アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)
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ソ連・アフガン戦争 | |
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戦争: アフガニスタン紛争 | |
年月日: 1979年12月24日–1989年2月15日 | |
場所: アフガニスタン | |
結果: ジュネーヴ協定によりソ連軍撤退。 | |
交戦勢力 | |
ソビエト連邦 アフガニスタン民主共和国 |
ムジャーヒディーン
援助国 |
戦力 | |
ソビエト連邦軍 115,000 アフガニスタン軍 55,000 |
ムジャーヒディーン 200,000–250,000 |
損害 | |
ソ連軍 合計:14,453 戦死:9,500 戦傷死:4,000 病死・事故死:1,000 負傷:53,753 行方不明:312 アフガニスタン軍 戦死:18,000 |
戦死:75,000–90,000 負傷者:75,000+(推定) |
アフガニスタン紛争(1979年 - 1989年)
1970年代の東西冷戦下,アメリカ合衆国とソビエト連邦の二大国を巻き込んだアフガニスタンにおける内戦。
1978年4月に親ソ連派の軍部によるクーデターで,ヌール・ムハンマド・タラキーを議長とする革命評議会が実権を掌握。タラキー政権は,ソ連と友好善隣条約を締結し,土地改革などの急進的な政策を推進したが,強引な社会改革はイスラム指導者や有力部族の反感を買った。
1979年タラキーの追い落とし工作によってハーフィズラー・アミーンが政権についたが,同 1979年12月ソ連の軍事介入によるクーデターが発生し,バブラク・カールマル政権が誕生した。
これに対してアメリカをはじめとする西側諸国,特に隣国のパキスタンは強く反発したが,1985年ソ連におけるミハイル・ゴルバチョフの登場とそれに続く東西和解の動きのなかで,1986年にムハンマド・ナジブラが革命評議会議長に就任。
1988年4月にはスイスのジュネーブでアフガニスタン和平協定が結ばれ,これに従って約 10万人のソ連軍が 1989年2月に撤退を完了した。
1988年11月ナジブラは大統領に選出されたが,反政府武装勢力のムジャーヒディーン(イスラム聖戦士)の抵抗運動は激化。
ソ連の後ろだても失ったナジブラは辞任を余儀なくされ,1992年4月には社会主義政権が崩壊,ゲリラ各派からなる暫定連合政権が発足した。
しかし複雑な部族構成から再び混乱と対立の時期に入った。