ベルンハルト・フォン・ビューロー

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ベルンハルト・ハインリヒ・カール・マルティン・フォン・ビューロー侯爵ドイツ語: Bernhard Heinrich Karl Martin von Bülow, 1849年5月3日 - 1929年10月28日)は、ドイツ外交官政治家1900年から1909年までドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の下、ドイツ帝国宰相を務めた。

生い立ちと家系

1849年3月3日ホルシュタイン、クライン=フロットベック(現在はハンブルクの一部)に生まれる。大叔父のハインリヒ・フォン・ビューロープロイセン王国の外交官で、1827年から1840年まで駐英公使を務めた人物であり、夫人はヴィルヘルム・フォン・フンボルトの娘である。ビューローの父ベルンハルト・エルンスト・フォン・ビューローデンマーク及びドイツ諸国の宮廷に仕え、プロイセン外相などを務めた政治家であった。また、弟に軍人となり少将まで累進したカール・ウルリヒ・フォン・ビューローがいる。カール・ウルリヒは1914年第一次世界大戦では、騎兵を指揮してリエージュの戦いに参加した。

外交官

普仏戦争後に官界に入り、外務省に入省する。1876年駐在フランス大使館勤務となりパリに赴任する。1878年ベルリン会議では書記官として参加する。1880年二等書記官に昇進する。1884年ロシア大使館一等書記官としてサンクトペテルブルクに赴任し、代理公使待遇となった。なお、1887年に将来的にドイツ人と武力対立を引き起こすことを懸念して、ドイツ帝国領内からのポーランド人追放を提唱している。

1888年ハンガリー王国公使、1893年イタリア王国公使を経て、1897年アドルフ・フォン・ビーベルシュタイン(de:Adolf Marschall von Bieberstein)の引退をうけてホーエンローエ・シリングスフュルスト内閣の外相に就任する。

外相としてのビューローは、とりわけ皇帝ヴィルヘルム2世の意志を酌み、いわゆる「世界政策」としての植民地拡大政策で大きな役割を果たした。1899年カロリン諸島の領有に成功した際は、その功績により伯爵に叙せられた。

帝国宰相

1900年10月16日ホーエンローエ・シリングスフュルスト侯爵の引退に伴い、後任の帝国宰相に任命される。宰相としての最初の業績は、外交の大家たる堂々とした駆け引きで帝国議会を抑えつつ、への帝国主義的侵略を推進したことである。ビューローはしばしば、帝国議会で政府の外交政策を擁護することに時間を費やした。これは、ヴィルヘルム2世の多くの失敗を隠すためでもあった。1905年6月6日ヴィルヘルム皇太子の成婚を記念して侯爵に陞爵した。

1906年4月5日帝国議会に出席中、過労とインフルエンザのため倒れる。1ヶ月後、公務に復帰するが、この頃同性愛の疑いを掛けられるなど、スキャンダルに見舞われる。この事件はさほど、政権にとって打撃にならなかったが、1908年10月28日ヴィルヘルム2世は、イギリスの新聞「デイリー・テレグラフ」のインタビューでドイツの内政と外交について語ったが、その侵略政策的な内容によって内外から激しく批判された(デイリー・テレグラフ事件)。

ビューローは責任をとって辞任を表明するが、その実、内外の批判を利用して皇帝の行政権を制限することに成功した。ビューローは、世界政策と海軍拡張政策はそのまま推進したため、財源を確保するため議会に新税導入を盛り込んだ予算案を提案したが、議会によって否決される。1909年7月14日辞任が承認され、後任にはテオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークが就任した。

晩年

1914年イタリア大使となる。しかし、イタリアとの同盟あるいは中立化に失敗した。ビューローは自分の任務を不可能なことであると思っていたきらいがある。帝国議会の多くの議員たちは、ベートマン・ホルヴェーク宰相の解任と、ビューローの再登板を望んでいたが、ビューローは、これを固辞している。1929年10月28日死去。80歳。

関連項目

参考

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外部リンク

先代:
ホーエンローエ・シリングスフュルスト
ドイツ帝国宰相
1900年 - 1909年
次代:
テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク
先代:
ホーエンローエ・シリングスフュルスト
プロイセン王国首相
1900年 - 1909年
次代:
テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク

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