ウィレム・ルスカ

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ウィレム・ルスカ
ファイル:Wim Ruska 1972.jpg
1972年のルスカ
基本情報
オランダの旗 オランダ
出生地 アムステルダム
生年月日 1940年8月29日
没年月日 (2015-02-14) 2015年2月14日(74歳没)
身長 190cm
体重 110kg
選手情報
階級 93kg超級
無差別級
引退 1972年
 
獲得メダル
男子柔道
オリンピック
1972 ミュンヘン 93kg超級
1972 ミュンヘン 無差別級
世界柔道選手権
1967 ソルトレイクシティ 93kg超級
1969 メキシコシティ 無差別級
1971 ルートヴィヒスハーフェン 93kg超級
ヨーロッパ柔道選手権
1965 マドリード 93kg超級
1965 マドリード 無差別級
1966 ルクセンブルク 93kg超級
1967 ローマ 93kg超級
1967 ローザンヌ 無差別級
1969 オーステンデ 93kg超級
1969 オーステンデ 無差別級
1970 東ベルリン 93kg超級
1970 東ベルリン 無差別級
1971 ヨーテボリ 93kg超級
1972 フォールブルフ 93kg超級
1972 フォールブルフ 無差別級
2013年10月22日現在
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ウィレム・ルスカWillem Ruska1940年8月29日 - 2015年2月14日)は、オランダ柔道家プロレスラーアムステルダム生まれ。1972年ミュンヘンオリンピック柔道男子無差別級、重量級金メダリスト。オリンピック同一大会で2階級を制覇した唯一の柔道家。身長190cm、体重110kg[1]。柔道現役時代からプロレス参戦の間のみならず、トレーニングを怠らなかったため、50歳代で再びリングに立った際にも往年の肉体を維持していた。典型的な北欧人(スカンジナビアン)形質で長身にうすいプラチナブロンド、透けるような白い肌で熱戦になると白人独特の赤い肌になったためにマスコミから“オランダの赤鬼”などと称されたが、これは日本国内だけである(鬼=a devilに肯定的ニュアンスはほぼないが、本人はアカオニという日本での通称を理解しており、後年には気に入っていたことを語っている)。ニックネームは "Wim" Ruska。

経歴

10代で入隊したオランダ海軍水兵の時代に柔道と出会い20歳で選手キャリアをスタート。その後日本に渡り日本人師範に師事した。1960年代半ばには、オランダ国内で早くも東京オリンピック優勝のアントン・ヘーシンクと渡り合う強豪選手にまで成長した。また、いわゆるナチュラルパワーの持ち主(巨木を笑いながら両肩にかつぐ写真あり)で、重量級選手としては特に大型ではない標準的な体躯にもかかわらず、科学的検査の結果、各種体力・運動能力指標でずば抜けた数値を記録している。

1972年、全出場選手のうち180cm代はわずか数人という大型選手目白押しのミュンヘンオリンピック大会で、重量級、無差別級と挑み双方で金メダルを獲得した。ただし、重量級では圧倒的な強さで優勝したものの、無差別級では3回戦でソ連のビタリー・クズネツォフに技ありで敗れている(現在と違い、当時のルールでは一度敗れても敗者復活を勝ち上がれば優勝できた。また決勝の相手もクズネツォフである)[1]。なお、1984年ロサンゼルスオリンピックを最後に無差別級は廃止、また出場階級の重複も認められなくなった。試合スタイルとしては、いわゆるポイント優先ではなく、正面から一本を取りにいくスタイルだった。

柔道を現役引退した後は、青少年相手の柔道師範などをした後に、プロ格闘家へ転向しアントニオ猪木新日本プロレスへと参戦した。そして1976年2月6日の日本武道館において「格闘技世界一決定戦」と銘打ち、猪木とシングルで対戦。バックドロップ3連発で猪木に敗れている。その後も継続的に新日本プロレスのリングに上がり続けたが、プロレスに対しての適応力が弱く、定着するには至らなかった。その後長いブランクの後に、1994年9月23日の横浜アリーナで猪木と再戦。鍛え上げられた肉体を披露するも、チョークスリーパーで敗戦している。1994年には新日本プロレスの内部グループである平成維震軍に興行に参加し、後藤達俊と対戦。裸締めで勝利している。

後にプロレス界の決まり事を暴露したミスター高橋がその著作の中で、ルスカを「自分が見てきた中で最も強い男」と述べている。ただし、ルスカ自身は、観客を相手にアピールするプロレス的センスが乏しく、また相手の話を良く聞く反面、簡単に負け役を飲んでしまう等、自己主張の弱い所があり、それが原因でプロレスラーとしては大成しなかったとも分析されている。なお、ミスター高橋は一連の異種格闘技戦も勝敗の決まったプロレスであったと証言している。

2001年に沖合いのヨットで脳出血を起こし、処置に時間が掛かったために言語障害と身体の麻痺が残った。14年間の車椅子生活を送り、2015年2月14日に死去した[2][3][4]。74歳没。

主な戦績

(階級表記のない大会は全て重量級での成績)

脚注

外部リンク


テンプレート:柔道競技オリンピック金メダリスト男子重量級