トヨタ・2000GT

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2000GT(にせんジーティー)は、トヨタ自動車ヤマハ発動機が共同開発し、ヤマハ発動機への生産委託で1967年から1970年までトヨタブランドで生産されたスポーツカータイプの乗用車である。型式は、「MF10」と「MF12L」。極少数ながら廉価版として、SOHCエンジンの2300ccモデルが北米市場向けに限り製造された。

開発までの経緯

トヨタ側の事情

1960年代前半の日本におけるモータリゼーション勃興期、トヨタ自動車にとって最大の競合メーカーである日産自動車フェアレディ、また四輪車メーカーとしては新興の本田技研工業Sシリーズをそれぞれ市場に送り出し、いずれも軽快なオープンボディのスポーツカーとして日本国内外で人気を集めた。これらのスポーツカーは、レースなどでもメーカーの技術力をアピールし、メーカーのイメージアップに大きく貢献する存在だった。

一方のトヨタ自動車は、日産自動車と並んで日本を代表する最大手自動車メーカーでありながら、1960年代前半にはスポーツカーを生産していなかった。社外の企業である久野自動車により、クラウンのシャーシを利用して浜素紀のデザインした個性的な4座オープンボディを架装したスペシャリティ・モデルの試作などは行われていたが、そのシャーシやエンジンなどはスポーツカーと呼ぶには非常に未熟なもので世に出ることはなく、自社のイメージリーダーとなるようなスポーツモデルが存在していなかった。

トヨタ自動車のスポーツカーには、1962年から大衆車パブリカのコンポーネンツを用いて系列会社の関東自動車工業(関東自工)で試作を進めていた「パブリカ・スポーツ」があり、1962年以降の原型デザイン公開を経て、トヨタ・スポーツ800の名で1965年から市販された。しかしこれは1000cc未満のミニ・スポーツカーであり、2000cc超の乗用車を生産する自動車メーカーであるトヨタのイメージリーダーとしては格が不足していた。このため、輸出市場やレースフィールドで通用する性能を持った、より大型の本格的なスポーツカー開発が考えられるようになった。

当初トヨタ自動車はスポーツ800と同じく、関東自工に生産委託する予定でこの計画をスタートした。1964年5月頃から開発体制の構築が進められ、プロジェクトリーダーの河野二郎、デザイン担当の野崎喩、エンジン担当の高木英匡、シャシーと全体レイアウト担当の山崎進一、河野のアシスタント兼運転手の細谷四方洋、実務担当の松田栄三の6名が招集された。開発コードは「280A」と名付けられ、同年9月から基礎研究、11月にはシャーシやスタイリングの基本設計が順調に進められた。280Aは美しいスタイリングに6気筒DOHCエンジン、4輪ディスクブレーキなどの当時の先進メカニズムを盛り込んだグランドツーリングカーとして構想され、12月上旬には早くも強度計算まで完了した設計図が完成した。

ヤマハ発動機側の事情

ファイル:Toyota 2000GT in gold, displayed at Yamaha head office.jpg
ヤマハ本社にて展示されている2000GT、3台しか生産されなかったゴールド塗装車のうちの1台。シャシー番号10132

ヤマハ発動機では1959年に『ヤマハ技術研究所』を設立。その中で安川力を主任とする研究室が四輪車の試作を行っており、世界初の全アルミ製エンジンを製作するなど意欲的にスポーツカー開発に挑戦した。しかし一方で開発に莫大な金を費やした上四輪発売には至らず、さらに当時発売していたスクーターのクレーム対応に追われるなどでヤマハの経営難も重なり、1962年に技術研究所と安川研究室は解散させられた[1]

だがヤマハの川上源一社長はなんとか安川たちの熱意に応えるべく、銀行を仲介して日産との提携による四輪開発に持ち込んだ。こうして日産自動車主導の下に、再び安川研究室は高性能スポーツカー『A550X』に携わったが[注釈 1]、日産側の事情により1964年(昭和39年)半ばに頓挫した。

共同開発

川上社長はA550X開発中止と見るや、トヨタ自動車専務の豊田英二に相談。ちょうどトヨタ側も280Aのような前例の無い高性能スポーツカーを関東自工で生産できなさそうなことに悩みを抱えていたため、ここに両社のニーズが合致した。

同年12月28日にトヨタ側の開発メンバーがヤマハに赴き、技術提携を結んだ。このときA550X試作車を実見しているが、上述の通り2000GTのシャーシの基本設計は各種計算含めすでに完成しており、影響されることは無かった。

