キース・ムーン

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キース・ムーン
基本情報
出生名 キース・ジョン・ムーン
別名 Moon the Loon, Moonie, Moonshine, Uncle Ernie
生誕 1946年8月23日
出身地 イングランドの旗 イングランド, ロンドン, ハールスデン
死没 (1978-09-07) 1978年9月7日(32歳没)
ロンドン
ジャンル ロック, ポップ, リズム・アンド・ブルース, ハードロック
職業 ミュージシャン, ソングライター, 作曲家, プロデューサー, 俳優
担当楽器 ドラムス, パーカッション, ヴォーカル, ビューグル, トランペット, チューバ,
活動期間 1964年 - 1978年
共同作業者 ザ・フー
著名使用楽器
Premier
Slingerland

キース・ムーンKeith Moon、本名:Keith John Moon, 1946年8月23日 - 1978年9月7日)は、イギリスミュージシャンドラマー、俳優。ザ・フードラマーとして最も有名である。2016年の「ローリング・ストーン誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のドラマー」に於いて、第1位のジョン・ボーナムに次ぐ第2位。2013年ギブソン社の選ぶ「史上最高のロック・ドラマー×10人」に於いて第3位。「マイ・ジェネレーション」「恋のピンチ・ヒッター」「恋のマジック・アイ」「シー・ミー・フィール・ミー」「サマー・タイム・ブルース」「ピンボールの魔術師」「ロング・リブ・ロック」など、ザ・フーの代表曲でドラムスを担当した。

いくつかの文献でプロフィールが「1947年生まれ、31歳没」となっているものがあるが、これはムーンが生前に年齢を1歳偽っていたことに起因する[1]

生涯

生い立ち

ロンドン北西部、パーク・ロイヤルのセントラル・ミドルセックス公立病院で生まれ、ウェンブリーで育つ[2]。幼少の頃から音楽好きで、3歳の頃にはすでにナット・キング・コールレコードに聴き入っていたという。1955年映画暴力教室』の主題歌「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を聴いたことによりロックンロールに目覚める。12歳の頃より、地元の鼓笛隊でラッパトランペットを吹き始めるが、全く上達しなかった。やがてドラムに転向し、16歳の頃に本格的なドラムキットを購入。地元の学校仲間とバンドを組んでプレイしていたが、やがてセミプロのバンドに加入し、本格的に音楽活動を行うようになった[1][3]。当時、イギリスの労働者階級の子弟は、中学卒業後すぐに就職するケースが圧倒的に多かった。キースも15歳で学校を卒業し、1964年にザ・フーに加入するまでの間に、印刷工や電気工見習いなど、23回も職を変えた[4]

ザ・フー加入

1963年4月、ビーチコーマーズというセミプロ・バンドに加入。同年10月にはシングルを発表しているが[5]、このバンドは本格的にプロを目指そうとはしていなかった。このバンドに在籍していた頃からムーンはザ・ディトゥアーズ(後のザ・フー)のことは耳にしていた[6]。1964年、ザ・フーが新ドラマーを探しているという噂を聞きつけ、4月の終わりにザ・フーのギグに訪れた。当時のザ・フーは前任のドラマー、ダグ・サンダムが脱退し、急場しのぎで別のドラマーを雇っていたが、ギグの途中でムーンの友人が「俺の連れのほうが上手い」とムーンをステージに上げた。その場でボー・ディドリーの「ロード・ランナー」を演奏したが、ムーンはそのパワフルな演奏でドラムを壊してしまい、メンバーの度肝を抜いた。ジョン・エントウィッスルは「キースの演奏を見た瞬間、『こいつに決まりだ!』と思った」と当時を振り返っている。ピート・タウンゼントもまた「キースを見出した時が正に俺達のターニングポイントだった」と認めている[7]

だがムーンは、すぐにはビーチコーマーズを脱退しなかった。メンバーから直接加入を打診されたわけではなく、さらに当時のザ・フーには契約の話が進んでいたフィリップス・レコードから紹介されたブライアン・レッドマンという別のドラマーがいたことが要因だった。だがムーンとレッドマンのプレイを再度比較した結果、レッドマンはメンバーから不適任と判断され、ムーンは晴れてザ・フーのメンバーとなった[7]

