セプティミウス・セウェルス

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ルキウス・セプティミウス・セウェルスラテン語: Lucius Septimius Severus146年4月11日 - 211年2月4日)は、ローマ帝国皇帝(在位:193年4月9日 - 211年2月4日)である。セウェルス朝の創始者であり、アフリカ属州生まれ(属州民ではない)の皇帝となった。

概要

セウェルスはアウレリウス帝とコンモドゥス帝の親子二代に仕え、ローマの貴族階級における典型的な経歴を歩んだ。ネルウァ=アントニヌス朝断絶後の騒乱(五皇帝の年)で頭角を現して有力な皇帝候補となり、ペルティナクス帝の死後に実権を掌握した。彼は存命中の皇帝であったディディウス・ユリアヌスを失脚させて自らが皇帝に即位した。

皇帝となった後、クロディウス・アルビヌスペスケンニウス・ニゲルという二人の僭称帝との戦いが始まると、セウェルスはイッススの戦いでまずペスケンニウスを破り[1]、続いてクロディウスをルグドゥヌムの戦いで打ち破った[2]。また合わせてオスロエネ王国に対する外征にも勝利して、ローマ領を東方へ拡大した[3]

体制を固めたセウェルスはより大胆な外征を計画、パルティア戦争で敵国の首都クテシフォンを占領するなど大勝を得て、ティグリス川沿いまで領土を拡張した[4]。同時に属州アラビア・ペトラエアに建設されていた城壁「リーメス・アラビクス」の補強を進め、東方属州の拡大と強化に熱意を注いだ[5]。自らの故郷である属州アフリカでも外征を行い、ガラマンテス族を破って「リメス・トリポリタヌス」を南の砂漠地帯にまで広げた[6]

治世後半も戦いに明け暮れる日々を過ごし、北方はブリタンニアでピクト族との戦争に従事しつつハドリアヌスの長城を補修した[7]。セウェルスの死もそうした戦いの最中で起き、ブリタニア遠征中にエボラクムで病没した[8]。死後は二人の息子カラカラゲタが継承した為、新たな王朝としてセウェルス朝が成立した。

皇帝即位まで

生い立ち

ルキウス・セプティミウス・セウェルスは父プブリウス・セプティミウスと母フルウィア・ピーアの子としてレプティス・マグナに生まれた[9]プブリウス・セプティミウスは騎士であり、ポエニ戦争時代に軍功を上げて領地を与えられた歴史を持つ、騎士達の中でも名門に属していた一族の出身であった。父プブリウスは政治的な地位を持たず、本国の上流貴族からすればただの田舎貴族でしかなかった。しかし親族にあたるプブリウス・セプティミウス・アペルとガイウス・セプティミウス・セウェルスという二人の人物がアントニウス・ピウス帝の治世下で臣下に迎えられ、総督などの重職を務めていた。

母フルウィアはイタリア本土出身の由緒正しい血筋であった[10]。恐らく彼女はローマの古参氏族で、帝政時代にはプレブス階級に没落していたフルウィウス氏族の末裔であると見られており、親類に近衛隊長や執政官を務めたガイウス・フルウィウス・プラウティアヌスがいる[11]

セウェルスは上流文化の本場である本土で育てられず、一貫して故郷のレプティス・マグナで幼少期を過ごした。彼の両親がセウェルスに何を望み、どのような教育や訓練を施したのかは殆ど記録が残っていない。後世に伝えられている事の一つに、母国語であるラテン語や教養とされたギリシャ語だけでなく、地元に残る在来住民(カルタゴ人)の話すポエニ語を流暢に話したという逸話がある。そしてそれは彼のラテン語のアクセントにすら影響を残し、「カルタゴ訛り」と揶揄される要因となった。他にはカッシウス・ディオによると弁論学を学んでおり、17歳の時に公の場で演説を初めて行ったという[12]

