カンボジア作戦

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カンボジア作戦
戦争: ベトナム戦争
年月日: 1970年4月29日-1970年7月22日
場所: カンボジア東部
結果: 戦術的勝利 - アメリカ軍/南ベトナム軍
  • 共産側から大量の物資等鹵獲

戦略的勝利 - 北ベトナム軍/ベトコン

交戦勢力
テンプレート:VSO
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
テンプレート:KHM1970
 ベトナム
25px 南ベトナム解放民族戦線
テンプレート:KHM1975
ラオスの旗 パテート・ラーオ
戦力
南ベトナム軍
56,608
アメリカ軍
50,659-40,000
北ベトナム軍/ベトコン
40,000
損害
南ベトナム:戦死809、負傷3,486
アメリカ軍:戦死338、負傷1,525、行方不明13
クメール共和国及び北ベトナム:戦死12,354、捕虜1,177(アメリカ側集計)[1]
ただし、この集計については民間人の死傷者も含めている可能性がCIAによって指摘されている[2]

カンボジア作戦カンボジア介入またはカンボジア侵攻とも呼ばれる)とは、アメリカ軍ベトナム共和国軍(南ベトナム軍, ARVN)によってベトナム戦争最中の1970年代中盤にカンボジア東部で展開された一連の作戦である。これらの侵攻はリチャード・ニクソン米大統領の方針に従って行われた。4月29日から7月22日までは南ベトナム軍によって、また5月1日から6月30日まではアメリカ軍によって合わせて13の大きな作戦が実施された。

作戦の目的はカンボジア東部国境の最前線に展開する約40,000人規模のベトナム人民軍(北ベトナム軍, PAVN)と南ベトナム民族解放戦線(ベトコン, NLF)の部隊を駆逐することにあった。当時、カンボジアの形式的な中立政策と軍事的脆弱性により、国境地帯はベトナムの共産主義勢力が安全に撤退と再編成を行える拠点として利用されていた。アメリカは既にベトナム化政策および撤兵に向けて舵を切りつつあった為、国境地帯の脅威を排除することによって南ベトナムの安全保障を強化しようと試みたのである。

シハヌークを追放しロン・ノルが政権を奪った1970年代のカンボジア政変によって、カンボジア国境沿いの北ベトナム軍基地への攻撃の糸口が開かれた。アメリカおよび南ベトナム側の軍事作戦において、共産軍主力の駆逐および南部中央局(COSVN)として知られる共産軍中枢の捕捉には失敗したが、大量の物資を鹵獲した点では成功だったとも言われている。

背景

北ベトナム軍は未開の地であったカンボジア東部の大部分をいわゆる「聖域」として活用し、南ベトナム軍からの迫撃から逃れて安全に再編成を行う為に利用していた。また、これらの地域はベトナムの共産主義勢力によってシハヌークトレイルEnglish版を通じて運び込まれた大量の武器や物資の備蓄拠点としても使用されていた。北ベトナム軍は1963年の段階で既にカンボジア領内への進出を開始していた[3]1966年、東南アジアにおける共産主義勢力の最終的な勝利を確信し、また自らの体制の将来に不安を抱いていたカンボジア国王ノロドム・シハヌーク中華人民共和国との間で協定を結び、カンボジア領内に共産主義勢力の為の恒久的な基地の設置および補給目的でのシハヌークビルの港湾施設の使用を認めた[4]

ファイル:Mao Sihanouk.jpg
北京を訪問したシハヌークと毛沢東彭真劉少奇(1956年)

1968年、カンボジア土着民による共産主義勢力(クメール・ルージュ)による反政府武装闘争が始まった。ハノイ政府としてはカンボジアの中立性に満足しておりシハヌーク政権を転覆させる動機もなかった為、クメール・ルージュが北ベトナムから受けた支援はごく限られたものであったが、一方で彼らもまた北ベトナム軍やベトコンの支配地域に待避することを許されていた[5]

アメリカ政府もこうした一連の活動を察知していたものの、未だ態度の一貫していないシハヌークを変心させる可能性に期待を抱いており、カンボジア領内における公然たる軍事行動は控えていた。その為、リンドン・ジョンソン大統領は秘密活動部隊である研究・観察グループEnglish版(MACV-SOG)に対して秘密裏の越境偵察を許可し、国境地帯における共産主義勢力(北ベトナム軍およびベトコン)の活動を調査するように命じた[6]。この偵察によって得られた情報によってシハヌークの方針転換を促すことが予定されていた。

