アシュケナジム

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中央ヨーロッパのユダヤ人分布(1881年)

アシュケナジムアシュケナージムAshkenazim [ˌaʃkəˈnazim], אשכנזים)とは、ユダヤ系ディアスポラのうちドイツ語圏東欧諸国などに定住した人々、およびその子孫を指す[1]。語源は創世記10章3節ならびに歴代誌上1章6節に登場するアシュケナズ(新共同訳や新改訳での表記。口語訳ではアシケナズと表記)である。単数形はアシュケナジAshkenazi[ˌaʃkəˈnazi], אשכנזי)。

アシュケナジムとセファルディムは、今日のユダヤ社会の二大勢力である。アシュケナージは、ヘブライ語ドイツを意味する。イスラエルでは一般に、前者が白系ユダヤ人、後者がアジア人、南欧系及び中東系ユダヤ人を指す語として大雑把に使われる場合があるが、これはオスマン朝からイギリス委任統治期を経てイスラエル共和国建国後に至るユダヤ教の宗教行政において「オリエントのユダヤ教徒」(Yahudei ha-Mizrah)がセファルディムの主席ラビの管轄下に置かれていたことに起因する[2]。しかし、それ以前の歴史や人種的にはっきりしたことは不詳で、現在も論争がたえない。

歴史

ディアスポラ後も、ユダヤ人のほとんどは地中海世界(のちのイスラム世界)に住んでいた。それに対し、アルプス以北におけるユダヤ人の起源ははっきりしない。7世紀中央アジア西部のコーカサスからカスピ海北岸にいたハザール王国の住民とされ、ヨーロッパに西進し移住したわずかのコーカソイドの一派のユダヤ教徒の子孫だとする説、またはローマ時代イスラム世界から商人としてヨーロッパを訪れたとする説、イタリアからアルプスを越えてやって来たとする説などあるが、単一の起源ではないかもしれない(一部に、9世紀頃に民衆がユダヤ教に集団改宗した黒海北岸のハザール汗国の子孫だとする主張が見られる。しかしハザールの使用言語はテュルク諸語であった点など歴史的な状況を考えると色々無理があり学問的根拠に乏しく、まともな学説とは見做されていない)。いずれにせよ、8世紀から9世紀には北フランスにアシュケナジムらしきユダヤ人の記録が見える。まもなく彼らは、ドイツ中部のライン川ライン地方)、ブリテンなどにも広がった。

彼らは当初は、ヨーロッパとイスラム世界とを結ぶ交易商人だったが、ヨーロッパ・イスラム間の直接交易が主流になったこと、ユダヤ人への迫害により長距離の旅が危険になったことから、定住商人へ、さらにはキリスト教徒が禁止されていた金融業へと移行した。「ユダヤ人高利貸」というステレオタイプはこのようなキリスト教社会でのユダヤ人の職業に由来し、これに対しイスラム社会のユダヤ人にはこのような傾向はなかった。

彼らは西欧にも定住したが、1290年にはイングランドから、1394年にはフランスからユダヤ人が追放された。15世紀になるとドイツ諸邦でも迫害されたりした。

追放された彼らの多くは東方へと移民した。まずはオーストリアボヘミアモラヴィアポーランドなどの地域へ移住し、ポーランド王国は1264年に「カリシュの法令」を発布してユダヤ人の社会的権利を保護した。当時ドイツ人の東方植民時代で、国王による都市化促進政策の一環として、ユダヤ人もドイツ人と一緒に招聘された。ユダヤ人などもポーランドで(ドイツの)マクデブルク法により商業的に有利な優先的条件と権利を保護されていた為にユダヤ人にとり魅了があったため移民した[3]。ユダヤ人は都市を築き、商業や銀行業を始め、彼らのビジネスや文学や進んだ技術や高い能力を認められ大公などの側近を勤めポーランド経済の柱となり、ポーランドで最初の硬貨発行(ヘブライ語が印刻)などに携わった[4])。ポーランドはユダヤ人にとって非常に住みやすい国となった。彼らはのちにポーランド・リトアニア共和国の全地域へと拡散した。ポーランド王国は当初彼らを、チュートン騎士団ドイツ人勢力との結びつきが強いドイツ人移民に代わる専門職移民として歓迎した。彼らの中には、ポーランド・リトアニア共和国で成功し、金融業や商人、地主や貴族階級(シュラフタ)になった者、そしてヨーロッパに来て初めて農業を営んだ者もいたが、その点が西欧に住み続けたユダヤ人たちと異なる。

