ニシュ

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Niš/Ниш/ニシュ
愛称:皇帝たちの街[1]
座標: 東経21度53分46秒北緯43.31917度 東経21.89611度43.31917; 21.89611
セルビア
ニシャヴァ郡
自治体 5
最初の記録 2世紀
オスマン帝国からの解放 1878年1月11日
行政
 - 市長 Zoran Perišić (SNS)
 - 与党 SNS
面積
 - 市域 597km2 (230.5mi2)
標高 195m (640ft)
人口 (2011)
 - 市域 増加 183,164 [2]
 - 都市的地域 増加 187,544 [2]
 - 都市圏 増加 260,237 [2]
等時帯 CET (UTC+1)
 - 夏時間 CEST (UTC+2)
郵便番号 18000
市外局番 (+381) 18
ナンバープレート NI
ウェブサイト www.ni.rs

ニシュセルビア語: Niš/Ниш)は、セルビアの都市で、セルビア南部では最大の都市である。セルビアでは首都ベオグラードノヴィ・サドに次いで3番目に大きな都市で、2011年の国勢調査による人口は市街地で192,208人[3]、郊外を含めた全域では257,867人であった。ニシュの面積は597㎢で、市街地の4つの自治体と郊外のニシュカ・バニャEnglish版を含めた計5つの自治体で構成され郊外は68の地区に分かれている。ニシュはニシャヴァ郡の行政的な中心都市である。

バルカン半島やヨーロッパでもニシュはもっとも古い都市のうちの一つで、古代からオリエントと西側の世界を結ぶ玄関口であった。[4] 古代のバルカンでトラキア人鉄器時代に最初にこの地域一帯に居住し始め、トラキア人の部族であるトリバッリがケルト人がバルカンにやって来る前まで住んでいた。紀元前279年頃にケルト人がやって来ると、ケルトの一部族スコルディスキが地域を治めるようになる。紀元前75年には今日のニシュ市街を含む周辺部はローマ人により征服された。古代ローマは1世紀になるとミリタリス街道English版を建設し、ナイッスス(Naissus)と呼ばれた当時のニシュの町は重要な町の一つとなった。ニシュはまたコンスタンティノープルを創建した最初のキリスト教徒のローマ皇帝コンスタンティヌス1世の生誕地として有名で[5]コンスタンティヌス3世English版ユスティヌス1世の生誕地でもある。セルビアでももっとも古いものの一つである4世紀に遡る教会が郊外のメディアナEnglish版にある。

現代のニシュはセルビアではもっとも重要な産業や教育の中心の一つで、電気産業や機械エンジニアリング、織物、タバコ産業の中心である。2013年にニシュではミラノ勅令から1700年を記念した催しが行われた。[6]

呼称

ファイル:Niš, koryto řeky Nišavy.jpg
市内を流れるニシャヴァ川

街の名称は市内を流れるニシャヴァ川English版や紀元前3世紀のケルト人の支配者 Navissos より名付けられ、その後ローマのNaissus、ビザンティンのNysos、スラヴのNišとして知られた。伝説ではニシュはニサ王子により近くのフムスカ・チュカ Humska Čukaの石を用いて築かれた。

地理

ニシュは北緯43度19分、統計21度54分に位置し、ニシャヴァ川流域の東側、南モラヴァ川English版の合流点近くに位置する。市街中心部の中央広場の海抜は194 m (636 ft)である。最高地点はスヴァ・プラニアEnglish版のスコロヴ・カメン"Sokolov kamen" (ハヤブサ岩)で海抜(1,523 m (4,997 ft))で、最低地点はニシャヴァ川の合流地点近くのトルパレEnglish版で海抜 (173 m (568 ft))である。市を構成する5つの自治体の面積は596.71km²である。

気候

ニシュの年間平均気温は11.2℃である。最暖月は7月で平均気温は21.2℃、最寒月は1月で 平均気温は0.2℃である。年間の平均降雨量は567.25mmで、平均気圧が992.74 mb、年間平均降雨日は123日で45日間は雪に覆われる。