メニュー作戦、クーデター、北ベトナムの侵攻

南ベトナム軍事援助司令部(MACV)の新司令官に着任したクレイトン・エイブラムス大将は大統領に就任したばかりのリチャード・ニクソンに対し、B52戦略爆撃機を用いてカンボジア国境地帯の基地施設を爆撃するべきだと進言した[7]。ニクソンは当初これを拒否したものの、1969年のミニ・テト攻勢(テト攻勢に付属して行われた共産軍の攻勢)によって意見の転換を余儀なくされた。その後、ハノイ政府との合意に違反しているとの抗議があった為、ニクソンは北ベトナムに対する爆撃を中止させた上で改めて秘密航空作戦の展開を命じた[8]。秘密航空作戦はメニュー作戦English版として3月18日から開始され、作戦が完了する1970年5月26日までのおよそ14ヶ月の間に3,000回以上の出撃が行われ、108,000トンもの軍需物資がカンボジア東部に投下された[9]

1970年1月、シハヌークがフランスへ静養に出かけている間に政府主催の反ベトナムデモがカンボジア中で開催された[10]ロン・ノル国防相兼首相は共産勢力の支援に使用されていたシハヌークビルの港湾施設を閉鎖し、3月12日には北ベトナムに対して72時間以内のカンボジア領内からの撤退を求める最後通牒を送った。このロン・ノルが発表した反共的な「暫定協定」に憤慨したシハヌークは、ハノイ政府に圧力を掛けて北ベトナム軍によってロン・ノル派を鎮圧させるべく、直ちにモスクワおよび北京訪問を調整した[11]

3月18日、カンボジア国会はシハヌークを追放し、ロン・ノルを暫定元首に選定した。このことでシハヌークは北京に亡命政府を樹立し、彼自身は北ベトナム、ベトコン、クメール・ルージュ、そしてラオスパテート・ラーオなどと連携することとした[12]。これらの勢力はシハヌークの知名度と人気をカンボジア農村部の支配に利用した[13]

クーデターに対して北ベトナムは迅速に反応した。北ベトナム軍は大量の武器を供給すると共に軍事顧問を派遣してクメール・ルージュを支援し、これによりカンボジアは内戦状態に突入した。1970年3月29日、北ベトナムは何らかの理由からカンボジアに対する攻撃を開始した。公開されたソ連邦時代の記録文書から明らかになったところによると、この攻撃はクメール・ルージュヌオン・チアからの明確な要求によって行われたとされている[14]。北ベトナム軍はカンボジア東部を瞬く間に蹂躙し、プノンペンの24km以内に迫った。カンボジア軍を破った後、北ベトナム軍は獲得した地域を地元の武装勢力へと引き渡していった。一方、クメール・ルージュは北ベトナム軍からは独立して活動し、カンボジア南部および南西部に「解放区」を打ち立てた。

一方、ロン・ノルはカンボジア国民のうち40万人のベトナム系住民が北ベトナム軍による攻撃を防ぐ為の人質として利用できると考え、一箇所に集め収容するように指示した[12]。その後、カンボジア兵および市民による迫害が始まり、数千人のベトナム系住民が殺害された。例えば4月15日には800人のベトナム系男性がチュリチェンガ村に集められ、数人纏めて縛り上げられたまま処刑され、彼らの遺体はメコン川に投棄された[15]。やがてベトナム系住民は南ベトナムへの脱出を開始し、ロン・ノル政権によるベトナム系住民の迫害は南北双方の政府から批判された[16]。シハヌークビル封鎖以前から北ベトナム軍は南東ラオス経由の兵站線(いわゆるホーチミン・ルート)を北東カンボジアまで拡張していた[17]

北ベトナム軍はカンボジア軍に対する攻勢(X作戦)によって、カンボジア東部から北東部にかけての大部分が占領され、コンポンチャムなどの都市を包囲または占領される。やがて共産軍はカンボジアの首都・プノンペン32kmの地点まで接近し、ニクソン大統領を対応へと駆り立てた。

計画

ファイル:Bases along the Cambodian Vietnamese border 1970.svg
ベトナム・カンボジア国境線沿いに設置された共産側の司令部を示す地図

カンボジアにおける一連の出来事に対し、リチャード・ニクソン大統領はアメリカが個別に対応することが現実的な選択肢だと信じていた。シハヌークの失脚により、基地化された地域に対する強攻策を実行に移す為の条件は満たされていた。彼はまた、「最近25年間のカンボジアで唯一西側寄りの立場を選ぶ勇気を持った政権」に対する支援を行うようにとも主張していた[18]。その後、ニクソンは米統合参謀本部およびMACVとの協議を行い、カンボジア方面への展開に関して、カンボジア沿岸の海上封鎖、南ベトナムおよびアメリカ軍による空爆、南ベトナム軍による越境追跡の拡大、そして南ベトナム軍あるいはアメリカ軍、もしくはその合同軍による地上侵攻などの提案が成された[18]

4月20日、ニクソンはテレビ演説の中でアメリカ軍人150,000人の年度内撤兵を表明した。この宣言は同時にカンボジアでの展開を縮小する事も示唆していた。1970年春の時点で、330,648人の陸軍将兵と55,039人の海兵隊員がMACVの指揮下で南ベトナムに留まっており、彼らは歩兵や戦車による81個大隊を組織していた[19]。ただし、これらの米軍人の多くは既に帰国の準備をしていたり、あるいは近い将来ベトナムを離れる事が予定されていた為、直近の軍事作戦に投入することは不可能となっていた。