1965年(昭和40年)1月より、上述のトヨタ側の開発陣がヤマハ発動機に出張しながら、ヤマハの安川研究室の十数名を主導して2000GTの開発プロジェクトを推進していった。開発プロジェクトは順調に進み、4月末に最終設計図が完成。計画開始からわずか11か月後の8月に試作車の第1号車が完成し、トヨタ自動車に送られた。

2000GTの高性能エンジンや良質な内装には、ヤマハ発動機のエンジン開発技術や日本楽器の木工技術が大いに役立てられている。ヤマハ発動機は戦時中に航空機用の可変ピッチプロペラの装置を製造していた技術・設備を活用するため、1950年代中期からモーターサイクル業界に参入して成功、高性能エンジン開発では10年近い技術蓄積を重ねていた。また1950年代後半以降のモーターサイクル業界では、四輪車に先駆けてSOHC・DOHC弁配置の高効率なエンジン導入・研究が進んでいた。このような素地から、ヤマハはトヨタ・クラウンM型直6エンジンにDOHCヘッドを備えたエンジンを製作することができた。またヤマハ発動機は楽器メーカー(日本楽器製造)から分立した企業で、楽器の材料となる良質木材の扱いに長けていたことを活かし、インストルメントパネルステアリングホイール(ともに前期型はウォールナット、後期型はローズウッド製)の材料供給・加工までも担当した。

一方でそれまでのヤマハの四輪自動車製作は、せいぜいYX30を2台試作するのが限界だったため、一台の自動車をまとめ上げるノウハウはトヨタが一手に引き受けた。またクラッチトランスミッションディファレンシャルギアドライブシャフトなどの駆動系に関してもトヨタ側が設計・供給している。わずかな期間で一台のスポーツカーにできたのは、トヨタの力に拠るところが大きい。

「開発丸投げ」の誤解の流布

2000GTはその成立過程での2社共同開発体制という特異性に加え、生産についてもヤマハおよびその系列企業に委託されたこともあり、「果たしてトヨタが開発した自動車と捉えるべきか」という疑問が、愛好者、評論家の一部によって呈されている。自動車関係の書籍・雑誌では古くから、さらに近年では個人によるブログ上などでも「トヨタは2000GTの自力開発ができず、ヤマハが開発・生産したスポーツカーを買い取っていたに過ぎない」「金だけ出してトヨタのバッジをつけた」「これは実際には『ヤマハ2000GT』というべきものである」とする辛辣な評、また、「日産・2000GTの試作車はトヨタ・2000GTの原型」と断じる極端な説までもがごく一部で流布されている[注釈 2]

しかし実際には前述の通り、ヤマハとの技術提携が結ばれる4ヶ月前からトヨタは開発に着手している。またヤマハ発動機側は2000GTの開発についての公式な言及を、ホームページ上において「トヨタ2000GTの全体レイアウト計画やデザイン、基本設計などはトヨタ側でなされ、ヤマハは同社の指導のもとで主にエンジンの高性能化と車体、シャシーの細部設計を担当した」としており、「開発丸投げ」というのは明らかな誤りである。当時のトヨタは既に自動車メーカーとして30年近くに渡ってノウハウを蓄積している一方、ヤマハは前述の通り試作車2台に留まっており、丸投げでの開発は到底不可能と考えるのが自然である[注釈 3]

また「エンジンはヤマハ製」というのも誤りで、当時ヤマハはオートバイ・船外機含め4ストロークエンジンを生産した経験はやはりYX30の4気筒1600ccエンジンだけであった[注釈 4]。このため2000GTのエンジンは、トヨタ・クラウン用のM型直列6気筒4ストロークSOHCエンジンをベースに、ヤマハが生産したDOHCヘッドを装備したものになっている[注釈 5]

生産・販売

生産

市販車の本格生産は、ヤマハ発動機に委託された。ただし四輪生産のノウハウのないヤマハが生産しても高品質を維持するため、ワイパーのきしみや水漏れのようなものはトヨタ側の基準で厳しくチェックされた。

鈑金溶接・車体組立・エンジン組立・塗装の工程は、ヤマハ発動機が静岡県磐田市に新設した3号館工場で手作業によって行われ、FRPパーツ類は新居工場(浜名郡新居町)が製造し、内装パネル関係は日本楽器製造(現・ヤマハ株式会社、当時は親会社)、ボディのプレス関係は1950年代にバイクメーカーとして活躍し、ヤマハの傘下に入った北川自動車工業(後のヤマハ車体工業、1993年4月にヤマハ発動機に吸収合併)の他、(株)畔柳板金工業所(現・畔柳工業)といった、トヨタ系試作プレスメーカーも担当した。