中世末期の欧州では、諸国の王がその時々の利得をはかって、ユダヤ人にしばしば保護を与えていた。これは予告なく撤回もされるものだった。アシュケナジム(東欧系ユダヤ人)のポーランド移住の初期における身分は、そのような政策の特徴をよく示している。ヴィースラ川の王国(ポーランド王国)にやってきたユダヤ人は、祖国で享受していたものと同等とされる特典をいくつか与えられた[5]

1264年カリーシュボレスワフ公が、マグデブルクの勅令を範として彼らに与えた身分は、その典型であり、後代に各地で模倣された。この制度のもと、ユダヤ人社会は、その宗教と「民族的出自」ゆえに、特殊な社会集団としてコミューン(ヘブライ語で「ケヒラ」)を組織し、内部自治を行うことが認められていた。ユダヤの人間と財産は君主の所有物(servi camerae)であるとされ、これを害するものは君主の財産を害するものと見なされた[5]

1334年ポーランド王カジミエシュ三世により、この制度は王国全体に広められた[5]

1388年には、リトアニアヴィータウタスもそれに倣った。この移民誘致策に下心がないということはなく、「庇護民」を搾取するのは当たり前となっていた。それが高度に磨かれると「海綿しぼり法」が用いられる。表向きは、気前よく特典と保証をふるまって、他国で迫害されているユダヤ人を引き寄せる。彼らが十分に繁栄し、金を蓄えたころを見はからって、国外に追放し、財産と利権を取り上げる。またユダヤ人たちに、戻ってきて、剥奪された財産と特典を買い戻さないかと持ちかけた[5]

フランス革命による平等思想の啓蒙や、ポーランド分割による国境の消滅により、アシュケナジムの中にはふたたび西欧に戻ったり、新大陸へと移住したりするものも現れた。しかしその大多数は現在のポーランドベラルーシウクライナ西部(ガリツィア)の三地域に居住した。

19世紀末から20世紀前後にロシア帝国ポグロムや反ユダヤ政策、ヨーロッパ諸国での反ユダヤ主義勃興により、ユダヤ人自身の国民国家約束の地に建国することを求めるシオニズムの思想が生まれ、ポーランドやロシアなど東欧からオスマン帝国領のパレスチナに入植する人々が現れた。

ドイツではナチスが台頭し、多くのユダヤ系ドイツ人アメリカ合衆国イギリス委任統治領パレスチナに逃げるように移住していった。ドイツとソ連によるポーランド侵攻が起きてポーランドが占領され、ポーランドを含むヨーロッパのユダヤ系の人々はナチス・ドイツが引き起こしたホロコーストにより多くが死亡した。

ポーランドのユダヤ人

第二次世界大戦前

第一次世界大戦後に独立を果たしたポーランド共和国は、ポーランド分割以前のポーランド国家同様、再び世界最大のユダヤ人人口を抱える独立国家となった。

ユダヤ系ポーランド人は、多くは商人となり時にその地域の富裕層になったりした[6]。 ユダヤ人は靴屋や仕立て屋などになったり、医者(ポーランドの全医師の56%)、教師 (43%)、ジャーナリスト (22%) そして弁護士 (33%)であった[7]。第2次大戦前までは、ユダヤ人の出版物も盛んに発行され、科学者数学者経済学者、文学家、などが貢献していた。(ノーベル賞受賞者レオニード・ハーヴィッツ(経済学)、アイザック・バシェヴィス・シンガー(文学))

