ディオクレティアヌス

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ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌスラテン語: Gaius Aurelius Valerius Diocletianus244年12月22日 - 311年12月3日)は、ローマ帝国皇帝(在位:284年 - 305年[1])である。帝国の安定化に努め『3世紀の危機』と呼ばれる軍人皇帝時代を収拾した。その過程でドミナートゥス(専制君主制)を創始し、テトラルキア(四分割統治、四分治制)を導入した。また、帝国内に勢力を伸ばすキリスト教マニ教に対して弾圧を加えた。

生涯

ダルマティア属州の属州都サロナの生まれ[2]。「ディオクレティアヌス」というのは皇帝になる際につけた名で、本来はディオクレス(Diocles)という。一兵卒からプラエフェクトゥス・プラエトリオにまで出世し、先帝ヌメリアヌスの死後、軍に推戴されて小アジア西北のニコメディアで即位し皇帝となった。また、プラエフェクトゥス・プラエトリオであったルキウス・フラウィウス・アペルEnglish版をヌメリアヌス暗殺の咎により処刑した。

当時、広大なローマ帝国の統治と防衛を単独で行うのは困難だと考えられた。そこでディオクレティアヌスは286年に軍の同僚だったマクシミアヌスに皇帝権を分与して彼を西方を担当する正帝(西方正帝)とし、自身をニコメディアを拠点に東方を治める正帝(東方正帝)とした。ここに東方正帝と西方正帝による帝国の分担統治制度が確立した(テトラルキアの第一段階)。さらに292年、それぞれの皇帝が「正帝」(アウグストゥス)として「副帝」(カエサル)を任命し、彼らにライン川ドナウ川の防衛線の維持に当たらせた。この制度はテトラルキア(四分割統治、四分治制)と呼ばれ、帝国は事実上4人の皇帝によって統治されるようになった。だがこの制度は、ディオクレティアヌスの巧みな政治手腕に依るところが大きかったため、彼が引退するとその均衡は崩れ、帝国は再び混乱した。彼らは国境防衛に便利なように前線にほど近い都市に宮廷を置いたため、既に荒廃していた首都ローマの重要性はますます低下し、ローマ帝国の重心は東方におかれるようになった。

298年ペルシアと講和、メソポタミア地方、ティグリス河彼岸一帯をペルシアからローマの統治下へ繰り入れ、イベリア地方を影響下に置く。

ディオクレティアヌスは、皇帝権と帝国防衛を強化するため、自らの軍事力を増強した。当時は軍人は政治家でもあったが、武官文官(行政官)を切り離すなど官僚制を整備した。これにより軍人は軍事に専念できるようになり、軍事行動が迅速化した。合わせて、属州をおよそ100程度に再分割し属州総督の権力を削減した。これ以降の帝政を、こうした専制的な皇帝が官僚制を通じて人民を支配した構造からドミナートゥス(専制君主制)と呼ぶ。官僚制の整備によって軍政と民政が分離したことで、属州の自立はおさえられた。この軍政と民政が分離する構造は東ローマ帝国にも受け継がれ、7世紀イスラーム勢力侵入に合わせて軍管区制が導入されるまで続いた。

ディオクレティアヌス以降のローマ帝国における市民に課される税は、ユリアヌス帝の時代を除けば厳しくなる一方であった。土地・人口の調査が行われ、土地税(ユガティオ)と人頭税(カピタティオ)が導入された。この2つは後に結びついてカピタティオ・ユガティオ制へと至った。課税強化の他にも、最高公定価格の設定、手工業者に対する統制、公設の奴隷市場開設など様々な経済政策が打ち出された。

