ザ・タイガース

提供: miniwiki
2018/8/25/ (土) 22:03時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版 (1版 をインポートしました)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先:案内検索
ザ・タイガース
出身地 日本の旗 日本
ジャンル ロック
ポップス
歌謡曲
職業 グループ・サウンズ
活動期間 1967年 - 1971年
1981年11月 - 1983年
2013年
レーベル 日本グラモフォン(1967年-1971年)
ポリドール・レコード(1981年)
ポリドールジュリーレーベル(1982年-1983年)
UNIVERSAL MUSIC JAPANジュリーレーベル(2013年)
事務所 渡辺プロダクション(1967年-1971年・1981-1983年)
ココロ・コーポレーション(2013年)
共同作業者 すぎやまこういち
渡辺晋
渡辺美佐
中井國二マネージャー
ローリング・ストーンズ
キンクス
ベンチャーズ
ビージーズ
CCR
グランド・ファンク・レイルロード

ザ・タイガース(The Tigers)は、日本グループ・サウンズ

1967年2月に「僕のマリー」でデビュー。その後、「モナリザの微笑」、「君だけに愛を」など、多くのヒット曲を放つ。1971年日本武道館コンサートを最後に解散。その後1981年11月に「同窓会」と銘打って再結成した( - 1983年)。さらに30年を経た2013年12月にオリジナル・メンバーでの「ザ・タイガース」復活コンサートが複数回開催された(後述)。

メンバー

1969年3月に脱退した加橋かつみに代わって参加。岸部修三の実弟。

1981年 - 1983年の同窓会時のメンバーは沢田、岸部兄弟、加橋、森本の5人で瞳みのるは不参加。

来歴

1966年に前身の「ファニーズ」が京都で発足

ザ・タイガースの原型は、瞳みのる、岸部修三(岸部一徳)、森本太郎加橋かつみの(沢田を除く)4人で1965年6月に京都市で結成された「サリーとプレイボーイズ」である[1]。瞳、岸部、森本は京都市立北野中学校の同級生(瞳と森本は小学校も同窓)で、加橋は京都府立山城高等学校夜間部で瞳の2学年下だった。

彼らは1964年ごろから集って京都の四条河原町界隈で遊ぶようになった[2]。1965年1月に大阪で開かれたベンチャーズのコンサートに4人で出かけたことがきっかけでバンド結成へと至った[1]。当初はベンチャーズなどのエレキインストナンバーを主なレパートリーにしていた。

しかし、ビートルズなどのリバプールサウンドの影響もあり、森本らは専属ボーカルの必要を感じるようになった[1]。4人は、四条河原町のダンスホール「田園」に出演していた「サンダース」でボーヤ兼ボーカルだった沢田研二を勧誘する。

1966年元日、沢田は正式に「サリーとプレイボーイズ」のメンバーとなり[3]、あわせてバンド名を(バンド「リンド&リンダース」の命名で)「ファニーズ」に改称し[3]、歌主体のいわゆるボーカル・インストゥルメンタル・グループとなった。リーダーは、瞳に固定された[4]

ファニーズは、さっそく大阪・難波にあったジャズ喫茶「ナンバ一番」の専属オーディションを受け、2月から週2日のステージを行う契約を結ぶ[5]。5人は、本格的な音楽活動のため大阪市西成区岸里のアパートで合宿生活に入る[6]

その後、人気が出て出演回数も増加、5月に京都会館で開かれた「全関西エレキバンド・コンテスト」にローリング・ストーンズの「サティスファクション」で参加し、優勝した[7]。この賞金でバンドは揃いのユニフォームを新調する[8]。さらに、6月には「ナンバ一番」の人気投票で1位となる[9]

こうした人気に、東京に移る勧誘も複数持ちかけられた。

東邦企画の上条英男によるもの(他のバンドに、岸部・森本・沢田の3人を加入させる話。沢田が即座に拒絶)、ザ・スパイダースによるもの(マネージャーが「ナンバ一番」に来店した際に「リーダーの田辺も話したいと言っている」と名刺を沢田に渡した)があったが、いずれも実現には至らなかった[10]。ザ・スパイダースについてはファニーズ全員がファンクラブ会員でもあり、当初喜んだもののその後音沙汰がなかったため、森本と沢田が上京して直接田辺に面会したが、田辺の反応は冷淡で発展することなく終わった[10]