ニシュ (1981-2010)の気候資料
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C (°F) 21.7(71.1) 23.5(74.3) 28.6(83.5) 33.0(91.4) 34.7(94.5) 40.3(104.5) 44.2(111.6) 42.2(108) 37.2(99) 32.6(90.7) 29.0(84.2) 22.2(72) 44.2(111.6)
平均最高気温 °C (°F) 5.3(41.5) 7.3(45.1) 13.7(56.7) 19.3(66.7) 24.6(76.3) 28.2(82.8) 30.8(87.4) 31.1(88) 25.1(77.2) 19.4(66.9) 13.6(56.5) 6.8(44.2) 18.8(65.8)
日平均気温 °C (°F) 0.8(33.4) 2.1(35.8) 7.5(45.5) 12.6(54.7) 17.5(63.5) 20.9(69.6) 23.0(73.4) 23.1(73.6) 17.7(63.9) 12.6(54.7) 7.5(45.5) 2.6(36.7) 12.3(54.1)
平均最低気温 °C (°F) -2.3(27.9) -1.6(29.1) 2.7(36.9) 6.8(44.2) 11.3(52.3) 14.4(57.9) 16.2(61.2) 16.2(61.2) 12.0(53.6) 7.7(45.9) 3.2(37.8) -0.3(31.5) 7.2(45)
最低気温記録 °C (°F) -23.7(-10.7) -19.3(-2.7) -13.2(8.2) -5.6(21.9) -1.0(30.2) 4.2(39.6) 4.1(39.4) 4.6(40.3) -2.2(28) -6.8(19.8) -14.0(6.8) -15.8(3.6) -23.7(-10.7)
降水量 mm (inches) 38.8(1.528) 36.8(1.449) 42.5(1.673) 56.6(2.228) 58.0(2.283) 57.3(2.256) 44.0(1.732) 46.7(1.839) 48.0(1.89) 45.5(1.791) 54.8(2.157) 51.5(2.028) 580.3(22.846)
湿度 80 74 66 63 65 65 61 61 69 73 77 81 70
平均降水日数 (≥ 0.1 mm) 13 13 12 13 12 11 9 8 9 9 11 14 134
日照時間 64.5 93.3 147.8 171.5 220.9 251.2 286.7 274.3 201.9 150.5 85.9 49.4 1,997.7
出典: Republic Hydrometeorological Service of Serbia[7]

歴史

古代

考古学的な発見から新石器時代住居の跡も見られる。ニシュやその周辺地域は紀元前5000年から紀元前2000年に遡るが、その中でもフムスカ・チュカ(Humska Čuka)注目される遺跡である。[8] トラキア人の出現は鉄器時代頃である。ローマ以前の中心となる町は現在のベラ・パランカにあったダキア人の町アイアダヴァで後のローマのレメシアナである。トラキア人の部族トリバッリはニシュ周辺に居住し、紀元前424年早期に言及されている。紀元前279年頃にケルト人がバルカン半島に侵入するとケルト系のスコルディスキはトリバッリを征服し、居住したが当時の都市はナヴィッソス Navissosの名で知られていた。[9]

ローマ時代

ファイル:Липадаријум 10.jpg
ナイススのラピダリウム

バルカン半島がローマにより征服された紀元前175-168年、ナイッソスNaissos(ナイスス,Naissus)は作戦の基地として使われた。ナイススが最初にローマの文書に記録されたのは2世紀が始まった頃で、クラウディオス・プトレマイオスGeography で注目に値する場所と考えていた。ローマによって支配された町はダルダニアEnglish版戦争(紀元前75-紀元前73年)の期間に軍団が組織された。[10] 町は初期ローマに関連した避難地を意味するレフュジアや勝ったなどを意味するviciと呼ばれ、戦略的に重要な場所でモエシア・スペリオルの駐屯地や市場町であった。[11] 古代ローマミリタリス街道を1世紀初期に建設し、ナイススは重要な町の一つとなった。リスッスEnglish版セルディカシギディニウムEnglish版ラティアリアEnglish版テッサロニカスクーピEnglish版経由)5つの街道がナイススで交差していた。[10]

