ヘイキ・コバライネン

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ヘイキ・コバライネン
基本情報
フルネーム Heikki Johannes Kovalainen
略称表記 KOV
国籍  フィンランド
出身地 同・スオムッサルミ
生年月日 (1981-10-19) 1981年10月19日(42歳)
F1での経歴
活動時期 2007-2013
過去の所属チーム '07 ルノー
'08-'09 マクラーレン
'10-'11 ロータス
'12 ケータハム
'13 ロータス
出走回数 111
タイトル 0
優勝回数 1
表彰台(3位以内)回数 4
通算獲得ポイント 105
ポールポジション 1
ファステストラップ 2
初戦 2007年オーストラリアGP
初勝利 2008年ハンガリーGP
最終勝利 2008年ハンガリーGP
最終戦 2013年ブラジルGP
テンプレートを表示

ヘイキ・ヨハンネス・コバライネンまたはヘイッキ・ヨハンネス・コバライネンHeikki Johannes Kovalainen1981年10月19日 - )は、フィンランドスオムッサルミ出身のレーシングドライバーである。

初期の経歴

カート

1991年にレーシングカートのキャリアを始め、2000年まで続け、フィンランドのトップカテゴリーにおいて、1999年から2000年にかけ2年連続でランキング2位を記録した。2000年には、北欧選手権(ノルディック・チャンピオンシップ)、エルフマスターズを制覇し、その年のフィンランド国内のドライバーズ・オブ・ザ・イヤーに選出された。同年、ツインリンクもてぎ北ショートコースで行われたCIK-FIA WORLD CUP SHELL ADVANCE KART RACE、FSAクラスにおいて4位入賞。(2位はヴィタントニオ・リウッツィ。また、FAクラスでは、ルイス・ハミルトンが優勝、ニコ・ロズベルグが9位だった。)

フォーミュラ・ルノー

2001年はイギリス・フォーミュラ・ルノー(UKシリーズ)に参戦し、初年度から2勝、ポールポジション2回、ファステストラップ3回という結果で、ランキング4位となり、その年のルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝いた。

フォーミュラ3

2002年はイギリスF3選手権に参戦し、5勝、3PP、3FLという結果を残し、ランキング3位で終え、フォーミュラ・ルノー同様、このカテゴリでもルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。国際レースにおいても、マールボロマスターズで4位、マカオグランプリでは2位という好戦績を残した。

この1年のみでF3を終え、翌年はワールドシリーズ・バイ・ニッサンにステップアップした。

ワールドシリーズ・バイ・ニッサン

2003年からワールドシリーズ・バイ・ニッサンに参戦。この年はフランク・モンタニーが序盤から独走して選手権を支配した年であるが、コバライネンはシーズン通算1勝にとどまったが堅調に得点を重ね、バス・ラインダースナレイン・カーティケヤンとの接戦を制して、初年度ながらランキング2位でシーズンを終えた。

2004年はシーズン序盤こそティアゴ・モンテイロにリードを許したものの、中盤に優勝を重ね、全18戦のシーズンで6勝を挙げてチャンピオンに輝いた。この年にはルノーチームのテストに参加し、初めてF1を駆った。

レース・オブ・チャンピオンズ

2004年末、フォーミュラレースやラリーなどの各選手権のチャンピオンらを集め毎年年末に開催されているレース・オブ・チャンピオンズに参加した。2004年シーズンを圧倒的な強さで制したF1世界チャンピオンミハエル・シューマッハも出場したことから注目を浴びたが、コバライネンはトーナメント初戦でデビッド・クルサード、第2回戦でジャン・アレジ、準決勝でシューマッハ、決勝では同年の世界ラリー選手権(WRC)チャンピオンのセバスチャン・ローブ、と、名だたるドライバーをことごとく撃破してチャンピオンに輝き、「シューマッハを破った男」として一躍注目を浴びた。

GP2

2005年、前年まで開催されていた国際F3000から改組されて初開催されたGP2に、アーデン・インターナショナルから参戦した。開幕レースで優勝を収めたのをはじめ、シーズン中盤までは選手権をリードすることに成功した。しかし、シーズン後半ニコ・ロズベルグに追い上げられ、スパ・フランコルシャンバーレーンインターナショナルサーキットの最終2ラウンド(4レース)を残して4ポイント差まで迫られた。ロズベルグが最終ラウンドを2レースとも制すという奮闘を見せたのに対し、この間にわずかなポイントをあげるにとどまったため逆転を許し、最終的にランキング2位に終わった。

