マヌエル・ノリエガ

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この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はノリエガ第二姓(母方の)はモレノです。

マヌエル・アントニオ・ノリエガ・モレノ(Manuel Antonio Noriega Moreno [maˈnwel noˈɾjeɣa], 1934年2月11日 - 2017年5月29日[1])はパナマ共和国軍人政治家1983年から1989年の間、独裁者として君臨した同国の最高司令官(将軍)である。日本の報道ではノリエガ将軍の通称で呼ばれた。

ブッシュ政権当時のアメリカ軍によるパナマ侵攻で失脚した。

人物

経歴

1983年、パナマ軍最高司令官に就任。隣国コロンビアの麻薬組織(メデジン・カルテル)と結びつき、パナマからアメリカ合衆国コカインなどを密輸するルートを私物化していった。さらに反米国家のリビア人(カダフィ政権)やキューバ人に対してアメリカの査証やパスポートを闇ルートで転売していた。1989年に大統領選挙に出馬したが、落選が確実になると軍をあげて選挙の無効を宣言する。この時、「尊厳大隊」という直属の私兵組織を動員し、反対者に対して暴力を振るうなどして鎮圧した。

ところがその5日後、麻薬の不正浄化や在パナマアメリカ軍兵士の殺害、選挙結果の不履行を理由にブッシュ大統領によるアメリカ軍パナマ侵攻を受け、アメリカ軍の圧倒的な物量差を前にパナマ国防軍は敗北した。戦闘による混乱の中彼は拘束され、麻薬密輸の罪で懲役40年(後に30年に減刑)の判決を受ける。フロリダ州マイアミで服役中だったが、模範囚であることを理由に刑期は短縮され2007年9月9日に釈放された。

ノリエガはパナマに帰国して隠退生活を望んでいたとされるが、フロリダ州連邦地裁は2007年8月28日にノリエガの身柄を刑期終了後にフランスに引き渡すとする決定を下した[2]。フランスでは、同国内の銀行口座を使って麻薬資金の洗浄を行っていたとして1999年に欠席裁判のままノリエガに対し禁固10年の有罪判決が下されており、アメリカに対して身柄引き渡しを要求していた。その後アメリカ合衆国国務長官ヒラリー・クリントンが引き渡し命令に署名し、2010年4月26日にノリエガはフランスへ移送され[3]、同年7月7日パリ裁判所にて禁固7年の有罪判決が下されている[4]

パナマでは、政敵であったウーゴ・スパダフォラ殺害の容疑にてノリエガに禁固20年の判決が出ている。ノリエガはこれに対して、裁判で無実を勝ち取るとしていた。

2011年12月11日、ノリエガはフランスからパナマへ送還され現地到着後に収監された。彼にとって22年振りの母国帰国となった[5]

2012年2月5日、ノリエガは高血圧症のためパナマ市内の病院に搬送された[6]

2014年7月15日、ゲーム『コール オブ デューティ ブラックオプス2』において名前を無断で使用され、「誘拐犯」「殺人者」と描かれたとして、カリフォルニア州のゲーム会社アクティビジョン・ブリザードに対し損害賠償を求める訴訟を起こした[7]が、同年10月28日、ロサンゼルス郡地裁は「80年代から90年代の当人の行いを考慮すれば、ゲームにより名声が傷つけられたという証拠を見つけるのは難しい」として訴えを退けた[8]

2017年3月7日に脳腫瘍の手術を受け、直後に出血が見られ重体と報じられた[9]。同年5月29日、83歳で死去[10]

その他

ノリエガは、1950年代からCIAのために活動していたといわれる。オマル・トリホス政権ではパナマの諜報機関G2の責任者を務め、CIAがG2の訓練を行なっていた。ブッシュ大統領がCIA長官を務めていた1976年当時、ノリエガはCIAから年間11万ドルを受け取り、各地のパナマ大使館から得た情報をCIAに流していた。

一方で、ノリエガはアメリカと敵対するキューバカストロ政権やニカラグアサンディニスタ政権など中米カリブ海の左派政権とも関係を持ち、多重に取引をしていた [11]

脚註

関連項目

軍職
先代:
ルベン・ダリオ・パレデス  (en
パナマの旗 パナマ共和国軍最高司令官
1983 - 1989
次代:
ギジェルモ・エンダラ  (en
(軍解体、大統領)