パレスチナ史

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パレスチナは現在のイスラエルを中心とする地中海東岸一帯の地域名で,ペリシテ人の名に由来するが,旧約聖書および住民自身はカナンと呼んだ。すでに前 9000年頃ヨルダン河谷などに農業集落が起こり,前 5000年頃までメソポタミアの影響を受け,前 3100年頃のエジプトの台頭とともにエジプトとメソポタミアの中間貿易で栄えた。侵入してきたアモリ人をようやく吸収してからは,カナン文化が成立。その後エジプトとヒッタイト間の抗争の地となり,前 1550年頃エジプトの支配下に入った。前 13世紀末,おそらくアナトリアやエーゲ海域から移動してきた「海の民」がこの地を分断,ペリシテ人,ヘブライ (ユダヤ) 人,アラム人,フェニキア人 (フェニキア ) らの小国家群が築かれたが,前9~8世紀,大半はアッシリア帝国 (アッシリア ) に合併。前7世紀にはバビロニアに,前6世紀から前 333年のアレクサンドロス3世 (大王) の征服まではアケメネス朝ペルシアに支配された。前 198年セレウコス朝シリアの支配下に入り,前 164年混乱期に入ったが,前 64年ローマの属領となり,なお内乱が続いた。6~7世紀にはササン朝ペルシアの侵入するところとなり,ローマの支配は終わったが,8~12世紀政治の中心はイラクに移り,パレスチナは政治上,宗教上の紛争地と化した。 13世紀には支配者はシリア,エジプト,アイユーブ朝マムルーク朝と次々と入れ替わり,1516~1917年オスマン帝国の支配下に入り,第1次世界大戦でイギリス委任統治領としてのパレスチナが成立した。 1947年の国際連合のパレスチナ分割決議により,1948年イスラエル国が建国され,大部分がその領土となり,山地の一部をヨルダン,海岸の南西端の一部をガザ地区としてエジプトが支配した。しかしこれらアラブ諸国領も 1967年の六日戦争 (第3次中東戦争 ) の結果,イスラエルの占領するところとなった。 1993年パレスチナ解放機構 PLOとイスラエルの間でパレスチナ暫定自治協定が成立,1994年には暫定自治の内容で合意に達し,向こう5年間のパレスチナ自治が実施に移された。 1996年パレスチナ自治政府議長および立法評議会選挙が行なわれ,PLOのヤセル・アラファト議長とその支持基盤であるファタハが勝利した。しかし,1999年暫定自治は期限切れを迎え,パレスチナ問題の全面解決をはかる最終的地位交渉も 2000年に決裂。同年9月にはパレスチナ住民とイスラエル治安部隊の間で大規模な衝突が起こった。