エノラ・ゲイ

提供: miniwiki
2018/8/8/ (水) 07:52時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版 (1版 をインポートしました)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先:案内検索
ファイル:Tibbets-wave.jpg
広島出撃に際し機長席から手を振るポール・ティベッツ大佐
ファイル:Silverplate B-29 Enola Gay.jpg
原爆投下終了後テニアン島に帰投したエノラ・ゲイ。テールコードが変更されている

エノラ・ゲイアメリカ英語: Enola Gay)は、太平洋戦争末期に運用されたアメリカ陸軍航空軍第509混成部隊第393爆撃戦隊所属のB-29の機名。B-29の中で原爆投下用の改造(シルバープレート形態)が施された15機の内の1機である。ビクターナンバー82、機体番号44-86292号機。

1945年8月6日午前8時15分に広島県広島市原子爆弾(原爆)「リトルボーイ」を投下したことで知られる。また同年8月9日長崎県長崎市への原爆投下の際にも、投下の第1目標となった小倉市(現北九州市)の天候観測機として作戦に参加している。

概要

エノラ・ゲイは、ネブラスカ州に存在したグレン・L・マーティン社(現オファット空軍基地)ベルビュー工場で製造された。その後、ポール・ティベッツ大佐により1945年5月18日に陸軍航空隊509混成部隊へ配属されることとなる。1945年7月6日にはアメリカ本土からテニアン島へ到着し、その日のうちに原爆を搭載するため、爆弾倉の改造が行われている。

配属当初、ビクターナンバー「12」が割り当てられたが、所属部隊を表す垂直尾翼のマーキングを特殊作戦機と悟られないよう、通常爆撃戦隊である「第6爆撃隊」表示である大型円中心にRへと変更したため、誤認防止のため「82」へ変更された。初期は特殊任務機表示である大型円中心に左向きの矢印である。なお、原子爆弾投下に関する作戦任務終了後の1945年8月中には、テニアン島北飛行場に於いてビクターナンバーは「82」のままで垂直尾翼のマーキングだけを元に戻している。

エノラ・ゲイは8回の訓練ののち、神戸名古屋へのパンプキン爆弾を使用した爆撃を行った。7月31日には、テニアン沖にて、原爆投下のリハーサルを行い、「模擬リトルボーイ」を投下する。

機体名称の由来は、機長であるティベッツ大佐の母親、エノラ・ゲイ・ティベッツ(Enola Gay Tibbets)から採られたものである[1]。しかし、重要な任務を行う機体に対して母親の名前を付けることに、44-86292号機司令であるロバート・A・ルイス大尉(原爆投下任務時は副機長を務めた)は強い不快感を示した。

作戦終了後

1945年11月8日ニューメキシコ州ロズウェル陸軍航空基地(現ウォーカー空軍基地)に到着。1946年4月29日クロスロード作戦に参加するためクェゼリン環礁に向かうが、投下作戦がビキニ環礁に変更となったため、翌日にカリフォルニア州トラビス空軍基地へと帰還している。その後、機体保存が決定され、1946年7月24日アリゾナ州デビスモンサン空軍基地へと移送された。1946年8月30日には陸軍航空隊を除籍し、スミソニアン博物館名義へと変更されている。その後1953年12月2日メリーランド州アンドルーズ空軍基地へ移送、そこで解体保存されることとなる。

スミソニアン博物館展示騒動

ファイル:Enola Gay-27527-1.jpg
スティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センターに展示されているエノラゲイ

1995年に、国立航空宇宙博物館側が原爆被害や歴史的背景も含めて、レストア中のエノラ・ゲイの展示を計画した。この情報が伝わると、アメリカ退役軍人団体などから抗議の強い圧力がかけられ、その結果、展示は広島への原爆被害や歴史的背景を省くこととなり、規模が大幅に縮小された。この一連の騒動の責任を取り、館長は辞任した。

その後、レストアが完了し、スミソニアン航空宇宙博物館の別館となるスティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センターワシントン・ダレス国際空港近郊に位置)が完成したことにより、現在はその中で公開されている。重要な常用展示機体であり、その歴史的背景から破壊行為などが行われないよう、複数の監視モニターにて監視され、不用意に機体に近づく不審者に対しては監視カメラが自動追尾し、同時に警報が発生するシステムを採用。2005年には映像解析装置も組み込まれるなど、厳重な管理の元で公開されている。

前述したような事態が繰り返されるのを避ける目的で、原爆被害や歴史的背景は一切説明されていないために、その展示方法には批判的な意見も存在する。

乗組員

ファイル:B-29 Enola Gay w Crews.jpg
作戦を実行した乗員達。中央がティベッツ大佐

出撃当時の乗組員構成(全12名)。2014年7月28日、同機最後の生存者であったセオドア・ヴァン・カークが93歳で死去したため、ボックスカーを含め、エノラ・ゲイの搭乗員で、存命者はいなくなった[2]

  • 機長・操縦士:ポール・ティベッツ(Paul W. Tibbets, Jr.)
  • 副操縦士:ロバート・A・ルイス(Robert A. Lewis
  • 爆撃手:トーマス・フィヤビー(Thomas Ferebee)
  • レーダー士:ジェイコブ・ビーザー(Jacob Beser) - ボックスカーにも搭乗し、長崎の原爆投下にも参加した。
  • 航法士:セオドア・ヴァン・カーク (Theodore Van Kirk)。「奪った命より多くの命を救った」と原爆の投下を正当化し「日本の国に起きたこと全体としては、気の毒とは思わない」と述べている[3]
  • 無線通信士:リチャード・H・ネルソン(Richard H. Nelson)
  • 原爆点火装置設定担当:ウィリアム・S・パーソンズ(William S.Parsons
  • 電気回路制御・計測士:モリス・ジェプソン(Morris R. Jeppson)
  • 後尾機銃手・写真撮影係:ジョージ・R・キャロン(George R. Caron
  • 胴下機銃手・電気士:ロバート・H・シューマード(Robert H. Shumard)
  • 航空機関士:ワイアット・E・ドゥゼンベリー(Wyatt E. Duzenberry)
  • レーダー技術士:ジョー・S・スティボリック(Joe S. Stiborik)

脚注

関連文献

  • 城由紀子「スミソニアン協会原爆展に対する米国主要紙の論調分析」、『時事英語学研究』第1996巻第35号、日本メディア英語学会、1996年doi:10.11293/jaces1962.1996.35_51

関連項目

テンプレート:B-29