ザ・フーとして

1965年、ザ・フー名義での1stシングル、「アイ・キャント・エクスプレイン」が全英8位という好調なスタートを切るが、バンド内ではドラッグの使用をめぐり、ロジャー・ダルトリーと他の3人の間に深刻な対立が起こっていた。緊張の糸は9月のヨーロッパツアー中についに切れた。ダルトリーはドラッグでハイになったムーンに激怒し、彼の錠剤を全てトイレに流してしまった。ムーンはタンバリンを武器にダルトリーに襲い掛かるが、ダルトリーに殴り返され気絶してしまう。タウンゼント、エントウィッスル、ムーンの3人は全員一致でダルトリーの解雇を決断するが、ダルトリーの謝罪とマネージャーのキット・ランバートの説得により、何とか元の鞘に収まった[8]。65年には「マイ・ジェネレーション」でもドラムをプレイした。同曲はパンクのルーツの1曲として記録されている。

だがバンドの内紛はこれで収まった訳ではなかった。1966年になると今度はムーンが脱退を考えるようになる。2月、彼はちょうど前任のドラマーが脱退したばかりのアニマルズへの加入を目論んでいた[9]。同年5月、ジェフ・ベックに招かれセッションに参加。他のメンバーはジミー・ペイジ(ギター)、ジョン・ポール・ジョーンズ(ベース)、ニッキー・ホプキンス(ピアノ)。ムーンはこのバンドをレッド・ツェッペリンと命名。このセッションで「ベックス・ボレロ」を録音した。これがムーンにとってプロデビュー後初のザ・フー以外での仕事となったが、タウンゼントはこのセッションについて「あれは政治的な動きだった。キースはこうすることで俺達にザ・フーに戻って欲しいと言わせようとしてたのさ」と語っている[10]。なお「ベックス・ボレロ」は、ベックの1stソロシングル「ハイ・ホー・シルヴァー・ライニング」のB面として発表され、後にベックの1stソロアルバム『トゥルース』に収録された。

このセッションから間もない66年5月20日、ライブに遅刻して来たエントウィッスルとムーンの代わりに、ダルトリーとタウンゼントが別のベーシストとドラマーを入れて勝手にライブを始めていたことに二人が激怒。大喧嘩の末に足を3針縫う怪我を負ったムーンは、その場にいた記者たちにエントウィッスルと共にザ・フー脱退を宣言した。宣言通り、ムーンは1週間ほどライブをボイコットしたが、25日までには仲直りし、ムーンは脱退を取り下げた[11]。またこの年の3月、17歳のキム・ケリガンと結婚、7月には娘のアマンダ・ジェーンが生まれている[12]。この時期、「恋のピンチ・ヒッター」「マジック・アイ」「ボリス・ザ・スパイダー」などの代表曲に演奏で参加した。ザ・フーは、モンタレーやウッド・ストック[13]などのロック・フェスティバルに積極的に参加し、世界のロック・ファンに知られるようになった。キースの豪快なドラミングは、見る者に強烈な印象を与えた。

1970年1月、あるパーティの帰りに若者の集団に囲まれ、ムーンの乗る車が襲撃を受ける。彼の運転手だったコーネリアス・ボランドが道を空けさせようと車から降りたところを、ムーンが誤って車を発進させ、ボランドを轢いて死なせてしまう[14]。ムーンは謹慎の身となるが、2月に裁判所でボランドの死は事故と断定され、無罪となった。なお、当時ムーンは飲酒した上に無免許であったが、これについても情状酌量により刑罰は与えられなかった[15]。だがこの事件はムーンに暗い影を落とし、以後彼の行動はさらに厄介なものになっていった[16]。70年のザ・フーの「サマー・タイム・ブルース」でもキースは秀逸なドラミングを披露し、彼らの代表曲となった。同曲はエディ・コクランの曲をカバーしたものである。

1971年フランク・ザッパの映画『200モーテルズ』に出演[17]。後に本格的に俳優としても活動するようになるダルトリーよりも先にムーンは俳優デビューを果たした。翌1972年には、ザ・フーのロック・オペラ・アルバム『トミー』の舞台公演で、トミーの叔父で変態のアーニーを演じる[18]1975年にも映画版『トミー』で同じくアーニーを演じた。

