ジンギスカン (グループ)

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ジンギスカン
Dschinghis Khan
基本情報
別名 Genghis Khan (別表記)
出身地 西ドイツの旗 西ドイツミュンヘン
ジャンル ディスコポップ・ミュージック
活動期間 1979年1984年2005年
レーベル Jupiter Records
公式サイト dschinghis-khan.com

ジンギスカンDschinghis Khan)は、1979年から1980年代前半にかけて活躍した西ドイツ音楽グループ。

概要

1979年にデビューした西ドイツのミュンヘン出身の男女6人組(後に5人組となる)の音楽アーティストグループ。『ジンギスカン』や『めざせモスクワ』などが世界的に大ヒットした。

1985年に解散したが、2005年12月にスティーヴの手で再結成され、2006年から20年ぶりに活動を再開させることが報道された。1993年に他界したルイスと、スケジュールの調整がつかなかったレスリーを除く4人にゲストダンサー3人を加えたメンバーによる初のライブが12月17日モスクワオリンピックアリーナで行われた。

2006年5月7日にスティーヴが他界し、翌2007年は残るエディナ、ヘンリエッテ、ヴォルフガングの3人に、新たに7人からなる「遺産(The Legacy)」というバックダンス&コーラス集団[1]を加え活動を続けている。その後の2014年以降、ヴォルフガングがパフォーマーを引退しており、オリジナルメンバーはエディナとヘンリエッテの2人のみとなっている。

グループ名

グループ名は、モンゴル建国の英雄チンギス・ハーン」のドイツ語表記Dschinghis Khan (ジンギス・カン)に由来する。このグループ名は英語圏でもドイツ語表記のままで受け入れられている。しかし、日本版CDでは契約の関係から、英語表記に由来する『ジンギスカン(Genghis Khan)』が用いられている。

2005年の復活の後に開設された公式Webサイトは『チンギス・カンとジンギスカンの遺産 (Dschinghis Khan & The Legacy of Genghis Khan)』と名乗り、1979年以来のオリジナル・メンバーを『チンギス・カン (Dschinghis Khan)』、2007年に招集したバックダンス&コーラス集団を『ジンギスカンの遺産 (The Legacy of Genghis Khan)』と呼び、サイト内の情報を分類・整理している。

結成

1979年、西ドイツの音楽プロデューサーラルフ・ジーゲル (de:Ralph Siegel)と、経済学者であったベルント・マイヌンガー (de:Bernd Meinunger)が、当時人気を博していた西ドイツのアーティスト、ボニーMのヒット曲『怪僧ラスプーチン』 (Rasputin) をモデルとして『ジンギスカン』という楽曲を作った。それをヨーロッパポップ・ミュージック登竜門でもある「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」に応募するためにメンバーが集められ、結成したのがこのグループである。

6人のうちルイスは企画当初からメンバーとなることが決まっており、彼を除く5人はオーディションで選ばれた。1979年のユーロビジョン、ドイツ国内予選ではグランプリを獲得したものの、本選では4位に終わりグランプリはならなかった。楽曲の多くの作詞はマイヌンガーが、作曲はジーゲルがそれぞれ担当したが、後にはグループのメンバーも作曲を手掛けるようになった。