4月22日、ニクソンは南ベトナム軍による「オウムのくちばしEnglish版」地区(スヴァイリエン州の突出部)への侵攻計画を承認した。この時、ニクソンは「南ベトナム軍が独自の作戦を担当することで彼らの士気を大幅に高め、また同時にベトナム化プロセスの成功を示す実際的なデモンストレーションになりうる」と信じていたという[20]。翌日、ウィリアム・P・ロジャースEnglish版国務長官は下院歳出小委員会にて「我が政府に戦争を激化させる意図はない。仮に我々がエスカレートし、加えて我が国の地上部隊がカンボジアでの衝突に巻き込まれたならば、それは我々の計画(=ベトナム化)そのものの失敗であると認識している」と証言した[21]

南ベトナム軍は3月下旬からこの作戦に向けた予行演習を開始した。3月27日、ARVNレンジャーの1個大隊が共産軍の基地を攻撃するべくカンダル州に向かった。また4日後には別の南ベトナム軍部隊がカンボジア国境を超えて16km進行した。当初、ロン・ノルは自らが提唱していた中立政策を維持しようと考えていたが、4月14日にはアメリカ政府から軍事作戦への参加と支援を要請された[22]。同日、南ベトナム軍はトンタン41作戦(Toan Thang 41)の元、スヴァイリエン州内の「天使の翼」および「カラスの巣」と通称される地域に機甲騎兵を派遣した。4月20日、南ベトナム軍部隊2,000名が「オウムのくちばし」に到達し、戦闘の末に北ベトナム軍将兵144名を殺害した[20]。4月22日、ニクソンは作戦行動中の南ベトナム軍に対するアメリカ軍による航空支援を許可した。これらの越境活動は単なる偵察任務に過ぎず、実際はMACVおよび南ベトナム軍が計画し、またニクソンによる承認を受けた大規模作戦の準備の一環であった。

その後、ニクソンはエイブラムスに対して「釣針English版」地区における作戦開始の許可を与えた。予備作戦計画は3月中に完成していたものの機密とされていた為、エイブラムスから指令を受け取った第2野戦軍司令官マイケル・デヴィソンEnglish版大将には知らされておらず、彼は新たに別の作戦案を作成することになった[23]。72時間後、デヴィソンの作戦案がホワイトハウスに提出された。4月26日、国家安全保障担当補佐官ヘンリー・キッシンジャーは部下にこの作戦案の評価を行わせたが、国家安全保障会議のスタッフらはその「いい加減さ」に愕然としたという[21]

主要な問題は時間的な制約と機密保持に関するニクソンの意向であった。当時、作戦を妨げることが予想されるカンボジアのモンスーンはわずか2ヶ月後に迫っていた。また、ニクソンの命令の元、国務省在サイゴン米大使館English版のカンボジア局、在プノンペン米大使館、そしてロン・ノルに対しても作戦の情報を伝達していなかった。作戦に関する情報はエイブラムスにより厳重な機密として扱われていた。共産軍による察知を避ける為、国境地帯における事前の兵站拠点設置も行われなかった。アメリカ軍の旅団長らが攻勢について通達を受けたのは作戦開始の1週間前で、それより下級の大隊長らが通達を受けたのは作戦開始のわずか2、3日前であった[24]

決定

カンボジア侵攻が軍事的・政治的利益をもたらすという考え方にニクソン政権の全員が賛同したわけではなかった。メルビン・ライアード国防長官やロジャース国務長官は、米国内で強烈な反対世論を喚起する可能性と、パリ和平協定の交渉を遅延させる可能性を理由に作戦に反対した。彼らはまた、同じ理由からメニュー作戦にも反対していた[25]。キッシンジャーは「官僚的な足の引っ張り合い」という表現でこの2人を厳しく非難している[26]。最終的にライアードは作戦から外され、統合参謀本部が彼を無視する形で直接ホワイトハウスへの助言および作戦準備を担当した[27]

ファイル:NixononCambodia.jpg
1970年4月30日、ニクソンはカンボジア攻撃を発表した。彼はテレビ演説の中でこれを北ベトナム軍に対する攻撃であるとして正当性を主張した

4月25日夜、ニクソンは友人チャールズ・レボゾEnglish版とキッシンジャーを招いて夕食会を開いた。その後、彼らはニクソンのお気に入りで以前に5度も見たという映画『パットン大戦車軍団』を鑑賞した。キッシンジャーは後にこれを回想し、「壁にぶち当たった時、彼の感傷的な部分が顔を出し、パットンの物語の中に苦境の軍司令官としての自分を見出していたのだ」と語っている[21]。次の夜、ニクソンは侵攻開始を承認した[21]。アメリカ軍および南ベトナム軍による合同作戦の開始は5月1日が予定され、南ベトナムにおける同盟国側の死傷者の減少、アメリカ軍の継続的撤退の為の保証、パリ和平協定におけるアメリカおよびサイゴン政府の立場の強化などが目標として定められていた[28]

