フォッサマグナ

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  青線に囲まれた薄い赤色の地域がフォッサマグナ
赤線が中央構造線

フォッサマグナ: Fossa magna意味:大きな溝)は、日本の主要な地溝帯の一つで、地質学においては東北日本西南日本の境目となる地帯。中央地溝帯(ちゅうおうちこうたい)、大地溝帯(だいちこうたい)とも呼ばれる。端的に言えば、古い地層でできた本州の中央をU字型の溝が南北に走り、その溝に新しい地層が溜まっている地域である。

本州中央部、中部地方から関東地方にかけての地域を縦断位置する。西縁は糸魚川静岡構造線(糸静線)、東縁は新発田小出構造線及び柏崎千葉構造線となるが、東縁には異説もある。フォッサマグナはしばしば糸静線と混同されるが、糸静線はフォッサマグナの西端であり、フォッサマグナそのものではない。地図の上でもフォッサマグナが「面」であるのに対し、糸静線はその一方の境界を成す文字通りの「線」であることが一目瞭然である。

概要

フォッサマグナの西側を西南日本、東側を東北日本という。西南日本に当たる飛騨山脈は(地表は新しい火山噴出物で覆われているが)大部分が5億5,000万年前 - 6,500万年前の地層(中生代古生代の地層=中・古生層)であるのに対し、北部フォッサマグナにあたる頸城山塊付近は大部分が2,500万年前以降の堆積物や火山噴出物(新第三紀第四紀の地層=新第三紀層沖積層洪積層)である。この大きな地質構造の違いは通常の断層の運動などでは到底起こり得ないことで、大規模な地殻変動が関係していることを示している。

境界線

ハインリッヒ・エドムント・ナウマンHeinrich Edmund NAUMANN)はこの地質構造の異なるラインが糸魚川から静岡にまで至るのを発見し、1885年に論文 "Über den Bau und die Entstehung der japanischen Inseln"(「日本群島の構造と起源について」)として発表した。但し、発表論文「日本群島の構造と起源について」のなかで同じものに "grosser Graben der Bruchegion" との表記も使用している[1]が、翌1886年にはFossa Magna(フォッサマグナ)と命名した[2]。この論文は1893年に初発表され、論文名に初めて「フォッサマグナ」が登場した。彼は南アルプス山系から八ヶ岳関東山地を眺望した際、巨大な地溝帯の存在を思いついたとされる。

フォッサマグナ内部の地層が褶曲していることはアルフレッド・ウェゲナーの『大陸と海洋の起源』において、陸地の分裂・衝突の証拠として紹介された。しかし、ナウマンの考えたフォッサマグナは、伊豆地塊が日本に接近したことで日本列島が割れた「裂け目」であった。一方で原田豊吉は、旧富士火山帯とほぼ同一のラインでシナ地塊サハリン地塊(シベリア地塊)が衝突してできたものだとする富士帯説を発表、両者の間で激しい論争となった。

その後フォッサマグナ説が大方支持されるようになっていった。しかし、ナウマンが考えていたフォッサマグナの東縁は新潟県直江津神奈川県平塚を結ぶラインであったが、新潟県柏崎千葉県銚子を結ぶラインも提唱されるようになった。そして、1970年には山下昇が柏崎と千葉県千葉市を結ぶ「信越房豆帯」説を発表、1988年加藤芳輝が柏崎〜銚子のラインの北部を修正した新潟県上越と銚子を結ぶラインを発表した。後に北部を大きく修正した新潟県新発田と同県小出を結ぶライン(新発田小出構造線)が提案された。このように、東縁については諸説出ており現在も結論は揺れ動いている。

東縁が諸説出た背景には、フォッサマグナ南部の関東山地(長野県南東部・山梨県埼玉県西部・東京都西部・神奈川県北西部)に西南日本や東北日本と同じ年代の地層を含む山塊がぽつんと取り残されて存在していて、混乱が生じたことが挙げられる。この山塊は後述のように、フォッサマグナが開いてから再び閉じる間に西南日本か東北日本から切り離されて、フォッサマグナの新しい地層とともに圧縮され一体化したものと考えられている。