6月には、ブルージーンズ内田裕也が「ナンバ一番」のステージを観覧し、ファニーズに「東京に来る気があるか」と声をかけた[11]が、その後3ヶ月ほど話は進展しなかった(この間、森本を除くメンバーはビートルズ日本公演の初日を観覧している)。そこで、リーダーの瞳が単身で上京して内田に面会し、メンバーを東京に呼ぶ約束を取り付ける[12]。9月には、内田らブルージーンズが所属していた渡辺プロダクション(通称、渡辺プロ、現在のワタナベエンターテインメント)のオーディションを受けることになった。10月に「ナンバ一番」で開催されたオーディションを経て、ファニーズはナベプロと正式に契約を結ぶ[12]。その後、「ナンバ一番」でさよなら公演、ファンクラブによる「お別れ会」をもって、関西での活動を終えることになる[13]

上京、「ザ・タイガース」としてテレビ出演

1966年11月9日、東海道新幹線で上京[14]。3日後、ポリドール・レコード(当時は日本グラモフォン、現在はユニバーサルミュージックに併合)のオーディションに合格[15]し、レコード会社が決まる。メンバーは世田谷区烏山町に用意された住宅に入居し、渡辺プロマネージャーの中井國二を加えた6人で合宿生活を始めた[16]

11月15日、初出演のテレビ番組『ザ・ヒットパレード』(フジテレビ系)収録当日、渡辺プロの制作部長から依頼を受けた番組ディレクターのすぎやまこういちにより、ザ・タイガースというバンド名が与えられた[15]。沢田は「大阪から来たわけ?じゃ、タイガースだ」(プロ野球の阪神タイガースにちなむ)とすぎやまから言われたと後年述べている[15]。当時アメリカ、カナダ、イギリス、日本などで人気だったアイドルグループ、モンキーズの存在を意識して動物名となったとする説もある[17]。すぎやま自身は1987年に、「関西ってこともあったけど、なによりも初めて見たとき“若虎”って印象があったのね、彼らの動きとかにね」と証言している[15]。また、渡辺プロからの指示により、バンドのリーダーも瞳から岸部に変更された[15]

初のテレビ出演では、当時アメリカ本国において、モンキーズに次ぐアイドル人気となっていたパンク・ロックバンドであるポールリビアとレイダースEnglish版の「KICKSEnglish版」を演奏[15]。出演時間はわずか30秒で、渡辺プロではなく内田裕也からすぎやまに売り込んでのものだったという[15]。内田は、上京後すぐにメンバーを麻布のイタリア料理店「キャンティ」に連れて行った[18]。「キャンティ」は当時、文化・芸能人の集まるサロンのような場所で、メンバーはその後もしきりに出入りし、公私ともに影響を受けていくことになる[19]

1967年シングルデビュー、人気爆発

1967年2月5日発売のシングル僕のマリー」(録音時点でのタイトルは「マリーの想い出」)でデビューする。前年12月の録音の際、曲を渡されたメンバーはそれまでの演奏曲との違和や失望を感じたという[20]。渡辺プロ側がタイガースのプロモーションに際してイメージしたのはモンキーズであった[20]が、セールスは伸び悩む。

一方、ジャズ喫茶では、内田と組んだ「内田裕也とタイガース」として前年12月から新宿ACBに出演し、ファニーズ時代と同じテイストの楽曲を演奏した[21]。1967年1月15日の第31回日劇ウェスタンカーニバルで、内田と尾藤イサオのバックを引き受ける条件で、内田の用意した衣装を着て1曲だけ演奏する[22]。これを契機にジャズ喫茶でのファンが増加していく。

内田の命で新宿ACB出演の際に、メンバーのニックネームと芸名が決められた[23]。岸部は(リトル・リチャードのシングル「のっぽのサリー」に由来する「サリー」)、瞳は(キューピーに由来する「ピー」)、森本は(本名に由来する「タロー」)とされた。3人とも従来からメンバー間で使われていた愛称だった(岸部と瞳は京都時代に自然につけられた)。一方、沢田は、女優ジュリー・アンドリュースに由来する「ジュリー」と自ら名付け、加橋は、トッポ・ジージョに似ていることから新宿ACB支配人の命名で「トッポ」と名付けられた[23]。また、芸名については、岸部は読みを変え(「しゅうぞう」から「おさみ」)、瞳と森本は表記を変えた。沢田は内田による芸名「沢の井謙」を拒否し本名の澤田を沢田と表記し、加橋は本名「高橋(たかはし)」の一文字を抜く形となった[23]

3月頃から人気が爆発[24]、5月発売のセカンド・シングル「シーサイド・バウンド」は40万枚を超えるヒットとなった[25]。「シャボン玉ホリデー」などのテレビ出演でそれが加速し、従来よりも低年齢(中高生)にファン層が広がった[22]