エイブラムスは可能な限り作戦を目立たないようにする為に侵攻開始の発表をサイゴンからの定例報告の中で行うよう提案した。しかし、ニクソンは4月30日21時に全局同時放送のテレビ演説の中で、「今夜試されるのは私たちの力ではなく意思と品格なのです」、「作戦開始の時は到来したのです」と宣言した。彼はさらに、「南ベトナム全域における共産側軍事作戦の司令部」である南部中央局(COSVN)を占領することが派兵の目的であると語った[29]。ただし、南ベトナムにおける北ベトナム軍の活動を統括する司令部としてのCOSVNは実在していなかったとも言われており、また少なくともこの作戦を通じて発見されることはなかった[30]

作戦行動

南ベトナム軍の事前攻撃

ファイル:The escape of the PRG in March April 1970.svg
1970年3月末から4月初頭にかけての南ベトナム軍によるPRGへの迫撃を示す地図。赤色の破線は共産軍が辿った避難ルートを示している。

本格的な越境作戦に先立ち、ロン・ノルと南ベトナム軍は共同で南ベトナム共和国臨時革命政府(PRG, 南ベトナムにおける社会主義派の地下政府)に対する攻撃を開始した。3月30日、南ベトナム軍は国境を超えてカンボジア領内に侵入し、ヘリコプターを用いてPRGが立て籠もった地下壕を包囲した[31]。しかし日没後、北ベトナム軍第7師団によって包囲が破られ、これを逃れたPRGはCOSVNとの合流を果たすべくクラチエ州を目指して北上した。この一連の出来事は臨時革命政府の脱出English版として知られる[31]。PRG司法部部長チュオン・ニュー・タンEnglish版も北部基地への避難に参加していたが、彼が語ったところによればB-52爆撃機による連日の襲撃を受けて行軍はしばしば足止めされていたという[32]。また、彼らが国道7号線を超える直前、4月3日に第9師団がスヴァイリエン州クレック近郊で南ベトナム軍を破ったという報告がもたらされた[33]

チュオン・ニュー・タンはまた、「南ベトナムは南側における抵抗運動の核、すなわち我が前線の精鋭に加えて政府および軍首脳を壊滅あるいは捕虜にする直前であった」と回想している[32]。数日に渡る過酷な行軍を経て、PRGは北部基地への撤退に成功し、以後は比較的安全なクラチエ州内に留まった。行軍中の負傷者は少数で、また撤退の最中にはPRG傷兵社会部部長ズオン・クイン・ホアEnglish版の子供が生まれている。負傷者らは回復の為に時間を必要としており、チュオン・ニュー・タン自身は回復までに数週間を要した。

「オウムのくちばし」地区と「釣針」地区

ファイル:ARVN in Cambodia.jpg
カンボジアを進撃する南ベトナム軍のM113装甲兵員輸送車
ファイル:Engineers Clear Mines Cambodia.jpg
カンボジアを進行する米第11機甲騎兵連隊English版所属のM551シェリダンと地雷除去部隊。

4月30日、南ベトナム軍はトンタン42作戦(Toan Thang 42)を発動し、カンボジア国境を超えた。スヴァイリエン州のいわゆる「オウムのくちばしEnglish版」地区に侵入したのは南ベトナム陸軍の将兵およそ8,700名から構成された12個大隊で、その内訳は第3軍団English版から2個、第25師団English版および第5師団English版から2個抽出された合計4個の機甲騎兵中隊、第25師団から抽出された1個歩兵連隊、第2レンジャー群から抽出された4個レンジャー大隊であった。越境作戦の指揮官は南ベトナム軍でも特に積極的で有能な将官と目されていた第3軍団司令ド・カオ・トリEnglish版中将であった[34]。カンボジア侵攻後の2日間、南ベトナム軍と北ベトナム軍の間でいくつかの激しい交戦が生じた。これらの北ベトナム軍部隊は先立って行われた攻撃から南ベトナム軍の侵攻を察知しており、主力部隊およびPRGの撤退を支援するための時間稼ぎを命じられていた。

南ベトナム軍の作戦行動は間もなくしてサーチ・アンド・デストロイEnglish版に移行し、北ベトナム軍の隠匿物資を探すために小規模な哨戒部隊を組織して村落部での捜索活動を開始した。その後、米第9歩兵師団English版の到着により作戦の第2段階が始まった。4個の戦車・歩兵混成部隊が「オウムのくちばし」を南部から攻撃した。南ベトナム軍の主張では、作戦開始3日後の時点で北ベトナム軍兵士1,010名を殺害、204名を捕虜としており、また自軍の被害は戦死66名と負傷者330名だったとしている[35]