クラッチはクラウンの流用で、トヨタ系列企業であるアイシンが供給。トランスミッションも同じくアイシンの供給だが、これがアイシン史上初の乗用車向けトランスミッションとなっている。

発売価格

当時の2000GTの価格は238万円で、トヨタ自動車の高級車であるクラウンが2台、大衆車カローラが6台買える程に高価であった。1967年(昭和42年)当時の日本における大卒者の初任給がおおむね2万6000円前後であったから、21世紀初頭の日本においては1500万円から2000万円程度の感覚にも相当する、一般の人々にとっては高嶺の花の超高額車であった。

それでも生産に手間がかかり過ぎてコスト面で引き合わない価格設定であり、この事から常に赤字計上での販売であった。トヨタ自動車にとっては「高価な広告費」とも言うべきものであった。

マイナーチェンジ

ファイル:Eyes on Design 016.jpg
1次改良型(海外仕様・MF10L)

市販開始から2年後の1969年8月に、マイナーチェンジが行われた。 これにより登場型(1967年5月から1968年3月生産)と、1次改良型(1968年4月から1969年7月生産)、2次改良型(1969年8月から1970年10月生産)に大別される。主な変更点は次の通り。

  • 1次改良型以降はフロントウインカーレンズの色が白色から橙色に変更。
  • 2次改良型のみフォグランプとフォグランプリムが共に小型化され、グリルと直線的に一体化。
  • 2次改良型のみフロントウインカーレンズの形状および大型化。
  • 2次改良型のみリアサイドリフレクターの形状および大型化。
  • 2次改良型のみオイルクーラーの冷却用ルーバーパネルが凸型から凹型に。
  • 2次改良型のみインストルメントパネルの意匠変更。
  • 2次改良型のみステアリングホイールのホーンボタンの形状変更および大型化。
  • 2次改良型のみヘッドレストの追加装備。
  • 2次改良型のみドアインナーハンドルの形状変更。
  • 2次改良型のみクーラーの追加装備。
  • 2次改良型のみトヨグライド(3AT)搭載モデルの追加。

2300GT

直列6気筒SOHC 2,253 cc エンジンを搭載したモデルも生産されているが市販に至らなかったため、正式通称名は発表されておらず不明である。市販された2000ccモデルと区別するため、雑誌やマニアなどが2300GTと称しているが正式名ではない。

現在トヨタ自動車で保有し展示されている(後述)車輌がTOYOTA2000GT輸出仕様となっていることや取り付けられているエンブレムが2000GTとなっていることなどから、2000GTという名の2,300 cc モデル、つまり「2000GT」としてDOHC2,000 cc とSOHC2,300 cc の2つのモデルでの併売を計画していたとも考えられる。

エンジンは当時北米向輸出仕様のクラウンに搭載されていた2M型を基本にソレックスツインチョークキャブレターを3連装した2M-B型エンジンを搭載している。型式はMF12L[注釈 6]で、諸説あるがMF12L-100001からMF12L-100009までの計9台の車台番号の物が製作されたとされており、このうちMF12L-100002はトヨタ自動車で保有し東京都江東区のMEGAWEB(メガウェブ)ヒストリーガレージに展示されている、またMF12L-100006はToyota USA Automobile Museumに展示されている。この開発は、ヤマハ発動機がトヨタ自動車に対して提案する形で進められ、生産された全ての車両が左ハンドル仕様で、アメリカ市場向けの廉価版として本格生産も考えられたようであるが、結局はトヨタ自動車内部での反発に遭い市販には至らなかった。また絶版車雑誌で「アメリカに10台前後存在している」と紹介されたことがある。

生産台数

赤字生産が続き、イメージリーダーカーとして充分な役割を果たしたとの判断から、1970年で生産は終了した。1967年5月から1970年8月までの3年3か月で試作車を含め、337台が生産された。

種類 前期型 後期型 合計
日本向け 110台 108台 218台
日本国外向け 102台
特殊用途車 12台 2台 14台
試作・テスト用 2台
不明 1台

2M-B型エンジン(2253cc)搭載車は試作車が市販直前の状態まで10台前後製作されたが、生産台数の337台には含まれていない。ほかに、リトラクタブル・ヘッドライトが固定式ライトに変更されたモデルも試作されたが、市販されなかったため台数には含まれていない。