3世紀の危機にあった268年、皇帝はいずれも短命に終わりゴート族の大規模な侵入も起こった。ゴート族の連合によりトラキアマケドニアモエシアパンノニアは蹂躙された。その後、クラウディウス・ゴティクスが皇帝に就くと、3世紀の戦いの中でも血なまぐさい戦いの一つであるナイススの戦いでゴート族の連合軍を打ち破っている。ゴート族の連合軍は3万から5万人がこの地で戦死している。272年になると後の皇帝となるコンスタンティヌス1世がナイススで生誕した。コンスタンティヌスはダキア・メディテッラネア州を制定し、ナイススを首府としている。

ファイル:Medijana mozaik.jpg
メディアナのモザイク

皇帝の邸宅跡がニシュ郊外のメディアナEnglish版にあり、重要な遺跡になっている。コンスタンティヌスも一時期、居住していた。364年、メディアナはウァレンティニアヌス1世とその弟であるウァレンスに帝国の分割による共同皇帝に選ばれた。[12] ユリアヌスの皇帝在位中、城壁は強化されナイススは大いに繁栄した。ローマ帝国が東西に分裂し、443年になるとフン族の王アッティラにより標的とされ破壊されナイススは攻略されると蹂躙された。フン族に支配された後のナイススの市民は虐殺されている。何年かは市外の河岸にはフン族に蹂躙され虐殺された市民の遺骸で覆われていたとされる。ユスティニアヌス王朝の創始者であるユスティヌス1世が450年にナイススで生誕し、甥のユスティニアヌス1世はナイススの町を良く復興させたが、町は4世紀再び回復することはなかった。ユスティヌスはユスティヌス主教座を設けた。プロコピオスにはNaissopolisと言及されている。[13]

中世

6世紀後半になると最初の大規模なスラヴ人やアヴァールの民族移動が見られた。6世紀から7世紀の間、スラヴ人の部族は8度にわたってニシュへの攻略を試みた。551年にスラヴ人はニシュを横切り、最初にテッサロニキに向かったがダルマチアで終わっている。[14][15]580年代、南スラヴ人の一部族スクラヴェニはセルビアやギリシャ北部を征服した。[16]最後の攻撃は615年中に起こり、スラヴ人は町を掌握しローマ人やローマ化されたトラキア人やダキア人は、逃れるかあるいは滅びるか同化された。スラヴ人のスクラヴェニの独立はいくらかの期間残り、785年ビザンティン(東ローマ)帝国皇帝コンスタンティノス6世により征服される。842年にテオフィロスの死去によりこの地域はブルガール人が支配するようになる。[17]

1018年にビザンティン皇帝バシレイオス2世はシルミウム・テマを成立させ、ブルガリアやセルビアを攻略しニシュは3つの公式都市のうちの1つとなった。コンスタンティヌス・ボディンは1072年にマケドニアで反乱を起こしビザンティン帝国に抵抗するためブルガリア帝国の王冠を戴いた。ボディンはニシュを攻略したが、後に捕らえている。[18] 民衆十字軍期の1096年7月3日、隠者ピエールはビザンティンの軍隊とニシュで衝突し自らの4分の1の勢力を失ったが、コンスタンティノープルまでの行軍は導いている。[19]

1155年、デサ公がニシュを従属地として受け取っている。[20]1162年、ビザンティン皇帝マヌエル1世コムネノスはニシュでステファン・ネマニャに会っており、ビザンティンへの勝利からレスコヴァツとニシュで構成されたドゥボツィツァ(Dubočica)を得る。[20]1188年、ニシュはステファン・ネマニャのセルビア王国の首都になり[21]、1189年7月22日にネマニャは神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世よりニシュに10万人の十字軍戦士を受け入れている。[22]1202年はヴカン2世English版の統治の時代で、ニシュには特別な地位があったことが言及されている。[23]1203年、カロヤン・アセンはニシュを併合するが[24]後にステファン・ネマニッチは再びこの地域を支配下に置いている。

1375年、25日間の包囲の後初めてオスマン帝国の支配下に置かれた。この出来事はセルビアの陥落だけでなく、ニシュの運命も決めていた。後の1389年のコソボの戦いでセルビアの力は弱まり、70年間は半独立の国のような存在となりコンスタンティノープル-ウィーン間の街道の成長は見限られた。