この年はGP2に参戦するかたわら、テストドライバーとしてルノーのテストに参加した。

F1での経歴

2006年・2007年

ファイル:Kovalainen cheste 2006-02.jpg
2006年2月、ルノーR26をテストするコバライネン

2006年ルノーに所属し、テストドライバーとして28,000kmを走りこみ、翌年に同チームからF1に参戦することが発表された[1]

ファイル:Kov.JPG
2007年オーストラリアGP

2007年、前年度のチャンピオンチーム、ルノーからF1デビュー。しかし、2007年のルノーには優勝を争うような速さはなく、苦戦を強いられる。開幕戦オーストラリアグランプリでは何度もコースアウトを喫し、その後の数戦もミスが目立った。第6戦カナダグランプリでは予選Q1でクラッシュして19位。車体後部から壁に激突したためにエンジン交換を余儀なくされ、それによるグリッド降格処分により最後尾に沈んだ。しかし決勝レースでは、セーフティカーが4度も入る大荒れの展開の中、混乱に乗じてポジションを上げて4位入賞を果たした。これ以後はコンスタントに入賞を続け、チームメイトのジャンカルロ・フィジケラを得点で上回る活躍を見せた。

第15戦日本グランプリでは、同郷の先輩であるキミ・ライコネンの追撃を最後まで抑えきり、初の表彰台を獲得(2位)した[2]。続く第16戦中国グランプリでは、デビューから16戦連続完走を果たし、ティアゴ・モンテイロの記録に並んだものの、最終戦ブラジルグランプリで初のリタイアを経験し、記録更新には至らなかった。

2008年

ファイル:Mp4-23.jpg
MP4-23をテスト走行するコバライネン(2008年)

2008年フェルナンド・アロンソと入れ替わる形でマクラーレンへ移籍した。開幕戦オーストラリアグランプリでは序盤から2位を走行するも、3度のセーフティカーが導入される荒れた展開の中、ピットストップのタイミングにより後退し、5位に終わった。このレースでは自身初のファステストラップを記録した。第2戦マレーシアグランプリでは、他車の進路を妨害したとして5グリッド降格ペナルティを受けた。第4戦スペイングランプリでは、22周目に突然左フロントホイールが破損[3]するトラブルに見舞われ130km/hでタイヤバリヤに激突し(衝突した瞬間の衝撃は26Gに達した)、一時は安否が危ぶまれたが無事救助され、軽い脳震盪のみで済んだ。その後はリタイアこそないものの、チームメイトのハミルトンが優勝を重ねるのとは対照的に、6戦に渡り表彰台すら獲得できないレースが続く。しかし第8戦フランスグランプリの予選では再び他車への進路妨害で、5グリッド降格ペナルティを受けたが決勝では見事な追い上げを見せ,ヤルノ・トゥルーリから0.7秒差の4位入賞を果たした。第9戦イギリスグランプリでは初のポールポジションを獲得したが、ここでも5位入賞にとどまった。

そんな中、初優勝は突然やってきた。第11戦ハンガリーグランプリ、2番グリッドからスタートし、直後にフェリペ・マッサにかわされ3位に落ちた。41周目にパンクによりピットインしたハミルトンの前に出ると、首位マッサを追いかける立場となる。 残り3周で20秒以上の差があり逆転は不可能に思われた68周目、突如マッサのエンジンがブロー。首位に立つと、そのままゴールし初優勝を果たした。

しかしその後の7戦は予選・決勝とも目立った活躍はなく、表彰台1回と2度の入賞という結果に終わった。

マシントラブルやセーフティカーによる後退など、不運により失ったと思われるレースもあるが、チームメイトがチャンピオンを獲得したのとは対照的に、芳しくない成績に終わった。

2009年

2009年は困難な出だしとなった。この年のマシン、MP4-24は競争力があるとは言えず、開幕戦オーストラリアグランプリ、第2戦マレーシアグランプリともに予選14番手からスタートし、両レースとも良いスタートを決めたものの、2戦続けて0周リタイアに終わった。