生産終了後

生産終了後希少価値もあり、2000GTの存在は日本国内外で後年まで伝説的に語られるようになった。特に1970年代末にはスーパーカーブームが生じ、当時は既に生産終了していた本車は、日本で唯一のスーパーカー扱いをされた。熱心な愛好者によるクラブも日本国内外に存在する。

日本車における絶版車の人気車種として筆頭に上げられる車種の一つになり、中古車市場では多くの場合プレミアム価格が付いて、高額で取引され、新車時に日本国外に輸出された2000GTを日本に逆輸入する例もある。

2013年にはクラシックカーを専門に取り扱うRM_auctions社が行うオークションで、日本車としては最高値である1,155,000ドル(約1億1800万円)で落札された。

新たな2000GT

生産が終了した2000GTだったが、愛知県岡崎市のロッキーオート社が2000GTのレプリカとして「2000GT RHV」を販売している。 トヨタ・アクアと同じハイブリッド車用エンジンを採用し、驚異的な燃費を誇る。


諸元

DOHCエンジン、5段フルシンクロメッシュ・トランスミッション、4輪ディスクブレーキラック・アンド・ピニオンステアリングリトラクタブル・ヘッドライトは、トヨタ自動車ではこの車から本格採用された。これらは1980年代以降、量産自動車において珍しくない装備となっているが、1960年代中期においてこれらを全て装備した自動車は、当時としては最上の高性能車と言えた。軽量化のために専用デザインの鋳造マグネシウムホイールを用いたことも異例である。

ボディ

当時のスポーツカーデザインの基本に則って、長いボンネットと短い客室部を低い車高に抑えつつ、全体に流麗な曲線で構成されたデザインは、先行して開発されていたジャガー・Eタイプ1961年)などの影響を指摘されることもあるが、当時の日本の5ナンバー規格の枠内でコンパクトにまとめられながら、その制約を感じさせない美しいデザインとして評価が高い。ヘッドライトを高さ確保のため小型のリトラクタブルタイプとし、固定式フォグランプをグリルと併せて設置したフロント・ノーズの処理も独特の魅力があった。

このデザインはトヨタ自動車のデザイナーであった野崎喩を中心にデザインされたことが21世紀に入ってから明らかにされ、晩年の野崎本人によってスケッチやデザイン過程についての談話も公表されている。野崎は2000GTのデザイン以前の1963年に、デザインを学ぶためアメリカのアートセンター・スクールへ留学した経験があり、その当時のスケッチが2000GTのモチーフになったという。

ただし特に日本国外では(ヤマハ発動機が日産自動車とのスポーツカー共同開発を目論んだ経緯から)、それ以前にシルビア(初代)のデザインを監修した[注釈 7]とされるドイツ系アメリカ人デザイナー、アルブレヒト・フォン・ゲルツが、2000GTのデザインも手がけたという説が、広く流布している。しかしゲルツ本人は晩年の1996年8月、日本の自動車雑誌『ノスタルジックヒーロー』誌によるアメリカでのインタビュー(1997年 同誌61号に掲載)で、トヨタ・2000GTへの自身の直接関与を否定している。

ゲルツ・デザイン説の正確な出所は不明だが、日産A550X開発時にゲルツと日産がアドバイザー関係であったこと、および、A550Xもトヨタ・2000GTもリトラクタブルライトのファストバック・クーペという類似性を持ち、後者が前者の改良デザインとも見なせることが風説の原因と見られる。前述の「ヤマハへの開発丸投げ・買い取り」評の存在や、当時のトヨタ自動車に自社で(もしくはさらに広い意味で、「当時の日本人のセンスでは」)このようなデザインを行えるはずがない、という先入観も、ゲルツ・デザイン説が広まる要因となっているようである[注釈 8]

内装はヤマハ製のウッドステアリングインストルメントパネルをはじめ、回転計などを追加した多眼メーター類や豊富なアクセサリーの装備で、2人の乗員に充分な居住性を確保しながら「高級スポーツカー」らしい演出を図っている。この時代の日本車としては、異例の高級感がある良質な仕上がりであった。ハンドブレーキがダッシュボード下部配置で引き出し・押し込みで操作する「ステッキ型」であることが、特異な点と言える(このタイプのハンドブレーキレバーは、普通の乗用車やトラックではコラムシフトとの併用で前席横3人掛けを可能とする目的で1960年代前後に多用されていたが、2座スポーツカーではあまり例がない)。