1443年にニシュはルダニン(Ludanjin)のものとなり、町自体はセルビアに戻っている。ニシュの近くでは1443年にハンガリー王国のフニャディ・ヤーノシュとセルビアの君主ジョルジュ・ブランコヴィッチEnglish版軍とオスマンとの間でニシュの戦いEnglish版がありこれによってオスマンを撃退している。その後、再びオスマンに攻略されるまではニシュは自由都市として存続した。

近世

ニシュは1448年、再びオスマン帝国に屈服し以来241年にわたってその支配下にあった。オスマンの時代、ニシュはニシュ・サンジャクEnglish版ニシュ州English版の首府が置かれ[25] ニシュ要塞English版はオスマン期に築城され現在でもその姿を見ることが出来、バルカン半島でも良く保存された要塞の一つである。1689年にオーストリアの軍とオスマンとの間でニシュの戦い (1689年)English版が起こり、翌年オスマンからニシュは奪い返された。1737年にニシュは露土戦争 (1735年-1739年)によりオーストリアが攻略するが、1739年に戦いが終わると再びオスマンの支配下となった。

19世紀から第二次世界大戦まで

ファイル:Skull Tower detail.jpg
チェレ・クラ Ćele Kula
ファイル:Aeroplane Niš 1912.jpg
ニシュに最初に飛来したブレリオ XI 1912年
ファイル:Monument du Mont Cegar.jpg
チャガル丘のモニュメント
ファイル:Bubanj-Pesnice sa amfiteatra 2.jpg
ブバニ第二次世界大戦記念公園

第一次セルビア蜂起English版の時にニシュの解放が1809年に企てられチェガル(Čegar)の戦いが起こる。その後、セルビアの解放勢力はニシュのオスマンの司令官の命令によって斬首され警告のため塔にさらされた。この塔は今日、頭蓋骨の塔チェレ・クラとして知られている[26]

ニシュは最終的にセルボ-トルコ戦争によって解放された。ニシュの解放への戦いは1877年12月29日に始まり、セルビアの軍がニシュに1878年1月11日に入りセルビアの一部となった。この解放後、ニシュの急速な近代化が進む。

1879年にニシュには図書館が設立され最初の図書館員はステヴァン・スレマツEnglish版である。最初のホテルであるEuropeは1879年に建てられ、1881年には病院の運用が始まった。市庁舎は1882年から1887年にかけ建築され、印刷所Kosta Čendašは1883年に設立されている。1884年には最初の新聞であるNiški Vesnikが創刊され、1884年にはヨヴァン・アペルJovan Apelによってビール醸造所が建てられた。鉄道がニシュに建設されたのは1884年のことで駅も設けられ、1884年8月8日には最初の列車がベオグラードから到着した。1885年以来、ニシュはオリエントエクスプレスの終着駅で1888年にブルガリアのソフィアまで鉄道が開業するまで続いた。1887年にミハイロ・ディミツMihailo Dimićによりニシュ国立劇場が設立されている。1897年にはミタ・リスティツにより織物工場Nitexが設立された。1905年にはNadežda Petrovićによりアートコロニーが設けられる。最初の映写は1897年で常設の映画館の開館は1905年である。ニシュヴァ川に水力発電所が建設されたのは1908年で当時、セルビアでは最大のものであった。1912年には飛行場がトルパレフィールドに建設され、1912年12月29日に最初の飛行機が着陸した。1913年には市の博物館が開館し考古学や民俗学に関連したものや芸術作品を収蔵している。

第一次バルカン戦争時、ニシュはセルビア軍のオスマン帝国に対する軍事作戦の司令部が置かれていた。第一次世界大戦時、ニシュには戦時首都が置かれ政府機関や議会があり1915年11月にセルビアが中央同盟国に征服されるまで続いた。テッサロニキ戦線English版の展開によりセルビア軍の元帥ペータル・ボヨヴィッチによりニシュは1918年10月12日に解放されている。 最初の数年間はニシュは戦争からの復興に費やされ、1930年11月には路面電車(市電)の運行が開始されている。国営航空のアエロプトEnglish版ベオグラード-ニシュ-スコピエ-テッサロニキの間で1930年に運航を開始した。

第二次世界大戦時にはドイツが町を占領し、ユーゴスラビアでは最初のナチスの強制収容所がニシュに置かれ30,000人もの人が収容され10,000人がブバニ(Bubanj)の丘で射殺されている。1942年2月12日には147人の収容者の大脱走の現場になった。1944年には連合国の激しい爆撃を受けている。[27] 1944年10月にニシュはパルチザンとソ連軍により解放されている。

