サントメ・プリンシペ

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サントメ・プリンシペ民主共和国
República Democrática de São Tomé e Príncipe
国の標語:Unidade, Disciplina, Trabalho
(ポルトガル語: 統一、規律、労働)
公用語 ポルトガル語
首都 サントメ
最大の都市 サントメ

面積

総計 964km2171位
水面積率 極僅か

人口

総計(2008年 163,000人(190位
人口密度 181人/km2
GDP(自国通貨表示)

合計(2008年 25,675億[1]ドブラ
GDP (MER)

合計(2008年 2億[1]ドル(179位
GDP (PPP)

合計(2008年3億[1]ドル(180位
1人あたり 1,748[1]ドル
独立
 - 宣言
 - 承認
ポルトガルより
1975年7月12日
通貨 ドブラ (STD)
時間帯 UTC +1[2]DST:なし)
ISO 3166-1 ST / STP
ccTLD .st
国際電話番号 239

サントメ・プリンシペ民主共和国(サントメ・プリンシペみんしゅきょうわこく:英語名 Democratic Republic of Sao Tome and Principe)、通称サントメ・プリンシペは、西アフリカギニア湾に浮かぶ火山島であるサントメ島プリンシペ島、そしてその周辺の島々から成る共和制島国である。首都のサントメはサントメ島にある。ポルトガル語諸国共同体ポルトガル語公用語アフリカ諸国加盟国のひとつ。

国名

正式名称は、República Democrática de São Tomé e Príncipeポルトガル語: /rɨˈpublikɐ dɨmuˈkɾatikɐ dɨ sɐ̃w̃ tuˈmɛ i ˈpɾĩsipɨ/ ブリカ・ドゥムクラティカ・ドゥ・サォント・イ・プリンシプ)。通称、São Tomé e Príncipe

公式の英語表記は、Democratic Republic of Sao Tome and Principe。通称、Sao Tome and Principe

日本語の表記は、サントメ・プリンシペ民主共和国。通称はサントメ・プリンシペ

歴史

無人島であったが1470年にポルトガル人が上陸、ポルトガルからおもにユダヤ系住民の流刑地として使われる一方、奴隷貿易の中継基地となった。1522年ポルトガルの植民地になった。はじめサトウキビのちにカカオ栽培が盛んに行われ、サトウキビ栽培のため多く奴隷コンゴ王国などのアフリカ本土から連れてこられた。奴隷制度廃止後も、白人農園主の農園労働者に対する実質的な待遇は変わらず、広範な不満があった。

1960年に、現サントメ・プリンシペ解放運動社会民主党 (MLSTP・PSD) の前身であるサントメ・プリンシペ解放委員会が設立され、独立運動が本格化した。ポルトガルが植民地からの撤退を決めると、1974年に暫定政府が設立され、1975年7月12日に正式独立。MLSTP・PSDのマヌエル・ピント・ダ・コスタが初代大統領に就任。MLSTP・PSDの一党制の下で、アンゴラキューバなど旧社会主義陣営と密接な関係を持っていたが、経済立て直しのため1980年代から親西欧・親米政策に転換。

1990年8月、国民投票で複数政党制移行を決め、1991年1月の総選挙で野党が過半数を獲得、その支持を受けたミゲル・トロボアダ首相が3月の大統領選で当選し、一党独裁制が終結。1994年10月の総選挙ではMLSTP・PSDが第一党に返り咲き、1998年11月の総選挙では過半数を獲得。野党代表のトロボアダ大統領とMLSTP・PSDを与党とする内閣が対立・共存の状況となった。2001年7月、大統領選でトロボアダ派の実業家で独立民主行動(ADI) 党員であるフラディケ・デ・メネゼスが当選。

2003年7月16日、軍事クーデターフェルナンド・ペレイラが政府を打倒。マリア・ダス・ネヴェス首相など数閣僚を拘留。これは政府による多くの石油会社との商取引に反応したもので、1週間後にはペレイラ政権は旧政権の首脳らとの交渉を持ち、ペレイラは退陣。メネゼス大統領、ネヴェス首相ら政府首脳は復権した。現在の大統領は、2016年に就任したエバリスト・カルバリョである。

