シオニズム

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(ヘブライ語: ציונות‎, Zionism)

ユダヤ人の民族国家をパレスチナに樹立することを目指した運動。

近代シオニズムは,19世紀のヨーロッパ民族主義の高まり,反セム主義の存続と強化および現地社会への完全な同化の不可能なことへの失望から出てきた。シオニズムの父祖と呼ばれる人たちに M.ヘス,L.ピンスカーおよび T.ヘルツルなどがいる。ヘルツルは,フランスで起きたドレフュス事件と反セム主義の台頭に直面して,シオニズム運動を起したが,現地社会への同化を望むユダヤ人や,社会主義によってユダヤ人問題を解決しようとするロシアのブント派に属するユダヤ人から激しい批判を受けた。ヘルツルは 1904年に死亡するまで,オスマン帝国からパレスチナにユダヤ人国家をつくる許可を取付ける努力を重ねると同時に,他方においてパレスチナ以外でユダヤ人が国をつくる場所を捜しウガンダをその候補地として検討した。 10年以来,シオニストはパレスチナへの本格的な移民の斡旋に乗出した (「実践的」シオニズム) 。

第1次世界大戦に際しては,バルフォア宣言を発表したイギリスを支持した。 22年に国際連盟理事会でイギリスのパレスチナ委任統治が承認されると,その前文にパレスチナにユダヤ人の民族的郷土を建設することが組入れられた。しかし,民族的郷土が何を意味するかをめぐってシオニストの間で論争が起き,ユダヤ国家を建設するとする立場と,ユダヤ文化の中心地をつくればよいとする立場に分れた。 42年にはパレスチナにユダヤ人自治区をつくるという主張が有力となった (ビルトモア計画) 。

しかし,V.E.ヤボチンスキーや M.ベギンらの修正シオニストは,トランスヨルダンを含めた大パレスチナにユダヤ人国家を建設すると主張し,シオニスト主流派に抵抗した。 1930年代にシオニズム運動は自立可能な国家のための基礎を築き,その結果 48年5月 14日イスラエル共和国が樹立され,シオニズムの目標は達成された。しかし,先住民族のパレスチナ人への十分な配慮を欠いたユダヤ民族国家の成立は,パレスチナ問題という難問をもたらすことになった。