その後も成績は向上せず、第8戦イギリスグランプリまでに入賞は1回にとどまり、2レースを得点圏外で完走した以外には5つのレースでリタイアに終わった。しかし、第9戦ドイツグランプリ以降は第14戦シンガポールグランプリまで6戦連続入賞を果たした。

シーズン終了後、ジェンソン・バトンのマクラーレン移籍が発表され、マクラーレンのシートを喪失したが、12月14日に新興チーム・ロータス・レーシングへの移籍(3年契約[4])が発表された。

2010年

2010年は新興チーム、ロータスに移籍。既存チームとの差がかなり大きかったためチームメイトや他の新規チームとの争いが焦点のシーズンとなった。

そのシーズンを通して戦闘力のないマシンに悩まされたが、その中でも全19戦中完走13回、新規チーム内でのトップフィニッシュは10回を数え、新規チームのドライバーとしてただ一人既存チームを抑えての完走(2回)、2度の予選Q2進出と好成績を挙げた。決勝最高位は日本グランプリでの12位。予選での成績はチームメイトに対し8勝11敗と負け越したが、決勝では前に出ることが多く両者完走したレースで先行されたのはイギリスグランプリのみと、戦闘力に劣るマシンながらレース運びでもチームメイトを上回り昨年以上の存在感を見せた。またリタイアは6回あったが、そのうち自身のミスによるものはドイツグランプリでの1回のみであり、他はすべてマシントラブルによるものだった。

2011年

前年度と同じロータスに残留。昨年を上回る3度の予選Q2進出を果たし、予選巧者として知られるチームメイトのトゥルーリ(第10戦のみチャンドック)に対し予選成績で19戦17勝という圧倒的なパフォーマンスを見せた。決勝においても終盤戦では1周あたり約0.5秒のタイムアップにつながるといわれるKERS非搭載のマシンながら、これを搭載するザウバー、ウィリアムズ、ルノーといった中段チームに迫るタイムを出し、既存チームを抑えてのフィニッシュは通算5回、特に第16戦韓国グランプリではザウバーを2台とも上回る順位で完走するなど好成績を挙げている。ドライバーズランキングでは自身最低の(最高位獲得回数の関係でトゥルーリにも遅れをとる)22位に終わったが、マシンそのものの戦闘力を考慮すれば、終盤戦のパフォーマンスは驚異的なものであり、自身もシーズン終了間際のブラジルグランプリウィークエンド中に「2011年はモータースポーツでのキャリアで最高のシーズン」と語っている[5]

2012年

前年、前々年に続き同チームに残留。名称変更により「ケータハム」チームからの参戦となった。チームメイトはトゥルーリに代わりヴィタリー・ペトロフとなった。またチームとしてはじめてKERSも搭載された。前年終盤と比べると中段グループとの差は広がったものの、第4戦バーレーングランプリでQ2進出を果たし、第5戦スペイングランプリではピットストップのタイミングの関係で一時5番手まで浮上。自身もピットインするまでポジションを守った。第6戦モナコグランプリでは予選でQ2進出までわずか0.047秒差の18位を獲得、決勝でも1コーナーの混乱に乗じ、マシン性能は遥かに勝るマクラーレンのジェンソン・バトンの前に立つと、抜きにくいコース特性も相まって前に行かせず、71周目にバトンがスピン・リタイアするまで順位を譲らない走りを見せた。最終的にはザウバーのセルジオ・ペレスとの接触もあって順位を落としたが、同季最高の13位で完走した。

2013年

ケータハムがペイドライバーを起用したためレースシートを失った。しかしシーズンが始まるとケータハムは経験あるドライバーの不在によって予想よりも厳しいシーズンになってしまったと考えてコバライネンを呼び戻し[6]、第4戦バーレーンGP前にリザーブ兼開発ドライバーとしてケータハムへ復帰した[7]。ファクトリーではシミュレータやエンジニアとの作業を行いつつ、いくつかのGPではフリー走行1回目に出走した。

ロータス(元ロータス・ルノーGP)のキミ・ライコネンが背中の手術・療養のために第18戦アメリカグランプリと最終戦ブラジルグランプリを欠場する[8]ことになり、代役としてコバライネンが選ばれた[9]。チームはコンストラクターズ選手権で3位争いをしており経験を買われて選ばれたが、しかし慣れない車に苦しみポイント獲得とはならなかった。