5月1日、南ベトナム側からはトンタン43作戦(Toan Thang 43)、MACV側からはロッククラッシャー作戦(Operation Rockcrusher)と呼称されるより大規模な作戦が始まった。まず36機のB-52爆撃機が「釣針English版」地区南部に沿って774トンの爆弾を投下し、その後1時間の集中砲撃、さらに1時間の戦術爆撃機による集中攻撃が行われた。10時00分、米第1騎兵師団米第11機甲騎兵連隊English版、南ベトナム第1機甲騎兵連隊、南ベトナム第3空挺旅団はカンボジアのコンポンチャム州に侵入した。第1騎兵師団長補ロバート・シューメーカーEnglish版将軍指揮下のタスクフォース・シューメーカー(Task Force Shoemaker)は米軍人10,000人と南ベトナム軍人5,000人から構成される合同部隊である。同部隊は機械化歩兵および機甲部隊の機動力を活かして州内奥地まで進行し、その後は南ベトナム空挺旅団およびアメリカ空中機動部隊のヘリコプターを用いて周辺に展開した。

侵攻作戦は激しい抵抗に直面することが予想されていたが、北ベトナム軍とベトコンは共に侵攻2日前には西への移動を開始していた。5月3日の時点で、MACVはアメリカ兵の死傷者について戦死8人と負傷32人を報告しており、これは作戦の規模に対して極めて小さな数字である[36]。米第11機甲騎兵連隊所属の各部隊はカンボジア領内3キロまで進出していたが、その時点でも足止めを目的に点在する小部隊との散発的な交戦があるのみだったという。それらの北ベトナム軍部隊の攻撃手段は小火器やロケット弾程度に過ぎなかった為、戦車砲や戦術爆撃により簡単に無力化され、最終的に米軍側戦死者は2人、北ベトナム側の死者は50名にものぼったという[37]

第1騎兵師団第3旅団English版第7騎兵連隊第1大隊は5月初旬からベトナムに撤退する6月30日まで「釣針」地区に留まっていたが、この時期には作戦期間を通して最も激しい戦闘が行われた。アメリカ軍は全ての部隊が大規模な要員の交代を行わざるを得ないほどの甚大な損失を受けつつ、作戦区域に展開する戦力の少なくとも半分を維持しようと努めた。完全な編成でカンボジアに派遣されたある中隊では、隊員のほとんどが戦死するか負傷して後送され、6月30日の時点で残っていたのはわずか9人だったという。この際の戦功から第1大隊は武勇部隊章English版を受章している。これは個々人の銀星章に相当する勲章である[38]

北ベトナム側は差し迫った攻撃に関する十分な情報を得ていた。3月17日、侵攻中に設置されたB-3戦線本部は北ベトナム軍およびベトコンに対して「戦線からの離脱、および反撃を避けること。我々の目的は可能な限りの戦力温存である」という命令を与えている[39]。この作戦の当事者のうち、ロン・ノルだけはアメリカ政府およびサイゴン政府から詳しい情報を与えられていなかった。彼はラジオでカンボジア侵攻の事実を知り、その後のアメリカ政府との電話会談によってようやく作戦の全容を知らされたのである[40]

5月1日、スヌオル(Snoul)にてアメリカ軍と共産軍の間の本格的な交戦が発生した。スヌオルは国道7号線、13号線、131号線の合流地点に位置する街で、シハヌークトレイルの末端だと考えられていた。米第11機甲騎兵連隊所属部隊がヘリコプターによる支援を受けつつ市街および飛行場に接近すると、北ベトナム軍からの反撃が始まった。激しい抵抗を受けたアメリカ軍は後退して航空支援を要請し、2日間にわたって市街を爆撃した。この戦いの最中、第11機甲騎兵連隊長ドン・A・スターリーEnglish版准将は手榴弾片を受けて負傷し、後送されている[41]

隠匿物資の捜索

数日後、米第1騎兵師団所属部隊がスヌオル南西部の「ザ・シティ」(The City)と通称されていた北ベトナム軍陣地まで進出した。「ザ・シティ」は2平方マイルほどの広さがあり、その中に400個以上の藁葺小屋、貯蔵小屋、掩蔽壕などが整備され、大量の食料、武器、弾薬を貯蔵していた。そのほかにはトラック修理工場、病院、製材所、18棟の食堂、養豚場、さらにはスイミングプールまで完備されていたという[42]。5月6日、別の第1騎兵師団所属部隊は「ザ・シティ」から40km北東の位置により大きな北ベトナム軍陣地を発見した。イリノイ州ロックアイランド造兵廠English版にちなんで「ロックアイランド・イースト」(Rock Island East)と通称されたこの陣地には、650万発の高射砲弾薬、50万発の小銃弾、数千発のロケット弾、複数のGM製トラック、大量の通信機器が運び込まれていた[42]

