サン=フェリペ号事件

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サン=フェリペ号事件(サン=フェリペごうじけん)は、文禄5年(1596年)に起こった日本土佐国でのスペインガレオン船、サン=フェリペ号が漂着、その乗組員の発言が大問題となった事件[1]豊臣秀吉の唯一のキリスト教徒への直接的迫害である日本二十六聖人殉教のきっかけとなったとされる。

資料

本事件について記した日本側資料は多いが、一次資料としては『長宗我部元親記』(1632年)、『土佐物語』、『甫庵太閤記』、『天正事録』などがあげられる。

スペイン側の資料については、サン=フェリペ号船長マティアス・デ・ランデーチョの当初の航海日誌は日本で没収されたため現存しないが、後にランデーチョが『サン=フェリペ号遭難報告書』を記し、現在、セビリアインディアス古文書館に残されている。ほか、フィリピン総督府記録はじめ、宣教師による記録など、多数存在する。

経緯

背景

天正15年(1587年)に豊臣秀吉が発したバテレン追放令はキリスト教の布教の禁止のみであり、南蛮貿易の実利を重視した秀吉の政策上からもあくまで限定的なものであった。これにより“黙認”という形ではあったが宣教師たちは日本で活動を続けることができた。また、この時に禁止されたのは布教活動であり、キリスト教の信仰は禁止されなかったため、各地のキリシタンも公に迫害されたり、その信仰を制限されたりすることはなかった。サン=フェリペ号事件はそのような状況下で起こった。

土佐へ漂着まで

1596年7月、フィリピンマニラを出航したスペインのガレオン船サン=フェリペ号がメキシコを目指して太平洋横断の途についた。同船の船長マティアス・デ・ランデーチョであり、船員以外に当時の航海の通例として七名の司祭フランシスコ会フェリペ・デ・ヘスースファン・ポーブレ、四名のアウグスティノ会員、一名のドミニコ会員)が乗り組んでいた。サン=フェリペ号は東シナ海で複数の台風に襲われて甚大な被害を受け、船員たちはメインマストを切り倒し、400個の積荷を海に放棄することでなんとか難局を乗り越えようとした。しかし、船はあまりに損傷がひどく、船員たちも満身創痍であったため、日本に流れ着くことだけが唯一の希望であった。

文禄5年8月28日(同年10月19日)、船は四国土佐沖に漂着し、知らせを聞いた長宗我部元親の指示で船は浦戸湾内へ強引に曳航され、湾内の砂州に座礁してしまった。大量の船荷が流出し[1]、船員たちは長浜(現高知市長浜)の町に留め置かれることになった。

秀吉側の対応

一同で協議の上、船の修繕許可と身柄の保全を求める使者に贈り物を持たせて秀吉の元に差し向け、船長のランデーチョは長浜に待機した。しかし使者は秀吉に会うことを許されず、代わりに奉行の1人増田長盛が浦戸に派遣されることになった。それに先立って使者の1人ファン・ポーブレが一同のもとに戻り、積荷が没収されること、自分たちは勾留され果ては処刑される可能性があることを伝えた。先に秀吉はスペイン人の総督に「日本では遭難者を救助する」と通告していた[1]ため、まるで反対の対応に船員一同は驚愕した。

増田らは、白人船員と同伴の黒人奴隷との区別なく名簿を作成し、積荷の一覧を作りすべてに太閤の印を押し、船員たちを町内に留め置かせ、所持品をすべて提出するよう命じた。さらに増田らは「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる3名のポルトガル人ほか数名に聞いた」という秀吉の書状を告げた[2]。このとき、水先案内人(航海長)であったデ・オランディアは憤って長盛に世界地図を示し、スペインは広大な領土をもつ国であり、日本がどれだけ小さい国であるかを語った。そして増田らの一行は積荷と船員の所持品をすべて没収し、航海日誌などの書類をすべて取り上げて破棄した。

カトリック宣教師による征服計画の真偽

荷物の没収に抵抗した船員たちに対し、増田が世界地図に示された欧州、南北アメリカ、フィリピンに跨るスペインの領土について「何故スペインがかくも広大な領土を持つにいたったか」と問うたところ、サン・フェリペ号の水先案内人が「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」という意味のことを告げた[1]とされているが、この逸話は徳富蘇峰が大正〜戦前の昭和年間に記した近世日本国民史が初出である。 現在に至るまで実際にそのようなやりとりがあったという当時の史料は日本側の記録には見当たらない。