現代

1996年、ニシュはセルビアでは最初のスロボダン・ミロシェヴィッチ支配に対し抵抗する都市となった。同年にニシュで行われた地元選挙で勝利したセルビアとともにと呼ばれる民主的な野党連合は88日間にわたり通りでミロシェヴィッチの政党が権力を引き渡すまで抵抗した。ニシュの最初の民主的な市長はゾラン・ジヴコヴィッチZoran Živkovićである。1999年5月7日にNATOによる空爆により14名の市民が犠牲になっている。

現代のニシュ中心部のミラン王広場

経済

ニシュはユーゴスラビア時代から開発が進んでいた都市で、1981年のGDPはユーゴスラビア平均の110%であった。[28]行政的な中心であると共、ニシュはセルビア南部の交通網の重要な要衝で、これは古代以来からのものである。現在でもセルビアの産業の重要な中心地で、タバコ産業は良く知られた存在である他、電気機械産業や建設、機械エンジニアリング、織物、貴金属、食品産業、皮革など多様な産業を有する。ニシュのタバコ工場は1930年に創業が始まり、市内のツルヴェニ・クルストに立地し、タバコや巻きタバコ、タバコ器具、フィルターなどタバコに関連した製品を製造する。1995年には研究所も設置され、新製品などの開発は行われている。民営化の過程でニシュタバコ工場は2003年8月にフィリップモリスに買収された。フィリップモリスは5億8000万ユーロを投資したが、これは一つの案件として外国企業がセルビアに行った投資の中では2003年では最大のものであった。

交通

ファイル:Bus station niš.jpg
ニシュバスステーション

ニシュはモラヴァ川流域北部とヴァルダル川流域南部の重要な位置にあり、ギリシャ中央ヨーロッパを結ぶ主要交通回廊の途中に位置する。ニシュ地域にはニシャヴァ川流域により自然に形成された、ソフィアやイスタンブールとを結ぶ回廊も通る。都市の立地条件から歴史的に地域にとって大変重要な位置を占めてきた。最初に立地の良さが活用されたのは、ローマ帝国によりミリタリス街道が敷かれ、北方向のシンギドゥヌム(現代のベオグラード)や南東方向のコンスタンティノープル(現代のイスタンブール)と結ばれたことである。

今日ではニシュは欧州自動車道路E75号線によって北方向のベオグラード中央ヨーロッパ、南方向のスコピエテッサロニキアテネと結ばれている。E80号線はニシュとソフィアやイスタンブール、さらに遠くのアナトリアや中東方面に伸び、プリスティナやモンテネグロ、アドリア海などの西方向にも伸びている。E771号線はザイェチャルクラドヴォルーマニアドロベタ=トゥルヌ・セヴェリンへ伸びている。鉄道もまた道路と同様にニシュでは要衝になっている。コンスタンティヌス大帝空港 (Niš Constantine the Great Airport(国際空港:INI)(セルビア語:Аеродром Константин Велики、英語:Niš Constantine the Great Airport)はセルビアにとり2番目に重要な空港で1910年に最初の飛行場として建設された。

市内の公共交通機関は13のバス路線により構成されている。ニシュにはトラムの路線が1930年から1958年にかけて存在した。[29]

行政区域

300px

ニシュ市は5つの基礎自治体で構成されている。4つの自治体はニシュの都市的地域にあり、ニシュカ・バニャは郊外の自治体である。2002年以前のニシュは2つの基礎自治体で構成され、1つはニシュでもう一つはニシュカ・バニャと呼称されていた。 ニシュの自治体の下はさらに街区に分かれている。