1973年、妻のキムが娘を連れて家を出て行った後、ムーンはさらに自暴自棄になっていく[19]。同年11月のロサンゼルスのコンサートで、本番前に酒に動物用の鎮静剤を混ぜて飲み、本番中に倒れてしまう。この時のライブは観客からドラムが叩ける者を募ってステージに上げ、結局最後までプレイさせた[20]。同年12月にはホテルを破壊し、タウンゼントやエントウィッスルを含めたバンド関係者16人と共に牢屋に入れられた(ダルトリーはこの事件には関わっていない)[21]

1974年3月、イギリスを離れロサンゼルス郊外のマリヴに移住。ジョン・レノンハリー・ニルソンと毎日のように飲み歩くようになる。同年に発表されたレノンがプロデュースしたニルソンの『プシー・キャッツ』にドラマーとして参加している。この二人に影響され、ザ・フーの中で唯一ソロ作品を発表していなかったムーンもついにソロアルバムの製作を決める[19]

1975年3月にリリースされた、ムーン唯一のソロアルバム『ツー・サイズ・オブ・ザ・ムーン』は、自らがボーカルをとり、さらにリンゴ・スタージョー・ウォルシュ等豪華ゲストも参加した。制作費には200,000ドルも費やされたものの[22]、アルバムはチャートインを果たせず、制作費を回収するには至らなかった[5]。ムーンはこれに懲りずに同年9月、周囲の反対を押し切って2枚目のソロアルバムのためのレコーディングセッションを行う[23]。アルバムは遂に完成しなかったが、この時に録音された楽曲は、後に『ツー・サイズ・オブ・ザ・ムーン』がCD化される際にボーナストラックとして収録された[5]

1976年1月、アルコールの禁断症状を起こし一時意識不明に陥る[24]。同年8月にはマイアミで致死量に至るほどの飲酒をし、8日間の入院を余儀なくされている。その際に医師から「飲酒を控えなければ3ヶ月以内に死ぬだろう」と警告された[25]。10月、スウェーデンモデルのアネット・ウォルター=ラックスと再婚するが[26]、ムーンの生活が改まることはなく、健康状態は悪化の一途をたどり、ザ・フーはライブ活動から遠ざかっていった[27]

最期

1978年、ザ・フー3年ぶりのオリジナル・アルバム『フー・アー・ユー』がリリースされる。この頃になるとムーンはもはや6/8拍子を叩くことができなくなっていたという[28]。結果的にこれがムーンが参加した最後のザ・フーのオリジナル・アルバムとなった。

同年5月には映画『キッズ・アー・オールライト』用のシークレット・ライブが行われた。ムーンの体調は優れなかったが、この時の演奏は上手くいき、非常に盛り上がるライブとなった。このライブがムーン最後のステージとなった[29]。同年9月1日、映画『キッズ・アー・オールライト』の無音部分に音を重ねるためのレコーディングを行うが、この時にはムーンは2、3時間もたつとスティックを握るのがやっとの状態になったという[30]

9月7日、ポール・マッカートニー主催のパーティーに出席した翌朝、アネットが作った朝食を採り、32錠ものヘミネブリン(クロメチアゾールEnglish版、アルコール依存症の離脱症状を抑える薬物)を飲んだ後、昼寝についた。午後3時ごろ、アネットがムーンの様子を覗きにいくと(ムーンのうるさいいびきから逃れるために別部屋にいた)、ムーンがうつぶせのまま動かなくなっているのを見つけた。すぐさま病院に担ぎ込まれたが死亡が確認された。32歳だった。検死の結果、警察はムーンの死因が飲み込んだ32錠のうち6錠が消化されたことによるオーバードーズであると発表した。[31]

遺体は11日にロンドンのゴルダーズグリーン火葬場にて荼毘に付され、13日に行われた葬儀ではザ・フーのメンバーの他に前妻のキムと娘、さらにエリック・クラプトンビル・ワイマンチャーリー・ワッツらが訪れた[32]