公職時代

162年頃、セウェルスは次第に宮廷での仕官を望むようになり、故郷から遠く離れた帝都ローマに向かう決意を固めた。ローマでは親族であるガイウス・セプティミウス・セウェルスの推薦もあり、マルクス・アウレリウス時代の元老院に出入りするようになった。しかし青年期のセウェルスは歴史の表舞台に立つ機会を中々得られなかった。官職の入り口である二十六人官を務めた後[13]、希望していた護民官職は選ばれず、更に財務官についても最低年齢の25歳まで見合わせなければならなかった[13]

更に間の悪い事に166年に「アントニヌスの疫病」とも呼ばれる天然痘の流行がローマを襲い、暫くの間はセウェルスは故郷で静養を余儀なくされた[14]。信憑性の薄い「ローマ皇帝群像」は実際には不倫疑惑から逃れるためであると主張している。だが諦めずに169年になって再びローマに戻ると必要年齢を満たした財務官選挙に名乗りを上げ、見事に当選を果たした。12月5日、同職の就任によってセウェルスは元老院の名簿に記載された[15]

170年から180年にかけて矢継ぎ早に多くの役職を歴任した事実にも関わらず、セウェルスの元老院時代の記録は殆ど残っていない。「アントニヌスの疫病」は大勢の犠牲者を出し、元老院議員もかなりの議員が病死していた。セウェルスの異例の出世はこうした深刻な人材難による部分が大きかったと見られている。セウェルスは一度目の財務官を終えると今度はヒスパニア・バエティカで職務を継続するように命じられた[16]。父の急死によりレプティス・マグナへ帰省している間にバエティカで動乱が起きて一時的に元老院から皇帝に同地の監督権が移ってしまい、セウェルスは任地に赴けないままに時間を費やした[17]。173年、ガイウス・セプティミウス・セウェルスが属州アフリカの総督に赴任した際、縁者であるセウェルスを自らのレガトゥス・プロ・プラエトル(属州代理官)に指名した[18]

帰国後、セウェルスは護民官の職務を経て元老院での地位を確かなものとした[19]

結婚と跡継ぎ

セウェルスが結婚したのは当時の慣習より遅い三十台半ばになってからで、175年にパッシア・マルシアナという同郷の女性と結婚した[19]が、彼女はセウェルスとの子を生む事無く亡くなった[19]。パッシアがいかなる人物であったかは今日全く不明であり、人名から恐らくはポエニ系の一族出身だったのではないかと推測されている程度である。セウェルス自身も後に皇帝となった後、パッシアとの婚歴を公に認めつつも隠すような行動を取った。ローマ皇帝群像はセウェルスにはバッシアとの間に二人の娘がいたと主張しているが、史学上の根拠はない。

186年に結婚から11年目でパッシアが病死すると[20]、より有力な人物となっていたセウェルスは跡継ぎを欲してすぐに再婚相手を探し始めた(ローマ皇帝群像によればセウェルスは「占いで花嫁を探した」と主張されている[21])。セウェルスは属州シリアにあるエメサ市で、土着信仰である太陽神ヘリオガバルスを奉じていた神官ユリウス・バッシアヌスの娘ユリア・ドムナと結婚した[22]。後にセウェルス朝で暗躍するこの一族は地元シリアではかなりの資金と地位を持つ豪族でもあったが、ローマ本国では「ただのプレブスでしかなかった」とカッシウス・ディオは伝えている。

バッシアヌスは187年にセウェルスの婚姻提案を受け入れ、翌年の夏に両者は正式に結婚した[23]。以前の妻より恐らくはより博識で野心高いこの妻にセウェルスは常に一目置き、政治的な議題を相談する事もしばしばであったという。跡継ぎについては、結婚から程なくマルクス・アウレリウス・セウェルス・アントニヌス(カラカラ)とプブリウス・セプティミウス・ゲタという二人の息子を授かった[23]


治世

皇帝即位

ファイル:Roman Empire Map.png
各属州の位置関係

セウェルスは順調に元老院での出世を重ね、アウレリウス帝死後のコンモドゥス帝からは要地である属州パンノニアの総督に任命されていた。従ってネルウァ=アントニヌス朝断絶後の五皇帝の年では重要な役割を担う事ができた。