メディヤナ(Medijana)    パリルラ(Palilula, Niš)    パンテレイ(Pantelej)    ツルヴェニ・クルスト(Crveni Krst)    ニシュカ・バニャ(Niška Banja)   
Center Palilula Pantelej Crveni Krst Niška Banja
Marger Staro Groblje Jagodin Mala (一部) Beograd Mala nas. Nikola Tesla (broj 6)
Trg Kralja Aleksandra Crni put Durlan Jagodin Mala (一部) Jelašnica
Kičevo Bubanj Komren (一部) Komren (殆ど) Sićevo
Čair Ledena Stena Čalije Šljaka Ostrovica
Bulevar Nemanjica Suvi Do Somborska Medosevac Prva Kutina
Bulevar Djindjica Apelovac Vrežina   Radikina Bara
Medijana Kovanluk     Prosek
Trošarina Tutunović Podrum     Čukljenik
Duvanište Kalač Brdo     Donja i gornja Studena
Brzi Brod Gabrovačka reka      

スポーツ

サッカー

クラブチームには、全国リーグに在籍するラドニツキ・ニシュ (FK Radnički Nišがあるが、2002 - 2003シーズンの結果により、トップリーグを陥落した。ラドニツキ・ニシュ出身の有名選手に、ドラガン・ストイコビッチオリンピック・マルセイユ名古屋グランパスエイトなど)、デヤン・ペトコビッチレアル・マドリードフラメンゴなど)などがいる。

有名人・重要人物

国際関係

姉妹都市

ニシュは市庁の公式サイトによれば以下の都市と姉妹都市の関係にある。[30]

他の協力関係、友好都市


脚注

  1. City of Nis”. Ni.rs. . 2013閲覧.
  2. 2.0 2.1 2.2 Serbian census 2011 page 84-87
  3. Попис становништва, домаћинстава и станова 2011. године у Републици Србији” (Serbian). Statistical Office of Serbia (2011年). . 27 February 2012閲覧.
  4. アーカイブされたコピー”. 2007年9月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2013年2月18日閲覧.
  5. New Advent Catholic encyclopedia: Constantine the Great
  6. Moderate Patriarch Sets New Course for Serb Church”. IPS News (2010年2月1日). 2010年2月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 4 August 2010閲覧.
  7. Monthly and annual means, maximum and minimum values of meteorological elements for the period 1981-2010” (Serbian). Republic Hydrometeorological Service of Serbia. . 2012閲覧.
  8. Stone Pages, 002763
  9. Nis,Britanica
  10. 10.0 10.1 The provincial at Rome: and, Rome and the Balkans 80BC-AD14
  11. http://www.balkaninstitut.com/pdf/izdanja/balcanica/Balcanica%20XXXVII%20(2006).pdf
  12. http://www.sacred-texts.com/cla/gibbon/02/daf02049.htm
  13. p. 238
  14. BG III 40
  15. http://www.rastko.rs/arheologija/delo/13047
  16. The New Cambridge Medieval History: c. 500-c. 700, p. 539
  17. Encyclopædia Britannica: a new survey of universal knowledge, Volume 20, p. 341: "the eastern provinces (Branichevo, Morava, Timok, Vardar, Podrimlye) were occupied by the Bulgars."
  18. Byzantium's Balkan frontier, p. 142
  19. The great migrations in the East and South East of Europe from the ninth to the thirteenth century, p. 146, Google Books link
  20. 20.0 20.1 The Late Medieval Balkans, p. 4
  21. The Late Medieval Balkans, p. 7
  22. The Late Medieval Balkans, p. 24
  23. The Late Medieval Balkans, p. 48
  24. The Late Medieval Balkans, p. 54
  25. (1977) Godišnjak grada Beograda. Museum of the Belgrade. Retrieved on 11 July 2011. 
  26. 『地球の歩き方 2017〜18 中欧』 ダイヤモンド・ビッグ社、2017年。ISBN 978-4-478-06007-0。
  27. Serbs were not specially chosen as targets , Danas
  28. (1984) Atlas svijeta: Novi pogled na Zemlju, 3rd (Croatian), Zagreb: Sveučilišna naklada Liber. 
  29. arhivnis.co.rs
  30. 30.00 30.01 30.02 30.03 30.04 30.05 30.06 30.07 30.08 30.09 30.10 30.11 30.12 30.13 30.14 30.15 Twinnings”. Niš City Hall. . 2008閲覧.
  31. Partnership towns of the City of Košice” (Slovak). © 2007-2009 City of Košice Magistrát mesta Košice, Tr. SNP 48/A, 040 11 Košice. 2009年8月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2009閲覧.

関連項目

外部リンク

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