ムーンの死の翌日、タウンゼントは「俺達はロック界きっての天性のドラマーを失った。俺達は彼を愛していたが、彼は逝ってしまった。だが俺達は、かつてないほど活動続行へ燃えている。キースがバンドに注いでくれた精神を持ち続けてこうと思ってる。例え彼の代わりになる人間などいないとわかっていても」という声明文を発表し[32]、ザ・フーの活動継続を宣言した。翌1979年、元フェイセズケニー・ジョーンズを加入させ本格的に活動を再開するが、やはりムーンを失った影響は大きく、1982年12月を持ってザ・フーは一旦解散する(3年後のライブ・エイドで復活)。

音楽スタイル

ドラマーとして

ムーンの非常に個性的なプレイスタイルは、同時代及び後進の数多のドラマーに多大な影響を与えた。それまでドラマーの主な役割がリズム・キープに終止していたのに対し、ムーンのプレイは、ある意味でリード・ボーカルよりも先行した「リード楽器」として、タウンゼントのパワーコードと重なり合い、見事に引き立ちあっていた。タウンゼントもまた「ベースやドラムがリード楽器となりギターがリズム楽器と、本来の役割が逆転していたのが、ザ・フーのユニークさだった」と認めている[33]。そのラウドなドラムはマイクなしでも十分なほどであり、エントウィッスルは「キースの音がやたらでかいから、俺もピートもマーシャルを積み上げなきゃならなかった」と語っている[34]。ステージでは並々ならぬ技量と共にショーマンシップを発揮、スティックを廻したり空中に放り投げてはキャッチ、という「芸」も披露。ギターを破壊するタウンゼントに影響される形で、ムーンもまたステージでドラムを破壊した。まさに「ドラム革命」とも呼べる、ドラマーの新たな役割を示した。

ムーンのプレイの大きな特徴として、ハイハットをほとんど使用しないことが挙げられるが、エントウィッスル曰く「キースはハイハットが使えなかった」のだという[34]。リズムキープには大体クラッシュシンバルもしくはライドシンバルを使い、ハイハットはただ置いてあるだけということも多かった。また、ムーンのドラムスはスネアタムバスドラムそれぞれの音量がほとんど同じという特徴がある。エントウィッスルは「全て同じようにチューニングしてあるから、キースのドラムはどれも同じ音に聞こえるんだ」と語っている[34]

ムーンの「リードドラム」と共に「リードベース」を担当してきたエントウィッスルは、ムーンのドラムについて「キースはタイムキープが出来なかった。調子が悪いと遅くなり、調子がいいと速くなる。タイムキーパーは俺の役目だった。キースはどんなに馬鹿をやっても俺がついて来ることがわかってたから好き放題やってた」と語っている。またムーンを一番よく表している曲として、「ジ・オックス」(1stアルバム『マイ・ジェネレーション』収録)を挙げている[34]

その他

ムーンは歌唱力に問題があったとされ、ほとんどの場合ボーカル録りには参加させてもらえなかった。ムーンは「他のメンバーがスタジオで歌ってると、皆が俺に『失せろ』って言うんだ」と1972年のインタビューで告白している[35]。無論それでおとなしく引き下がるムーンではなく、「ハッピー・ジャック」のレコーディング時にはこっそりマイクの前に忍び込んで無理やり歌おうとした。この曲の終盤部でタウンゼントが「I saw ya!(見つけたぞ!)」と叫んでいるのはそのためである[36]。また、他のメンバーが歌っている前でハチの格好をし、メンバーを笑わせるいたずらをしたこともあるという[35]。一方で自作曲の「アイ・ニード・ユー」(2ndアルバム『ア・クイック・ワン』収録)や、デビュー当時からザ・フーのレパートリーだった「バーバラ・アン」等でリードを取ることもあった。