政治

サントメ・プリンシペは共和制半大統領制をとる立憲国家である。現行憲法1990年9月10日に公布されたもの。

国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出される。任期は5年。3選は禁止。首相は国民議会が選出し、大統領が任命する。内閣に相当する閣僚評議会のメンバーは首相の指名に基づき、大統領が任命する。


立法府一院制で、正式名称は国民議会。定数は55議席で、議員は比例代表制に基づき国民の直接選挙により選出される。議員の任期は4年である。

1990年に現行憲法が施行されて以来、サントメ・プリンシペでは複数政党制が認められている。主要政党には変革民主運動勢力・自由党(MDFM/PL)のほか、1975年の独立から複数政党制が承認された翌年の1991年まで一党制のもと国を支配した左派のサントメ・プリンシペ解放運動・社会民主党(MLSTP/PSD)、中道の独立民主行動(ADI)がある。直近の2010年の総選挙ではADIが26議席で第一党になった。

司法府の最高機関は最高裁判所である。

国際関係

サントメ・プリンシペはルゾフォニア(ポルトガル語世界)の一国であり、ポルトガル語諸国共同体ポルトガル語公用語アフリカ諸国に加盟している。旧宗主国のポルトガル以外との関係では、植民地時代の奴隷貿易や独立後の友好関係を通じてとりわけ歴史的にアンゴラとの関係が深かった。

サントメ・プリンシペは1975年の独立当初は中華人民共和国を承認していたが、1997年5月から中華民国台湾)を承認していた。2016年12月20日に中華民国との外交関係を断ち[3]、同月26日に中華人民共和国と国交を回復。

軍事

  • 実戦部門 : 陸軍、海軍、治安警察
  • 軍事費(2001年)は、40万ドル。GDP比は、0.8%。
  • 総兵力(1995年)約600人。

地方行政区分

ファイル:SaoTome Districts.png
サントメ・プリンシペの県

2つの州に分かれている。

2州は、更に7つの県に分けられる。

  1. アグア・グランデ県
  2. カンタガロ県
  3. カウエ県
  4. レンバ県
  5. ロバタ県
  6. メ=ゾシ県
  7. パグエ県

主要都市

主要な都市はサントメ(首都)がある。

地理

ギニア湾上のサントメ島プリンシペ島の二島と、その周囲の島嶼からなる。ガボン沖250 - 300km にある。いずれも火山島で、最高峰はサントメ島のサントメ山(2,024m)。アフリカ大陸カメルーン山から赤道ギニアビオコ島アンノボン島に至るカメルーン火山列に属する。

サントメ島は長さ50km、幅32kmで、ほぼ赤道直下にあり(北緯0度23分)、年間を通して気温・湿度共に高い。年間平均気温は27度で、32度を超えることは少ない。内陸高地では年間平均20度で、夜間は涼しい。雨季は10月から5月。年間降水量は南西部で5,000mmもあるが、北部は1,000mmと少ない。

プリンシペ島は長さ30km、幅6kmで、サントメ島よりも乾燥している。

経済

カカオ生産およびその輸出に依存する農業国。経済基盤は非常に脆弱で、世界最貧国の1つ。旱魃や資本不足で生産量は落ち込み、経済不振が長期化。食糧や生活物資の大半を輸入に頼る。重債務貧困国でもあり、2000年の対外債務残高は国民総生産 (GNP) の460%にも達し、国家経済は事実上の破産状態。観光産業も整っていない。

1970年代には切手の発行を外貨獲得の手段としており、アラブ首長国連邦の一部土侯国などと同様に自国とは関係のない記念切手を乱発し、切手商を通じ収集家に販売していた。世界的に権威のあるアメリカのスコットカタログで「一部は政府が発行したものではない可能性がある」と注意書きのある切手もあり[4]、国外のエージェントと組んで乱発していたことが伺える。2010年代に入っても切手の発行件数は多く、2014年は小型シート約200種(単片ベースで約500種)を発行している[5]。また、違法切手(illegal stamps)と呼ばれる、実際にはサントメ・プリンシペが発行していないにもかかわらず同国国名を冠した偽物の切手が市場に出回っている[6]

2000年4月、国際通貨基金 (IMF) は貧困削減などのための政府による3ヶ年計画に890万ドルの融資を決定。5月には主要債権国会議(パリクラブ)が2003年までの間、同国への再建の金利を95%(約2,600万ドル)削減することに合意。2000年度は世界銀行分の100%、IMF分の80%の債務免除措置を受けた。

