エドガー・アシリング

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エドガー・ザ・アシリングエセリング Edgar (the) Ætheling または Edgar the Outlaw, 1051年頃 - 1126年頃?)は、チェルディッチを始祖とするウェセックス王家最後の男子。イングランド王を称したが、戴冠はしていない。ハンガリーの生まれで、父はエドワード・アシリング、祖父はイングランド王エドマンド2世

生涯

1057年、父が大叔父エドワード懺悔王の王位後継者の候補となり、家族でイングランドに渡る。しかし、到着して2日後に父親が死亡し、代わってエドガーが法定推定相続人に選ばれた。1066年に懺悔王が亡くなるが、ノルマンディー公ギヨーム2世(後のウィリアム1世)の脅威に対抗するにはエドガーはあまりに若すぎ(14歳から15歳)、王国の諮問機関ウィテナゲモットWitenagemot)はエドガーの代わりに、懺悔王の義兄ハロルド・ゴドウィンソンをハロルド2世としてイングランド王に即位させた。1066年10月14日、ヘイスティングズの戦いでのハロルド2世の敗死後、エドガーはロンドンでウィテナゲモットによりイングランド王「エドガー2世」を宣言された。

しかしエドガーはノルマン人に対して軍事力を結集することに失敗し、エドガーの統治期は戴冠しないままあっという間に終わってしまった。エドガーはスタイガンド(Stigand)、カンタベリー大主教、マーシア伯エドウィン(Edwin, Earl of Mercia)、ノーサンブリア伯モーカー(Morcar of Northumbria)らに大きく依存していて、その地位は実質ないに等しいものだった。結局、ウィテナゲモットの選出から6・8週間後の11月下旬または12月のはじめ、エドガーはバーカムステッド(Berkhamsted)でノルマンディー公ギヨーム2世に服従、ウィリアム1世(ギヨーム2世)はエドガーを丁重に扱った。

やがて政治的優位が見えたので、ウィリアム1世はエドガーを保護下に置き、最終的にはノルマンディーの宮廷に連れ帰った。しかし、エドガーは1068年のエドウィンとモーカーの反乱に加わり、敗れるとスコットランドマルカム3世の元に亡命した。翌年、マルカム3世はエドガーの姉マーガレットと結婚し、エドガーが再びイングランド王に復位する支援に同意した。エドガーはクヌーズ2世の甥にあたるデンマークスヴェン2世とも提携した。スヴェン2世はエドガーを正統なイングランド王と考えていた。

1069年、連合軍がイングランドに侵攻し、ヨークを占領した。しかし、北に進軍したウィリアム1世に大敗、エドガーはスコットランドに逃げ帰った。エドガーはそこで亡命生活を送ったが、1072年、ウィリアム1世がマルカム3世に突きつけた平和条約の中にはエドガーの追放が含まれていた。結局、1074年にエドガーはウィリアム1世と和解した。

しかし、イングランド王への復位の夢を捨てず、1087年にウィリアム1世が亡くなり、1091年にウィリアム1世の3男ウィリアム2世と長兄のノルマンディー公ロベール2世が戦った時には、エドガーはロベール2世を支援した。1097年には、スコットランドの王位をめぐる戦いで同名の甥のエドガーを支援し、マルカム3世の弟ドナルド3世を倒した。

1098年、エドガーは第1回十字軍を支援するイングランド艦隊と共にシリア沖にいた。アンティオキア攻囲戦への十字軍への増援をもたらした。それからヨーロッパに戻り、1106年、ノルマンディー公ロベール2世と末弟ヘンリー1世の争いでロベール2世を支持、タンシュブレーの戦い(Battle of Tinchebray)で捕虜となった。エドガーはイングランドに連れ戻され、そこでヘンリー1世に赦された。エドガーの姪エディス(改名してマティルダ・オブ・スコットランド)は1100年にヘンリー1世と結婚していた。エドガーはそれからハートフォードシャーの屋敷に隠退した。その後は1120年頃にスコットランド王国に旅し、1125年時点でまだ存命だったが、直後に70代前半で亡くなったと信じられている。また、エドガーは東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスの従姉妹との間にジェラルド・ロングストライドという名前の息子をもうけたとも考えられている。

大衆文化のエドガー・アシリング

外部リンク

  • Edga.jpg(エドガー・アシリングの肖像画)