オポーレ公国

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オポーレ公国またはオペルン公国ポーランド語:Księstwo opolskie;チェコ語:Opolské knížectví;ドイツ語:Herzogtum Oppeln)は、シロンスク公国群に属する公国の一つ、首都はオポーレ

公国は1172年ボレスワフ1世の長男ヤロスワフの領国として分離独立した。ヤロスワフの死後、1201年から1202年までの短い間はヴロツワフ公国に併合されていたが、1202年にヤロスワフの叔父ミェシュコ1世が自分の領するラチブシュ公国へと取り込み、オポーレ=ラチブシュ公国を形成した。1290年、オポーレ=ラチブシュがヴワディスワフ・オポルスキの4人の息子達の間で分割相続されると、ラチブシュ公国から分離した単独のオポーレ公国が成立したが、この2国の領土の一部からチェシン公国ビトム公国が新たに分立した。

1327年、公国はボヘミア王冠領の封土(レーエン)となった。公国はこの後、繰り返し起きる領土的変化によって不安定な状態が続き、15世紀半ばに至るまで徐々にその版図は縮小していった。しかし15世紀後半には再び拡張を始め、1511年にはオポーレ=ラチブシュ公国が再形成されることになった。1532年ピャスト家最後の統治者ヤン2世が死ぬと、公国は完全にボヘミアの主権下に入った。オポーレ=ラチブシュ公国の支配者はホーエンツォレルン家ハプスブルク家ヴァザ家など目まぐるしく変わっていった。オポーレ=ラチブシュ公国は1742年、最終的にプロイセン王国によって併合され、消滅した。

オポーレ公

ファイル:Silesia 1172-1177.jpg
シロンスク公国の分裂の始まり(1172年 - 1177年)、ボレスワフ1世長身公のヴロツワフ公国(オレンジ色)、その弟ミェシュコ1世跛足公のラチブシュ公国(黄色)、ボレスワフの長男ヤロスワフのオポーレ公国(緑色)
シロンスク・ピャスト家
ブランデンブルク=アンスバッハ家など

1558年よりハプスブルク家がボヘミア王として領有し、一時的に他家門の出身者が公として統治

トランシルヴァニア公
ヴァザ家
ハプスブルク家
  • 1666年-1742年 ハプスブルク家がボヘミア王として領有

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