マティルダ (神聖ローマ皇后)

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テンプレート:基礎情報 君主の正配 マティルダ(Matilda, 1102年2月7日 - 1167年9月10日)は、イングランドヘンリー1世とその王妃であるスコットランドマルカム3世の娘マティルダとの間に生まれた王女。同じマティルダの名を持つ多くの歴史上の人物と区別して、マティルダ皇后(Empress Matilda)、モード皇后(Empress Maud、Maud はサクソン語で Matilda)、イングランドのマティルダ(Matilda of England)などとも呼ばれる。

マティルダはイギリスにおける初の女性君主として知られる。ただし、実効支配者としてイングランドに君臨したのが対立王を一時的に捕獲していた1141年の数か月間に限られること、女王として戴冠することがついになかったこと、そして自らの手で王権を統合することができなかったことなどから、後世の史家はこのマティルダを正統な君主として認めながらも歴代のイングランド王には数えないという、玉虫色の扱いをするに至っている。

生涯

モードは1102年に生まれた。最初に名付けられた名前はアデレードだったが、1114年、12歳で神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世と結婚して皇后になったとき、母の名前を取ってモード(マティルダ)と改名した。1125年に夫が死ぬとイングランドに帰され、1128年に今度はフランスに送られて10歳年少のアンジュー伯ジョフロワ4世と再婚した。1133年には長男アンリ(のちのイングランド王ヘンリー2世)を生む。

1135年に父ヘンリー1世が死ぬと、モードは夫ジョフロワと共にイングランドの王位継承者に指名されたが、彼女の従兄であるブロワ伯家のエティエンヌがロンドンに入ってイングランドを掌握し、イングランド王スティーヴンとなった。スティーヴンはヘンリー1世の生前に王位を要求しないことを重ねて誓約していたため、モードは誓約違反をローマ教皇に訴え出たが、スティーヴンはローマ教会と友好関係にあったため却下された。しかし、王位簒奪の過程で教会や諸侯に数多くの譲歩をしたスティーヴンの王権は次第に弱体化してゆく。諸侯の統制を失ったと見たマティルダは、1139年にイングランドに上陸、スティーヴンとの間で王位を争って戦いを始めた。この結果、スティーヴンの治世は内乱に明け暮れることとなり、史上「無政府時代」と呼ばれる時代が到来する。

マティルダを支持する異母兄(ヘンリー1世の庶子)グロスター伯ロバート率いるアンジュー伯派は、1141年にスティーヴンを破りこれを捕獲するという大勝利を挙げた。マティルダはイングランド人の女君主(The Lady of The English)を名乗ってロンドンに至り、ロンドン入城とともに戴冠して女王となる予定を立てていたが、これに先立ってロンドン市から寄せられた減税の陳情をにべもなく却下したことから、ロンドン市民はマティルダに愛想をつかして城門を堅く閉ざし、その入城を拒むに至った。そうこうするうちにスティーヴンは解放され、するとまもなく内戦が再開し、これでマティルダ戴冠の機会は永遠に失われた。

スティーヴンを戴く国王派はすでにイングランド全土でその権威を失っていたが、マティルダを戴くアンジュー伯派もまた他方を制圧するだけの力がなく、以後の内戦は泥沼化したまま年月を費やした。1147年にグロスター伯が死ぬと、強力な支持者を失ったマティルダはフランスに帰ることを余儀なくされる。1151年には夫のアンジュー伯ジョフロワも死去し、これでアンジュー伯派の力は著しく衰えてしまう。

しかしマティルダの長男アンリが成長するとともに、再びアンジュー伯派は力を得はじめた。アンリは父が征服したノルマンディー公位を得たのを皮切りに、父の死後にはアンジュー伯位とブルターニュ公位を襲爵、また婚姻によって妻が有する広大なアキテーヌ公領・ガスコーニュ公領・ポワチエ伯領なども得て、フランス国土の半分にも及ぶ一大勢力を築くと、1153年に大軍を率いてイングランドに上陸した。そして双方で妥協して、生涯にわたってスティーヴンの王位を認めるかわりに、自らがイングランド王位継承者となることを認めさせた。スティーヴンはその翌年に死去し、約束通りアンリがヘンリー2世としてイングランド王に即位、ここにプランタジネット朝(アンジュー朝)が始まる。

マティルダはフランスに留まったままそのすべてを見届け、1167年にひっそりとこの世を去った。

系図

テンプレート:イングランド王室ノルマン朝以降

関連項目