コンスタンティン・チェルネンコ

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1979年にテヘラン米大使館が作成したドキュメント

コンスタンチン・ウスチーノヴィチ・チェルネンコロシア語: Константин Устинович Черненкоラテン文字表記の例:Konstantin Ustinovich Chernenko1911年9月24日グレゴリオ暦)/9月11日ユリウス暦) - 1985年3月10日)は、ソビエト連邦の政治家。同国の第7代最高指導者、第4代ソビエト連邦共産党中央委員会書記長。チェルネンコの時代はその死によってわずか1年余りで幕を閉じた。これにより、レオニード・ブレジネフユーリ・アンドロポフと続く老人支配の時代の幕引き役を演じ、若いミハイル・ゴルバチョフに政権を委ねることになった。

生涯

生い立ち

シベリアクラスノヤルスクのノヴォショーロヴォ地区ボリシャヤ・テシ村の貧農の出身。幼少時は富農(クラーク)に雇われて働いた。ロシア革命が始まるとコムソモールに入り、1929年、ノヴォショーロヴォ地区宣伝・煽動部長。翌1930年に軍に志願し国境警備隊に配属される。

共産党

1931年ソ連共産党に入党。軍を除隊後、クラスノヤルスク地方党宣伝部副部長となる。第二次世界大戦中はクラスノヤルスク地方党書記を務めた。モルダビア(現モルドバ)・キシニョフ教育大学を卒業し、大戦終結後の1945年ペンザ州党書記を経て、1948年、モルダビア共和国共産党中央委員会宣伝扇動部長となる。このときのモルダビア共産党第一書記がブレジネフであった。

ブレジネフの知遇を得たチェルネンコは、1956年、ソ連共産党宣伝部大衆煽動活動課長に登用される。以後、ブレジネフの側近として昇進を続ける。とりわけブレジネフが第一書記(書記長)に就任してからは、長らく「書記長官房」の異名を取るソ連共産党中央委員会総務部長を務め、党官僚組織に大きな人脈を築く。また、中央委員会に投書部を設け、下僚の意見を積極的に吸い上げようとした。

1982年のブレジネフの死去後はアンドロポフが後任の書記長に就任したため、失脚の危機もあったと考えられるが、アンドロポフの病気と死去、そして党官僚の支持を背景に勢力を維持した。

書記長就任

アンドロポフの死去後の1984年4月、チェルネンコはソ連共産党中央委員会書記長に就任し、国家元首である最高会議幹部会議長を兼務することになった。しかし就任当初から健康状態がすぐれず、アンドロポフの葬儀に参列したイギリス社民党党首で医師でもあったデイヴィッド・オーウェンは、「チェルネンコ氏は肺気腫を患っていると思われる」との見解を示した。皮肉にも1年後のチェルネンコの死によって、オーウェンの「診断」の正しさが証明される格好になった。

こうした病状やその短い任期から目立った業績は無いものの、教育面では技術・専門教育を重視する改革へ着手した。また、重要人事を断行する力はないと思われていたが、1984年9月6日にソ連軍の制服組トップで、党に対し批判がましい言動を繰り返していた参謀総長ソ連邦元帥ニコライ・オガルコフを電撃的に解任し、オガルコフの後任の参謀総長にセルゲイ・アフロメーエフを任命し世界を驚かせた。ただしオガルコフの解任については、チェルネンコの夏期休暇明け翌日の政治局会議で尚且つグリゴリー・ロマノフの海外出張中に決定されたという状況から、ミハイル・ゴルバチョフなどの非チェルネンコ派によるチェルネンコ人脈の切り崩しだという見方も存在する。

「只今よりアメリカ軍及び日本軍と交戦状態に入る」

1984年、「只今より極東地域でアメリカ軍及び日本軍と交戦状態に入る」という電文を極東ソ連軍からモスクワに向けて発信させた。これは日米両政府を大いに慌てさせた。だが、しばらくして極東ソ連軍は動員体制に入っていないことが確認された。

日米両政府はこれを当初「誤報か演習だったと見られる」と判断したが、のちにゴルバチョフのグラスノスチによって、ロナルド・レーガン大統領による「我々は5分後に爆撃を開始する」というジョーク・アナウンスに対する“報復”だったことが判明した。

死去

当時、在モスクワ日本大使館政務専門調査員だった秋野豊によると書記長就任直後からチェルネンコが何を話すかより、一分間に何回、呼吸をしているのかによって健康状態を知ろうとしていたという。また、病院へ入院しているチェルネンコの病室をあたかも執務室に見せかけ、テレビや新聞などで報道された。このとき、背広を着たチェルネンコの体を支える随行員の手が写真などに写っていた[1]

1985年3月10日、チェルネンコは息を引き取った。医師団によると、チェルネンコは長年患っていた肺気腫の悪化による心肺機能不全による心拍動の停止が死因と発表された。

就任から1年余りの死であり国民には不人気な書記長であったが、一家の家長としてはかけがえのない人物であった。妻のアンナは葬儀の際、溢れ出る涙を流しながら亡夫にキスをし続けたという。

関連項目

先代:
ユーリ・アンドロポフ
ソビエト連邦の旗最高指導者
1984年 - 1985年
次代:
ミハイル・ゴルバチョフ
先代:
ユーリ・アンドロポフ
ソビエト連邦の旗最高会議幹部会議長
1984年 - 1985年
次代:
アンドレイ・グロムイコ
先代:
ユーリ・アンドロポフ
ソビエト連邦共産党書記長
1984年 - 1985年
次代:
ミハイル・ゴルバチョフ