ピエール・ムニクウ

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ピエール・ムニクウPierre Mounicou1825年3月4日 - 1871年10月16日)はフランス人カトリック宣教師パリ外国宣教会所属の司祭。横浜天主堂の建築、宗教書の編集、箱館布教、神戸・大坂教会の創設に携わった。

略歴

文政8年(1825年)南フランスのルルド付近のオサンに誕生。サン・ペ・ド・ビゴル小神学校に学び、のちパリ外国宣教会に入り、嘉永元年(1848年)3月18日、司祭に叙階された。同年9月、滞欧中の日本教皇代理フォルカード司教とともに香港に渡る。宣教会会計部において助手として6年勤め、余暇を中国語学習に費やした。安政2年(1855年)日本宣教が予定され、たまたま長崎から香港へ来た一日本人から日本語を学ぶ。安政3年(1856年)から軍艦付き司祭としてフランス艦コンスタンチーヌ号に搭乗。安政4年9月に 函館に上陸し、病気の水兵を実行寺に収容[注釈 1][1]。このとき4日間の函館滞在許可が出され、警吏3名に付きまとわれながら市内を巡回し、書店では店員と親しく話し、本を購入した。その後、香港に帰任。続いて同年10月、極東地区会計部長リボア神父の命令により、フューレ神父とともにフランス艦に便乗し、那覇に上陸してメルメ神父と交代し、日本語の学習を開始した。3年後、万延元年(1860年)10月28日、ジラール神父の招きで琉球を出発し、11月4日に横浜に到着。居留地80番で司祭館(横浜天主堂)建設を受け持った[2]文久2年(1862年)1月13日の献堂式後にも、日本では禁教であったが、多くの見物人が天主堂参観に来た。ムニクウは日本語で、壁にかけられた絵を説明したり、教理を説いたりした。さらに、ジラール神父の勧めで、漢語を用いて公教要理問答や祈祷書などを編集出版し、6年間関東地区布教の基礎を作った。

文久3年(1863年)にメルメ神父が去ったあと、函館教会は3年間閉鎖されていたが、慶応3年(1867年)6月、ムニクウはアンブルステ神父とともに教会再建の命を受けた。同月28日、長崎港から乗船し函館に再上陸してみると、メルメ神父の建てた仮聖堂は人手に渡っていたので、慶応3年(1867年)に同町元町に新たに司祭館を建てた[注釈 2]

同年6月、「きたる12月7日(旧暦)より兵庫開港、江戸・大坂にも貿易のため外国人居留致し候事」の布告が出される。プティジャン神父はムニクウに神戸への異動を申し送った。翌、慶応4年(1868年)4月、43歳の時に開港間も無い兵庫に着任。居留地予定地区は護岸工事や地ならし中であった。今の元町付近に小さな家を求め、大半を礼拝所にし、自分は狭い部屋で自炊した。のちの生田警察署付近に貸家が見つかり、居留地区画の払い下げを待った。背は高く、髪は日本人の様に黒く、長い司祭服を引きずりながら歩いていたため、道行く人々から「あれが長崎のバテレンさんだ」と指差されたという。着任した年の秋9月10日、居留地37番(現・大丸デパートの一部)に1,500km2の土地(927円)を購入して祭司堂(通称 三宮教会)を建てた。続いて大聖堂の建築に取り掛かったが、ステンドグラス、宗教儀式用具、楽器類の調達が日本の大工では手に負えなかったため、建築技師スメドレーと技師J.W.ハートの協力を求めた。明治2年(1869年)5月、プティジャン司教が神戸訪問した際に定礎式を挙げる。開始以来3年の工期をかけて明治3年(1870年)の復活祭4月17日に居留民が多数列席し「聖母マリアの七つの悲しみ」へ奉献式を挙行。神戸における最初の欧風建築であるこの大聖堂を拠点に、まず居留地外人伝道から初め、日本人に近づくこととした。

また、明治2年(1869年)3月には、フランス領事レックの斡旋で、大阪で教会敷地の賃借契約を結んでいた。明治4年(1871年)10月に病没。葬儀には、イギリス、フランス、アメリカ、ベルギーの領事などが列席した。後事をアマトス・ビリヨンに託し、遺言により当初は聖堂内に埋葬され、のちに外国人墓地へ葬られた。[3]

脚注

注釈

  1. これより前に、フランス軍艦シビル号(クリミア戦争でロシア近海を遊弋)が安政2年(1855年)3月20日、函館に上陸し、病気の水兵を実行寺に収容。6月12日には水兵4人を山背泊に埋葬した。その後、フランス艦隊はアロー戦争に参加。
  2. まもなく洋服の仕立て屋がアンブルステ神父から教理を学ぶようになった。復活祭の前日にムニクウから洗礼を受けた。これがヨゼフ善兵衛であり、函館カトリックの初期宣教を大いに助けた。

出典

  1. 高木一雄、2004年
  2. 『月刊「聖母の騎士誌」2001年2月号』 聖母の騎士社
  3. 『人物による日本カトリック教会史』池田敏雄著、中央出版社、1968年、pp.84-86

参考文献

  • 『兵庫県大百科事典(下巻)』 神戸新聞出版センター(編集・制作)、神戸新聞出版センター、1983年。ISBN 978-4875211006。

関連項目