ファイル:11ACRCambodia1970.jpg
スヌオルに侵入する米第11機甲騎兵連隊第2大隊(5月4日)

5月23日、「シャーキー」(Shaky)という愛称で呼ばれていた第7騎兵連隊第5大隊のある兵士は、「ロックアイランド・イースト」から北東20kmの地点を哨戒中、地面に埋まっていた金属板につまづいた。実はこの金属板こそ隠匿された地下貯蔵庫の一部であり、最終的に59箇所発見された地下貯蔵庫の最初の1つであった。「シャーキー」は後に戦死したが、この一帯は彼の愛称から「シャーキー高地」(Shaky's Hill)と通称されるようになった。これらの貯蔵庫からは何千箱もの武器弾薬が押収され、全てカンボジア陸軍に引き渡された。その多くはカンボジアで活動していたMACV特別支援グループで使用され、その後もカンボジア軍によって使用され続けた。特別支援グループの指揮官はウィル・H・ホーン中佐(Will H. Horn)であった。

大量の物資が鹵獲された一方、ニクソンが作戦目標の1つとしていたCOSVNは発見されなかった。エイブラムスは5月1日になってからCOSVNの占領が目標と語るニクソンの声明をテープで聞き、すっかり身をすくめていたという[39]。MACV情報部では、機動的で広域に分散している共産軍司令部を捕捉することは難しいと判断していた。作戦前のホワイトハウスからの問い合わせに対しても、MACVは「COSVNの主要な設備は、約110平方キロメートルのジャングルに分散している」と語り、「これら主要な設備を捕捉できる可能性は極めて低い」と回答していた[39]

作戦開始から1週間後、追加の大隊および旅団が作戦に組み込まれ、5月6日から24日の時点でカンボジアに展開した連合軍の兵力はおよそ90,000人(米軍33個機動大隊を含む)となった[43]。5月7日、ニクソンは国内の政治的混乱や反戦機運の高まりを受け、アメリカ軍の作戦行動範囲を国境から30km以内に制限すると共に6月30日を南ベトナムへの撤退期日とする旨を指示した。

ただし、南ベトナム軍はこれらの指示に従わなかった。南ベトナム陸軍がスヴァイリエン州スヴァイリエンEnglish版から西進し、 5月14日にはカンポントラベック(Kâmpóng Trâbêk)にて南ベトナム第8および第15機甲騎兵連隊が北ベトナム第88歩兵連隊を撃破している。5月23日には国境30kmの制限を超えて前進し、クレック(Krek)の街まで到達している。

ビン・タイ作戦とチュー・ロン作戦

第二方面部隊の第一次ビン・タイ作戦はアメリカ陸軍第四歩兵師団第一、第二大隊とベトナム共和国陸軍(ARVN)部隊第40歩兵連隊によってカンボジア北東のエリア702(以前から共産主義勢力のB2前線司令部が設置された場所)に対して5月25日から開始された。空爆後の最初の米軍ヘリコプターによる攻撃は、激しい対空砲火によって失敗しました。その後、第3大隊(米国第101空挺師団からの出向の第506の歩兵連隊)は抵抗なしで展開し、その姉妹部隊の第1大隊である第14歩兵連隊も反抗なしで展開した。しかしながら、第三大隊第八歩兵連隊はベトナム人民軍60人が着陸地点を確保する前にたった60人で投入されたため、その場で膠着状態となり一晩中包囲されることとなった[44]。翌朝までにベトナム人民軍はその場を出発した。

第2の旅団第7歩兵連隊には抵抗を受けていない3大隊を投入した。 歴史家シェルビー・スタントンはそこには「これまでの全ての戦闘の疲労からくる苦痛のために戦闘意欲において顕著な欠落があった」と述べました。 10日後に(その間激しい銃撃戦が1回だけ発生)、米軍はベトナム人民軍に地域譲り南ベトナムに退却した[45]。第二次ビン・タイ作戦の間、5月14日から26日にかけてベトナム人民軍第二十二部隊はエリア702に移動した。第二次ビン・タイ作戦はベトナム人民軍によってエリア701に対して5月20日から開始され6月27日までにエリア740を対象に展開された。