作曲に関わることはあまりなかった。ザ・フーの楽曲でムーンの名前がクレジットされている曲は、上記の「ジ・オックス」(タウンゼント、エントウィッスル、ニッキー・ホプキンスとの共作)や「アイ・ニード・ユー」の他、「くもの巣と謎」、「イン・ザ・シティ」(シングル「アイム・ア・ボーイ」B面曲、エントウィッスルとの共作)、「ガールズ・アイズ」(『ア・クイック・ワン』1995年リイシュー版に収録)、「ドッグス(パート2)」(シングル「ピンボールの魔術師」B面曲)、「トミーのホリデイ・キャンプ」(アルバム『トミー』収録)、「ワスプ・マン」(シングル「奴等に伝えろ!」B面曲)の8曲で、ダルトリーの4曲に次いで少ない[37]。このうち「トミーのホリデイ・キャンプ」は、実質的にはタウンゼントの作曲であるが、ムーンのアイデアが曲のインスピレーションになったため、タウンゼントの計らいでムーンの名がクレジットされたものである[38]

ムーンの初めての課外活動は、上記のとおり1966年の「レッド・ツェッペリン・セッション」だった。この時5人中4人がかなりの手ごたえを掴み、パーマネントなバンドとしての活動を希望したが、ジョン・ポール・ジョーンズが乗り気でなかったことと、良いシンガーが見つからなかったことを理由にその計画は頓挫する。だがその後もジェフ・ベックはムーンの引抜きを考え、自身の1stソロアルバム『トゥルース』の録音にムーンを招へいしたが、ザ・フーの活動が多忙になりお流れになった[5]。その他にも、ビートルズの「愛こそはすべて」に、コーラスで参加したり、プラスティック・オノ・バンドの公演(1969年)に客演したりと、ザ・フー以外での活動も精力的にこなした[5]

人物

ドラムプレイ同様、性格的にも非常に個性の強い人物だった。子供の頃からやんちゃな性格で、よく授業中に悪ふざけをしては教師達から怒りを買っていた。また、戦後のブリティッシュ・ユーモアを確立したといわれるBBCラジオのお笑い番組『ザ・グーン・ショー』にも、ロックと同様に強い影響を受けている[1]。だが、タウンゼントによれば「キースは凄く難しいタイプだった」らしく、彼を懐柔するためにムーンの好きなビーチ・ボーイズの音楽性を取り入れたと語っている[3]。ザ・フーの最初のプロダクション・マネージャーを務めたマイク・ショウは、デビュー当時のムーンについて「内気な男だった」と振り返っている[39]。またデビュー当時は、メンバーの中で最も女性ファンからの人気が高かった。だが20代のうちに容姿がかなり老け込んでしまったため、バンドのセックスシンボルはダルトリーに取って代わられることとなった[40]

他のメンバーに対する愛着が深く、1972年のインタビューでは「(他のメンバーとは)もっとしょっちゅう会いたい」「俺は一生ずっとみんなと一緒にやっていけると思ってる。他に一緒にやりたい奴なんていないし」という発言を残している[41][42]。長期のオフなどで他のメンバーに会えない時期が続くと、孤独感からかムーンはタウンゼントの家に明け方におやすみの挨拶と愛していることを伝えるためによく電話をかけてきたという。ある時、通話中にムーンが寝てしまい、タウンゼントは話が終ったと思って受話器を置いたが実は元の位置におかれておらず、数時間後にタウンゼントの妻が電話をかけようとしたらムーンの鼾が聴こえてきたというエピソードもある[27]

その強烈なキャラクターで、俳優としても活躍した。ムーンは1974年のインタビューで「自分が役者じゃなかったことなんてないと思う。ドラムを叩いてる時だって演じてるんだよ。俺は俳優じゃないが、演奏にだって演技の要素があって、ただ少し手法が違うだけなんだ。俺が演じてない時なんてほとんどないよ…寝てる時以外はね」と語っている[43]