2014年

ケータハムと交渉を行ったがレギュラードライバーのシートは獲得できなかった。このチーム側の判断には、前年にロータスで代役出走をしたときの結果を残せなかった走りが原因の一つとなっている[10]

SUPER GT

ファイル:No.39 DENSO KOBELCO SARD RC F at 2015 International Suzuka 1000km (1).JPG
コバライネンのドライブするDENSO KOBELCO SARD RC F

2015年

2014年は目立ったレース活動は行っていなかったが、2015年は39号車LEXUS TEAM SARDより、平手晃平をパートナーとして、LEXUS GAZOO Racingの一員としてSUPER GT GT500クラスに参戦することが発表された。マシンはレクサス・RC F、タイヤはブリヂストン

初年度は過去にフォーミュラの経験しかなかったコバライネンが、特性の大きく異なるSUPER GTに慣れずに苦戦、決勝最高位は5位、ランキングは15台中13位に終わった。

2016年

2016年も引き続き平手とともにSARDから参戦。この年から田中耕太郎エンジニアの勧めでコバライネンがファーストドライバーとなり、GTに慣れている平手がセカンドドライバーとしてコバライネンのセッティングに合わせる方法を採った。これが奏功して2年目に大幅な進歩を見せ、第2戦富士では自身初となる表彰台(2位)を獲得、さらに続く第4戦SUGOでも中盤でトップを走行するなどの活躍を見せ2戦連続の2位表彰台を得た。その後はしばらく入賞のみにとどまったものの変則フォーマット(2日間×250㎞)となったもてぎでは自身がアタックを担当した第3戦(初日)の予選でポールポジションを獲得、決勝では2位でフィニッシュしランキングトップに立つと平手が第8戦(2日目)でも予選でポールポジションを獲得し決勝では終始安定した走りを見せてSUPER GT初優勝、さらにドライバーズタイトルも獲得した。前年の表彰台ゼロから1勝を含む表彰台4回と抜群の安定感を見せ来日2年目でチャンピオンになるなど、前年からは想像もできないほどの大成功の1年となった。

2017年

2017年はチャンピオンチームとしてカーナンバー1をつけて参戦。マシンはレクサス・LC500に変更された。レクサス勢は開幕戦に全6台がトップ6を占める快走を見せ、SARDもトップ争いをする活躍を見せていたが、僚友の平手の接触が相次ぎ最終戦前にチャンピオンの権利を失ってしまった。しかし菅生ではMOLAGT-Rとの熾烈な争いを制して一勝を挙げている。

2018年

2018年もSARDで参戦。チームメイトは平手晃平に代わり元F1ドライバーの小林可夢偉となった。

ラリー

ラリーにも高い関心を持っており、2015年のフィンランド選手権開幕戦でフォード・フィエスタR5でラリーデビュー。いきなり3位表彰台を獲得した。

2016年の全日本ラリー選手権にも元F1ドライバー(ウィナー)として史上初めて参戦。チームはSARDラックのジョイント体制で、マシンはTMGの開発したトヨタGT86 CS-R3。コドライバーは北川紗衣。ラリー洞爺・ラリー北海道・ハイランドマスターズ・新城ラリーにエントリー。北海道ではリタイアしたが、ハイランドマスターでクラス4位、洞爺でクラス3位、新城ではクラス2位に加え総合でも4位の好成績を獲得した[11][12]

2018年にはエサペッカ・ラッピの駆るトヨタ・ヤリスWRCを借りてテストドライブしている[13]

