フラウィウス朝

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ファイル:Flavian dynasty Aurei.png
フラウィウス朝の皇帝たち肖像が彫られた金貨

フラウィウス朝(フラウィウスちょう、Flavian dynasty)は、ローマ帝国の王朝。その名前は皇帝たちの属したフラウィウスの氏族名から。ウェスパシアヌスティトゥスドミティアヌスの三人が属する。

ドミティアヌス没後、帝位にはネルウァが就き、ローマは五賢帝時代を迎える。

ウェスパシアヌスはクラウディウス帝に見出され、ブリタンニア遠征などに従軍し、有能な軍人として知られていたが、ローマの中流階級の出身で、ネロ死後の皇位争奪戦の中で、皇位継承の候補者とは見なされていなかった。しかし68年ネロが帝位を追われ自殺、1年で皇帝が3度も変わる事態となった(四皇帝の年)。立て続きの政変に、国家は混乱を来すようになり、人々は有能な政治家、安定した政権を望むようになり、これが軍隊の支持を得て、かつ的はずれのない堅実な政策を取ると思われたウェスパシアヌスが皇位につく切っ掛けとなった。

ローマが混乱していた当時、ウェスパシアヌスはネロの命によりユダヤ戦争の平定を命じられており、これを終わらせることによって実力をつけ、シリア総督ムキアヌス、息子のティトゥスなどの補佐もあってローマに入り政権をとった。

フラウィウス朝はローマ皇帝が従来権威の由来としていたアウグストゥスの血統とは無縁であったが、混乱の後のウェスパシアヌスの統治はローマ市民に歓迎された。

ウェスパシアヌスの死後は長男のティトゥスが皇位につき、市民からの評判はよかったが、病に倒れ、治世は僅か2年と短かった。続いて次男のドミティアヌスが皇帝となるも彼はやがて公然と元老院などと敵対するようになり、財政においても失政を重ねたため、支持を失い、最終的に暗殺された。ティトゥス及びドミティアヌスの子は全て夭折しており、これをもってフラウィウス朝は断絶した。

その後、フラウィウス朝の血統はウェスパシアヌスの兄ティトゥス・フラウィウス・サビヌス2世の孫の一人ティトゥス・フラウィウス・クレメンスが、ウェスパシアヌスの孫娘(娘・小ドミティラの子フラウィア・ドミティラ(聖ドミティラ))との間に4男3女を儲けていたことで存続した。息子二人はそれぞれ、ウェスパシアヌス、ドミティアヌスと名乗ったが、子を残さずに死去した。別の息子で三男にティトゥス・フラウィウス・ティティアヌス(95年頃生誕)がおり、その息子がティトゥス・フラウィウス・クラウディウス・スルピキアヌス(137年頃 - 197年)である。

スルピキアヌスには以下の子女がいる。

  • ティトゥス・フラウィウス・ティティアヌス(165年頃-200年~216年以降、200年にコンスル就任。Postumia Variaという女性と結婚)
  • フラウィア・ティティアナ - 後の皇帝ペルティナクスと結婚。プブリウス・ヘルウィウス・ペルティナクスと名前不詳の娘を儲けた。

スルピキアヌスはペルティナクス暗殺後の帝位競売に参加したが、ディディウス・ユリアヌスに敗れた。

以上のようにフラウィウス朝の血統は少なくともドミティアヌスの暗殺から約120年後の3世紀初めまで続いた。

フラウィウス朝皇帝一覧

系図

テンプレート:フラウィウス朝系図

関連項目