ホテル破壊など

ムーンはその生涯を通じて「壊し屋」としての名声を欲しいままにした。キースは「ドラムを100セット壊すことが目標」とも豪語していた。ピートもギターやアンプも壊したりしたので、機材の弁償額が、たびたびバンドのギャラを上回った。キースは、ホテルの窓や友人の家、あまつさえ自分の家でさえも、高窓から家具を投げ捨て配管に爆竹を仕掛け、廃墟にしてしまった。特に有名なのが1967年、テレビ番組「スマザーズ・ブラザーズ・ショー」での出来事で、ムーンは自分のバスドラムに安全基準を超える閃光粉を仕込み、曲の最後に爆発させたが、この爆発でタウンゼントの耳が一時聞こえなくなり、ダルトリーも鼓膜が破れるほどの怪我を負う。さらに出番待ちをしていたベティ・デイヴィスが気絶し、ムーン自身も脳震盪を起こし、腕に切り傷を負った[44]。同じ67年には、キースの誕生パーティーで消火器をまき散らす、ピアノを破壊するなどの騒乱状態といなり、バンドは2万4千ドル(当時のレートで860万円)を弁償せざるをえなくなった。また、すべてのホリデー・インから出入り禁止の処分を受けてしまう。ザ・フーの活動開始からキースが死去するまでの14年間で、彼の破壊行動による被害額は約50万ドルとも言われている。

この他にも、爆竹でトイレを破壊する[19]、退屈しのぎに自宅の窓をショットガンで吹き飛ばす[45]、等々、彼の度の過ぎたいたずらは枚挙に暇がない。ホテルに泊まれば必ず部屋を破壊するため、全てのホテルチェーンから出入り禁止を喰らっていると自ら語っている[41]。その後も世界のホテルで破壊行動を起こし、「破壊王」という有り難くないニック・ネームもつけられてしまった。ムーン自身が開いたパーティでもそうでないパーティでも、彼が参加した必ずパーティはむちゃくちゃに破壊され、そして本人は必ず全裸になった。ミック・ジャガーが、とあるパーティに招待されて会場へと入ったところ、ムーンの姿を見かけた瞬間逃げ帰った、という逸話もある。あまりにも彼の振る舞いがひどく、入れるパブが無くなったので自ら出資してパブを作ったこともある[16]。新妻アネットと共にカリフォルニアに来てからもムーンの悪行はやまず、隣人のスティーヴ・マックイーンの邸宅にバイクで突っ込んだり[46]、彼の息子にマリファナを勧め、拒否されるとつかみ合いの喧嘩を始めるという有様だった[19]。また女装癖もあり、多数の女装写真が残されている。ボンデージを着用してSM嬢からムチで叩かれながらインタビューを受けたこともある。この様子は映画『キッズ・アー・オールライト』にも収録されている。死の直前の1978年7月にも、飛行機内で操縦室に乱入し操縦台でドラミングの真似をして、飛行機から降ろされた[47]。人は彼を「ムーン・ザ・ルーン(ルーンはcrazyの意味)」と呼んだ[16]

数々の蛮行に、インタビューアーから「ドラマーとしての評判に傷がついたりしないか」と質問されたが、それに対しムーンは「俺は偉大なドラマーになろうなんて思わない。ザ・フーでドラムスが出来ればそれでいいんだ」と答えた[41]

私生活

ムーンはデビューする頃にはすでにアルコールとドラッグに浸かっていた。ザ・フーのメンバー誰もがドラッグに手を出していたが(ダルトリーを除く)、ムーンは特にひどく、幾度となくコンサートを中断せざるを得ないほどにまで症状が悪化した。2人目の妻、アネットとの生活が始まっても変わらず、晩年になると「特殊部隊が小さな宇宙人を使って俺を監視している」という幻覚を見るまでになる[19]。彼の健康状態の悪化により、1976年後半から1978年のムーンの死まで、ザ・フーはコンサートツアーを行えなかった。レコーディング中、ミスを連発するムーンに堪えかねて、タウンゼントが「真面目にやらないなら辞めろ」と怒ると、ムーンは「俺は世界一のキース・ムーン・スタイルのドラマーだ!」と怒り返してきたという[29]

晩年のムーンは、これまでの生活習慣を改めようとアルコール依存症の治療に乗り出していた。実際に死の直前に参加していたパーティーでもムーンは酔ってはいなかった[30]。だが皮肉にも治療薬として処方されていたヘミネブリンの過剰服用が、結果的にムーンを死に至らしめることとなってしまった[48]。なお、ムーンが最期を迎えたフラットは、1974年にママス・アンド・パパスキャス・エリオットが死亡した場所でもあった[32]。ダルトリーは「キースを救ってあげられなかったことを非常に後悔している」と後に語っている[49]