エピソード

  • 2008年オーストラリアグランプリ終盤はフェルナンド・アロンソと白熱した4位争いを繰り広げ、残り2周でついにアロンソをオーバーテイクしたが、直後のホームストレートでスピードリミッターを誤操作して失速し[14]、アロンソに抜き返された。フェラーリのテストドライバーであるマルク・ジェネは、マクラーレンがこのような件への防止策を講じていないことについて、「驚いた」と述べた[15]
  • 2008年ハンガリーグランプリで初優勝を飾り、F1創設以来通算100人目のグランプリウィナーとなり、2010年フジテレビF1中継にて「F1史上100人目のウィナー」というキャッチコピーが与えられた。
  • ヘヴィメタルファンであり、お気に入りのバンドは母国フィンランドのナイトウィッシュ。自身も幼少期からドラムを叩いていた。2010年8月にナイトウィッシュのメンバーのうち3人がサマーキャンプ中にお遊びで結成したバンド「The Myötähäpeä」においてドラムス担当として参加している。[16]
  • 2010年シンガポールグランプリでは終盤の接触によりエアボックスから出火、ホームストレートにマシンを止めて自分で消火した。この姿は国際映像にも納められ、海外では「消防士(Fireman)」の愛称で呼ばれるようにもなっている。ホームストレートに炎上するマシンを止めた行為について少なからず批判もあったが、レースも残り2周でピットレーンにはフェラーリやレッドブルのスタッフらが多数集まっており、燃え盛るマシンの中でピットの安全性を考慮した判断力などを賞賛する声も多数あった。(実際に一度はピットに入ろうとしているが、直前でステアリングをきって止めている)
  • この消火シーンの写真が、AUTOSPORTにおいてファンが投票で決める「LG MOMENT OF THE YEAR」の大賞に選ばれた。本人はその直前に出場したレース・オブ・チャンピオンズでのクラッシュにより医師から安静を命じられており、授賞式には出席できなかった。

レース戦績

GP2

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 総合順位 ポイント
2005年 アーデン・インターナショナル SMR
FEA

1
SMR
SPR

3
ESP
FEA

3
ESP
SPR

Ret
MON
FEA

5
EUR
FEA

1
EUR
SPR

Ret
FRA
FEA

1
FRA
SPR

3
GBR
FEA

2
GBR
SPR

3
GER
FEA

5
GER
SPR

6
HUN
FEA

2
HUN
SPR

5
TUR
FEA

10
TUR
SPR

1
ITA
FEA

1
ITA
SPR

5
BEL
FEA

15
BEL
SPR

9
BHR
FEA

3
BHR
SPR

Ret
2位 105

F1

所属チーム Car-No. ランキング 獲得ポイント 決勝最高位・回数 表彰台回数 予選最高位・回数 FL記録回数
2007年 ルノー 4 7位 30 2位・1回 1回 6位・2回 0回
2008年 マクラーレン 23 7位 53 1位・1回 3回 1位・1回 2回
2009年 2 12位 22 4位・1回 0回 2位・1回 0回
2010年 ロータス 19 20位 0 12位・1回 0回 15位・1回 0回
2011年 20 22位 0 13位・1回 0回 16位・1回 0回
2012年 ケータハム 20 19位 0 13位・2回 0回 16位・2回 0回
2013年 ロータス 7 21位 0 14位・2回 0回 8位・1回 0回
チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 WDC ポイント
2007年 ルノー R27 AUS
10
MAL
8
BHR
9
ESP
7
MON
13
CAN
4
USA
5
FRA
15
GBR
7
EUR
8
HUN
8
TUR
6
ITA
7
BEL
8
JPN
2
CHN
9
BRA
Ret
7位 30
2008年 マクラーレン MP4-23 AUS
5
MAL
3
BHR
5
ESP
Ret
TUR
12
MON
8
CAN
9
FRA
4
GBR
5
GER
5
HUN
1
EUR
4
BEL
10
ITA
2
SIN
10
JPN
Ret
CHN
Ret
BRA
7
7位 53
2009年 MP4-24 AUS
Ret
MAL
Ret
CHN
5
BHR
12
ESP
Ret
MON
Ret
TUR
14
GBR
Ret
GER
8
HUN
5
EUR
4
BEL
6
ITA
6
SIN
7
JPN
11
BRA
12
ABU
11

