クロアチア独立国

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クロアチア独立国(クロアチアどくりつこく、クロアチア語: Nezavisna Država Hrvatska)は、主に現在のクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナの領域に存在した国家。一般にドイツ及びイタリア傀儡国家と見做されている。独立国家クロアチアと訳されることもある[1]

クロアチア自治州

ユーゴスラビア王国1918年に「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」として建国された当初から、セルビア人クロアチア人の不和という問題を抱え、ヴェルサイユ体制に支えられたセルビア人の専制政治に対し、クロアチア人が大きな不満を抱いていた。これを重く見たセルビア人の王アレクサンダルは、1929年クーデターsh:Atentat u Narodnoj skupštini)を起こして独裁政権を樹立し、国号も「ユーゴスラビア」と改めた。しかしその後1934年、アレクサンダルがマルセイユで暗殺されるという事態が起こったため(当時クロアチア民族主義者の犯行と思われたが、現在真相は不明)、1939年ユーゴ政府は国内の一部をクロアチア自治州srpskohrvatski / српскохрватски版English版とすることで、セルビア人とクロアチア人との対立をなんとか収束しようとした。だがこの政策は国内の矛盾を拡大させただけで終わった。

クロアチア独立国

だがクロアチア民族主義者はこれに飽き足らず、北方で勢力を拡大していたヒトラー政権下のドイツとの関係を強化し、1941年にドイツとイタリアによるユーゴスラビア侵攻が始まった直後の4月1日にザグレブで蜂起。「クロアチア独立国」の建国宣言を発し、サヴォイア家からアオスタ公アイモーネを象徴君主として迎えてクロアチア建国の英雄トミスラヴ王(Tomislav)の名を冠し、トミスラヴ2世として5月18日に形式上の国家元首である国王に即位した。ただし、あくまで象徴的な意味合いだけで、決して如何なる実際上の権力も持っていなかった上に、トミスラヴ2世はクロアチア人によるテロを恐れ、自らの領国には足を踏み入れず、イタリアに留まった。

建国の先鋒となったのは、クロアチア民族主義団体ウスタシャアンテ・パヴェリッチであった。パヴェリッチは独立と同時にポグラヴニク国家指導者または総統と訳される)となって首相と外相を兼務した。ポグラヴニクという地位は、国王が国内に不在であるクロアチアにとって、事実上の国家元首であった。更に彼はファシズムの先駆者であるヒトラーやムッソリーニを模範に単一政党による独裁政権を樹立した。他の政党はすべて非合法化され、自身の親衛隊を創設。なおウスタシャは旧ユーゴスラビア王国から以下の領土を割取した。

ファイル:NezavisnaDrzavaHrvatska.png
クロアチア独立国の領土

ウスタシャはかねてから計画していたと言われるこれらの地域のセルビア人を標的とした大量殺戮を開始し、一説に70 - 100万人近いセルビア人を強制収容所に収監して虐殺したといわれている。またセルビア人だけでなくユダヤ人ジプシー、更には同胞のクロアチア人の反対派までも大量に逮捕・収監した。特に悪名高いヤセノヴァッツ収容所は「バルカンのアウシュヴィッツ」と呼ばれた。更に1941年4月30日には、国籍法が採択され、全ての非アーリア系(クロアチア人はアーリア系とされた)市民は、無国籍者とされた。同日、民族間の結婚を禁止する法律も採択された。6月4日には、クロアチアの社会、青年、スポーツ、文化組織、文学及び報道、絵画、音楽、劇場、映画館に非アーリア人が参加することが禁じられた。

ユーゴスラビア王国の国土はクロアチア独立国・ブルガリアルーマニアハンガリー枢軸国軍によってあっという間に占領された。ユーゴ国王や政府要人はロンドンに亡命してセルビア人軍人を中心にチェトニックを組織し、クロアチア独立国に対抗した。だがチェトニックはクロアチア人を虐待するなど旧来のユーゴ軍の矛盾を内包していたため、セルビア人以外からはあまり支持されなかった。代わってドイツへの抵抗運動を指揮したのはユーゴスラビア共産主義者同盟チトー率いるパルチザンであった。

