トロット

提供: miniwiki
2018/9/5/ (水) 09:28時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版 (1版 をインポートしました)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先:案内検索


トロット
各種表記
ハングル 트로트
漢字
発音 トゥロトゥ
2000年式
MR式
Teuroteu
T'ŭrot'ŭ
テンプレートを表示

トロット트로트)は、韓国における大衆楽曲ジャンルのひとつである。日本の演歌と酷似した性格を持つため、しばしば韓国演歌と呼ばれることがある。

特徴

韓国の旧来型大衆楽曲のうち、「ズンチャッチャ、ズンチャッチャ…」の3拍子ないし「ズンチャチャチャッチャ、ズンチャチャチャッチャ…」の4拍子を基本とするものを「トロット트로트)」、「ンチャ、ンチャ…」の早い2拍子を基本とするものを「ポンチャック뽕짝)」と呼ぶ。「トロット」は曲調のテンポを表す英語である「フォックストロットFoxtrot)」の一部をとったものであり、「ポンチャック」は曲の伴奏のリズムを表す朝鮮語擬音語を語源とするやや下世話な音楽とする蔑称である。

トロットの曲構成においては、朝鮮民謡を由来とする3拍子5音階を用いることが多く、その音階法は、西洋音楽が7音階を基本とするのに対して5音階を取っているために第4音と第7音は存在せず、4と7を抜いているとするいわゆるヨナ抜き音階ペンタトニック・スケール)と呼ばれる。

トロットの歌詞テーマにおいては、別離や薄幸などに対する「ハン、恨)」、「男女間や家族間の情愛」、「大自然や日常風景の人生観への投影」などが好んで取り上げられる。「ハン()」とは、漢字で表記すれば「恨」であるものの仏教用語でいう「煩悩」や日本語で言う「怨恨」・「恨み」とは異なる概念であり、自分の理想・なりたい境遇・やり遂げたい事・成就させたい恋愛などに関して、自分なりの努力にもかかわらずなかなか叶えられないことに対する不満・嘆き・嫉妬などと、それでもあきらめ切れない夢と羨望の念が入り混じった、韓国人特有とされる情念のことを指す。

その唱法においても、小節(こぶし)廻しを用いた独特の歌唱法が多用される。男女ともトロット歌手洋装での出演が多いものの、かつての女性トロット歌手は洋装とともに韓国のイメージを出すためにチマチョゴリで出演することが多かった。日本の演歌シーンにおいて女性演歌歌手が日本のイメージを大切にする目的で歌唱時に和装を多用することに似ている。

また、歌詞の言いまわしひとつにしても、例えば男女間の情念をテーマとする曲で相手を二人称で呼称する場面において、「カヨ(가요、歌謡、日本で言ういわゆるK-POP)」ではクデ그대 〜日本語でいう「君」・「あなた」に相当)を多用するのに対し、トロットではタンシン당신、当身(當身)、〜日本語において、婚歴の長い夫婦や付き合いの長い恋人同士で、あるいは親友同士で、また喧嘩相手に対して用いられる「おまえ」・「あんた」に相当する。朝鮮語でも全く同様の用法をとる)を好んで用いるところなど、日本のJ-POP演歌の歌詞の言い回しの違いにそっくりである。

その他、前述の音階法を始めとするコード進行メロディー構成やアレンジ、歌詞に好んで取り上げられるテーマ素材や歌詞表現の言い回し、プロ歌手の歌唱法やふるまい、ファン層が中高年層中心であること、近年はポップス楽曲に押されて相対的に売り上げが低迷しているが細く長くヒットする曲が多いこと、根強くテレビ放送に独自枠を持つことなど、完全に日本の演歌と酷似した性格をもつ。

歴史

草創期

朝鮮で初めて発表されたトロットのレコード1908年イ・ドンベク(李東伯 / 이동백)の「赤壁歌」(ビクターレコード)である。1926年にはユン・シムドク(尹心悳 / 윤심덕)の「死 贊美」(死の賛美)(ニットーレコード)がヒットした。ユン・シムドクは大阪での同レコードの吹き込み後に、劇作家のキム・ウジン(金祐鎮 / 김우진)と共に関釜航路に就航していた徳寿丸から投身自殺をし、朝鮮全土に一大センセーションを巻き起こしたことでも知られており、皮肉なことにその話題先行によりレコード発売前から大ヒットは約束されていたようなものであった。