メンバー

オリジナルメンバー

ルイス・ヘンリック・ポンジェッター (Louis Hendrik Potgieter/1951年4月4日 - 1993年11月12日) no 1 白
南アフリカプレトリア出身のドイツ系ブール人。身長184cm。パトリック・ベイリー (Patrick Bailey) の別名でも知られる。ヨハネスブルグバレエグラフィックアートを修めた後、1975年に渡欧。結成前までミュンヘンのゲルトナープラッツ劇場でソロのダンサーとして活躍していた。上記のとおり、企画当初から唯一メンバーとなることが決まっており、オーディションを受けていないのはルイスだけである。番組などで名を呼ばれる場合はドイツ語読みでルイと呼ばれることが多い。基本的にはダンスのみの担当で、一部の曲のボーカルでは他メンバーの補佐的な役割であったが、1981年のスティーヴ脱退以降は本格的にボーカルも担当するようになり、低音を担当した(男性陣内では一番低音)。「めざせモスクワ」の低音パートではスティーヴのポジションで歌っている。ドイツ国内のテレビドラマにも出演していたことがYouTubeの動画などで確認されている。解散後はジンギスカン・ファミリーキーボード担当として、レスリー、ヘンリエッテらと共に短期間の活動を経た後、南アフリカに帰国。帰国後はホテルの支配人を務めていた。1993年11月12日、ポートエリザベスにてエイズによる合併症によって死去。42歳没[2]。ルイの死はスティーヴが2005年に再結成するためにメンバー探しに奔走した際に発覚した。当時80代の母親に看取られ、ガリガリに痩せ細って亡くなったという。名前のドイツ語読みはルイ・ヘンリック・ポトギター(ポットギターと読まれることもある)。ドイツ語は聞き取れるがうまく話せず、英語訛りが強い。6人兄弟の2番目。父親と名前が同じ。
エディナ(イダイナ)・ポップ (Edina Pop/1941年2月4日 - ) no 2 黄
ハンガリーブダペスト出身。本名はケーシュマールキ(ケスマルキ)・マリカ(hu:Késmárky Marika)。身長171cm。音楽学校卒業後から高級ホテルやコンサート、テレビなどを舞台に歌手活動をこなし、1969年西ドイツに進出。1970年Bei jedem Kuss (直訳:どの口づけの時にも)でデビューを果たし、1972年のユーロビジョンのドイツ予選では Meine Liebe ich will dir geben (直訳:あなたに捧げたいわたしの愛)で7位を獲得する。私生活では1971年にドイツ人俳優ギュンター・シュトル(de:Günther Stoll))と結婚しているが、1977年に死別。ジンギスカン解散後もドイツで音楽活動をしている。着ている服は、典型的な女性の格好でスカートを履くというスタイルが定番だった。再結成時は髪がショートになっている。近視で、ジンギスカン加入前は眼鏡がトレードマークだった。日本語盤アルバムのパッケージに記されているメンバーのプロフィールでは、彼女の名前が DEINA POP と誤記されている。ドイツ語を話すと北欧訛りが強い。兄弟がおり、兄弟揃って名前は親と同じ。スティーヴ・ベンダーの闘病時は常にスティーヴの体調を気にかけていた。他のメンバー曰く電話病(電話で話すのが大好き)らしい。
ヘンリエッテ・パオリーネ・シュトローベル(ハイヒェル) (Henriette Pauline Strobel-Heichel/1953年11月13日 - ) no 3 赤
オランダアムステルダム出身。身長171cm。アムステルフェーンの女学校を卒業後、西ドイツのオーバーストドルフ歯科助手(ちなみに彼女の実家は歯科医である)、マヌカン美容師フィギュアスケートの個人レッスンを受ける。結成前はマヌカンをしており、1976年にメンバーのヴォルフガンクと結婚。ジーゲルの「もう1人女性がほしい」という話にヴォルフガングが「ヘンリエッテはどうか」と提案、歌も上手かったため合格し、ジンギスカンに加入。ジンギスカン活動時はハイヒェル姓であったが、解散後1986年に離婚。その後は友人と共にスペインマヨルカ島でファッション関係の仕事をしていた。再結成後はシュトローベル姓で活動、髪型も変化している。男性風の服を着ることが多かったが、曲によっては上記のエディナ・ポップの服と似た服を着ていた(現在は男性風の服は着ていない)。趣味はダイビング。兄がいる。
スティーヴ・ベンダー (Steve Bender/1942年11月2日 - 2006年5月7日) no 4 青