テレビは渡辺プロ、ジャズ喫茶は内田とマネジメントが分かれていた[26]が、ジャズ喫茶においても「ザ・タイガース」として扱われ、内田はプロデュースに近い立場となった[27]。後に、内田は渡辺プロと対立、第32回の日劇ウェスタンカーニバル前日の5月4日に内田は「キャンティ」経営者の川添夫妻の援助で渡仏した[28]。結果として、渡辺プロは自らの路線に合わない内田をザ・タイガースから切り離した形となった。

1967年後半には活動の中心はジャズ喫茶からコンサートに変わり、テレビなどの芸能活動も増加していった[29]。烏山の合宿所には女性の追っかけが数多く訪れ、メンバーの日常生活にも支障を来すほどになっていた[30]

1968年には、1月発売の4枚目シングル「君だけに愛を」のヒットに続き、3月発売の5枚目シングル「銀河のロマンス/花の首飾り」(「花の首飾り」は加橋の初のメインボーカル曲)がオリコンシングル・チャートの1位を7週間連続で獲得、公称130万枚[31]・オリコン調べで67.6万枚[31]を売り上げた。3月10日に「花の首飾り」の新曲発表会を日本武道館で開催する。武道館コンサートをする初の日本人音楽バンドとなる。ザ・タイガース初の主演映画『ザ・タイガース 世界はボクらを待っている』は4月に公開された。

7月発売の6枚目シングル「シー・シー・シー」も6週1位となり、オリコン調べで50.8万枚[32]を売り上げた。8月12日に日本初のスタジアム・ライブとなる「ザ・タイガース・ショー〜真夏の夜の祭典」を後楽園球場で開催。11月25日には、トータル・コンセプト・アルバムヒューマン・ルネッサンス』を発売している。

こうして、ザ・タイガースは、渡辺プロによるアイドル的な売り出しによって多様な人気を集め、グループサウンズの頂点を極めることになる。

1969年加橋脱退、1971年解散へ

だが、アイドル性を前面にしたプロモーションは、ビートルズやロックを原点とした音楽志向を持っていたメンバーの不満を募らせる。

特に、繊細で芸術家肌だった加橋は渡辺プロに反発。仕事に没頭する沢田との意見の相違が顕著になる。1968年春には加橋の脱退話が浮上していた。加橋の意向を反映してコンセプトアルバム『ヒューマン・ルネッサンス』が制作され、またヒッピーテイストのコスチュームで路線変更を模索するが、1969年になると加橋脱退は避けられなくなっていた。

加橋は、1969年3月5日、渋谷でのレッスン中にスタジオを離れた後、グループに戻らなかった。代わりに、岸部の弟で、以前からグループをサポートしていた岸部シローが加入し、タイガースの第二期がスタートする[33]

マスコミは当初、加橋を「失踪」と報道するが、すぐに渡辺プロ主導の芝居だとばれてしまい、渡辺プロは謝罪会見を開く。加橋が抜けてザ・タイガースの人気が下降するのを恐れての芝居だったが、今度は、加橋の一番の理解者でもあった瞳が、渡辺プロに不信感を抱くようになる。

さらに、1969年夏には、グループ・サウンズのブームが急速に沈滞化し、終焉の兆しを見せ始める。音楽シーンが多様化する中で、同年秋からはグループとしての活動よりもメンバー個々の活動が中心となった。瞳が脱退の意向を示したことも背景にある。1970年になると、4月26日に日本万国博覧会のEXPOホール・水上ステージにて「ザ・タイガース・ショー」で参加したのが目立つくらいだ。

メディアによる解散報道が相次ぐ中、ザ・タイガースは1970年12月7日に解散を表明する。翌1971年1月24日の日本武道館における「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」が事実上の解散コンサートとなる。この模様は、ニッポン放送で3時間にわたり生中継され、テレビでは、録画されたものが1月30日にフジテレビで放映された。また、大幅に編集された実況録音盤(ライブアルバム)『ザ・タイガース・フィナーレ』として同年に発売された。なお、この日楽屋ではひと揉めあったという。会場の客席に加橋がいることを知って、メンバーの中から「今日が最後なんだから、彼にもステージに上がってもらって歌ってもらったらどうだ」といった意見が出ると、瞳はこれに絶対反対の立場をとり「勝手に辞めた奴を呼ぶなら俺は降りる」と発言、結局加橋がステージに上がることは無かった[34]

コンサートの夜、内田主催で食事会が行われ、5人のメンバー、そして会場の客席にいた加橋も参加する。宴の終わった後、瞳はトラックに家財道具を積み込み実家のある京都へ戻る。

