ウィリアム・ペン

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ウィリアム・ペン(William Penn)

ウィリアム・ペン(William Penn、1644年10月14日 - 1718年7月30日)は、イギリス植民地だった現在のアメリカ合衆国フィラデルフィア市を建設しペンシルベニア州を整備した人物である。ペンが示した民主主義重視は、アメリカ合衆国憲法に影響を与えた。

信仰

ペンの父ウィリアム・ペンは、有力な海軍軍人で、裕福なイングランド国教会信徒であったが、同名の息子のペンは22歳でキリスト友会徒(クエーカー)になった。クエーカーは内なる光に従い、その光は神から直接来ると信じ、国王の権威を否定し、平和主義を掲げている。時はオリバー・クロムウェルが没して間もない騒乱の時期で、クエーカーは異端の考えと国王への忠誠を拒否したことで裁判にかけられていた。(クエーカーは宣誓をしない。)

ペンの宗教観は、海軍軍役を通じてアイルランドに土地を得て、その権威と知性でチャールズ2世の宮廷で追従を得ることを望んだ父を激しく苦しめた。1668年、ペンは三位一体の教えを攻撃する小冊子(「揺れる砂上の楼閣」)を書いて投獄された。

  • 「汝が良く支配しないのなら、汝は神のために支配しなければならず、その為に神に支配される・・・。神に支配されないものは、暴君に支配されることになる。」ウィリアム・ペン

迫害

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武具を身に着けた22歳のウィリアム・ペン

ペンは少年期に宗教教育をエセックスのチグウェル校で受けた。その後クエーカーの信仰に同調した宗教観の故に1660年に入学したオックスフォード大学クライスト・チャーチから1662年に退学させられ、正式にクエーカーに入信後は、数回逮捕された。最も有名なのは、クエーカーの集会で説教してウィリアム・ミードと逮捕されて受けた裁判である。ペンは告発状と自身が犯したとされる法律の写しを見る権利を主張して弁明したが、判事であるロンドン市長は、この権利が合法的であったにしても、拒否した。有罪にするよう強い圧力がロンドン市長から掛かったにもかかわらず、陪審員は「無罪」の評決をした。市長は今度は(法廷侮辱罪で)再度投獄しようとし、陪審員も同調した。陪審員は判事の支配を受けない権利を勝ち取ろうとした。

クエーカーに対する迫害が厳しくなり、ペンは北アメリカに新しい自由な新天地を求める気持ちが強くなった。既に北米に移住したクエーカーもいたが、特にニューイングランドピューリタンは、クエーカーの移住に否定的で、帰国を要求し、カリブ海地域への立ち入りが禁止される者もいた。

ペンシルベニア建設

ファイル:William Penn - The First Draft of the Frame of Government - c1681.jpg
「政府の枠組み」の最初の草稿、ペンによるペンシルベニア憲法(1681年)

1677年、ペンを含む著名なクエーカーの一団は西ニュージャージー地区(現在のニュージャージー州西部)を受領する機会に恵まれた。同じ年、ハートフォードシャー州チョーリーウッドリックマンスワースバッキンガムシャー州から200人の開拓者が到着し、バーリントンを建設した。ペンはこの計画に関わったもののイングランドに残り、開拓地のための自由憲章の草稿を書き上げた。自由で公平な裁判、信教の自由、不当に収監されない自由、自由選挙を保証した。

チャールズ2世はペンの父親に借金があり、1681年3月4日にニュージャージーの広大な西部地区と南部地区を保証することで弁済に当てた。ペンはこの領地をシルバニア(Sylvania、ラテン語で「森の国」)と名付けたが、チャールズ2世は父ペンに敬意を表してこれを「ペンシルベニア(ペンの森の国)」と改めた。恐らく国王は宗教や政治上のよそ者が(クエーカーやホイッグのように人民の参画を望む集団)、イングランドから遠く離れた土地に自分達の土地を持って、厄介払いができたと、喜んだのであろう。ペンシルベニア最初の郡のひとつは、ペンの家族の出身地であり、そこから初期の開拓者がやってきたイングランドのバッキンガムシャー州に因んでバックス郡と名付けられた。

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植民地仲買人ウィリアム・ペンレナペ族の1682年の土地交渉の想像画(ベンジャミン・ウェスト画、1771年)

植民地におけるペンの権限は、公式には国王に従ってはいたが、「政府の枠組み」を通して信教の自由、公正な裁判、主権を持つ人民により選ばれた代表、三権分立(後にアメリカ合衆国憲法の基本になる考えである)と共に民主的な制度を実行した。ペンシルベニアの信教の自由(神を信じる者全てに対する完全な信教の自由)は、この地に来るイングランド・ウェールズドイツオランダのクエーカーだけでなく、カトリックのドイツルター派同様ユグノーにも与えられた。 ペンはペンシルベニアが自分と家族にとって利益を上げられる事業となることを望んでいた。ペンはヨーロッパ中に様々な言語でペンシルベニアを売り込んだ結果、移民が大挙して押し寄せた。ペンシルベニアが急激に成長し多様化した割にはペンや家族が潤うことはなかった。実際、後にペンはイングランドで借金のために収監され、1718年の死亡時には無一文であった。