ボディーカラー

ボディーカラーは、前期型では次の3色である。

  • ペガサスホワイト
  • ソーラーレッド
  • サンダーシルバーメタリック

前期型では特注色として少数台生産された次の3色が、後期型で正式採用され、計6色となった。

  • ベラトリックスイエロー
  • アトランティスグリーン
  • トワイライトターコイズメタリック(ブルーメタリック)

カタログにゴールドモデルはなかったが、特別にゴールドに塗装された車両が3台存在した。前期型2台と後期型1台である。

前期型2台(シャシー番号10130と10132)は1967年第14回東京モーターショー出展用として製作された。1台(10130)は同ショーにてスタンドコンパニオンを演じた人気モデルツイッギーの所有となり、イギリスに渡った[注釈 9]。その後、1980年頃に米国トヨタ販売が入手したが、レストア時、レッドに塗り替えてしまった。現在はToyota USA Automobile Museum[2]が所蔵しており、2006年、引火事故による塗装損傷の修復を契機に2000GT研究の第一人者である吉川信[3]の手によりオリジナルのゴールドに復元された[4]

もう1台(10132)は、同ショーで一目惚れして購入した日本のオーナーが長らく所有していたが、自分亡き後の終の住み処にふさわしい場所としてヤマハ発動機に寄贈された。その後レストアされ[5]、現在は同社コミュニケーションプラザに展示されている。これら2台の塗色はゴールドと称しているがメタリック成分が少ないため、現代の感覚から言えば黄土色と言った方が近い[注釈 10]

後期型1台(10232)はシャシー番号上は前期型に属する(正式な後期型は10401〜)。1969年の第16回東京モーターショー出展用として先行製作され、メタリック感を向上した「アフレアゴールド[注釈 11]」にて塗装された。モーターショー出展後の行方は不明である[注釈 12]

シャーシ・パワーユニット

古典的スポーツカーらしくボディとは別体となるシャーシは、ジャガー・Eタイプやロータスエランなどでの先行例に倣ったX型バックボーンフレームで、低重心・高剛性を実現した。トヨタはそれ以前にX型バックボーンフレームを、より一般乗用車向けな形態で導入していたゼネラル・モーターズに倣って2代目クラウンに採用してもいた。2000GTのシャーシが短期間で開発できたのは、これらの著名な先行メーカー製品での手法を巧みに取り込んだという一面もある。

サスペンションについては、前後輪ともコイル支持によるダブル・ウィッシュボーンとして操縦性と乗り心地の両立に成功している[注釈 13]。また、操縦性に配慮してステアリング機構はラック・アンド・ピニオン式とし、高速域からの制動力確保を企図して日本初の4輪ディスクブレーキ仕様とした。

エンジンは、クラウン用として量産されていた当時最新鋭の直列6気筒7ベアリングSOHCエンジンである「M型」(1,988cc・105PS)のブロックを流用し、ヤマハの開発したDOHCヘッドに載せ替えるなどして強化した「3M型」を搭載した。このクラスのエンジンとしては小型軽量であり、前車軸より後方寄りにエンジン搭載する、後年で言う「フロント・ミッドシップ」レイアウトが可能であった。

3M型は、キャブレター三国工業(現・ミクニ)がライセンス生産したソレックス型3連キャブレターとし、150PS/6,600rpm(グロス値)という、当時の日本製乗用車の中でも最強力クラスの性能を得た。これにフル・シンクロメッシュの5速MTを組み合わせた2000GTは、0 - 400m15.9秒の加速力と、最高速度220km/h(最大巡航速度は205km/h)を実現、当時の2L・スポーツモデルとしては世界トップレベルに達した。

しかし、ベースが量産型実用エンジンということもあり、ノーマル状態では極限までの高性能は追求せずに、公道用のGTカーとしての実用性をも配慮したチューニングが為されている。このため3M型は、その外見的なスペックの割には低速域から扱いやすいエンジンであったという。