1921-1931年頃、ユダヤ人はよくポーランド人とは認知されず[8]、ユダヤ人とポーランド人の関係は緊迫する結果となった[9]

1923年、ポーランドの全大学でユダヤ人生徒が、口腔医学で62.9%を占め、医学は34%、哲学 29.2%、 化学 22.1%、法律 22.1%(26% 1929年まで)となり反発の要因となった[10]。殆どのユダヤ人は高学歴であったが、政府官僚の地位からは除外された[11]

反ユダヤ主義は、第二次大戦前の数年に頂点を迎えた[12]。国内でユダヤ人商売のボイコット運動やコーシャー肉用の屠殺禁止運動など盛んになった[13]

1935年1937年、反ユダヤ事件が起こりユダヤ人は37名死亡し、外傷者500名であった[14]

1936年私企業 80.3%はユダヤ人経営となった[15]

ドイツがポーランドに侵攻するまでの1939年、この運動はエスカレートし、ユダヤ人への敵意はポーランド人右派やカトリック教会などの旨意の中心となった[16]

ホロコースト (ドイツ占領下)

第二次大戦幕開けと共に、ユダヤ系 132,000名はポーランド軍として戦った[17]
ユダヤ系ポーランド人兵士と将兵、戦死 32,216名、61,000名は捕虜となりドイツ兵に捕まる(殆どは助からなかった)。

ホロコーストにより、ポーランドでは600万人いたユダヤ人のうち300万人がドイツによって殺害された。これにより、現代のアシュケナジムは主にアメリカ合衆国かイスラエルに住んでいる。ポーランドのユダヤ人は、第二次世界大戦前後に正統派ユダヤ教徒のポーランド人の多くがイスラエルやアメリカ合衆国へ渡ったが、また一方で非正統派ユダヤ教徒のポーランド人や、さらに世俗的なユダヤ系ポーランド人などがポーランドに残った。

1942年までにナチス占領下のポーランドに、ヘウムノ強制収容所ベウジェツ強制収容所ソビボル強制収容所トレブリンカ強制収容所マイダネク強制収容所、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所が建設され、ユダヤ人は強制労働場(en:Forced labour under German rule during World War II)や主に強制収容所に送られた[18]。 殆どのシナゴーグは破壊された[19]

1939年10月-1942年7月、ユダヤ人38万人が3.4 km2のワルシャワ・ゲットーへ入れられた。ユダヤ人住居の空き家は、戦後の住居として当局から非ユダヤ系ポーランド人達と収容所から生還したユダヤ人との間で不動産トラブルが発生した。

ナチスの決断は、ユダヤ人問題の最終的解決により開始された。

1942年3月中旬-1943年11月初旬、ラインハルト作戦によりガス室や大量殺害のアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に続いて、ベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所が建設され、ゲットーのユダヤ人は絶滅収容所へ移送された[20]

1943年2月、約1万人のビャウィストクのユダヤ人はトレブリンカ強制収容所に移送された。移動中、数百人の病気や弱ったユダヤ人は殺された。

1943年4月ー5月、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人は、トレブリンカ絶滅収容所へ移送され始め、ゲットー内の左翼シオニスト青年組織ユダヤ人戦闘組織によりワルシャワ・ゲットー蜂起が起こった。

1943年8月、ビャウィストク・ゲットー解体命令が出された。7600人がトレブリンカ絶滅収容所へ移送され、子供1200人はボヘミアテレージエンシュタットへ移送後、アウシュヴィッツ=ビルケナウへ移送されて、そこで殺害された[21]

1943年8月16日、ビャウィストク・ゲットーにてビャウィストク・ゲットー蜂起English版が起こる。軍事的には何も成功は無かったが、2番目に大きな蜂起となる。