日本のレコード会社は大正時代より、日本蓄音器商会(現在のコロムビア)・大阪の日東蓄音器などが朝鮮市場向けに小規模に朝鮮盤(朝鮮語版レコード)を発売していたが、昭和になってから本格的に進出を開始し、1928年ビクター1929年にコロムビア、1931年ポリドール・タイヘイレコードの順で進出した。また1931年には現地資本のシエロンレコードが設立され、1933年にはテイチクが現地資本との合弁でオーケーレコードを設立した。当時の日本のメジャーレーベルの中では唯一、キングレコード講談社)のみが朝鮮盤の生産を行わなかった。

第二次世界大戦までの動向

1932年10世紀から14世紀の朝鮮半島の王朝国家で、コリアの語源にもなった高麗の首都・開城を舞台に歌い上げたイ・エリス(李愛利秀 / 이애리수)の「荒城跡」(荒城の跡)が、朝鮮語版レコードによる初の全国的ヒットとなった。また、同年に蔡奎燁(チェ・ギュヨプ / 채규엽)が日本のヒット曲を朝鮮語に訳して歌った『酒は涙か溜息か』などで人気を博した。また、日本の人気歌手であったディック・ミネが三又悦(サムヨル=サミュエル)名義で朝鮮語を用いてジャズナンバーを発表するなど、相互通行的な動きも見られた。さらに、本来は韓国の伝統芸術的な歌曲であった『鳳仙花』をソプラノ歌手金天愛(キム・チョネ / 김천애)が歌い大ヒットとなった。

1934年には『노들 江邊』(ノドル河辺)に代表されるいわゆる新民謡(創作民謡)がヒットする傾向を見せ、鮮于一扇(ソヌ・イルソン / 선우일선)などの妓生歌手が数多く誕生した。さらに、同年には高福寿(コ・ボクス / 고복수)の『他鄕살이』(他郷ぐらし)、1935年には李蘭影(イ・ナニョン / 이난영)の『木浦 눈몰』(木浦の涙)、1937年には張世貞(チャン・セジョン / 장세정)の『連絡船 떠난다』(連絡船の歌)が、日本による統治への反発を抱く大衆の思いを代弁する形となり大ヒットした。

1938年には歌謡皇帝こと南仁樹(ナム・インス / 남인수)の『哀愁 小夜曲』(哀愁のセレナーデ)がヒットし、南仁樹は作曲家の朴是春(パク・シチュン / 박시춘)と組んで後の韓国歌謡界に不動の地位を築くこととなった。この頃、民謡の女王として李花子(イ・ファジャ / 이화자)も人気を博している。金貞九(キム・ジョング / 김정구)の『눈물 젖은 豆滿江』(涙の豆満江)が世に出たのも同時期だが、この歌はむしろこの時よりも、朝鮮動乱後にリバイバルヒットした事で知られている。1940年には白年雪(ペン・ニョンソル / 백년설)の『나그네 설움』(旅人の悲しみ)が、また秦芳男(チン・バンナム / 진방남)の『不孝者 읍니다』(不孝者は泣きます)が大ヒットとなった。

その後の第二次世界大戦の戦局悪化にともない、朝鮮においても内地と同じように軍部が士気高揚のために利用した戦時歌謡が量産されるようになった。朝鮮人志願兵第一号として軍当局の言ういわゆる名誉の戦死をした李仁錫(イ・インソク)一等兵の最期を美談に作り上げて大々的に喧伝し、「内鮮一体」のスローガンの気運を盛り上げようと謀る当局の介入に、朝鮮における歌謡界の自由性も次第に萎縮していった。

戦後から1970年代までの動向

1945年の日本の敗戦により朝鮮は解放され、1948年8月15日大韓民国樹立によって在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁による占領統治が解除されても、依然として在韓米軍は数多く駐留したままであった。米国への留学経験を持つことから抗日親米主義者である韓国初代大統領李承晩が1948年から1960年まで韓国で軍事独裁政権を掌握し、トロット界においても「酒は涙か溜息か」などの日本をルーツにした楽曲は事実上の発禁処分とされる事になった。1947年には玄仁(ヒョン・イン / 현인)の「新羅 달밤」(新羅の月夜)が大ヒットしている。米軍キャンプをまわるジャズ歌手なども多く登場している。

1950年6月25日の北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国の南侵によって勃発した朝鮮戦争により、国土は壊滅的な打撃を受けた。朝鮮戦争中は軍歌が流行したが、1953年7月27日朝鮮戦争休戦協定署名後には北朝鮮へ渡った作曲家・作詞家などに対して「越北作家」のレッテルが貼られ、彼らの作による『断髪令』・『有情千里』など多くの歌が発禁処分となった。これは1988年まで続き、著名曲でありながら公の場では歌えない歌謡曲が多く存在することとなった。