オープンカー仕様

本車はクーペボディのみであったが、日本を舞台にした映画『007は二度死ぬ』(1967年)には劇用車としてオープンカー仕様車が登場している。

これは一般販売前に試作車をベースとしてオープン仕様車が撮影用と予備用の2台製作されたもので、撮影車両は後年トヨタ博物館に収蔵された[注釈 14]のに対して、予備車両の行方[注釈 15]は一部の者を除いて知る機会がなかったため、その存在について長らく様々な憶測や議論[注釈 16]を呼んできた。しかし2011年11月にある自動車雑誌の取材により予備車両が日本国内に存在し、徹底的なレストア作業中であることが報告された[注釈 17]。オープン仕様の車両はオリジナルの撮影用(及び予備)車両のほか、米国のコレクターPeter_Nelsonが製作したレプリカがある。こちらには実際の撮影に使用された本物の特殊装備が組み込まれており(保管していた映画製作会社からの提供を受けた)、イギリスのThe_Bond_Museum(閉館)を経て、現在はアメリカのMiami_Auto_Museum[7]に展示されている。またそれ以外にも、レプリカとしてではなくオーナーの趣味でオープントップやタルガトップに改造された数台の車両が知られている。なお、ボンドカー仕様の2000GTがオープンカーとなった理由は、ボンドを演じたショーン・コネリーの長身では2000GTのクーペ仕様では狭すぎて乗れないことが判明したためである[6]。また映画で使われた2000GTのフロントウィンドウは正面からカメラ撮影出来るように本来のガラスでは無い取り外し可能なアクリル樹脂板が使われている。

レースおよび記録

耐久レース

1966年5月の第三回日本グランプリでレースデビュー。プロトタイプレーシングカーであるプリンス・R380二台に続く3位表彰台に登った。

グランツーリズモとして開発された2000GTは耐久で強さを発揮し、日本グランプリデビューの2カ月後に初開催された鈴鹿1000kmレースではワンツーフィニッシュを決め、初優勝を飾った。翌年も鈴鹿500kmレースで優勝、富士24時間レースではスポーツ800とともにデイトナフィニッシュする大成功を収めている。

アメリカでのレース参戦

アメリカのレースには、1968年にSCCAクラスCシリーズに参加。レースのマネジメントはキャロル・シェルビーに委託された参戦したが戦績が芳しくないため、シェルビーはシーズン中に、元レーサーでレーシングモデルの製作にも通じており、シボレー・コルベットの開発チーフでもあったGM幹部のゾーラ・ダントフ(Zora Arkus Duntov 、1910-1996年)に極秘アドバイスを求めた。だがダントフに対する1995年のインタビューによれば、手を尽くしたものの「肝心のエンジンが駄目だった」ため、性能向上の打開策を得られず、成績挽回には至らなかった、という[7]

アメリカでのレース参戦結果
月日 結果
第1戦 2月25日 2/4位
第2戦 3月10日 失格
第3戦 3月31日 3/4位
第4戦 4月21日 1/2位
第5戦 6月24日 2位
第6戦 7月7日 2/3位
第7戦 7月21日 3/5位
第8戦 8月4日 3位
第9戦 8月26日 失格
第10戦 8月31日 1/2位
第11戦 9月9日 1/2位
第12戦 9月15日 2/5位
第13戦 10月13日 2位
最終戦 11月23日 4位
※最終成績は4位であった。

なおシャシーNo.10006は里帰りし、スピードトライアル車のレプリカとして作り直された。この車両は現在、トヨタ博物館で見ることができる。シャシーNo.10001およびNo.10005は、米国で個人のコレクターが所有している。

スピード・トライアル

ファイル:1966 Toyota 2000GT 01.jpg
スピードトライアル車両(画像は記録樹立車のレプリカ)。チーム・トヨタの細谷四方洋によれば記録樹立車は行方不明で、現存するのか廃棄されたのかすら分からないという[8]。)

市販前年の1966年10月1日から10月4日には、茨城県筑波郡谷田部町(現・つくば市)の自動車高速試験場(現在の日本自動車研究所)にて、国際記録樹立のためのスピード・トライアルに挑戦した。種目はスポーツ法典Eクラス(排気量1,500-2,000cc)の6時間、12時間、24時間、48時間、72時間(排気量無制限)、1,000マイル、2,000マイル、5,000マイル、10,000マイル(排気量無制限)、2,000km、5,000km、10,000km、15,000km(排気量無制限)の合計13カテゴリー。当時はポルシェクーパートライアンフなど、ヨーロッパのそうそうたる一流メーカーがこれらの記録を保有していた。樹立した記録は次のとおり。

スピード・トライアル記録
種目 平均速度
6時間 210.42km/h
12時間 208.79km/h
24時間 206.23km/h
48時間 203.80km/h
72時間 206.02km/h
1,000マイル 209.65km/h
2,000マイル 207.48km/h
5,000マイル 204.36km/h
10,000マイル 206.18km/h
2,000km 209.45km/h
5,000km 206.29km/h
10,000km 203.97km/h
15,000km 206.04km/h