1941年6月15日、クロアチア独立国は日独伊三国軍事同盟に加わり、6月26日には反共同盟に入った。また同年6月22日、独ソ戦の開戦とともにソ連に宣戦を布告、東部戦線に2万の兵を送り込んでいる。更に12月14日、米英に宣戦を布告。そして1942年9月、パヴェリッチはドイツを訪問し、アドルフ・ヒトラーの許可を得て、スラフコ・クワテルニクを解任し、政府の再編を行った。

1943年10月12日、イタリアが降伏したために、形式上の国王トミスラヴ2世は王位を放棄してしまい、ポグラヴニクであるパヴェリッチが名実ともに国家元首となった。しかし、1945年にはドイツも降伏し、それにともなって「クロアチア独立国」そのものが崩壊し、パヴェリッチはスペインへ亡命する。そして5月8日、クロアチアは独立を取り消され、その構成地域はすべてユーゴスラビアに戻された。領土やは主にクロアチア社会主義共和国ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国に分割された。

外交

ナチスの傀儡国家とは言っても、クロアチア独立国はその後少なからぬ国家から承認を受けた。第二次世界大戦の終結以前にはドイツイタリア日本をはじめとする枢軸国を中心として、フィンランドなどのドイツの同盟国と満州国などの枢軸国の傀儡国、スペインバチカンデンマークなどの中立国をはじめ、以下の19ヶ国が承認をした。なお、第二次世界大戦が勃発した1939年当時の独立国の数は60カ国にも満たなかった。

(枢)のついている国は枢軸国(その後離脱した国を含む)。

日本との外交関係

日本との外交関係は、クロアチア独立国の独立直後の1941年6月7日にその独立を日本が承認したことで始まった。同15日、クロアチア独立国は日独伊三国同盟へ参加し、続く26日には日独伊防共協定にも加わり、日本とクロアチアの両国の間に強固な同盟関係が築かれた。しかし、クロアチアは、同じく日本と同盟を結んでいたイタリアダルマチア領土問題を抱えていたため、日本はイタリアへの外交配慮を重視し、1943年9月8日にイタリアが連合国無条件降伏して枢軸国から離脱するまで、クロアチア国内に大使館在外公館も設置しなかった。

1943年12月15日ベルリンに駐在していた日本の外交官三浦和一橋爪三男の両名が、クロアチアの首都ザグレブ市内のホテルを借りて帝国代表部の事務所を開設。簡素ながらも、この事務所は、日本が独立国としてのクロアチアに設置した最初の在外公館である。翌1944年2月11日付で、日本は在クロアチア帝国公使館を開館し、代表部から公使館に昇格し、三浦が同公使館の代理公使に就任した(ドイツ駐箚一等書記官から転任)[2]1945年4月29日にザグレブ市内で昭和天皇誕生日パーティが開かれるなど、日本とクロアチアの間には友好関係が保たれていたが、その前日28日にはベニート・ムッソリーニが殺害の上、死体を晒し者にされ、天皇誕生日の翌日30日にはアドルフ・ヒトラーが自殺するなど、欧州における枢軸国の劣勢は覆いがたくなっていた。そのため、三浦代理公使らは、翌5月5日までに重要書類を焼却した後、同日、帝国公使館は閉鎖された。同8日、クロアチア独立国はパルチザンら連合国側の攻勢を支えきれず崩壊し、ユーゴスラビアに再併合されるに至る。これにより、日本とクロアチアの同盟関係もまた同時に解消された。

脚注

  1. 例えば、多谷千賀子『「民族浄化」を裁く—旧ユーゴ戦犯法廷の現場から—』岩波新書、2005年。ISBN 4004309735
  2. 外務省外交史料館所蔵資料「在外帝國公館關係雑件設置關係『クロアチア』國の部」 - 「クロアチア三浦代理公使宛・重光外務大臣発信」(第十二号)1944年3月9日

関連項目

外部リンク