5月10日には第三大隊第101空挺師団第506歩兵連隊がセ・サン谷で待ち伏せされ、8人戦死28人が負傷する戦闘があった。

戦死者の中でレスリー・サボウ・Jr(戦死後軍曹に昇進)は名誉勲章に推挙されたが、その手続きは1999年まで見過ごされた。 サボウはバラク・オバマ大統領によって2012年5月16日名誉勲章を授与されました。 5月6日から6月30日にかけて第三方面部隊の戦略地域でのトワンタン44作戦(勇敢な騎兵作戦)は第25歩兵師団第二旅団によって実施されました。 作戦の標的領域はエリア353、354と南ベトナムのタイニン北東に位置してるエリア707でした。 再度、南ベトナム解放民族戦線司令部(COSVN)の駆逐が実行され、今度はカンボジアのメモット街近辺が検索されたが何も発見されなかった。 この作戦の間に第25歩兵連隊は119名の戦死者を出す一方で、1,017人のベトナム人民軍南ベトナム民族解放戦線の兵士を殺害した。 トアンタン44作戦と同時に、第三旅団第九歩兵連隊の二つの部隊がフィッシュホークの南西48kmからドッグフェィスと呼ばれる地域を横断した。 唯一のベトナム人民軍との激しい戦闘はチャンテラ村近郊で行われ、北ベトナム兵士51人を殺害、捕虜が21人となる一方で、第三旅団は8人の戦死者と22人の負傷者を出した。 カンボジアの迫害によって殺される何千もの少数民族のベトナム人のためにはすでに遅すぎたが、まだ何万人ものベトナム人がその時安全に避難することができた国の地域にいた。 グエン・バン・チュー南ベトナム大統領は、本国へ去りたい人を全員送還するために、ロン・ノルと調整をした。 しかしその新たな関係は、カンボジア政府が避難する前のベトナム人の家と所有物を窃盗することを防ぐことはしなかった。 その後グエン・バン・チュー南ベトナム大統領は機甲師団と装甲部隊から編成されたベトナム共和国陸軍(ARVN)がメコン川の東岸と北西を5月9日から7月1日にかけて攻略するチュー・ロン作戦の承認した。 110隻のベトナム海軍と30隻のアメリカ軍艦艇の連合部隊はメコン川プレイベン州へと進軍した。 そして、第四方面軍プノンペンが西側へ進出し南ベトナムへの飛行を希望している少数民族のベトナム系住民を支援することを許可した。 それから、本国に送還されたくなかった人々は強制的に排除されました。 驚くべきことは北ベトナム軍隊は簡単に避難を妨害することが可能だったにもかかわらずそうはしなかったことです。 第四方面部隊の他の任務としてメコン川西岸に沿って実施される第二次チュー・ロン作戦(5月16日〜24日)も含まれていた。 ロン・ノルベトナム共和国陸軍(ARVN)にプノンペン南西90マイル(140km)カンボジア側に入った4号線沿いの街コンポンスプーの奪還も支援して欲しいと要請していた。 4000人のベトナム共和国陸軍(ARVN)機甲部隊はカンボジア陸軍地上部隊と連携してその街を奪還した。 第三次チュー・ロン作戦(5月24日-6月30日)はアメリカ軍がカンボジアから撤退したあとの侵攻作戦となりました。 ベトナム人をカンボジア人から救い出した後、ベトナム共和国陸軍(ARVN)はカンボジア人を北ベトナムから救う仕事を課された。 作戦の目的は首都プノンペンとカンボジア陸軍第一方面司令部から北西70kmに位置するコンポンチャムの開放でした。 ド・カオ・トリ将軍は10,000人のベトナム共和国陸軍(ARVN)を7号線に沿って180エーカー(0.73km2)のゴムプランテーションまで進軍したところで、ベトナム人民軍(PAVN)の激しい抵抗を想定していました。 驚くべきことに、戦闘は発生せず、コンポンチャムの包囲はベトナム共和国陸軍(ARVN)の98人戦死者の犠牲のみで達成することができました。

空爆と物資輸送

カンボジア進行の航空作戦は遅れて開始された。 作戦が検討されていた時から南ベトナム軍事援助司令部(MACV)により飛行空域は制限されていた。 計画段階でのカンボジア侵攻作戦での空軍の役割は出来れば最小限にとどめておきたいという意図があった。作戦の機密性のために国境沿いの限られた地域だけをカバーすることを目的としていた[46]

4月17日にはクレイトン・エイブラムス将軍が大統領にカンボジア国境を越えた偵察活動の支援として空軍による戦略爆撃を行うパティオ作戦の承認を求めた。 承認は下され、アメリカ空軍によるカンボジア国境21km内の爆撃が実施された。 この攻撃制限区域は後に27kmまで広げられ、パティオ作戦は5月16日以降26日まで続けられ156回の小さな作戦が実施された[47]