なお、このトライアルは途中で台風に見舞われるなど、非常に過酷なものであった。トヨタはこの記録挑戦を宣伝広告に活用したが、1967年10月19日から10月30日モンツァ・サーキットにおけるポルシェ・911Rによるチャレンジにより大幅に破られている。

その他

  • 発売開始1年前の1966年には、サントリービールのキャンペーン「スコール・クイズ」の1等賞品にもなっていた。ビールのうんちくにまつわるやや難解な30問のマニアックなクイズが出題され、応募総数46万6,259通のうちの全問正解者13万2,745名の中から厳正な抽選が行われた。1等賞品(サントリービール博士賞)のトヨタ2000GTを獲得したのは、新潟県に住む女性であった。
  • 印象的かつ魅力的なデザインに収められた丸型テールランプレンズは、実は当時のトヨタのマイクロバス用のパーツを流用したものであった。2000GTに限らず、多くの有名な少量生産スポーツカーには、外装パーツに量産車からの流用品を用いるケースが見られる。
  • トヨタ自動車の工場見学に行くと、おみやげとしてもらえるモデルカーは長らく2000GTであった。1999年にプリウスのモデルカーに交代し、以後は歴代プリウスが起用されている。このモデルカーは、車軸が回転できるようになっており、内蔵するバネにより添付のカタパルトから発進させ、走らせて遊ぶことが可能。一般向けの販売はされていない、非売品である(トヨタ博物館2006年12月に開催された特別展「プラモデルとスロットカー」では、一日限定200個という数ではあるが、小中学生向けの体験工作イベント用として無料配布された。工場見学の際にもらえるものはもっともポピュラーな実車の色であるアイボリーなのだが、このイベントで配布されたものは水色だった)。また、歴代のモデルカーはトヨタのショールームであるトヨタ会館にも展示されており、そこには黄色の2000GTモデルカーや化粧箱、組み立て説明書等も展示されている。トヨタの記録では1970年以降2000GTだったとされており、それ以前のモデルが何であったのかは不明[注釈 18]
  • 当時純正として装着されていた独自デザインの「マグネシウムホイール」は2000GTのアイデンティティの一つとも言えるアイテムであるが、製造から30-40年程経過し、マグネシウムに生じやすい「腐食」が発生して、オリジナルコンディション維持に努めるオーナーを悩ませている事例が多い。これを代替するため、オーナーズクラブからの要望もあり、ある有名ホイールメーカーから同一デザインで材質だけをアルミニウム合金に変更したアルミホイールが限定製作されている。
  • 愛知県の自動車修理・レストア業者であるロードスターガレージ有限会社が、2000GTのレプリカを製作している。2009年東京オートサロンではフェアレディZ (S30型)ベースのレプリカを展示した。近年、ユーノス・ロードスターをベースとしたレプリカが完成し[注釈 19]、市販を開始した。また、2014年には同じく愛知県にあるロッキーオートが2000GTの開発関係者らの監修のもとに精巧なレプリカを完成させ、市販することを公表した。[注釈 20]

