ヒッタイト

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(英:Hittites)

前 1800~前 1200年頃に小アジアに王国を築いたインド=ヨーロッパ語系民族。 (インド=ヨーロッパ語族 ) 1887年に発見されたアマルナ文書の中のアルザク書簡,1906年以来ボガズキョイで発掘された多数の粘土板文書によって後期青銅器時代 (前2千年紀) に小アジア一帯にかけて一大勢力を有していたことが明らかになった。前 17世紀の初代ラバルナシュ1世から前 15世紀中頃のフッツィヤ2世までを古王国といい,ラバルナシュの子ハットゥシリシュ1世 (ラバルナシュ2世) は都をハットゥシャシュ (ボガズキョイ) へ移した。その後孫のムルシリシュ1世がバビロンを攻撃し,バビロン第1王朝を滅亡させた。ムルシリシュ1世暗殺後,王族と貴族からなる士族団パンクの間で後継者をめぐりしばらく権力闘争が続いた。王権を安定させたのはテリピヌシュで,王位継承の順序を定め,法典を編纂した。やがて前 15世紀中頃トドハリヤシュ2世が新たな王朝,新王国を興し,シュッピルリウマシュ2世まで2世紀半続いた。前 1375年頃王位についたヒッタイト中興の祖ともいうべきシュッピルリウマシュ1世は,国内体制を強化し,次いで良港や商業路の集中したシリアに進出目標を定め,その勢力を北シリア全域に広げた。そのためシリアの支配権をめぐってエジプトとの抗争が激化し,前 13世紀末頃オロンテス川河畔のカデシュで決戦が行なわれ,ムワタリシュはシリアでのヒッタイトの権益を守り抜いた。その後アッシリアの勢力が強まったため,エジプトとの友好を促進させたが,西方の海洋国家の勃興により,属領を侵略され,前 1190年頃「海の民」の侵入により突如として首都を攻撃され,ヒッタイトは滅亡した。王権はパンクの存在にみられるごとく制限的王権から,新王国における専制的王権へと展開した。宗教・軍事・司法上の権威を一身に集めた専制君主のもとで貴族,戦士,自由身分の農民や職人はそれぞれの身分に応じて封地を与えられ,その下に奴隷の階級があった。ハッティ人の始めた製鉄法を独占していたことが,ヒッタイトの軍事的強さの一因でもあった。