マクシミリアン・ロベスピエール

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仏: Maximilien François Marie Isidore de Robespierre

[生] 1758.5.6. アルトア,アラス
[没] 1794.7.28. パリ

フランス革命の指導者。恐怖政治期 (1793~94) における山岳派の指導者として知られる。弁護士の長男として生れ,1769年パリのルイ大王学院入学の奨学金を与えられた。天才的な頭脳をもつ学生で,80年大学入学を許可され,翌年法学修士号を取得,卒業後,故郷アラスで弁護士になった。

たちまち名声を博し,82年アラス司教区の刑事裁判官に任命された。 89年アルトア州第三身分の代議員として全国三部会に参加。国民議会が成立すると,急進的なジャコバン・クラブに加入,以後憲法制定国民議会からテルミドール九日まで,終始革命のなかに身をおいた。思想的にはルソーの影響を受けた。立法議会ではジロンド派の開戦論に反対し,山岳派の指導者となってサン=キュロットと同盟,93年6月国民公会からジロンド派を追放しジャコバン派独裁を樹立。同年7月公安委員会の一員となって恐怖政治を行なった。「徳なくして恐怖は罪であり,恐怖なくして徳は無力」と説き,「徳の共和国」という平等の小所有者の共和国を理想としながらも,現実は革命独裁を推進。山岳派内で,左派の J.エベールほか 19名を処刑し,また右派の G.ダントンをギロチンに送ってエベール派,ダントン派を排除,この頃よりサン=キュロットの支持も失い,94年7月 27日 (テルミドール九日) ,国民公会によって逮捕された。翌日同志とともに革命広場 (現コンコルド広場) で処刑された。