1954年には、イ・ヘヨン(李海燕 / 이해연)による「断腸のミアリ峠」(단장의 미아리고개)が大ヒットした。1957年にはエレジーの女王・イ・ミジャ(李美子 / 이미자)がデビューし、後に彼女は韓国歌謡界の女王として君臨することとなる。

1959年ごろから、韓国においてもSPレコードからLPレコードの時代となり、従来は比較的身分の低い低学歴の職業と目されてきた歌手界にも、大学卒の歌手が出現するようになり話題となった。

1961年には、ハン・ミョンスク(韓明淑 / 한명숙)の「黄色いシャツの男」(노란 샤쓰의 사나이)が大ヒットして、フランスのシャンソン歌手イベット・ジローが同曲をソウルで吹き込んだり、日本においても一部朝鮮語の歌詞を残したまま日本語訳詞が付けられてヒットするなど、社会現象を引き起こした。またこの頃、反共ラジオドラマによって「涙の豆満江」がリバイバルヒットしている。

1962年に就任した朴正煕大統領は文化界に強い圧力を加えだし, 1975年にはビートルズなどの曲が共産主義色彩をたたえるという理由で総222曲が発行禁止処分が酔われたりした. また李美子の歌が倭色と言って多数禁止曲に指定されたりした.

1967年、ナム・ジン남진)による「カスマプゲ」(가슴 아프게)が大ヒットした。同年には、後に国民的歌手となる羅勲児もデビューを果たしている。1971年にはフォークデュオのラナエロスポ(라나에로스포)による『サランヘ』(사랑해)が、1973年にはパティ・キムによる『離別』が大ヒットし、両曲の作曲家を手がけた吉屋潤の名を高めた。 特に『離別』は、北朝鮮の金正日総書記の十八番としても知られている。

1976年にはチョー・ヨンピルによる「釜山港へ帰れ」が大ヒットする。また、1977年には李成愛が日本語に訳したトロットを日本でヒットさせた。従来にも菅原都々子による『連絡船の歌』のヒットや、平壌出身の歌手である小畑実の人気などスポット的に韓国歌謡の日本でのヒットはあったものの、本格的なトロットの日本への紹介は李成愛が初めてであった。李成愛の成功は、チョー・ヨンピルや羅勲児らの歌うトロットの日本進出をもたらし、近年の韓流ブームほどは爆発的でないにせよ、第一次韓国ブームともいえる現象を引き起こし、韓国歌手の名前が日本にも浸透するようになり、後にキム・ヨンジャ桂銀淑などの韓国人歌手が日本に進出・定着する礎となった。 また、『黄色いシャツ』・『離別』・『カスマプゲ』・『釜山港へ帰れ』などの数々のトロットを日本人演歌歌手が競ってカバーするようになり、日本でも大ヒットすることとなった。

1980年代以降動向

1980年代に入って一時復活の兆しが高まったものの、その人気は長期的に見て凋落傾向にある。

ことに1990年代以降は、ソテジワアイドゥルなどに端を発する、従来のトロットの流れを全く汲まないグループやアーティストによる洗練されたダンス曲・ポップロック・バラードなど、いわゆるK-POPが若年層を中心に絶大に支持され、トロットはすっかり中高年世代限定の歌というイメージになってしまっている。しかし、ヒョンチョルテ・ジナソン・デグァンソル・ウンドのトロット四天王が登場し一定の存在感を示す。

日本において電気グルーヴによって李博士が紹介されると一気にテクノファンに浸透し、ポンチャック・ブームを巻き起こした。

2004年にはチャン・ユンジョンの「オモナ(어머나)」がトロット楽曲としては、1993年のキム・スヒの「愛慕」以来12年ぶりに地上波音楽番組で1位を獲得した。

韓国ではドライバーが好んで聞くジャンルの音楽である。高速道路サービスエリアの売店でCD、カセット集が販売されていたり、交通情報専門ラジオである「交通放送」や2MBC標準」などのラジオ局では昼間の時間帯を中心に多くのトロット曲がオンエアされている。

しかしラジオ番組からトロットは減少する傾向にあり、いくつかの番組やトロット枠(KBS2/happyfmの午前11時台)などが消えている。WBS円音放送は仏教系の宗教局でありながら積極的にトロット番組をオンエアしている。

