マカオの歴史

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ファイル:Crayon AB macau vue generale.png
Vue générale de Macau - オーガスト・ボルジェ (Auguste Borget, 1808-1877) による19世紀のマカオ
ファイル:Jesuites en chine.jpg
16世紀のイエズス会士たちは宣教の拠点としてマカオを利用した
ファイル:Situationskärtchen von Kanton, Makao, Hongkong.jpg
ドイツによる1888年の香港、マカオ、広東の地図

マカオの歴史(マカオのれきし)では、マカオ歴史について述べる。

政治史

マカオにポルトガル人が到来し、中国王朝との交易に乗り出すのは16世紀初めの1513年のことである。当初は東南アジア植民地から中国近海に来航していたポルトガル人は、マカオに居留地を確保し、中国や日本に対する貿易拠点とした。マカオはまた日本や中国に対するカトリック教会の布教の拠点でもあり、日本の禁教後はマテオ・リッチなどのイエズス会宣教師を北京に送り込んでいた。

しばしば「1557年ポルトガル領マカオ植民地成立」と書かれるが、実際には、ポルトガルはこの年に王朝から後期倭寇の討伐で明に協力した代償として、マカオの永久居留権を認められたにすぎない。明および続くの時代を通じてマカオは中国が領土主権を有し、中国の海関が設置され、中国の官吏がマカオ内に自由に出入りしていた。

ポルトガル側の行政機構としては、インド副王が治めるポルトガル領インドに属し、カピタン・モール(Capitão Mor)が責任者であった。1583年に市(cidade)に昇格し、翌年には議会設置が承認された。カトリックの布教区では、1579年にマカオ司教区が独立した。後述のように日中中継貿易の拠点として繁栄したことが有名だが、ベトナムなどインドシナへの貿易・布教への拠点でもあった。

17世紀の明清交代期には、清が台湾の鄭氏政権対策として遷界令を発して貿易を禁じ、また日本も鎖国をひいてポルトガル船を締め出したために、一時期マカオは没落した。また、1581年から1640年の期間、スペイン王がポルトガル王を兼ねる同君連合の状態にあり(スペイン帝国)、フィリピン植民地を有するスペインとの連合により交易拠点としての本国から見た重要性が相対的に低下、また、1640年ポルトガル王政復古戦争など、本国の動乱により海外拠点の経営の弛緩が見られた。その後、鄭氏が清に降伏すると貿易は再開される。

ポルトガルがマカオの行政権を中国人官吏から奪取し、ここを完全に植民地化したのは1849年のことで、アヘン戦争によってイギリスが香港植民地を獲得したのに刺激されたものであった。その後、1862年になって初めて中国(清)もマカオにおけるポルトガル統治権を認め、1887年に友好通商条約を締結してマカオを第三国に譲渡しないことを条件に永久的に占有することを承認した。注目すべきは、ポルトガルが得たのはあくまで統治権のみであり、マカオの主権はあくまで中国(清)側にあった点である。このことから、「マカオは史上かつてポルトガル領になったことは一度もない」とも言えることになる。

第二次世界大戦では、ポルトガルが中立を宣言したためにマカオは東アジアにおける中立港となり、経済的には繁栄したものの日本中華民国の戦闘が続いたことから中国人の難民が大量に流入した。国共内戦が終結し中国国民党台湾島に遷都した後の1951年にポルトガルはマカオを海外県とし、ポルトガル系住民支配のもとで植民地支配を続けようとしたが、反共主義者であったアントニオ・サラザール首相による独裁政権下にあったこともあり、中華人民共和国との国交は持たないままであった。1966年中国共産党系住民による反ポルトガル闘争(一二・三事件)が巻き起こった。

マカオ暴動以降、中華人民共和国側からの影響と返還の圧力が高まる中、1974年にポルトガル本国でカーネーション革命が起こって政権交代が実現、左派系の新政権は海外植民地の放棄を宣言した。1976年、ポルトガルはマカオを海外県から特別領に改め、立法会を設置するなど、行政における本国からの大幅な独立性を認めた。

1979年には中華人民共和国とポルトガルの国交が樹立されるにあたり、マカオの本来の主権が中華人民共和国にあることが確認された。1986年より、中華人民共和国がイギリスとの間で進める香港返還交渉と平行してマカオ返還交渉が開始。翌1987年、両国は共同声明を発して1999年に行政権が中華人民共和国に譲渡されることが決定した。

マカオには、マカオ基本法を実質上の憲法として運用する一国二制度が適用され、ポルトガルから受け継いだ現行の社会制度を返還後50年にわたって維持することとなった。返還は1999年12月20日に実現、マカオは中華人民共和国の特別行政区となった。なおこれによりアジアから欧米の植民地は完全に姿を消した。

経済史

ファイル:Macau Trade Routes.png
スペインとポルトガルにとってマカオは世界的貿易の中継地点だった

16世紀のポルトガル人が到来した当初、マカオ貿易の中心は、インド東南アジアで買い付けた物産を中国に輸出し、中国から陶磁器などを東南アジアや欧州にまで輸出する南海貿易であったが、やがて日中貿易の仲介でも大きな利益を見出した。これは倭寇に苦しんだ明王朝が日本との貿易を禁止していたため、日本船が中国に来航できず、ポルトガルがその代行者として参入したことによる。

1580年には本国ポルトガルがスペインとの同君連合となり、スペインの植民地マニラとの間にも貿易ルートが開かれた。この頃、日本では統一権力が形成に向かうとともに先進的な鉱山技術が導入されての生産量が飛躍的に増加し、経済発展著しい中国が通貨として用いる銀を欲していたことから日中中継貿易は莫大な利益をもたらした。しかし日本との貿易は江戸幕府鎖国政策によって終結し、明末清初の動乱ともあいまって17世紀のマカオの没落を招いた。

台湾の鄭氏政権が清朝に降伏して明末清初の動乱が終わると、マカオは東南アジア貿易に活路を見出し、ティモール島に植民するなど一応の回復を見せたが、清朝が広州を開放して欧米諸国の貿易船を受入れ、いわゆる広東貿易が発展すると衰退の一途を辿った。広州で貿易に従事する欧米人はマカオを休養地として利用することが多く、カジノ産業が発達して「東洋のモンテ・カルロ」と呼ばれるようになった。

年表

外部リンク