交友関係

リンゴ・スターは尊敬するドラマーであると共に親友である。スターと初めて会ったのは1965年、バーでビートルズのメンバーが飲んでいるところにムーンが現れ、本人の目の前で「俺をビートルズに入れてくれ」と言ったのをきっかけに仲良くなったと言う[5]。ムーンは最も影響を受けたドラマーに、DJフォンタナやシャドウズのトニー・ミーハンの名前と共に、スターの名を挙げている[50]。また1972年のインタビューでは、アージェントボブ・ヘンリットの名も挙げている[51]

また、ムーンは晩年にリンゴの息子であるザック・スターキーにドラムを教えており、現在ザ・フーのドラムはそのザックが叩いている。

ムーンとジョン・ボーナムは、大親友且つ呑み仲間であったと同時に、ホテル破壊でも有名だった。1977年6月のレッド・ツェッペリンのロサンゼルスでのライブに飛び入り参加し、ドラムソロを披露するボーナムの横でティンパニを叩きまくった[52]。この時の模様は複数の海賊盤に収録されている。バンド名「レッド・ツェッペリン」の由来は、1966年のジェフ・ベック、ジミー・ペイジらとのセッションで「もしも俺たちが今いるバンドを辞めたら、きっと向こうは鉛の風船みたいに急降下だろうぜ。いや、鉛の飛行船(lead zeppelin)かな?」と発言したことによる。また奇縁なことに、ムーン、ボーナム共に32歳で死去している。

使用機材

ラディック[53]
デビュー時の1964年から1965年まで使用。フィニッシュはオイスターブラックパール、後にシルバースパークル。この頃はまだワン・バスでタムやシンバルの数は少なく、シンプルなセッティングであった。以下は1965年当時のセッティング。
  • ドラムス
    • 22×14BD、16×16&14×14FT、13×9TT、14×?SD(メタル400)
  • シンバル(ジルジャン
    • 20・18・14
プレミア[54]
1965年から1978年の死の直前まで使用。1966年5月よりツー・バスとなる[55]。フィニッシュは1965年から1967年まではレッドスパークル、1967年から1968年まではサイケデリックなペイント、1986年から1970年まではシャンパンシルバー、1970年から1974年までは黒または金、1975年から1976年まではクリーム、1977年以降はクロームメッキ。材質は1965年から1970年まではバーチ、1970年から1976年まではマホガニー、1977年以降は再びバーチに戻った。ドラムやシンバルの数は年ごとに増えていき、最盛期にはタムタムだけで10個以上にもなった。以下は最も大掛かりなものとなった1975年から1976年までのセッティング[56]
  • ドラムス
    • 22×14BD×2、18×16&16×18FT、14×10TT×3、16×16&15×12&14×10&13×9&12×8&10×6.5MTT
    • 14×6.5or5.5SDグレッチ
    • 22.5ティンパニ×1or2
  • シンバル(パイステ2002シリーズ)
    • 22・20・14・18・14
    • ゴング×1or2(1x30″, 1x36″)
ジッコス[57]
1970年のBBC1の大晦日特番の収録のためにオーダーした、透明なアクリル製のドラムキット[58]。1974年のABCの特番「ワイド・ワールド・イン・コンサート」出演時にもやはり透明なドラムスが使用されたが、こちらはジッコス製ではなくラディックのビスタライト・ドラムである[59]。この時ムーンはフロアタムに水をはり、そこに金魚を入れてドラムソロを披露したが、この演出に動物愛護者から苦情の電話がかかってきた[60]

ディスコグラフィ

  • ツー・サイズ・オブ・ザ・ムーン - Two Sides Of The Moon(1975年)

ムーンが生前唯一残したソロアルバム。敬愛するビーチ・ボーイズやビートルズのスタンダードナンバーの他、ザ・フーの「キッズ・アー・オールライト」のカバーを含む。さらに、ジョン・レノンやハリー・ニルソンからも楽曲提供を受けている。1995年には実現しなかった2枚目のソロアルバムのための未発表曲を追加収録して再発売された。