歴代のトロット歌手

1950年以前デビュー

  • イ・エリス(李愛利秀/ 이애리수
1930年20歳でデビューし、1932年に高麗時代の旧都である開城を舞台にした『荒城의跡』(荒城の跡)が朝鮮盤(朝鮮語版レコード)初の大ヒットとなった。同年、日本においても李アリスの芸名で西條八十の詞による『あだなさけ』などを発表した。私生活においては恋愛にからむ人間関係不調を苦にして2度の自殺未遂を起こすなど波乱の人生をおくった。
  • チェ・ギュヨプ(蔡奎燁 / 채규엽
1930年デビュー。1932年に『酒は涙か溜息か』・『希望の丘(丘を越えて)』・『影を慕いて』など日本の流行歌を朝鮮語訳して歌いヒットした。その後も『峯子の歌』などのヒットを連発するが、1934年には当時の東京市内カフェー(当時存在した風俗営業を行う特殊喫茶)で女給(広く一般的に女子のサービス業従業員のことを指したが、赤線やカフェーにおいては狭義に風俗営業を行う女性のことを指した)との淫行スキャンダルを起こし、1937年には詐欺容疑逮捕されるなど私生活でも話題にも事欠かなかった。また日本においても長谷川一郎の芸名でレコード発表をした。とても朝鮮人とは思えない極端な親日派として知られ、第二次世界大戦時に大政翼賛会に加入したばかりか、帝国陸軍の軍装で軍用機募金運動を行うなどした。日本の敗戦後には親日派にもかかわらず上手く立ち回り訴追されることなくステージ活動などを続けたものの、イデオロギー転向して1949年北朝鮮へ渡り、最後には反体制分子として炭坑に収容されて重労働を課され、野垂れ死に同然の悲惨な最期を遂げたという。
  • イ・ナヨン(李蘭影/ 이난영
1916年全羅南道木浦府(現在の木浦市)生まれ。1933年オーケーレコードからデビュー。元祖「エレジーの女王」と称されている。1935年に『木浦 눈몰』(木浦の涙)が大ヒット。1939年には作曲家の金海松(キム・ヘソン / 김해송)と結婚。1940年には『泣けよ門風紙』・『木浦は港』がヒットする。日本敗戦後は夫とK.P.K楽団を主宰するが、朝鮮戦争で夫が北朝鮮軍に拘束され、2人の最期の別れとなった。儲けた7人の子供は渡米しラスベガスで歌手として活躍したが、本人は晩年慢性アルコール中毒となり1965年にさみしい最期をとげた。
  • コ・ボクス(高福寿/ 고복수
1911年生まれ。コロムビアに所属していたがなかなかデビューのチャンスがなく、1934年にオーケーレコードに転出して『他鄕살이』(他郷ぐらし)でデビュー。これが大ヒットし、1935年には『沙漠の恨』、1937年には『짝사랑』(片思い)などのヒットを飛ばした。1939年に同じく歌手の黄琴心と結婚した。1958年に歌手を引退し、種々の事業を展開するもことごとく失敗し、1972年に寂しい老後を終える最期となった。
  • イ・ファジャ(李花子 / 이화자
1935年酒場の従業員をしていたところをスカウトされ、いわゆる妓生歌手の中では最も多くヒット曲を連発した。1938年に『コルマンテ牧童』が、1939年には『어머님 前上白』(母への手紙)がヒット。1940年の『花柳春夢』は、日本人歌手である菅原都々子が『片割れ月』としてカバーするほどのヒットとなった。私生活においてはスキャンダルの女王として知られ、晩年にはアヘン乱用により1950年中毒死したとされているが、最期に至るまでの詳細や没年齢は定かではない。
  • ナム・インス(南仁樹 / 남인수
『涙の海峡』でデビュー、1937年オーケーレコードからの再デビューで『水車サラン』がヒット。学歴・音楽経験ゼロからのスタートだったが、作曲家の朴是春(パク・シチュン / 박시춘)との黄金コンビによって、1938年には『哀愁 小夜曲』(哀愁のセレナーデ)、1940年には『泣いて別れた釜山港』などが大ヒットした。「女インス」「金インス」と呼ばれるほどの遊び人として知られた。締まり屋としても知られ、日本の敗戦後は興行にも手を伸ばし、持病の肺結核を悪化させることとなった。1946年に『가거라 三八線』(去れよ三十八度線)、1953年に『離別 釜山停車場』(別れの釜山停車場)、1956年には『青春告白』などのヒットを飛ばし、1962年に没するまで第一線のスター歌手であり続け、生涯で1000曲あまりを歌い歌謡皇帝とまで称された。
  • ファン・グムシム(黄琴心 / 황금심
1921年生まれ。1938年『いとしのあなた』でデビュー。1939年に同じく歌手の高福壽と結婚。1953年に『三多島消息』をヒットさせた後引退して、数多の事業に乗り出すもことごとく失敗して苦しむ夫の高福寿を物心両面で支えた。2001年逝去。
  • チャン・セジョン(張世貞 / 장세정
1921年生まれ。平壌の少女歌手として、1937年に『連絡船 떠난다』(連絡船の歌)でデビューし、大ヒット。1939年には『港の名無草』がヒット。当時の芸能界に力のあった李哲(イ・チョル / 이철)の歓心を得ようと綱引きを繰りひろげた、ライバル李蘭影との不仲は有名である。1940年には『さらば断髪嶺』がヒット。日本の敗戦後は舞台などで活躍したが、晩年はロサンゼルス市内で過ごした。2003年逝去。
  • キム・ジョング (金貞九/ 김정구
1916年江原道元山府(現在の元山市)生まれ。1931年に元山光明普通学校卒業。兄に作曲家の金龍煥(キム・ヨンファン)、姉に歌手の金安羅(キム・アンラ)をもつ。キリスト教徒で、1938年の『王書房恋書』などのコミックソングで人気を博した。同時期に『눈물 젖은 豆滿江』(涙の豆満江)・『海の交響詩』を発表し、ヒットとなる。『涙の豆満江』は1960年KBSラジオ反共ドラマによって再び人気に火がつき、1990年代初頭まで韓国国民の間では『釜山港へ帰れ』を上回る支持を集めていた。こうした功績によって1980年に歌手として受賞することは稀有な文化勲章を授かっている。ソウル市内の『草原の家』というビアホールで70歳を過ぎてからも現役歌手としてステージに立っていたが、1998年ロサンゼルス市内で逝去。
  • ペク・ニョンソル(白年雪 / 백년설
1915年生まれ。やや不安定な歌唱でレコード収録の際にNGを連発する事で知られる。1939年に『流浪劇団』がヒット。1940年には『나그네 설움』(ナグネソルム)が大ヒットし、『番地없는 酒幕』(番地のない酒場)もヒットした。1941年には満州移民奨励歌『福地萬里』・『大地 港口』(大地の港)がヒットした。日本の敗戦後は歌手活動を停止して事業展開に専念するが、朝鮮戦争を経て歌手復帰した。1970年に引退、熱心なエホバの証人の信者でもあった事から、1978年ロサンゼルス市に渡り、1980年に没した。
  • チン・バンナム(秦芳男 / 진방남
1917年生まれ。1940年に『不孝者읍니다』(不孝者は泣きます)がヒット。日本での収録中に母の訃報が入り、曲のタイトルそのままのレコーディングとなった。その後、1950年からは作詞家に転向し半夜月のペンネームで『斷腸 彌阿里고개』(断腸のミアリ峠)などの作詞を手がけたことで知られる。
  • ヒョン・イン (玄仁/ 현인
1919年に温泉街である釜山府東莱(現在の釜山広域市東莱区)に生まれる。本名は玄東柱(ヒョン・ドンジュ / 현동주)。1942年に東京・上野の東京音楽学校声楽科を卒業したバリトン歌手で、上海で活動中に終戦を迎えた。声を震わせるような歌唱で知られ、1947年に『新羅 달밤』(新羅の月夜)がヒット。その後も1951年の『がんばれ!クムスン』、1953年の『ラッキー・ソウル』などのヒットを飛ばし、晩年まで懐メロ番組の常連であった。2002年に逝去。

