エドワード長兄王

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エドワード長兄王(エドワードちょうけいおう、Edward the elder, 874年から877年頃 - 924年7月17日)は、ウェセックスおよびイングランド(アングロ・サクソン王国)の王(在位:899年10月26日 - 924年7月17日)。アングロ・サクソン人の王として父のアルフレッド大王の意思を引き継ぎデーン人と戦った。920年には現在のイングランドのうちノーサンブリアを除く全地域から王として認められ、後にアゼルスタンが名実共にイングランド王国を打ち立てる礎を築いた。

生涯

アルフレッド大王マーシア貴族オッファの娘エアルフスウィスEalhswith, またはエアルスウィス、Ealswith)の子。899年、父王の死後ウェセックス王位を継承したが、王位継承後、父方の叔父で先々代の王エセルレッド1世の息子エセルウォルトが対抗し王位を主張した。エセルウォルトはいったん逃亡したのち901年に艦隊を率いてエセックスへと来襲した上、東アングリアデーン人を煽動して叛乱を起こさせた。エドワードは軍隊を率いて陸路を遠征し、エセルウォルトおよび東アングリアのデーン人の王エオホリックを敗死させた。

北方のデーン人はその後も長くエドワードの脅威となった。しかしエドワードは善戦し、デーン人を圧迫しつつマーシアエセックス東アングリアを略取してイングランドに勢力を振るった。エドワードはいったんノーサンブリアおよびエセックスのデーン人と和を結んだが909年タッテンホールの戦いでノーサンブリア・デーン人を壊滅させた。以後ハンバー川を超えてデーン人が来襲することはなくなった。またハートフォードを初めとする海岸沿いに砦を置き、デーン人が内陸深く入り込むのを阻止した。

918年姉のエセルフリダが死去すると、マーシアに移り以後死ぬまで同地で統治した。エセルフリダは自分の娘を相続人に指名したが、エドワードはこれを無視してマーシアを直接支配下においた。これによってマーシアの独立状態は終焉した。エドワードはロンドンオックスフォードなどを結ぶ街道を整備した。918年末から920年末にかけて、北方からデーン人が来襲し、幾つかの戦いが行われた。このとき、ウェールズ人スコット人、デーン人などから「父にして君主」と呼ばれた。

エドワードは西ウェセックスのカトリック教会を再編し、909年ラムズベリー・アンド・ソニングウェルズクレディトン司教区を設けた。しかしエドワードは特に信仰深い人間というわけではなく、教皇からはもっと宗教的な責任を果たすよう求められてさえいた[1]

エドワードは924年、叛乱の鎮圧に向かうなかファルンドンで没した。

エドワードの添え名「長兄王」(the Elder)は10世紀の後半には用いられ始めた。これは後の王エドワード殉教王との区別のためである。

家系

エドワードは3回結婚し、14人の子が知られている。非嫡出の子が他にもいる可能性は十分にある。

(正式な関係かどうかははっきりしないものの)エドワードは893年頃、最初の妻エクグィン (Ecgwynn) と結婚し、1男1女を得た。エクグィンについては名前以外のことは知られていない。彼女についての最初の記録はノルマン征服の後はじめて現れるほどである。後世の歴史家には、彼女が貴族であったと主張するものと、羊飼いの娘であったと主張するものがある。

エドワードが899年に王となると、エドワードはエクグィンを離別し、ウィルトシャーエアルドルマン(後世の伯爵に相当)エセルヘルムの娘エルフフェドと結婚した。この結婚から息子2人娘6人が生まれた。

エドワードは919年頃、ケントのエアルドルマンシゲヘルムの娘エドギフ(またはエドギヴァ)と3度目の結婚をし、この結婚からは息子2人娘2人が生まれた。

エドギフは長命で、夫と2人の息子の没後、孫にあたるエドガーの治世まで存命であった。

息子たちは、エルフウェルド、アゼルスタン、エドマンド、エドレドの順で王位を継いだ。

家系図

ファイル:Genealogy england bis 1000.svg
Diagram based on the information found on English Wikipedia


脚注