フィルモグラフィー

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 アルティミット・ガイド・p158
  2. ニール、ケント・p33
  3. 3.0 3.1 アルティミット・ガイド・p159
  4. ニール、ケント・p34
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 アルティミット・ガイド・p161
  6. ニール、ケント・p50
  7. 7.0 7.1 ニール、ケント・p51
  8. ニール、ケント・p75
  9. ニール、ケント・p102
  10. ニール、ケント・p115
  11. ニール、ケント・p116
  12. ニール、ケント・p110
  13. http://www.discogs.com/The-Who-Woodstock/.../11641347
  14. ニール、ケント・p207
  15. ニール、ケント・p209
  16. 16.0 16.1 16.2 ニール、ケント・p206
  17. ニール、ケント・p226
  18. ニール、ケント・p241
  19. 19.0 19.1 19.2 19.3 19.4 アルティミット・ガイド・p160
  20. ニール、ケント・p267
  21. ニール、ケント・p268
  22. ニール、ケント・p284
  23. ニール、ケント・p285
  24. ニール、ケント・p300
  25. ニール、ケント・p305
  26. ニール、ケント・p303
  27. 27.0 27.1 ニール、ケント・p307
  28. ニール、ケント・p320
  29. 29.0 29.1 ニール、ケント・p317
  30. 30.0 30.1 ニール、ケント・p322
  31. Marsh, Dave (19 October 1978). “Keith Moon: 1947(sic)-1978”. Rolling Stone. https://www.rollingstone.com/music/news/keith-moon-1947-1978-19781019 . 23 September 2013閲覧.. 
  32. 32.0 32.1 32.2 ニール、ケント・p323
  33. アルティミット・ガイド・p139
  34. 34.0 34.1 34.2 34.3 Partners In Time: John Entwistle & Keith Moon - DRUM! Magazine - Play Better Faster” (英語). . 2015閲覧.
  35. 35.0 35.1 ニール、ケント・p246
  36. ニール、ケント・p127
  37. ムーンの後任のケニー・ジョーンズを除く。
  38. ニール、ケント・p187
  39. CD『マイ・ジェネレーション・デラックス・エディション』(2002年)付属のマイク・ショウによるライナー・ノーツより。
  40. アルティミット・ガイド・p37
  41. 41.0 41.1 41.2 キース・ムーン、ザ・フー加入の経緯などを語る (6/8)” (日本語). . 2015閲覧.
  42. キース・ムーン、ザ・フー加入の経緯などを語る (8/8)” (日本語). . 2015閲覧.
  43. ニール、ケント・p274
  44. ニール、ケント・p155
  45. ニール、ケント・p163
  46. 赤岩和美 監修 『ブリティッシュ・ロック大名鑑』 ブロンズ社、1978年
  47. ニール、ケント・p321
  48. ニール、ケント・p318
  49. ザ・フーのロジャー・ダルトリー 亡き盟友キース・ムーンについて語る” (日本語). . 2015閲覧.
  50. ニール、ケント・p33
  51. キース・ムーン、ザ・フー加入の経緯などを語る (7/8)” (英語). . 2015閲覧.
  52. ニール、ケント・p311
  53. Early Kits Keith Moon’s Drumkits” (英語). . 2015閲覧.
  54. Keith Moon's Drumkits Keith Moon’s Drumkits Whotabs” (英語). . 2015閲覧.
  55. ニール、ケント・p6
  56. 1975–1976 Premier cream/white kit Keith Moon’s Drumkits Whotabs” (英語). . 2015閲覧.
  57. 1970-1971 Zickos Drums Keith Moon’s Drumkits Whotabs” (英語). . 2015閲覧.
  58. ニール、ケント・pp221-222
  59. Borrowed/Hired Kits Keith Moon’s Drumkits Whotabs” (英語). . 2015閲覧.
  60. ニール、ケント・p283

参考文献

  • {{safesubst:#invoke:Anchor|main}}アンディ・ニール、マット・ケント著、佐藤幸恵、白井裕美子訳『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』シンコー・ミュージック、2008年、ISBN 978-4-401-63255-8。
  • {{safesubst:#invoke:Anchor|main}}レコード・コレクターズ増刊『ザ・フー アルティミット・ガイド』、2004年。

外部リンク

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