ズジスワフ・ベクシンスキー

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ズジスワフ・ベクシンスキー
Zdzisław Beksiński
生誕 1929年2月24日
テンプレート:POL1918 サノク
死没 (2005-02-21) 2005年2月21日(75歳没)
ポーランドの旗 ポーランド ワルシャワ
国籍 ポーランドの旗 ポーランド
教育 クラクフ工業大学建築設計学部
著名な実績 絵画写真
ファイル:Zdzisław Beksiński-signature.jpg
ベクシンスキーのシグネチャ

ズジスワフ・ベクシンスキ、又はゾディソワフ・ベクシンスキーポーランド語: Zdzisław Beksiński テンプレート:IPA-pl1929年2月24日 - 2005年2月21日)は、ポーランド画家写真家芸術家

概略

主に死、絶望、破損、廃退、廃墟、終焉などをモチーフに扱い、不気味さや残酷さと同時に荘厳な美しさを感じさせる画風が特徴。独特の世界観から多くの支持を得た画家である。作品自体は退廃的で「終焉の画家」と呼ばれるほどだが、彼自身は人当たりが良く少し内向的で、人との会話をよく楽しんだとして知られている。だが、政治不信、マスコミ嫌い等があり、普段は隠居のように暮らし制作に没頭しており、他の芸術に触れることも嫌ったため、ポーランド語以外は話さず、ポーランドから出ることも生涯なかった。

彼の作品にはすべてタイトルがついておらず、作品の理論付けや詮索を非常に嫌った。作品を描く際は、常に大音量のクラシック音楽をかけており、どこにいくにもクラシック音楽を共にしていた。ベクシンスキーは、作品をバロックゴシックと技法を分けており、最後5年ほどに手がけた作品はほとんどがゴシックである。1990年以降は、それらに加えて、コンピューターグラフィックスで写真の加工による作品も手がけており、死ぬ間際まで関心を持ち制作をおこなっていた。

来歴

ファイル:Zdzisek 1941.jpg
幼少時のズジスワフ(右)。1941年に撮影。サノクにあったソ連軍の掩蔽壕の廃墟で友人と遊んでいる

ポーランド南東部のサノク出身。少年時代にナチス・ドイツポーランド侵攻を経験している。

祖父や父が建築関係者ということで、クラクフ工業大学建築設計学部に入学、卒業後は建築業務で現場監督をするも不満を抱き、芸術の道へ進む。

1964年、初個展では作品の全てに買い手がつき、すぐさまポーランドの代表的な近代芸術家として認知される。当初は抽象画を描いていたが、1960年代の間に独自のゴシック的でシュルレアリスム的な、あるいは幻想的リアリズムと称される画風に移行する。

1998年、妻が亡くなる。1999年のクリスマスイブ、ポピュラー音楽の評論家であり映画の翻訳家の息子が鬱病により自殺。ベクシンスキーは息子の死との折り合いを付けられず、『もし私がくたばった時に備えて、Tomek(息子の愛称)へ』と綴った手紙を壁にピンで留めていた。 

2005年、自宅にて2人の若者に殺害される。彼の身体には17箇所の刺し傷があり、うち2箇所が致命傷であった。ベクシンスキーの誕生日3日前の出来事であり、75歳であった。後に主犯として、長年彼のパトロンであり友人でもあった人物の16歳の息子とその親族が逮捕されており、借金の頼みを断った事が動機と報道されている。

関連文献

  • 『ベクシンスキー 1929-2005』 エディシオン・トレヴィル、河出書房新社(販売)、再訂版2016年、ISBN 4309921086
    • 初版はトレヴィル、1997年、新版(復刻版) 同上、2005年、増補版2013年
  • 『ベクシンスキ作品集成 全3巻』 エディシオン・トレヴィル、2010年 、ISBN 4309908586、ISBN 4309908594、ISBN 4309908608

小話

大半のベクシンスキー作品を所有管理し、現在のベクシンスキー公式ギャラリーホームページも主催する、ピョートル・ドモホフスキによると、1990年代、日本でベクシンスキー画集が発売される以前に、ドモホフスキから59点に上るベクシンスキー作品を購入した日本人がいた。その後日本人は大阪で東欧美術館を開いたが、現在はすでに閉館されており、ドモホフスキからその日本人への連絡先も音信不通になった。しかし当時、東欧美術館から発行されたベクシンスキーの非売品作品目録(発行元:株式会社ファレヴァ和幸)は現存しており、確かにそれら目録の作品が日本に存在したのは事実だが、販売されたか保存されたままなのか、2011年現在も行方が判らないままである。

外部リンク