ディオクレティアヌスは領土の拡大や分担統治により民衆が国への帰属心を失いつつあることを危惧し、皇帝権力の強化と愛国心の定着を図るため、自らをユーピテルの子であると宣言、皇帝崇拝と合わせ民衆にローマの神々を礼拝することも義務づけた。なおディオクレティアヌス治世期は政府・軍内部のキリスト教徒が増加しており混乱を防ぐため、当初はローマの神々を礼拝すればキリスト教の信仰を保ってもよいとするなど融和的な政策を行った。しかしキリスト教徒は皇帝崇拝を無視しローマの神々を礼拝することもなく、キリスト教徒の兵士が軍から離脱するなど反逆行為が多発したこともあり、キリスト教に警戒感を抱くようになった。そして、303年にディオクレティアヌスはローマ全土に対して、キリスト教徒の強制的な改宗、聖職者全員の逮捕および投獄などの勅令を発した。キリスト教徒への抑圧が全土で行われ、その聖書は焼却、教会は破壊されて財産は没収となった。それはかつてない規模で行われ、国家に対し公然と反抗したと見なされるキリスト教徒は処刑され、その数は全土で数千人を数えたという。また、その報復として、キリスト教徒によって2度にわたり宮殿放火が企てられている。キリスト教史を編纂する側は、このことを「最後の大迫害」と呼ぶ。

305年、彼は健康を崩したこともあって退位し、アドリア海に臨むサロナ近郊のアスパーラトス(現在のスプリト)にディオクレティアヌス宮殿を作って隠棲し、311年12月3日にそこで亡くなった。古代の歴代ローマ皇帝の中で、引退した例は彼のほかにはほとんど存在しない(ただし、ローマ帝国がキリスト教化されて以降は、修道院へ引退という例が多くなる)。

家族

ディオクレティアヌスの妻プリスカの実家については何も知られていない。しかし、ディオクレティアヌスがアスパーラトスに引退した時、プリスカは娘のガレリア・ウァレリア、その夫で娘婿であるガレリウスと共にテサロニカに留まったものと思われる。 娘のガレリア・ウァレリアはガレリウスの2番目の妻である(293年に結婚。ガレリウスは最初の妻と離婚)。ガレリウスの対ペルシャ戦に付き従い、「軍営の母」の称号を得た。夫妻の間に実子は無く、ガレリウスの庶子ガイウス・ウァレリウス・カンディディアヌス(297年頃 - 313年)を養子に迎えている。つまり、カンディディアヌスはディオクレティアヌスの血の繋がらない義理の孫にあたる。

311年にガレリウスが死亡した後、リキニウスにガレリア・ウァレリアとプリスカの世話が委ねられたが、2人はガレリウスの甥(母がガレリウスの姉妹)であるマクシミヌス・ダイアの宮廷の逃亡。その後マクシミヌス・ダイアからガレリア・ウァレリアは求婚されるが、再婚を拒んだ彼女は丁度、同時期に娘を訪ねていた母プリスカと共にシリアに追放される(もしくはシリアに逃亡かマクシミヌス・ダイア配下の兵士に牢へ幽閉)。その後、マクシミヌス・ダイアはリキニウスに敗れて死亡。母娘はガレリウスの親友であったリキニウスを頼ろうとするがリキニウスは2人を拒絶し、欠席裁判で死刑を宣告される。ガレリア・ウァレリアとプリスカは15ヶ月の逃亡の後、テサロニカで捕らえられ斬首された(314年ないし315年)。ガレリア・ウァレリアの養子ガイウス・ウァレリウス・カンディディアヌスは313年にリキニウスによって殺害されている。これにより、ディオクレティアヌス直系の血筋は娘ガレリア・ウァレリアの代で断絶している。

なお、プリスカとガレリア・ウァレリアはキリスト教に帰依している。

統治地域

脚注

出典

  1. 亀長洋子 『イタリアの中世都市』 山川出版社、2011年。ISBN 978-4-634-34944-5。
  2. Barnes, New Empire, 30, 46; Bowman, "Diocletian and the First Tetrarchy" (CAH), 68.

文献

  • ベルナール・レミィ 『ディオクレティアヌスと四帝統治』
  • 大清水裕訳、白水社[文庫クセジュ]、2010年7月
  • 桜井万里子編 『世界各国史17 ギリシア史』 山川出版社、2005年。
  • 本村凌二 『教養としての「ローマ史」の読み方』 PHP研究所、2018年。

関連項目