パレスチナ解放機構

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(パレスチナかいほうきこう、アラビア語: منظمة التحرير الفلسطينية‎ 、ラテン文字転写:Munaẓẓamat at-Taḥrīr al-Filasṭīniyyah 、英語: Palestine Liberation Organization、略称:PLO)

パレスチナ解放諸組織の統合機関。1964年第1回アラブ首脳会議の結果,エジプトのガマル・アブドゥルナセル大統領により,パレスチナ人の代表機関を設置し,パレスチナ・ゲリラアラブ連盟のコントロール下に置くことを目指してつくられた。初代議長は,エジプトの忠実な追随者であったアハマド・シュケイリ。1967年の六日戦争(第3次中東戦争)後,Y.ハンムーダが議長となった。1969年カイロで開かれた PLOの議会であるパレスチナ民族評議会 PNCでヤセル・アラファトが議長となり,PLO執行部が一新されてエジプトのコントロールから離れた。しかしイスラエル敵視条項を盛り込んだパレスチナ国民憲章はそのまま継承した。1970年6月の PNCで組織を再編し,中央委員会 (ゲリラ 10団体の代表) と執行委員会 (ファタハ,サイカ,パレスチナ解放人民戦線 PFLPの代表) を設置。ヨルダン内戦後の 1971年7月の PNCで中央委員会と事務局を廃止し,拡大執行委員会を最高機関とした。しかし穏健的民族主義派と急進的革命闘争貫徹派の対立などが深刻であった。1974年モロッコのラバトで開かれたアラブ首脳会議で,PLOはパレスチナに関する独立主権を認められ,同年11月には国連オブザーバー資格を得た。1976年アラブ連盟の正式メンバーとなった。PLOの軍事組織としてはパレスチナ解放軍 PLAがある。機構の本部は 1970年代を通じてレバノンの首都ベイルートにあったが,1982年7月イスラエル軍のレバノン侵攻を受けて,温存された軍事組織とともにアラブ諸国へ分散撤退した。この頃からアラブ穏健派諸国はイスラエルの存在を認め,イスラエルが六日戦争の占領地から撤退してパレスチナ国家の樹立を認めるならばイスラエルと共存しようという考えを打ち出すようになった(ミニ・パレスチナ)。PLO内でもアラファト議長を中心とするファタハはその考えに傾いたが,PLO内の強硬派が反発,ファタハの一部もアラファトに反旗を翻した。1987年12月に始まったイスラエル占領地区でのパレスチナ住民の蜂起(インティファーダ)が広がるにつれて,PLOは再び団結し,1988年11月の第19回民族評議会でイスラエルの生存権を認めるとともに,パレスチナ国家の独立を宣言した(パレスチナ国家問題)。だが,1990年8月に始まった湾岸戦争で PLOはイラク寄りととれる姿勢を示したことで苦境に追い込まれ,1991年10月開幕の中東和平会議には招かれなかった。その後,イスラエル国内でも話し合いによる和解の気運が高まり,1993年9月 PLOとイスラエルとの間でパレスチナ暫定自治協定が成立した。1996年にはパレスチナ暫定自治政府議長と立法評議会議員選挙が行なわれ,アラファト議長とファタハが圧勝した。2004年11月にアラファト議長が死去,マハムード・アッバス PLO事務局長が議長の座についた。(パレスチナ分割

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