旧西ドイツのマインツ出身。本名はカール=ハインツ・ベンダー(Karl-Heinz Bender)。身長178cm。生年が1946年とされているものもあるが、それは自己申告によるもので、実際の生年は1942年である。愛称はGlatze(グラッツェ、ドイツ語でハゲ頭の意)。好物はロールブラーテン。幼少期に父親が戦死している。少し年の離れた姉が2人いる、3人兄弟の末っ子。結成前に2年間の渡米経験があり、数々のロックバンドでギタリスト兼ボーカリストとして活躍。結成後もパフォーマーの他に『ディスコ・ドラゴン』『キャプテン・ネモ』などの作曲や、『ジンギスカン』『めざせモスクワ』などの英語版の作詞を担当したが、腰痛の悪化が原因でドクターストップがかかり、1981年脱退(ヘルニア持ちだったという)。脱退後はドイツの音楽プロデューサーとして活躍。ジンギスカン在籍当時はスキンヘッドにしており、一日に二度髪を剃っていた(最初にスキンヘッドにした際は自分の風貌がひどく恐ろしく見えて泣きそうになり、家に4週間引きこもっていた)。1995年にエディナ、レスリーと共に来日。エディナ・ポップとレスリー・マンドキとは特に仲が良かった。テレビに出演し『ジンギスカン』と『めざせモスクワ』を歌っている。2005年の再結成のため奔走しモスクワのライブにも参加したが、2006年5月7日、肺癌により死去。63歳没。 再結成の前年夏にが発覚し余命宣告を受けていた。娘は歌手のメラニー・ベンダー (de:Melanie Bender)。声域は基本的にヴォルフガングとレスリーのほぼ中間だが、低音を出すことも多い。また後年は肺癌もあってハスキーな声になっている。2005年(63歳)の再結成時の「ロッキング・サン」では、不参加のレスリーのソロパートを歌った(スティーヴによる「ロッキング・サン」は後にファンから伝説と言われるようになった)。グループ加入へのいきさつは、スティーヴが所属していた事務所にジーゲルが現れ、スキンヘッドのスティーヴのレコードジャケットを見て「こいつだよ、僕が欲しかったのは!」となったのがきっかけだった(そのジャケットではスティーヴが日本の仏像をモチーフに撮るため、面白半分にハゲのかつらを着用したもの)。その後ラルフ・ジーゲルから白羽の矢を立てられ、グループへの加入が決定し、スキンヘッドが定着したという。曲のパフォーマンスでは振り付けをよく間違えていた。DschinghisKhanファンからは紳士と言われており、海外からのファンレターは翻訳を使い、家族との時間を大切にしながらも全てに目を通していた。また、日本のファンにも優しく、ファンサイトにも訪れていた。死の数ヶ月前にはいくつかのサイトにコメントを残しており、主に英語やドイツ語で書き込まれたが、そのうちのひとつは翻訳を通した日本語でコメントを残していた。コメントの際にはサイトの運営者が書いたジンギスカン当時のスティーヴ自身のアイコンを使うなど、お茶目さと気さくさも見せている。
ヴォルフガング・ハイヒェル (Wolfgang Heichel/1950年11月4日 - ) no 5 黒
旧東ドイツのマイセン生まれでベルリン育ち。身長188cm。芸術教育学を修めたが、歯科学は物理学を落として中退している。異母兄弟が2人いて、ヴォルフガングは長兄。結成前はシンガーソングライタープロデューサーとして活躍していた。結成後もパフォーマーの傍ら『カスパル・ハウザー』などの作曲を担当。DschinghisKhanでは1番のイケメンだったため、女性からの手紙やプレゼントが数多く届いたという。1976年に上記のヘンリエッテと結婚するが、解散後1986年に離婚。解散後しばらくは、ジーゲルがプロデュースするグループ "That's Life" で音楽活動を続け、1986年には"Telefon"(直訳:電話)でユーロビジョンのドイツ予選に参加するも、最下位に終わっている。ジンギスカン再結成に際して音楽活動を再開。歌っているときは低音パートのことが多いが、地声の高さを生かしたソロパートもある。後年では太ったために声が低く太くなっている。2014年以降はパフォーマーを引退している。
レスリー・マンドキ (Leslie Mandoki/1953年1月7日 - ) no 6 緑
ハンガリーのブダペスト出身。ハンガリー名はマーンドキ・ラースロー(hu:Mándoki László)。身長174cm。ジャズ音楽の専門学校でドラムパーカッションを学び、自らジャム (Jam)という名のジャズロックバンドを率いてボーカリストパーカショニストとして活躍。共産主義政権の学生運動弾圧を逃れるため、1975年アニメーターガーボル・チュポー(Hu:Csupó Gábor)らと共にミュンヘンへ渡るも、ジンギスカン結成前まで酒場のバンドマンとして苦しい生活を送る。もともとはジャズシンガーになることを希望していたが、ジンギスカンに加入することによりダンサーとして活動することとなった。このことに当初彼は違和感を覚えていたが、その後ハンガリーを題材にした『プスタ』などの作曲をするようになる。解散後も友人と会社経営をしながら音楽活動を続けた。1995年、エディナ・ポップ、スティーヴ・ベンダーとともに来日。会社経営をしている事実を公表し話題を呼んだ。スケジュールの都合(当時は議員を目指しており、テレビに映ると広報活動になってしまい、最悪逮捕されてしまう)もあり、現在存命のメンバーの中では唯一再結成後のジンギスカンへの参加を見合わせている。長髪と唇の上の大きな髭がトレードマーク。趣味および特技はハンガリー料理。ヴォルフガングとは対照的に地声は低いが、歌っているときの声は高い。ドイツ語を話すとエディナ同様に北欧訛りが強い。加入理由は見た目(の奇妙さ)であり、歌もうまかったことで加入が決定した。弟がいる。