解散コンサート以降、森本、岸部兄弟、沢田は、解散前から準備されていた路線で音楽活動を継続するが、瞳は芸能界を引退して高校に復学した後、他のメンバーとの交流を2008年まで完全に絶つことになる。

1982年と2013年のザ・タイガース再結成

1982年再結成

1971年の解散から10年経った1981年1月東京有楽町日劇が取り壊されるのを前に、内田裕也を中心に「さよなら日劇ウエスタン・カーニバル」が開催され、ザ・スパイダース、ジャッキー吉川とブルーコメッツザ・カーナビーツなど往年のグループ・サウンズが再結成して集結することになった。ザ・タイガースも、岸部一徳、森本、加橋、沢田の4名で再結成して参加する。

翌1982年には、岸部一徳、森本、加橋、沢田、シローの5名で「ザ・タイガース同窓会」と銘打って本格的に再結成する。アルバム『THE TIGERS 1982』をリリースし、シングル「色つきの女でいてくれよ」などがヒットする。日本武道館を含む全国主要都市でのツアーも展開された。コンサートのビデオ、写真集なども発売され、CM出演とシングル発売は1983年まで続いた。

1989年12月31日には、『第40回NHK紅白歌合戦』に出場する(初出場)。紅白40回記念大会の昭和を振り返るコーナーに紅組のピンク・レディーとともに出演し、「花の首飾り」、「君だけに愛を」をメドレーで演奏する。

2013年再結成

2003年、森本率いる「森本太郎とスーパー・スター」は、オリジナル曲「Long Good-by」を発表する。沢田と一徳が作詞を手がけ、解散から30年以上、ザ・タイガースの元メンバーと一切の交流を絶ったままの瞳との再会を期する曲だった。沢田も、この曲を2008年9月24日の『SONGS』(NHK総合テレビジョン)に出演した際に歌唱する。瞳は人づてで曲の存在を知る。元マネージャーの中井國二の呼びかけ、そして瞳自身の心境の変化もあって、2008年の暮れ、沢田、一徳、森本と38年振りに東京で再会を果たす。翌年には加橋とも再会した。

2011年には、ザ・タイガース復活とツアーの予定が関係者やメンバー自身から発信されるが、加橋が最終的に参加を見送ったため、沢田研二の「2011年 - 2012年ライブツアー(全公演38回、9月8日スタート)」に、岸部一徳、森本太郎、瞳みのるがゲスト参加する形となった[35]。瞳の40年ぶりの参加が大きなインパクトとなり、切符の発売当日に、大都市開催分は即日完売となった。2012年1月24日の沢田研二ライブツアー最終日(日本武道館)には、脳梗塞で2003年に倒れてから療養中の岸部四郎がゲストとして登場。第二期ザ・タイガースが1971年1月24日の解散ライブ以来勢揃いした[36]

ザ・タイガース再結成が正式に発表されたのは、2013年1月6日の「沢田研二正月ライブ」で、沢田が『オリジナル・メンバーでのザ・タイガース復活』と発言した。12月に東京ドームなどでライブを開催する予定とされた[37]。瞳みのると加橋かつみが入ったオリジナル・メンバーでの活動は1969年以来、44年ぶりとなる。

復活ライブは、12月3日に日本武道館でスタートして[38]、全国8会場で10万人を集めた。最終日となった12月27日の東京ドーム公演にて、岸部四郎が再び病を押してゲストとして登場。結成以来初めて、6人のメンバーが公の場で一堂に会することとなった[39]

その他別名義での活動

ザ・タイガース解散後の1971年2月、沢田と一徳は、ザ・スパイダース、ザ・テンプターズのメンバーとあわせた計6人でスーパーグループPYG」を結成するが、1972年末には事実上活動停止する。

1988年に森本が中心となり、往年のGSの中心メンバーがそろって「タイガース・メモリアル・クラブバンド」を結成、アルバム制作やコンサート活動を行った。アルバムでは「花の首飾り」を瞳を除くメンバーで新録音している。また、本人たち出演のカラオケ「DAM」では、沢田と瞳を除く4人が出演している。

1989年には、大阪城ホール及び横浜アリーナで開かれた「タイガース・メモリアル・クラブ・バンド」コンサートに瞳を除く5人のタイガースでトリで出演。ジョイント演奏コーナーが大半を占める中、単独で数曲を演奏した後に、「シーサイド・バウンド」で他の出演者も加わって演奏し、フィナーレへと進んだ[40]

