部における不正行為について
  21. スバルの新車投入は大丈夫か、今度は「燃費疑惑」で下請け動揺
  22. スバル無資格検査、30年以上前からか 社長が認める
  23. 23.0 23.1 スバル 緊急記者会見、完成検査員問題でトヨタ「86」を含む直近3年間の全車種25.5万台をリコール。費用は50億円
  24. 産経Biz 日産とスバル、無資格検査なぜ起こった?
  25. スバル、法令順守意識薄く不正検査で報告書提出
  26. 「技術の日産」の看板が泣く「無資格検査問題」の深刻度
  27. 日本のものづくり、本当に限界に達したのか
  28. スバル「工場の流儀」への過度な畏怖が無資格検査招いた
  29. スバル、排ガス測定値も改ざん 社長「企業風土根っこ」
  30. スバル書き換え900台検査データ不正で報告書 日本経済新聞 2018年4月27日
  31. ありがとう!富士重工業!社名変更記念式典潜入レポート#スバコミ 2017年4月28日閲覧
  32. 富士重工業 吉永泰之社長インタビュー個性を失えば競争優位性も失うスバルの「トヨタ化」はしない | 週刊ダイヤモンド 企業特集 - ダイヤモンド・オンライン
  33. [1]
  34. 週刊東洋経済2016年1月9日号

関連項目

外部リンク