ジンギス=カン・ファミリー (Dschinghis Khan Family/1986年 - 1988年)

ユルゲン・グロンホルツ (Jürgen Gronholz)
クリスティン・ブラント (Christin Sargent-Brandt)
マイク・トゥール (Mike Toole)

『ジンギスカン』解散後、ルイス、レスリー、ヘンリエッテの3人に上記メンバー3名を加え、チンギスカン・ファミリー (Dschinghis Khan Family)のグループ名で、あしかけ3年間活動した[3]

2005年 - 2006年までのメンバー

ダニエル・ケスリンク (Daniel Käsling)
シュテファン・トラック (Stefan Track)
エプル・カーヤ (Ebru Kaya)
2005年の再結成ライブのときに参加したダンサー。2007年には同じメンバーでロッキング・サンとしてデビューした。このうちシュテファンは、メンバーとトラブルを起こしたために2006年1月をもって脱退した。またダニエルとエプル・カーヤもその年限りの参加となった。公式サイトには、2005年のモスクワコンサートの報道記事[4]動画コーナーがあり、シュテファン・エプル・ダニエルの記述やパフォーマンスを見ることができる。

ザ・レガシー (The Legacy)のメンバー

2007年に招集された以下のメンバーは、公式サイトで『遺産』 (The Legacy)あるいは『ジンギスカンの遺産』[5](The Legacy Of Genghis Khan)[6]と呼ばれるダンサー集団である。ミュージカル俳優として訓練を受けた人々で、コーラスも担当する。2016年1月にはエゲダイ、イゲイ、エルトゥヤ、ヤサの4人がエディナ、ヘンリエッテと共にジンギスカンのメンバーとしてモスクワでのライブに参加した。

エゲダイ (Ögödei)
ジンギスカンの息子という設定。演じているのはクラウス・カプリート (Claus Kupreit)。元々ルイスのポジションだったが2011年のライブツアー以降は、付け髭を外している。
イゲイ (Igei)
現在テレビなどに出演する際にルイスのポジションを担当している。こちらもジンギスカンの息子という設定。演じているのはベンヤミン・ショーベル (Benjamin Schobel)。海賊のような容姿をしている。『ロッキング・サン』を歌う際は再結成に不参加のレスリーのパートを担当する。
エルトゥヤ (Eltuya)
女斧使いという設定。演じているのはカトヤ・ボーゲル (Katja Vogel)、またはコリナ・グンツェル (Corinna Günzel)[7]
ヤスガン (Yesugan)
女剣士という設定。演じているのはAngelika Nimbach[7]。2008年のライブツアーには参加していない。
オーラ (Ohla)
お姫様という設定。演じているのはターニャ・ミューラー (Tanja Mueller)、またはEvi Weigand[7]ベリーダンス風の衣装を着ている。
ヤサ (Yassa)
モンゴルの戦士という設定。演じているのはトーマス・グラベル (Thomas Graeber)、またはシュテファン・ソーター (Stefan Sauter)[7]
キャッシュ (Cash)
危険な黒の戦士という設定。演じているのはアッティラ・マリオ・ディアロ (Attila Mario Diallo)[7]。他界したスティーヴのパートを歌うことが多い。

ディスコグラフィ

ドイツのチャートでは「ジンギスカン」が1位、「めざせモスクワ」が3位、「ローレライ」が6位、「ハッチ大作戦」が7位と4曲のTOP10入り楽曲がある。

楽曲は国や地名・特定の人物をモデルにしたものが多い。なお()内は邦題。

アルバム
  • Dschinghis Khan (ジンギスカン、1979年)

A面

  1. Moskau (めざせモスクワ)
  2. Komm doch heim (家に帰って)
  3. Samurai (サムライ)
  4. Rocking Son Of Dschinghis Khan (ロッキング・サン)
  5. Pass auf, der Drache kommt (ディスコ・ドラゴン)

B面

  1. Dschinghis Khan (ジンギスカン)
  2. Israel, Israel (イスラエル)
  3. China Boy (チャイナボーイ)
  4. Sahara (砂漠の国サハラ)
  5. Puszta (プスタ)
  6. Der Verräter (密告者のテーマ)


  • ROM (1980年)
ボーナストラックを抜いたものが"Viva"として同年リリース。日本では『ザ・グレイテスト・ヒッツ』として発売。本作までは6人体制で発売された。