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1682年に「大協定」でウィリアム・ペンに贈られた貝殻玉のベルト

1682年から1684年まで、ペンはペンシルベニアにいた。「兄弟愛」を意味するフィラデルフィアの建設計画が完成し、ペンの政策面での案が実行に移されると、各地を巡視に出かけた。インディアンレニ・レナペ族(別名デラウェア族)と友好関係を結び、土地への支払いは公正に行うことを確約した。ペンは通訳を用いずに交渉するために、インディアンの数種類の方言さえ学んだ。ペンはヨーロッパ人がインディアンに不法行為をした場合には、双方から同数の人が出て公平な審理を行うという法令を導入した。この方法は成功し、後の植民者はペンたち最初の植民者のように公平にインディアンを扱わなかったものの、インディアンと植民者は他のイングランド植民地より長くペンシルベニアで共存した。

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インディアンとのペンの協定、合衆国議会議事堂

ペンはシャカマクソン(フィラデルフィアのケンジントン近く)のインディアンとも楡の木の下で協定を結んだ。ペンは征服より事業を通じて植民地の土地を得ることを選択した。協定に基づき適正と思う金額1,200ポンドをインディアンに支払った。しかし、そもそもインディアンは「土地をお金で売る」という行為を理解していたかどうか疑わしい。

貨幣経済の未発達なインディアン民族を貨幣経済の中に強引に引き込む、「土地の権利を金銭と交換する」という発想は、のちのちまでインディアンとの軋轢を生み続け、やがては「強制移住」と引き換えにした「年金支給」というシステムを伴う「インディアン移住法」となり、インディアン部族を骨抜きにしていく。

ヴォルテールはこの「大協定」を「この人達(インディアンとヨーロッパ人)の間で唯一口約束でもなく破られもしなかった協定」と賞賛した。「大協定」は多くの人からペンにまつわる作り話だと考えられているが、この物語は長らく影響力を持ち続けた。この出来事は象徴的な地位を占め、合衆国議会議事堂フリーズに掲げられている。

ペンは1699年にアメリカをもう一度訪れた。この間、アメリカの全イングランド植民地を連邦化する計画を推し進めた。奴隷制と闘ったとも言われるが、自分が奴隷を所有し取引しているので、そのようなことはなかったようである。しかし、奴隷の処遇を向上させ、他にペンシルベニアのクエーカーが初期の奴隷制反対運動に加わった。

ペンはフィラデルフィアに定住したいと願ったが、金銭問題のために1701年に帰国を余儀なくされた。投資顧問であったフィリップ・フォードはペンから大金を詐取し、フォードの陰謀でペンはペンシルベニアを失いかけていた。次の10年間は、主としてフォードとの法廷闘争に明け暮れた。ペンはイングランドにペンシルベニアを売却しようとしたが、交渉が行われているうちに、1712年に発作に倒れ、以後は話すことも自分の面倒を見ることもできなくなった。

ペンは1718年に亡くなり、イングランド・バッキンガムシャー州チャルフォントのジョーダンズ村クエーカー集会所の墓地で、最初の妻の隣に葬られた。家族はアメリカ独立戦争までペンシルベニアの所有権を持ち続けた。

追叙

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市庁舎屋上のウィリアム・ペンの銅像

1984年11月28日ロナルド・レーガンは大統領布告第5284号により、ウィリアム・ペンと二番目の妻ハナ・カロウィル・ペンをそれぞれアメリカ合衆国名誉市民にすると発表した。

巷間に伝えられている話に、ある時ジョージ・フォックスとウィリアム・ペンが会ったという話がある。ここでウィリアム・ペンが剣を身に付けることに(ペンの身分では当たり前だった)懸念を示し、どうしたらクエーカーの信仰と両立できるかを尋ねた。ジョージ・フォックスは応えて、「できる限り着ければ良い」と言った。後日談があり、ペンはフォックスと再会したが、この時は剣を身に着けていなかった。その時ペンは言った。「仰せに従ってできる限り着用しましたよ。」

フィラデルフィア市庁舎(シティ・ホール)の屋上に、アレクサンダー・ミルン・コールダーが建てたウィリアム・ペンの銅像がある。一時「ウィリアム・ペンの銅像より高くに建造物を造ってはいけない」という紳士協定があった。初めて高く作られたのは、1980年代後半になってからである。この銅像は「ビリー・ペンの呪い」と言われている(「ビリー」は「ウィリアム」の短縮形)。銅像はペンが上陸した方向を向いているという[1]

クエーカー・オーツの箱にある笑みを浮かべたクエーカーはウィリアム・ペンだと広く誤解されている。クエーカー・オーツ社は違うと言っている。

"No pain no palm

ペンはクエーカーとして以下のような言葉を残している。

No pain no palm,
No thorn no throne,
No gall no glory,
No cross no crown.
痛みなくして、聖枝の勝利なく
荊なくして王座なく、
苦難なくして栄光なく、
十字架なくして王冠なし。

参考文献

脚注

関連項目

外部リンク

ペンの業績