処遇と影響

長盛は都に戻り、このことが秀吉に報告された。直後の同年12月8日に天正に続く禁教令が再び出され、京都や大坂にいたフランシスコ会ペトロ・バウチスタなど宣教師3人と修道士3人、および日本人信徒20人が捕らえられ、彼らは長崎に送られて慶長元年12月19日(1597年2月5日)処刑された(日本二十六聖人)。

ランデーチョは、修繕のための船普請を早期に開始するよう秀吉に直接会って抗議しようと決めた。長宗我部元親は12月にランデーチョらが都に上ることを許可した。しかし交渉の仲介を頼もうとしたフランシスコ会は捕縛された後であったため、船員たち自身で抗議を重ね、秀吉の許可によりサン=フェリペ号の修繕は開始された。一同は1597年4月に浦戸を出航し、5月にマニラに到着した。マニラではスペイン政府によって本事件の詳細な調査が行われ、船長のランデーチョらは証人として喚問された。その後、1597年9月にスペイン使節としてマニラからドン・ルイス・ナバレテらが秀吉の元へ送られ、サン=フェリペ号の積荷の返還と二十六聖人殉教での宣教師らの遺体の引渡しを求めたが、引き渡しは行われなかった[3]

この事件には、秀吉の対明(みん)外交、イエズス会とフランシスコ会の対立などいくつかの問題が関係しており、その真相を決定的に解明するのは難しい[1]

当時の海事法との関連

当時、日本にいた宣教師ルイス・フロイスもこの事件の顛末を述べているが、そこでは「漂着した船舶は、その土地の領主の所有に帰するという古来の習慣が日本にあったため」積荷が没収されたと述べている[4]。歴史書ではしばしば「漂着した船の積荷には、その土地へ所有権が移るのがこの時代の海事法(廻船式目)であったため」というような記述が見られる。廻船式目とは鎌倉時代に当時の海上の慣習を文章化した上で鎌倉幕府の裁可を得たものだが、その地の豪族・大名により内容の統一が保たれていなかった。豊臣秀吉は海法規定を整理・統一しようという考えから廻路式目の中から取捨選択、補足・削除をした「海路諸法度」(1592年)を制定したものと考えられるが[5]、廻路式目から大きな変更は見られず、領土領海への侵犯や国家間の衝突時の拿捕に関する記載はない。

二十六聖人殉教との関係

サン=フェリペ号事件に関してしばしば長盛との問答でのスペイン人船員(デ・オランディアとも)の「積荷を没収された腹いせ」による発言が秀吉を激怒させたと説明されるが、これは1598年に長崎でイエズス会員たちが行った「サン=フェリペ号事件」の顛末および「二十六聖人殉教」の原因調査のための査問会での証人の言葉として出たとされるもので、日本側の記録には一切残されていない[6]

また、秀吉がそれまで言い伝えていた処遇から翻った処断を下したこと、この事件の直後に殉教事件が起きていること、処刑された外国人はフランシスコ会だけであったことから、秀吉は前々より都周辺での布教を自粛していたイエズス会に代わり、遅れて国内で布教し始めていたスペイン系の会派(他にアウグスティノ会など)の活動や宗派対立を嫌悪していたことが考えられる。

さらに、秀吉自身が秀次事件の後の政権内綱紀粛正や冊封使の対応(後の慶長の役に繋がる)に忙殺され、スペイン支配下の呂宋国(フィリピン)へは明確なビジョンがなかったことなど、複数の原因もあると考えられる。

しかしこの事件は、それまでひとくくりにされていた南蛮がスペイン系キリスト宗派やスペイン人ポルトガル人とで異なるという意識を芽生えさせ、後の徳川期の鎖国のプロセスにおいて先にスペイン船が渡航禁止(1624年、ポルトガル船渡航禁止は1639年)とされる事態も生じている。

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 日本大百科全書『サン・フェリペ号事件』文責松田毅一
  2. 松田毅一『秀吉の南蛮外交』新人物往来社、昭和47年、227-8頁
  3. 松田毅一、『秀吉の南蛮外交』、280-283頁。
  4. ルイス・フロイス書簡 長崎発 1597年3月15日、出典:松田毅一、『秀吉の南蛮外交』、256頁。
  5. 住田正一:日本海法史201項
  6. 松田毅一、『秀吉の南蛮外交』、278頁。

関連項目