ディーン・アチソン

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ディーン・グッダーハム・アチソンDean Gooderham Acheson1893年4月11日 - 1971年10月12日)は、アメリカ合衆国弁護士政治家ハリー・S・トルーマン大統領の下で国務長官を務めた。

冷戦初期のアメリカ外交政策を形作り、トルーマンよりもトルーマン・ドクトリンに、ジョージ・マーシャルよりもマーシャル・プランに対して責任を負ったと評される。

第二次世界大戦後に日本で活動した外交官ジョージ・アチソンとは、姓の綴りが異なり(ジョージはAtcheson)、血縁関係はない。

生涯

ディーン・アチソンはコネチカット州ミドルタウンで生まれた。父はイギリス生まれの牧師でアメリカに移住、母はカナダ人であった。1912年イェール大学に入学、在学中は有名な秘密結社、スクロール・アンド・キー[1]に入会した。1915年に大学を卒業後、ハーバード大学ロースクールに進学、フェリックス・フランクフルター教授に師事し、フランクフルターによってワシントンでの仕事を紹介される。1918年に大学院を修了後、アチソンは最高裁判事ルイス・ブランダイスの秘書を務める(1919年-1921年)。

アチソンは民主党の支持者としてワシントンD.C.の法律事務所で働いていたが、フランクリン・ルーズベルト政権下で1933年5月、財務次官に任命された。だが11月には平価切り下げに反対して同職を辞任、弁護士業に戻った。しかし1941年には経済担当国務次官補に再度任命され1945年8月まで同職を務め、1944年には戦後国際金融秩序を構想するブレトン・ウッズ会議に出席している。日本の降伏が間近な頃、天皇制は時代錯誤の危険な封建的制度であると国務次官補アチソンは論じ、天皇制存続を認めた国務次官ジョセフ・グルーと議論している[2]

1945年8月、アチソンはトルーマン大統領によって国務次官に任命され、続く2年間にわたってアチソンはトルーマン・ドクトリンマーシャル・プランの立案に重要な役割を果たした。アチソンは革命の危険にある国々での共産主義の普及を停止させる最良の方法は、それらの国々の進歩的勢力と連携することであると主張した。

1949年にアチソンは、マーシャルの後任として、国務長官に任命された。アチソンは国務長官として共産主義の封じ込め政策を継続し、NATOの結成に尽力した。極東地域でも1950年1月、日本・沖縄フィリピンアリューシャン列島に対する軍事侵略に米国は断固として反撃するとした「不後退防衛線(アチソン・ライン)」演説を示した。ただし、この演説は台湾朝鮮半島インドシナ半島など除外地域については明確な介入についての意思表示を行なわなかったことから、朝鮮戦争の誘因になったとされている。同年1月には米国は台湾不干渉声明も発表しており、台湾海峡を防衛するとして第7艦隊を派遣したのは朝鮮戦争開戦から2日後の同年6月27日だった。

アチソンの政策は受動的な封じ込めであり、共産主義陣営に対して積極的に攻勢をとらなかったとして、ジョセフ・マッカーシーをはじめとする共和党の急進的メンバーによって攻撃されることとなった。アチソンは封じ込めと宥和を同等視するアメリカ人達から嘲笑の的となった。1950年12月15日、下院共和党は満場一致で彼の罷免を可決している。

国務省職員のアルジャー・ヒスアメリカ共産党員でソ連スパイであると糾弾されると、ヒスを子供の頃から知っていたアチソンは彼の無罪を確信し、密かに支援を与えていた。ヒスの偽証罪が確定した際にも彼を見捨てることはないとコメントし、上院議員ジョセフ・マッカーシーによるマッカーシズムの燃え上がりに貢献してしまった。

更にアチソンは朝鮮戦争におけるダグラス・マッカーサー将軍とハリー・S・トルーマン大統領の論争で大統領の側に付き、強硬派を狼狽させた。アチソンとトルーマンは戦争を朝鮮半島内に限定しようとしたが、マッカーサーは中華人民共和国への戦線拡大を要求し、大統領に罷免された。

アチソンは1952年の大統領選に幻滅し、弁護士業に戻った。その公的経歴は終了したが、その影響力は引き続いて保持された。アチソンの法律事務所はラファイエット公園を横切ったホワイトハウスに効果的に影響力を与えられる場所に置かれ、アチソンはこの事務所で多くの仕事をこなした。

アチソンはケネディ、ジョンソンおよびニクソン政権への非公式アドバイザーに就任し、キューバ危機の発生時には助言を求めるジョン・F・ケネディ大統領によってExComに招かれた。1964年には大統領自由勲章を受章。また、ベトナム戦争が激化した折にはリンドン・B・ジョンソン大統領に北ベトナムとの和平交渉を助言した。

1970年に国務省時代を回想したPresent at the Creation: My Years in the State Departmentピューリツァー賞を受賞。1971年、78歳でメリーランド州サンディ・スプリングで死去。

トルーマン大統領図書館には、公人としてのアチソンの遺した文書類が保管されている。目録はホームページから確認できる。

著書

  • A Democrat looks at His Party. (Harper, 1955).
  • A Citizen looks at Congress. (H. Hamilton, 1957).
  • Power and Diplomacy. (Harvard University Press, 1958).
  • Present at the Creation :My Years in the State Department.(Norton, 1969).
『アチソン回顧録(1・2)』(吉沢清次郎訳, 恒文社, 1979年)
  • Fragments of My Fleece. (Norton, 1971).
  • This vast external Realm.(Norton, 1973).
  • The Pattern of Responsibility edited by McGeorge Bundy. (A.M. Kelley, 1972).

出典・脚注

  1. スクロール・アンド・キー(Scroll and Key 巻物と鍵)は1841年に設立されたイェール大学の学生友愛会。
  2. ハワード・ショーンバーガー『占領1945-1952 戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人』時事通信社(1994年)46ページ

関連項目

外部リンク

公職
先代:
ジョーゼフ・グルー
アメリカ合衆国国務次官
1945年8月16日 - 1947年6月30日
次代:
ロバート・A・ラヴェット
先代:
ジョージ・C・マーシャル
アメリカ合衆国国務長官
1949年1月21日 - 1953年1月20日
次代:
ジョン・フォスター・ダレス