19421945年ロンドンポーランド亡命政府内に、ユダヤ人救済委員会の「ジェゴタen:Żegota)」は組織された。このメンバーには、後の外務大臣(1999-2001年)となるユダヤ人のヴワディスワフ・バルトシェフスキを含む。

1944年ワルシャワ蜂起が起こり、17,000人のユダヤ系ポーランド人はAK国内軍 と共に戦うか隠れ家から見つけ出された。

1945年1月17日、ソ連の赤軍ワルシャワに侵略した。

共産主義の支配 (1945–1989)

第二次大戦後すぐに、様々な理由でユダヤ系ポーランド人はポーランドを離れた[22]。ポーランドでの共産主義やユダヤ人の家族親族の殺害、またはポーランド人の反ユダヤ主義を避けたい等の理由があった。

1944–46年、反ユダヤ運動が起こる。ポーランド人によって数百人から1500人のユダヤ人が殺害された[23]

ポーランドは、ユダヤ人移民がイギリス委任統治領パレスチナへ自由に行ける東側諸国の唯一の国であった[24]

1958–59年、スターリンの死後 5万人のユダヤ人がイスラエルに移民した[25]。 ポーランド人共産主義者の中に著しい数のユダヤ系が存在し、共産主義のポーランド人民共和国や公安(Urząd Bezpieczeństwa、UB )、外交諜報を起立するための活動を行なった。その中で、en:Jakub Bermanen:Hilary Mincなどは共産主義経済発足に責務があった。

1967年第三次中東戦争にポーランド共産主義政府はソ連と同様にイスラエルとの国交を断絶、反シオニズムを装い反ユダヤ主義を拡散した。国家主導の反シオニズム運動は、共産主義のポーランド統一労働者党の政治当局や大学や学校の教師職からユダヤ人は排除された。

19671971年、政治経済や秘密警察の圧力により14,000人のユダヤ系ポーランド人は強制的に国外移住となりポーランド市民権は放棄となった[26]

1970年代半ば、第三次中東戦争後に東側諸国の中で初めてイスラエルとの外交修復を試みた。

1970年代末、ユダヤ人活動家共産主義政権に対抗し、反共産主義グループ「en:Workers' Defence Committee (KOR)」を創設した。これは、ポーランドと東欧で初めての主要な市民グループとなった。

1986年、イスラエルとの国交は部分的に回復した。

1989年、共産主義政権は破壊した。ユダヤ人居住者は 5,000–10,000人程しか残らなかった。ポーランド残留のユダヤ人は、世俗主義的なユダヤ教徒の家系であったことから、ある者は自然に、ある者は前述の政治闘争の結果自らのユダヤ系の出自を隠した。それまでに多くの者はカトリック教徒となっていたが、一部は無神論者懐疑主義者もいた。

1989年以降

共産主義後、徐々に自らのユダヤ系の出自を公言したり、家族から聞き先祖の出自を表に出すようになっている。クラクフで毎年夏に開催されるヨーロッパ最大のユダヤ祭り「シャローム」は、内外から多くの観客や参加者が集まり盛大に催されている。

1990年、イスラエルとの国交は回復した[27]

2015年ピュー研究所による統計によるとポーランドはヨーロッパ6ヶ国の中で、ユダヤ人に対し「好意的でない」結果となった[28]

ポーランドにおける歴史的ユダヤ人の人口推移(ポーランドでのユダヤ人口 % ) テンプレート:Demography

文化

伝統的にセファルディムユダヤ・スペイン語ラディーノ語ジュデズモ語とも)を話していたのに対し、アシュケナジムはイディッシュ語ドイツ・ユダヤ語)を話していた。

なお、Ashkenazyという姓を名乗るユダヤ人の多くはセファルディムである。

特徴

まれな遺伝病であるテイ=サックス病ゴーシェ病の罹患率が高く、一般的ヨーロッパ人の約100倍に達する。また、ニーマン=ピック病(特にA型)の罹患率も高い。

高い知能を示す傾向がある[29]ノーベル賞など著名な科学賞の受賞者には人口比からは考えられないほどのアシュケナジムがいる[30][31] が、おそらくこれも要因の一つとされる。