セウェルスはコンモドゥス暗殺によって帝位を得たペルティナクスが内紛で処刑され、更に後続のディディウス・ユリアヌスが民心を得れていない事を目の当たりにすると、遂に自らも帝位請求に向けて動き出した。ユリアヌス軍を破ったセウェルスは元老院からの支持を取り付け、内乱勃発から三人目の皇帝となった。これに対してセウェルスと平行して帝位を請求していたシリア総督ペスケンニウス・ニゲルと、ブリタニア総督クロディウス・アルビヌスが抵抗の意図を見せた。

セウェルスは地理的に近いアルビヌスと手を結んで彼を副帝に指名して懐柔すると、東方属州へ遠征を開始した。イッススの戦いでニゲル軍を破ると、一年間を費やして東方属州からニゲル派の勢力を駆逐し、また後ろ盾であったパルティア帝国を押さえ込む事に集中した。そして東方の動乱を鎮めると、約束を反故にする形で息子のカラカラを新たな副帝に指名すると宣言、激怒したアルビヌスは再び軍を起こして抵抗した。ルグドゥヌムの戦いダキアモエシアイリュリアの軍勢を中核にしたセウェルス軍の前にアルビヌス軍が大敗を喫して、アルビヌスは戦死した。

一連の戦闘でセウェルスの支配は確実なものとなり、またその息子に帝位が継がれた事で内乱は終結してセウェルス朝が成立した。

軍事政策

ファイル:Roman HanEmpiresAD1.png
西暦1世紀頃のユーラシア勢力図(赤色がローマ、茶色がパルティア)

197年の初めにセウェルスはローマの宮殿を立ってブリンディジへ向かうと海路でキリキアに進み[24]、そこから陸路で属州シリアへ入った。そしてシリアに辿り着くと軍勢を集め、ユーフラテス川の渡河を開始した[25]。セウェルス軍の前にオスロエネ王国の王アバガル9世はセウェルスに王子達を人質として差し出し、また弓兵隊を援軍に派遣して恭順の意思を示した[26]。またアルメニア王ティリダテス2世も人質を送り、貢物を送って協力を示した[27]

セウェルス軍はニシビスへ行軍、配下の将軍ユリウス・ラエトゥスの活躍で攻撃を受けていた同地を防衛した[28]。セウェルスは再びシリアに戻って補給を得た後、ペスケンニウス・ニゲルを支援していた東方の大国パルティアへの直接戦争を開始した。戦いはパルティアの首都クテシフォンを陥落させるなどセウェルス軍の圧勝に終わり、講和条約でティグリス川沿いまで領土を拡張した。

またセウェルスは元老院や近衛兵隊に対する粛清を加えつつ、やはり自らの権力基盤として軍を優遇した。属州各地に展開する帝国正規軍の総数は少なければ25個軍団、多いときでも30個軍団だったのが、セウェルスの治世で33個軍団に固定された。その上、軍団兵の給与は年300デナリウスから年500デナリウスへと大幅に引き上げられた。また属州民からなるアウクシリア(補助軍)の増強にも着手し、多くの志願者が主に東方属州から召集された。

彼の軍制改革はローマを一種の軍事独裁政権へとその色合いを強めさせ、後の軍人皇帝時代への布石となった。しかし民衆は概ね内乱を鎮めて外征に勝利した皇帝に敬意を抱き、セウェルスもパルティア戦争の戦勝を祝ってセプティミウス・セウェルスの凱旋門を建設した。またコモドゥス時代に力を蓄えた汚職役人を粛清した事も人気に繋がっていった。

202年後半、セウェルスは属州アフリカに対する新たな対外戦争を計画した。命令を受けた第3軍団「アウグスタ」の軍団長クィントゥス・アニシウス・ファウストゥスは「リーメス・トリポリタヌス」を巡ってガラマンテス族と戦い続け、レプティス・マグナから600km以上南へ蛮族を追い払った[29]。また合わせてヌミディア地方でも同じく領域の拡大が進められた.[30]。203年までに、優れた将軍達の活躍で北アフリカにおける南部城壁はいずれも劇的に押し広げられ、砂漠地帯でローマを悩ませていた遊牧民はもはや容易に沿岸都市を攻撃できず、サハラ砂漠へと逃げることもできなくなった。