作戦後

カンボジア侵攻での北ベトナム正規軍との戦闘は出来るだけ避けること、可能なら西部方面への駆逐と部隊再編を意図していた。

結論

ニクソン大統領は、この侵攻作戦は「全ての戦争で最も成功した作戦」であると宣言した。

脚注

  1. John M. Shaw, The Cambodian Campaign. Lawrence KS: University of Kansas Press, 2005, p. 158. His original source was the Current Historical Evaluation of Counterinsurgency Operations (Project CHECO).
  2. Victory at Any Cost: The Genius of Viet Nam's Gen. Vo Nguyen Giap. Cecil B. Currey, Potomac boos 1997. P. 278
  3. これ以前からカンボジアの中立性は南ベトナム側によって侵されていた。1950年代後半から1960年代前半にかけて、ゴ・ディン・ジエム政権下で反体制派と見なされた政治的・軍事的派閥の追跡が行われている。Arnold R. Isaacs, Gordon Hardy, McAlister Brown, et al. Pawns of War Boston: Boston Publishing Company, 1987, p. 54.
  4. Samuel Lipsman, Edward Doyle, et al. Fighting for Time. Boston: Boston Publishing Company, 1983, p. 127. See also Military Institute of Vietnam, Victory in Vietnam, Lawrence KS: University of Kansas Press, 2002, p. 465, fn24.
  5. Wilfred Deac, Road to the Killing Fields. College Station TX: Texas A&M University Press, 1987, p. 55.
  6. Military Assistance Command, Vietnam, Command History 1967, Annex F, Saigon, 1968, p. 4.
  7. Bernard C. Nalty, Air War Over South Vietnam Washington DC: Air Force History and Museums Program, 1997, p. 127.
  8. Nalty, p. 128.
  9. Nalty, pp. 127–133.
  10. Deac, pp. 56–57.
  11. Isaacs, Hardy and Brown, p. 90.
  12. 12.0 12.1 Lipsman and Doyle, p. 144.
  13. David P. Chandler, The Tragedy of Cambodian History, New Haven CT: Yale University Press, 1991, p. 231.
  14. Dmitry Mosyakov, “The Khmer Rouge and the Vietnamese Communists: A History of Their Relations as Told in the Soviet Archives,” in Susan E. Cook, ed., Genocide in Cambodia and Rwanda (Yale Genocide Studies Program Monograph Series No. 1, 2004), p54ff. ( オンライン版
    『1970年4月から5月にかけて、ポル・ポトではなく腹心のヌオン・チアによる要請を受け、多くの北ベトナム軍部隊がカンボジアに侵入した。Nguyen Co Thachは「ヌオン・チアからの要請を受け、我々は10日でカンボジアの5州を解放した」と回想している』
    "In April–May 1970, many North Vietnamese forces entered Cambodia in response to the call for help addressed to Vietnam not by Pol Pot, but by his deputy Nuon Chea. Nguyen Co Thach recalls: "Nuon Chea has asked for help and we have liberated five provinces of Cambodia in ten days.""
  15. Deac, p. 75.
  16. Lipsman and Doyle, p. 146.
  17. Herman L. Gilster, The Air War in Southeast Asia. Maxwell Air Force Base AL: Air University Press, 1993, p. 20.
  18. 18.0 18.1 Lipsman and Doyle, p. 147.
  19. Shelby L. Stanton, Rise and Fall of an American Army. New York: Dell, 1985, pp. 319–320.
  20. 20.0 20.1 Lipsman and Doyle, p. 149.
  21. 21.0 21.1 21.2 21.3 Lipsman and Doyle, p. 152.
  22. Isaacs, Hardy and Brown, p. 146.
  23. Shaw, p. 59.
  24. Shaw, pp. 58–60.
  25. Nalty, p. 129.
  26. Nalty, p. 83.
  27. Lewis Sorley, A Better War. New York: Harvest Books, 1999, p. 202.
  28. Stanley Karnow, Vietnam. New York: Viking, 1983, p. 607.
  29. Lipsman and Doyle, p. 153.
  30. Asprey, Robert B. War in the Shadows: The Guerilla in History New York: William Morrow and Company, 1994, pp. 996-997
  31. 31.0 31.1 Tảng 1985, p. 178
  32. 32.0 32.1 Tảng 1985, p. 180
  33. Tảng 1985, p. 181
  34. 当初29日が作戦開始日として予定されていたが、贔屓にしていた占星術師から「縁起が良くない」と言われた為、予定を遅らせたのだと言われている。Shaw, p. 53.
  35. Shaw, p. 54.
  36. Lipsman and Doyle, p. 164.
  37. (北ベトナム側被害について) Lipsman and Doyle, p. 164. (アメリカ側被害について)Denis Kennedy Tracks in the Jungle. Boston: Boston Publishing Company, 1987, p. 137.
  38. Valorous Unit = Silver Star for all in unit: Lineage And Honors Information, United States Army Center of Military History
  39. 39.0 39.1 39.2 Sorley, p. 203.
  40. Karnow, p. 608.
  41. A vivid, first-hand account of the battle can be found in William K. Nolan, Into Cambodia. Novato CA: Presidio Press, 1986, pp. 147–161.
  42. 42.0 42.1 Lipsman and Doyle, p. 167.
  43. Shaw, p. 158.
  44. Nolan, p. 195.
  45. Nolan, p. 201.
  46. John Schlight, A War Too Long. Washington DC: Air Force History and Museums Program, 1986, pp. 183–184.
  47. John Morocco, Operation Menu, Boston Publishing Company, 1988, p. 146.

参考文献

未刊行政府文書

Military Assistance Command, Vietnam, Command History 1967, Annex F. Saigon, 1968.

刊行政府文書

二次資料

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タイム誌記事