クロタール2世

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ファイル:Division of Gaul - 587.jpg
587年当時のガリア地方の地図。
黄色はクロタール2世の当初の領地。613年には地図の着色された部分を全て引き継いだか、征服した。

クロタール2世(Chlothar II, 584年 - 629年10月18日)は、メロヴィング朝の3代目(在位:613年 - 629年)。キルペリク1世の五男[1]

生涯

584年に彼の父であるネウストリアの王キルペリク1世が死去し、ネウストリア王位を継承したが、彼は生後4ヶ月であったため[2]597年まで彼の母であるフレデグンド摂政をしていた。また、伯父ブルグント王グントラムが後見人となっていた[3]

599年、いとこのアウストラシア王のテウデベルト2世ブルグント王国テウデリク2世と戦った。テウデリク2世とは度々戦ったが、613年テウデリクは死去している[4]。ブルグンドはテウデリクの息子シギベルト2世が継承したが、シギベルドの曽祖母であるブルンヒルドが支配していた。

613年にブルンヒルドとの戦いに勝利し、フランク王国を統一[4]パリへ遷都。ブルンヒルドは捕らえられ処刑された[4]

614年10月18日にパリ勅令を発布[5]。各分王国の貴族の要求を受け入れる形で、宮宰へ権限を委任[5]。また教会へ裁判特権を与えた。

623年にアウストラシア貴族からの要請を受け入れ、息子ダゴベルト1世をアウストラシア王とした[6]。また、ピピン1世をアウストラシアの宮宰に任命したが、アウストラシア王国の実権を握っていたピピン1世およびメッス司教アルヌルフはダゴベルト1世を操ることで権力の維持をはかったとされる[6]

629年、クロタール2世は死去し、ダゴベルト1世がアウストラシアに加え、ネウストリア・ブルグント王位も継承し王国は統一された[7]。また、ダゴベルト1世は異母弟カリベルト2世をアキタニア王とした。

子女

  • メロヴェク
  • ダゴベルト1世(603年頃 - 638年) - アウストラシア王(在位:623年 - 638年)、ネウストリア・ブルグント王(在位:629年 - 638年)、アキテーヌ王(632年)
  • カリベルト2世(? - 632年) - アキタニア王(在位:629年 - 632年)

脚注

  1. ティエリ、上、メロヴィング家系図抄
  2. ティエリ、p. 176
  3. 柴田 他、p. 143
  4. 4.0 4.1 4.2 柴田 他、p. 144
  5. 5.0 5.1 柴田 他、p. 145
  6. 6.0 6.1 柴田 他、p. 146
  7. ル・ジャン、p. 30

参考文献

  • オーギュスタン・ティエリ 『メロヴィング王朝史話 上下』小島輝正訳、岩波書店、1992年
  • 柴田三千雄 他 『世界歴史大系 フランス史1』、山川出版社、1995年
  • レジーヌ・ル・ジャン 『メロヴィング朝』 白水社、2009年
  • 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年

関連項目

先代:
クロタール1世
フランク
3代
613年 - 629年
次代:
ダゴベルト1世

テンプレート:フランク王