1993年には森本、加橋、シローに岩本恭生を加えた構成で「ザ・タイガースマニア」というユニットで活動しシングルをリリースしている。

1997年には、森本、一徳、沢田がロックユニット「TEA FOR THREE」を結成し、CDシングルを発売、ラジオ番組のパーソナリティなども務めたが現在は活動を休止している。

ディスコグラフィ

アルバム

加橋かつみ在籍期

岸部シロー在籍期

再結成期

サヨナラ日劇ウエスタン・カーニバル(ザ・タイガース、沢田研二&オールウェイズ)1981年、カセットのみで発売されたが、1996年3月21日に初CD化。

メンバー公認ベスト

シングル

加橋かつみ在籍期

岸部シロー在籍期

同窓会期

再結成2013

CM

  • 明治製菓「明治ミルクチョコレート」、「明治チョコバー」

※再結成期

映像作品

  • A-LIVE(日本武道館同窓会コンサート)(VHS:1983年1月1日)
  • THE TIGERS FOREVER DVD BOX -LIVE & MORE-(DVD5枚組:2013年11月27日)
  • THE TIGERS 2013 LIVE in TOKYO DOME(DVD:2014年4月30日)

出演映画

参考文献

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 磯前、2013年、pp.20 -21
  2. 磯前、2013年、pp.14 - 18
  3. 3.0 3.1 磯前、2013年、p.24
  4. 磯前、2013年、p.25
  5. 磯前、2013年、pp.27 - 28
  6. 磯前、2013年、pp.31 - 33。ただし、実際に契約して居住したのは加橋を除く4人で、加橋は「無断宿泊者」であった。
  7. 磯前、2013年、pp.29 - 30。コンテストの選曲は、後にメンバーとなる岸部四郎のアドバイスによるものだったという。
  8. 磯前、2013年、p29。このユニフォームは、シングル『僕のマリー』のジャケット写真で着用された。
  9. 磯前、2013年、p34
  10. 10.0 10.1 磯前、2013年、pp.35 - 36
  11. 磯前、2013年、pp.36 - 38
  12. 12.0 12.1 磯前、2013年、pp.39 - 42
  13. 磯前、2013年、pp.43 - 45
  14. 京都駅からはひかりで出発したが、名古屋駅こだまに乗り換えたとみられている。当時創価学会員であった瞳はさらに静岡駅で下車し、大石寺に立ち寄った(以上、磯前、2013年、pp.46 - 47)。
  15. 15.0 15.1 15.2 15.3 15.4 15.5 15.6 磯前、2013年、pp.59 - 61。沢田の回想は『GQ JAPAN』2000年9月号から、すぎやまの回想は北島一平・中島俊夫著『みんなGSが好きだった』(主婦の友社、1987年)からの引用。
  16. 磯前、2013年、p.48 - 49
  17. 近代映画 1967年12月号 近代映画社 130頁。
  18. 磯前、2013年、pp.51 - 52
  19. 磯前、2013年、pp.52 - 58
  20. 20.0 20.1 磯前、2013年、pp.63 - 64
  21. 磯前、2013年、pp.64 - 65、69
  22. 22.0 22.1 磯前、2013年、p.74 - 78
  23. 23.0 23.1 23.2 磯前、2013年、pp.72 - 73
  24. 磯前、2013年、p.92
  25. 磯前、2013年、p.86
  26. 磯前、2013年、pp.61、64 - 65
  27. 磯前、2013年、p.71
  28. 磯前、2013年、pp.82 - 85。内田はウェスタンカーニバル用に6人揃いの衣装も用意していたという。
  29. 磯前、2013年、p.91
  30. 磯前、2013年、p.90
  31. 31.0 31.1 磯前、2013年、p.129
  32. 磯前、2013年、p.139
  33. スポーツニッポン 2018年2月12日芸能面『我が道 「岸部一徳」』より。
  34. ニッポン放送 高田文夫のラジオビバリー昼ズ 2014年12月8日放送分。岸辺一徳がゲスト出演の際のトークコーナーより。
  35. 岸部シローも登場…「ザ・タイガース」解散の地で再集結 スポーツニッポン 2012年1月25日閲覧
  36. ザ・タイガース完全復活へ!トッポ参加 デイリースポーツ 2013年1月7日閲覧
  37. ザ・タイガース復活!沢田絶叫「ついにこの日がやってきました」 - サンスポ.com2013年12月4日
  38. 岸部四郎、車いすで歌った!史上初の「6人タイガース」 - 芸能:スポーツ報知 2013年12月28日

関連項目

外部リンク

テンプレート:ザ・タイガース テンプレート:10大グループ・サウンズ