208年、晩年のセウェルスは自ら久方振りに親征を執り行うべく、属州ブリタニアへと向かった。そこでハドリアヌスの長城の補修を命じて、更にピクト人の領域(カレドニア)に北進した。セウェルス軍はピクト人を破り、カレドニアの北端であるマレー湾にまで到達した[31]210年、軍事的優勢の中でセウェルスはピクト人と和睦を結び、この時決定された領域はブリタニア撤退までの永きに亘って維持される事になる[32]

国内統治

外征での勝利を重ねる一方、国内では元老院との不和を抱えた皇帝の一人でもあった。元々、軍事力で帝位を簒奪したセウェルスに対する反感は、帝位を競売で競り落としたディディウス・ユリアヌスと比べてもそれほど差のあるものではなかった。そしてセウェルスの側も元老院を自らの皇帝権を認めようとしない存在として、彼らを軽蔑する事を躊躇わなかった。セウェルスは元老院内に蔓延していた退廃や汚職・謀議の一掃を行い、何十人もの元老院議員を処刑台に送った。そして後任に自らが選抜した者を登用した。

また同時に元老院と並んで本国での権力基盤である近衛兵隊についても粛清を行い、ペルティナクスとユリアヌスの帝位簒奪と暗殺の双方に協力した隊員らに追放を命じた。殆どの近衛兵達が役職を剥奪され、ローマから追放された[33]。もっとも近衛兵隊という制度そのものを廃止した訳ではなく、単に元老院と同じく自らに従順な者で構成させたに過ぎない。事実、粛清後にセウェルスは自らに従い続けてきた古参兵から新たな近衛兵を選んで、アルバノに拠点を移動させた上で身辺を守らせている。

同時代の歴史家カッシウス・ディオによると[34]、初期の統治を終えた197年頃からセウェルスは古い友人の一人である近衛隊長ガイウス・フルウィウス・プラウティヌスに治世を任せて、自らは外征に専念し内政を省みないようになったという。プラウティヌスは国内行政の殆ど全てを一手に握り、(初期を除けば)セウェルスの政策の多くは彼の手によって差配された。セウェルスはプラウティヌスを寵愛し、彼の娘を帝位継承を約束されていた長男カラカラの后妃として迎えさせた。次期皇帝の養父となり、もはや外戚としてプラウティヌス家の権威は絶対的なものとなった。しかしプラウティヌスの権勢はセウェルス晩年の時にあっけなく終わりを迎えた。205年、彼はセウェルスの親族によって暗殺されたという[35]。その後もセウェルスが直接統治を執り行う事は無く、行政はアエミリウス・パピニアヌスという法律家に一任された。

剣闘士競技における、ドミティアヌス帝が始めた女剣闘士同士による試合を禁止する命令を出している。

宗教政策においてはキリスト教の信徒がアレキサンドリアで増加傾向にあった為[36]、197年もしくは198年には大規模な迫害政策が行われた[37]

病没

カッシウス・ディオによれば、211年、遠征地で危篤に陥ったセウェルスは二人の息子達に『共に仲良くせよ。軍を富ませよ。他は無視せよ』と言い遺した[38]。病没後は直ちに神として神殿に祭られ、後にカラカラとゲタもこれに加わった[39]

かのポートランドの壺はセウェルスの副葬品が16世紀に彼の墓から掘り出されたものと言い伝えられている。

評価

セウェルスは動乱期のローマ帝国にとって必要としていた、外征に長ける「強き皇帝」であった。彼は幾多の戦いに勝利して、西方属州の国境(ゲルマニア地方)を除く全ての国境線を拡張し、城壁(リーメス)を大幅に補強した。同時に軍を厚遇する事でその士気と精強さも大幅に高めた。セウェルスの死後、ローマ帝国はカラカラ帝から軍人皇帝時代と約70年に及び暴政と内戦、異民族の侵入が吹き荒れる大混乱時代に突入するが、その中でもついに帝国滅亡を防ぎ得た一つの要因を作り出した功績は疑うべくもない。