1950年代デビュー

  • 李美子(イ・ミジャ / 이미자
1941年京城府(現在のソウル特別市)生まれ。1958年にデビューし、エレジーの女王と呼ばれている。伝統的に歌手という職業が低く見られがちであった韓国においては、破格の扱いを受けるまさに歌謡界の女王といえる。韓国では美空ひばりのことを「日本の李美子」と称するほどであり、その存在の大きさが窺える。主要なヒット曲だけで100曲を超え、歴代大統領コンサート観覧に訪れたほどである。1965年のヒット曲『東栢 아가씨』(椿娘)は日本的な曲であるとの理由で当局により発禁処分を受けた。韓国の3大放送局のひとつMBC(韓国文化放送)による韓国歌手人気ランキングではチョー・ヨンピルに次ぐナンバー2の得票で、ナンバー3の人気ポップスグループソテジワアイドゥル(서태지와 아이들)を抑えたこともある。

1960年代デビュー

1970年代デビュー

1955年生まれ。明知大学校の学生であった1978年に、韓国MBC大学歌謡祭で自作曲『그때 그사람』(あの時あの人)を歌い、歌手デビューする。翌1979年に起こった朴正熙大統領射殺事件の宴席に酌婦として同席していたことが明らかになり、1981年まで放送出演禁止措置を受けた。

1980年代デビュー

1990年以降デビュー

関連項目