A面

  1. Rom (栄光のローマ)
  2. Madagaskar (さらばマダガスカル)
  3. Kaspar Hauser (カスパル・ハウザー)
  4. Mann und Frau (男と女)
  5. Käpt'n Nemo (キャプテン・ネモ)
  6. Die Fremden (宇宙からのメッセージ)
  7. Sierra Nevada (シエラネバダ )

B面

  1. Machu Picchu (インカ帝国)
  2. Kontiki (コンチキ号の冒険)
  3. Tiger, Tiger (女豹のように)
  4. Moskau
  5. Hadschi Halef Omar (ハッチ大作戦)
  6. Der Verräter
  7. Dschinghis Khan


  • Wir sitzen alle im selben Boot (めざせ世界制覇、1981年)
日本で最後に発売されたアルバム。

A面

  1. Wir sitzen alle im selben Boot (世界はひとつ)
  2. Pistolero (哀愁のピストレーロ)
  3. Windjammer (ウインドジャマー)
  4. Die Fremdenlegion Armee der Verlorenen Seelen (外人部隊)
  5. Michael (こげよ、マイケル)

B面

  1. Loreley (ローレライ)
  2. What Shall We Do with the Drunken Sailor (酔いどれ水兵)
  3. Goobye Hawaii (グッバイ・ハワイ)
  4. Aladin (英雄アラジン)
  5. We Love You (ウイ・ラブ・ユー)


  • Helden, Schurken & der Dudelmoser (1982年)
  • Corrida (1983年,"Bullfighting")
  • Die Großen Erfolge (1999年)
  • 7 Leben (2007年)
シングル
  • Dschinghis Khan (1979年)
  • Moskau (1979年)
  • Hadschi Halef Omar (1979年)
  • Rom (1980年)
  • Pistolero(1981年)
本作から5人体制となった。
  • Loreley (1981年)
本作を最後に日本でのシングルリリースをしていない。
  • Wir sitzen alle im selben Boot (1981年)
  • Klabautermann (妖精クラバウターマン、1982年)
  • Der Dudelmoser (アルプスのドゥーデルモーザー、1982年)
  • Himalaja (前人未到の地ヒマラヤ、1983年)
  • Olé Olé (闘牛士の死にオーレ! 1983年)
  • Mexico (めざせメキシコ、1985年)
その他
レスリー・マンドキとニュートン・ファミリーのエヴァによるデュエット曲。『めざせモスクワ』のように、1988年に行われたソウル・オリンピックをモチーフにして制作された。日本でも少女隊が英語と日本語でカバーした。

日本への影響

ジンギスカンは、楽曲『ジンギスカン』の強烈なインパクトにより、1970年代後半からディスコなどのダンスシーンでアラベスクなどとともに人気を博した。また、それにより当時の竹の子族と呼ばれる若者にも多大な影響を与え、数多くのカバー曲も生まれた。モーニング娘。の楽曲『恋のダンスサイト』などでフレーズが引用されたこともある。

1995年エディナ・ポップ、スティーヴ・ベンダー、レスリー・マンドキの3人が来日して『なるほど!ザ・ワールド』に出演した(日本公演を行っていないため、この日が初来日)。この時3人は『ジンギスカン』と『めざせモスクワ』を生で歌っている。また、インタビューの時レスリー・マンドキは「友人と会社を経営しています」と答えていたという(外部リンクを参照)。

また、2005年に『めざせモスクワ』が、いわゆる空耳ソングとして注目を集め、『もすかう』のタイトルで、ネット上で多数のFlashムービーが制作され、話題になった。

関連アーティスト

出典

  1. 公式サイト「JP / 足跡 "The Legacy Of Genghis Khan"」
  2. ルイの没年については資料によりバラバラで、1992年に41歳没になっているものや、1993年に42歳没、1996年に45歳没となっているものもあるため、正確な没年は不明である。
  3. 公認ファンサイト“Steppenwind”の記事"1986-heuteによる。
  4. "Internationales Comeback von Dschinghis Khan",(musikwoche.de 11.01.06 / 15:59)
  5. 公式サイト「JP / 足跡 "The Legacy Of Genghis Khan"」
  6. 公式サイト「The Legacy Of Genghis Khan」
  7. 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 公認ファンサイト“Steppenwind”の記述による。

外部リンク

先代:
Ireen Sheer
ユーロビジョン・ソング・コンテスト・ドイツ代表
1979
次代:
カーチャ・エプシュタイン