12位 22
2010年 ロータス[18] T127 BHR
15
AUS
13
MAL
NC
CHN
14
ESP MON
Ret
TUR
Ret
CAN
16
EUR
Ret
GBR
17
GER
Ret
HUN
14
BEL
16
ITA
18
SIN
16
JPN
12
KOR
13
BRA
18
ABU
17
20位 0
2011年 T128 AUS
Ret
MAL
15
CHN
16
TUR
19
ESP
Ret
MON
14
CAN
Ret
EUR
19
GBR
Ret
GER
16
HUN
Ret
BEL
15
ITA
13
SIN
16
JPN
18
KOR
14
IND
14
ABU
17
BRA
16
22位 0
2012年 ケータハム CT01 AUS
Ret
MAL
18
CHN
23
BHR
17
ESP
16
MON
13
CAN
18
EUR
14
GBR
17
GER
19
HUN
17
BEL
17
ITA
14
SIN
15
JPN
15
KOR
17
IND
18
ABU
13
USA
18
BRA
14
22位 0
2013年 CT03 AUS MAL CHN BHR
TD
ESP
TD
MON CAN GBR GER HUN BEL
TD
ITA
TD
SIN KOR JPN
TD
IND ABU
TD
21位 0
ロータス[18] E21 USA
14
BRA
14

SUPER GT

チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 順位 ポイント
2015年 LEXUS TEAM SARD レクサス・RC F GT500 OKA
5
FSW
5
CHA
7
FSW
9
SUZ
11
SUG
Ret
AUT
13
TRM
6
13位 23
2016年 GT500 OKA
7
FSW
2
SUG
2
FSW
8
SUZ
8
CHA
7
TRM
2
TRM
1
1位 82
2017年 レクサス・LC500 GT500 OKA
3
FSW
7
AUT
14
SUG
1
FSW
10
SUZ
13
CHA
6
TRM
8
8位 44
2018年 GT500 OKA
12
FSW
2
SUZ
Ret
CHA
1
FSW
11
SUG
AUT
TRM
5位 35

脚注

  1. F1-Live.com 2006年9月6日
  2. このレースではマクラーレンのルイス・ハミルトンが優勝しており、F1史上初のルーキードライバーによる1-2フィニッシュであった。またフィンランド人ドライバーが2人表彰台に上がるのもF1史上初のことだった。
  3. F1-Live.com 2008年6月27日
  4. http://www.hs.fi/urheilu/artikkeli/Lotus+vahvisti+Kovalaisen+F1-pestin/1135251456669
  5. “ヘイキ・コバライネン「最高なシーズンになった」」”. TopNews. (2011年11月20日). http://www.topnews.jp/2011/11/20/news/f1/drivers/heikki-kovalainen/47413.html . 2011閲覧. 
  6. “ケータハム、2014年のペイドライバー起用は賞金次第?”. F1-Gate.com. (2013年9月10日). http://f1-gate.com/caterham/f1_20817.html . 2013閲覧. 
  7. “ヘイキ・コバライネン、ケータハムのリザーブドライバーに就任”. F1-Gate.com. (2013年4月17日). http://f1-gate.com/kovalainen/f1_19025.html . 2013閲覧. 
  8. “キミ・ライコネン、残りのシーズンを欠場”. F1-Gate.com. (2013年11月11日). http://f1-gate.com/raikkonen/f1_21579.html . 2013閲覧. 
  9. “ロータス、ヘイキ・コバライネンをキミ・ライコネンの代役に起用”. F1-Gate.com. (2013年11月14日). http://f1-gate.com/lotus/f1_21631.html . 2013閲覧. 
  10. “コバライネン、ロータスでの結果が影響”. ESPN F1. (2014年2月9日). http://ja.espnf1.com/caterham/motorsport/story/144807.html . 2014閲覧. 
  11. コバライネンがラリー北海道に参戦。「もともとラリーが好きだった」
  12. コバライネン、最終戦新城ラリーを総合4位 クラス2位のポディウムフィニッシュ
  13. "フライング・フィン"クロストーク
  14. F1-Live.com 2008年3月20日
  15. F1-Live.com 2008年3月18日
  16. ナイトウィッシュ サマーキャンプ
  17. “2012 F1 season statistics part two: Stats and facts”. F1 Fanatic. (2012年12月23日). http://www.f1fanatic.co.uk/2012/12/23/2012-f1-season-stats-facts/ . 2013閲覧. 
  18. 18.0 18.1 表の便宜上、両方とも「ロータス」であるが、それぞれ別のチームである事に注意。

外部リンク

テンプレート:SUPER GT歴代チャンピオン テンプレート:2018年TOYOTA・SUPER GTチーム テンプレート:ケータハムF1