しかし一方で軍に対する優遇はコモドゥス時代に減らされた軍事費を再び膨大な額へと引き上げる結果となり、既にネルウァ=アントニヌス朝に表面化しつつあった軍事費の増大を決定的なものとした。セウェルスを支持した民衆も、肥大化した軍を支えるために重税を強いられるようになった。また軍を政治的に重んじて自らの権力基盤とする軍事独裁方針は後の軍人皇帝時代に繋がるものでもあり、同時代の歴史家(カッシウス・ディオヘロディアヌス)からも既に辛辣な批判が行われていた。

またセウェルスは露骨な身内贔屓でも知られており、彼の治世で立てられた建設物の殆どは故郷のレプティス・マグナに集中した。数少ない例外はセプティミウス・セウェルスの凱旋門だが、セウェルスはレプティス・マグナにも同様の凱旋門を建設する事を忘れなかった。

脚注

  1. Birley (2000), p113
  2. Birley (2000), p125
  3. Birley (2000), p. 115
  4. Birley (2000), p.130
  5. Birley (2000), p. 137
  6. Birley (2000), p. 153
  7. Birley (2000), p. 170 - 187
  8. Birley (2000), p. 187
  9. Birley (2000), p. 1
  10. Birley (2000), pp. 216?217
  11. Birley (2000), p. 216 - 217
  12. Birley (2000), pp. 34?35
  13. 13.0 13.1 Birley (2000)p. 40
  14. Birley (2000), p. 45
  15. Birley (2000), p. 46
  16. Birley (2000), p. 49
  17. Birley (2000), p. 50
  18. Birley (2000), p. 51
  19. 19.0 19.1 19.2 Birley (2000), p. 52
  20. Birley (2000), p. 75
  21. Birley (2000), p. 71
  22. Birley (2000), p. 72
  23. 23.0 23.1 Birley (2000), p. 76?77
  24. Hasebroek (1921), p. 111
  25. "Life of Septimus Severus" in Historia Augusta, 16.1
  26. Birley (2000), p. 129
  27. Herodian, 3:9:2
  28. Prosopographia Imperii Romani L 69
  29. Birley (2000), p. 153
  30. Birley (2000), p. 147
  31. Severus campaigns in Caledonia
  32. Cassius Dio, Roman History, Book 77, Sections 11?15.
  33. Birley (2000), p. 103
  34. Cassius Dio, Roman History, Book 76, Sections 14 an 15.
  35. Cassius Dio, Roman History, Book 77, Sections 4?6; "Life of Septimus Severus", in Historia Augusta, Section 14
  36. Clement of Alexandria, Stromata, ii. 20; Eusebius, Church History, V., xxvi., VI., i.
  37. Tertullian's Ad martyres
  38. Cassius Dio, Roman History, Book 77, Section 15.
  39. "Life of Septimus Severus" in Historia Augusta, Section 19.

関連項目

参考文献

  • Birley, Anthony R. [1971] (2000). Septimius Severus: The African Emperor. London: Routledge. ISBN 0-415-16591-1. 
  • Michael Grant. The Roman Emperors, 1985. ISBN 0-760-70091-5
  • Michael Grant. The Severans: The Changed Roman Empire, 1996. ISBN 0-415-12772-6
  • Continuite gentilice et continuite senatoriale dans les familles senatoriales romaines a l'epoque imperiale, 2000.
  • A. Daguet-Gagey, Septime Severe (Paris, 2000).
  • Alison Cooley, "Septimius Severus: the Augustan Emperor," in Simon Swain, Stephen Harrison and Jas Elsner (eds), Severan culture (Cambridge, CUP, 2007).
  • Yasmine Zahran, "Septimius Severus: Countdown to Death", Jonathan Tubb (ed), Stacey International (London, 2000)
  • Johannes Hasebroek, Untersuchungen zur Geschichte des Kaisers Septimius Severus (Cambridge, 1921)

外部リンク

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