文化人類学者のグレゴリー・コクラン、ジェイソン・ハーディー、ヘンリー・ハーペンディングは、次のような仮説を提唱している。アシュケナジムは神経細胞に蓄えられているスフィンゴ脂質という物質が関与する病気に罹りやすい。スフィンゴ脂質が関与する病気には、テイ=サックス病ニーマン=ピック病ゴーシェ病などがある。通常、スフィンゴ脂質が多すぎると、死に至るか、少なくとも生殖不可能な深刻な病気に罹る。ただし、ホモ接合型でスフィンゴ脂質過剰遺伝子を二つ持っていると深刻な病気や死に至るが、ヘテロ接合型で一つだけだとスフィンゴ脂質の量は高いものの、致死的なレベルには至らない。スフィンゴ脂質のレベルが高いと、神経信号の伝達が容易になり、樹状突起の成長も促される。神経突起の枝分かれが多いほど、学習や一般的な知能にとっては好ましいという。[32]

脚注

  1. アシュケナジム [Ashkenazim]の意味 国語辞典 - goo辞書
  2. 臼杵陽. “スファラディーム・ミズラヒーム研究の最近の動向 ―雑誌『ペアミーム』を中心にして―”. 東京外国語大学. . 2018-1-22閲覧.
  3. http://jewishhistorylectures.org/2013/12/05/origins-of-polish-jewry-this-week-in-jewish-history/
  4. The Polish Jews Heritage – Genealogy Research Photos Translation". polishjews.org. 2009. Retrieved September 30, 2015.
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 http://www.diplo.jp/articles11/1101-2.html ル・モンド紙(2011年1月)
  6. Aleksander Hertz, Lucjan Dobroszycki The Jews in Polish culture, Northwestern University Press, 1988 ISBN 0-8101-0758-9
  7. Iwo Cyprian Pogonowski, Jews in Poland: A Documentary History, Hippocrene Books (1993), pp. 27–28.
  8. Sharman Kadish, Bolsheviks and British Jews: The Anglo-Jewish Community, Britain, and the Russian Revolution. Published by Routledge,
  9. Ilya Prizel, National identity and foreign policy, Cambridge University Press 1998 ISBN 0-521-57697-0 p. 65.
  10. Anna Jaskóła, University of Wrocław (2010). "Sytuacja prawna mniejszosci żydowskiej w Drugiej Rzeczypospolitej" [The legal status of the Jewish minority in the Second Republic] (PDF). Chapter 3: Szkolnictwo żydowskie (Wrocław: Wydział Prawa, Administracji i Ekonomii. Instytut Historii Państwa i Prawa (Faculty of Law, Administration and Economy)). pp. 65-66 (20/38 in PDF) – via direct download from BibliotekaCyfrowa.pl.
  11. Joseph Marcus (1983), Social and Political History of the Jews in Poland, 1919–1939. Walter de Gruyter GmbH, Berlin. ISBN 9027932395.
  12. Mordecai Paldiel The path of the righteous: gentile rescuers of Jews during the Holocaust, KTAV Publishing House, 1993 ISBN 0-88125-376-6, p. 181
  13. Celia Stopnicka Heller. On the Edge of Destruction: Jews of Poland Between the Two World Wars. Wayne State University Press, 1993。https://books.google.co.jp/books?id=GmVt-O3AR34C&pg=PA107&redir_esc=y
  14. The Routledge Atlas of the Holocaust by Martin Gilbert, p.21
  15. Alice Teichova, Herbert Matis, Jaroslav Pátek (2000). Economic Change and the National Question in Twentieth-century Europe. Cambridge University Press. pp. 342–344. ISBN 978-0-521-63037-5.
  16. Edward D. Wynot, Jr., 'A Necessary Cruelty': The Emergence of Official Anti-Semitism in Poland, 1936–39. American Historical Review, no. 4, October 19711035-1058.
  17. Shmuel Krakowski, The Fate of Jewish Prisoners of War in the September 1939 Campaign
  18. History of the Holocaust – An Introduction. Jewishvirtuallibrary.org (1943-04-19). Retrieved on 2010-08-22.