脚注

注釈

  1. 「A~X」と言う呼称は日産自動車のもので、後世にも「YX」で始まるヤマハ側の開発コードは見られない。A550Xも2000GTも、共通しているのはリトラクタブルヘッドランプを持つファストバッククーペということのみで、車体構造的には全く異なる。エンジンも、A550Xはヤマハ発動機が米国の航空機メーカーから特許を購入して開発したタイスエンジン(全溶接製ブロックを持つDOHC4気筒エンジン)をヤマハ発動機が独自に改良したYX80型を搭載していたのに対して、2000GTはクラウンのM型(SOHC 6気筒)にトヨタとヤマハ発動機が共同開発したDOHCヘッドを組み合わせた3M型を搭載しており、全く相違していた。
  2. トヨタ・2000GTのヤマハ側の開発責任者だった技術者の安川力(やすかわ ちから)はモノ・マガジン No.323(1996年8月2日号)のインタビュー(238ページ)で、日産、トヨタ両社の関連を否定している。
  3. 構造的にもYX30がスペースフレーム構造であるのに対し、2000GTは2代目クラウンと同じX字型バックボーンフレーム構造で、トヨタの力が無ければ制作は困難である
  4. ヤマハ公式の「XS-1 開発ストーリー」によると、1970年のXS-1の4ストロークエンジンを開発するに当たってヤマハはトヨタの2000GT開発陣にアドバイスを受けたり、構造こそ大きく違うものの2000GTのエンジンの部品・設計の一部を流用したりしたという
  5. 当時日本でSOHC直列6気筒エンジンを生産していた国産メーカーはトヨタのほか、プリンス(1963年発売のグロリア・スーパー6用G7型)と日産(1965年発売のセドリック・スペシャル6用L20型)のみでいずれもメインベアリングは4ベアリング仕様であり(日産L型はのち7ベアリング化)、当初から7ベアリング仕様になっていたのはトヨタのM型だけであった。
  6. 「L」は左ハンドル(Left-hand drive)を表す。
  7. 実際のシルビアのデザインは日産社内デザイナーの木村一男によるもので、ゲルツはデザイン顧問という立場でこれを監修した。
  8. 自動車評論家の山口京一は、生前のゲルツから日産・A550Xのデザインに携わったという証言を得ているといい、これを引いてやはり評論家の福野礼一郎も日産経由のゲルツ・デザイン説を推しているが、ゲルツ本人の証言とは相反することになる。
  9. 彼女が気に入り購入したとも言われるが、真相は不明。米国トヨタの資料ではモーターショーの後に贈与されたとしている。リンク (PDF)
  10. 現在の両車は共にレストア時にややメタリック感を増加させており、完全なオリジナルカラーの復刻にはなっていない。
  11. 日本画に使用されている雲母を原料にした金色顔料のこと。
  12. 当時モーターショーで見たというオーナーの記憶を頼りに、レストア時にホワイトから塗り替えられた後期型が存在する
  13. トヨタではこれ以前の1947年にトヨペットSA型で前輪ウィッシュボーン、後輪スイングアクスルの四輪独立懸架を導入していたが、当時は技術が未熟で実用上耐久性不足な失敗に終わっていた。
  14. ここに至るまでの経緯は少し複雑である。映画撮影後は1966年東京モーターショー展示を皮切りに、北米へ空輸され1967年一杯各地を回った後に日本へ戻り、1968年5月より富士スピードウェイでマーシャルカーとして使用されたが、1970年代前半に再び日本を出て、1970年代後半にハワイでブルーに塗り替えられた状態で発見された。それを1977年トヨタが引取り日本でレストアを施したが、当時のボディラインや演出用の装備品は失われている。
  15. こちらは1967年のジュネーブショーに登場し、以後1967年一杯ヨーロッパでの宣伝活動に使用されてから日本へ戻り、それ以降の消息が分からなくなっていた。日本国内で予備車を撮影した写真は京本政樹がブログで公開している展示状態の一枚[1]しか確認されていないが、その撮影場所や時期は明らかにされておらず、予備車の国内展示についての詳細は不明である。
  16. 「ボンド仕様は1台しか製作されていない」または「同時完成ではなく2台目は撮影に間に合わなかった」というものである。これは予備車両が当初想定の用途とされた英国撮影スタジオで使われたことを証明する写真や、撮影車両と予備車両が同時に写っている写真が出てこないことから生まれた。
  17. 西川淳「映画のクルマ特別企画 幻のボンドカー、発見!」『CARZY 創刊号』株式会社コンタクト、 2011年、 63-69頁。
  18. 一応、「セリカのモデルカーが存在した」という証言を受けトヨタも調査したが、ゴミの中から現物が見つかった以外、何も情報が残っていなかったという。このモデルカーも他のモデルカーと同じく、トヨタ会館にある。
  19. クーペボディだけでなく『007は二度死ぬ』に登場したオープン仕様風のモデルも用意されている(なお、幌を閉じる事も可能となっている)ものの、ロードスターをベースとした関係によりクーペボディの方はオリジナルと異なり現状ではタルガトップとなっている[2]ほかドアのライン位置等の細かい点も異なっている。
  20. こちらは roadster龍妃 とは異なりベース車両を持たず、車体はフレームから設計・開発したものである。2017年現在、トヨタ・アクアのハイブリッドシステムを搭載した前輪駆動モデルとトヨタ・スープラの3リッターエンジンを搭載した後輪駆動モデル、さらにオープントップモデルが販売されている。

出典

  1. いつの日も遠く 第二章 四輪自動車の日々
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  6. BBCTop Gear』ジェームズ・ボンド50周年スペシャル(2012年10月放送)による。
  7. Old-timer』No.59、p.79
  8. 『トヨタ2000GTを愛した男たち』三恵社、100頁

関連項目

外部リンク