地学的知見

現在のプレートテクトニクス理論ではフォッサマグナは北アメリカプレートユーラシアプレートの境界に相当するとされる。1983年日本海中部地震前後までは、北海道中部の日高山脈付近が両プレートの境界と考えられていたが、地震を契機に日本海東縁部〜フォッサマグナを境界とする説が広く支持されるようになった。フォッサマグナの厚さは、地下約6,000(平野部) - 9,000m(山地)にも及ぶ。これより深い所は基盤岩とよばれ、西南日本や東北日本と同じ地層の並びになっていると推定されている。フォッサマグナ本体は第三紀火山岩堆積岩によって埋積されている。地質断面図で見ると、年代の異なる地層の境界がU字型に形成されている。

フォッサマグナ北部では第三紀層の褶曲によって生じた丘陵地形が際立って目立っている(頸城丘陵魚沼丘陵など)。また、褶曲に伴って形成されたと考えられる天然ガス石油の埋蔵も多い。一方、南部ではフィリピン海プレートによって運ばれ、日本列島に衝突した地塊が含まれる(丹沢山地伊豆半島など)。

また、フォッサマグナの中央部を、南北に火山の列が貫く。北から新潟焼山妙高山草津白根山浅間山八ヶ岳富士山箱根山、アルプス山脈などである。これらの成因の1つとして、フォッサマグナの圧縮によってできた断層にマグマが貫入して、地表に染み出やすかったことが考えられている。

西縁の糸魚川静岡構造線上および東縁の一部と考えられている群馬県太田断層[3][4]では、マグニチュード7規模の地震が繰り返し発生している。

北部フォッサマグナの東側(信越地域:長野県北部から新潟県頚城地域)には、大峰面[5]と呼ばれる第四紀の70万年前に海岸平原であったとされる頃に形成された花崗岩質の礫及びシルトによる平坦な地形が広がっていた[6]が、その後の地殻変動により浸食され現在は、標高900m前後の山々に痕跡が残る[7]

フォッサマグナの誕生

この地域は数百万年前まではであり、地殻が移動したことに伴って海の堆積物隆起し現在のような陸地になったとされる。

原始の日本列島は、現在よりも南北に直線的に存在して、アジアに近い位置にあったと考えられている。約2,000万年前に、プレートの沈み込みに伴う背弧海盆の形成が始まった。背弧海盆とは、沈み込んだプレートがマグマとなって上昇し、海溝の内側のプレートを押し広げてできるものであるが、これによって日本海が現在のように広がり、日本列島もアジアから離れていった。

ただ、日本近海の海溝は向きが異なる南海トラフ日本海溝の2つだったため、日本列島は中央部が真っ二つに折られる形でアジアから離れた。折れた原始日本列島の間には日本海と太平洋をつなぐ海が広がり、新生代にあたる数百万年間、などが堆積していった。そして数百万年前、フィリピン海プレートが伊豆半島を伴って日本列島に接近した時に、真っ二つになっていた列島が圧縮され始めた。この時、間にあった海が徐々に隆起し、新生代の堆積物は現在陸地で見られる地層になったと考えられている。

火山

フォッサマグナの「面」に属する活動中の火山を挙げると、北(日本海側)から南(太平洋側)へ順に、新潟焼山妙高山浅間山八ヶ岳富士山が列んでいる。

参考文献

脚注

  1. [1]山下昇:構造地質学的にみたフォッサ・マグナの問題点:その歴史と現状 地質学雑誌 Vol.82(1976) No.7 P.489-492
  2. 山崎晴雄, 久保純子 『日本列島100万年史 大地に刻まれた壮大な物語』 講談社、2017年。ISBN 978-4-06-502000-5。
  3. 関東平野北部の活断層“太田断層”の認定と周辺の古地震・地盤災害との関係 2013年度日本地理学会春季学術大会 セッションID:S0804
  4. 群馬県東部における短い活断層の分布と活動性、地下形状の推定-大久保断層および太田断層- 産総研 活断層・地震研究セミナー 第17回 9月26日(金)
  5. 仁科良夫:大峰面上の旧河道地形とその堆積物日本地質学会学術大会講演要旨 100, 319, 1993-03-25
  6. 衣笠善博:東北日本北米プレート説再考地學雜誌 Vol.99(1990) No.1 P.13-17
  7. 木村純一:長野県聖山北麓の更新統:中部から上部更新統地質学雑誌 Vol.93(1987) No.4 P.245-257

関連項目

外部リンク