鉱業

ファイル:Sao Tome and Principe Export Treemap.png
色と面積で示したサントメ・プリンシペの輸出品目

世界屈指の原油埋蔵量を誇るギニア湾に位置することから、油田開発が有望視されてきたが、隣国のナイジェリアにも鉱区の範囲が及ぶため権利関係のもつれを解消できず開発が遅滞していた。

2003年、ナイジェリアとの共同開発案がまとまり、鉱区の国際入札が行われ、シェブロン・テキサコ社が、翌2004年の入札では中国石油化工らが落札している。既に海底油田の開発は着手され、2010年を目途に生産が開始される見込みである。

農業

気候条件からポルトガル植民地としてカカオ栽培に特化してきた。生産量からはカカオ豆(3500トン、2005年)を超える農産物もココナッツ(2.9万トン)、タロイモ(2.8万トン)、バナナ(2.7万トン)、キャッサバ(6000トン)などがある。しかしながら、カカオ以外は自給用作物であり、輸出額の93.9%(2003年)をカカオ豆が占め、他の農産物は輸出額の1%未満である。

生産年齢人口に占める農業従事者の割合は5割を超えるが、主食となる作物の生産量は国内消費をまかないきれず、輸入品目の第1位は食料品であり、38.6%に達する。

国民

ファイル:Crianças de São Tomé e Príncipe.jpg
サントメ・プリンシペの子供たち

民族

全人口の約9割が、サントメ島に住む。ポルトガルから独立した1975年前後に、ポルトガル系住民の多くがこの国から退去する一方で、内戦が勃発したアンゴラからの難民が多数移住してきた。

バントゥー系黒人メスチーソポルトガル白人混血ムラート)、ポルトガル人、アンゴラ人などが存在する。

言語

公用語ポルトガル語であるが、標準的なポルトガル語を母語とする人は都市部に僅かにいるのみで、多くの国民は、ポルトガル語をベースとしたクレオール語を話す。このクレオール語にも地域差がかなりあり、サントメ島(南端部を除く)のサントメ語、アンゴラ難民が多く居住するサントメ島南端部のアンゴラ語、プリンシペ島のプリンシペ語に分類されている。

宗教

2001年のセンサスによれば、キリスト教カトリックが70.3%、福音派が3.4%、ニュー・アポストリック教会が2%、アドヴェンティストが1.8%、その他が3.1%、無宗教が19.4%を占める[7]

教育

2001年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は84.9%(男性:92.2%、女性:77.9%)である[7]

文化

祝祭日

祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日 Ano novo
1月4日 アマドール王の記念日 Rei Amador
2月3日 解放殉死者の日 Martires da Liberdade
変動祝日 謝肉祭 Carnaval
変動祝日 復活祭 Pascoa
4月22日 サントメ市の日 Cidade de São Tomé サントメ市のみ
5月1日 メーデー Internacional do Trabalhador
7月12日 独立記念日 Dia nacional
9月6日 軍隊記念日 Forças armadas
9月30日 国有化の日 Nacionalizações
11月2日または3日 死者の日 Finados 2日が日曜日の年は3日
12月21日 同意の日 Acordo de Argel
12月25日 クリスマス Natal ou également Dia da familia

著名な出身者

関連項目

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 IMF Data and Statistics 2009年7月19日閲覧([1]
  2. São Tomé and Príncipe Changes Its Time Zonetimeanddate.com、2018年1月13日閲覧。
  3. Blanchard, Ben (2016年12月21日). “China welcomes Sao Tome decision to ditch Taiwan ties”. Reuters. http://www.reuters.com/article/us-china-taiwan-saotome-idUSKBN1492SO . 2016閲覧. 
  4. (2008) Scott 2009 Standard Postage Stamp Catalogue Vol.5. Amos Advantage. ISBN 978-0894874215. 
  5. STAMPS ISSUES”. サントメ・プリンシペ郵政. . 2015閲覧.
  6. ILLEGAL STAMPS”. サントメ・プリンシペ郵政. . 2015閲覧.
  7. 7.0 7.1 CIA World Factbook "Sao Tome and Principe" 2010年2月1日閲覧。

参考文献

外部リンク

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