  19. Thomas C. Hubka, Resplendent Synagogue: Architecture and Worship in an Eighteenth-century Polish Community, UPNE, 2003, ISBN 1-58465-216-0, p. 57
  20. Urban-Klaehn, Jagoda. "Auschwitz-Birkenau Concentration Camp – Advice from a Tour Guide". culture.polishsite.us. Retrieved 2009-05-22.
  21. ヴォルフガング・ベンツ Wolfgang Benz著、中村浩平・中村仁訳、『ホロコーストを学びたい人のために』、2004年、柏書房、ISBN 978-4760124794、p67
  22. The Chief Rabbi's View on Jews and Poland – Michael Schudrich. Jcpa.org. Retrieved on 2010-08-22.
  23. Joshua D. Zimmerman 『Contested memories: Poles and Jews during the Holocaust and its aftermath』 Rutgers Univ Pr、2003年。ISBN 0813531586、p248
  24. Devorah Hakohen, Immigrants in turmoil: mass immigration to Israel and its repercussions... Syracuse University Press, 2003 - 325 pages. Page 70. ISBN 0-8156-2969-9
  25. The Virtual Jewish History Tour – Poland. Jewishvirtuallibrary.org. Retrieved on 2010-08-22.
  26. Albert Stankowski, Studia z historii Zydow w Polsce po 1945 roku, Warszawa 2000, pp. 139–145
  27. http://www.nytimes.com/1990/02/28/world/poland-resumes-full-diplomatic-ties-with-israel.html
  28. Stokes, Bruce. "Faith in European Project Reviving". PEW research center. PEW research center. Retrieved 29 June 2015.
  29. en:Race and intelligence参照。
  30. JEWISH NOBEL PRIZE WINNERS”. Jinfo.org. . 16 March 2016閲覧. “At least 194 Jews and people of half- or three-quarters-Jewish ancestry have been awarded the Nobel Prize, accounting for 22% of all individual recipients worldwide between 1901 and 2015, and constituting 36% of all US recipients during the same period. In the scientific research fields of Chemistry, Economics, Physics, and Physiology/Medicine, the corresponding world and US percentages are 26% and 38%, respectively. Among women laureates in the four research fields, the Jewish percentages (world and US) are 33% and 50%, respectively. Of organizations awarded the Nobel Peace Prize, 22% were founded principally by Jews or by people of half-Jewish descent. Since the turn of the century (i.e., since the year 2000), Jews have been awarded 25% of all Nobel Prizes and 28% of those in the scientific research fields.”
  31. Pinker, Steven (2006年6月17日). “The Lessons of the Ashkenazim: Groups and Genes”. The New Republic. オリジナル2008年1月5日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20080105135315/http://pinker.wjh.harvard.edu/articles/media/2006_06_17_thenewrepublic.html . 23 December 2007閲覧.. "Though never exceeding 3 percent of the American population, Jews account for 37 percent of the winners of the U.S. National Medal of Science, 25 percent of the American Nobel Prize winners in literature, 40 percent of the American Nobel Prize winners in science and economics, and so on." 
  32. 『頭のでき』 リチャード・E.ニスベット/著 水谷淳/訳 ダイヤモンド社 ISBN 978-4-478-00124-0 2010年3月

著名なアシュケナジムの人物

関連項目

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