マリオ・アンドレッティ

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マリオ・アンドレッティ
基本情報
フルネーム マリオ・ガブリエーレ・アンドレッティ
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 テンプレート:KIT
(クロアチアの旗 現・クロアチア)
同・モトヴン
生年月日 (1940-02-28) 1940年2月28日(84歳)
F1での経歴
活動時期 1968-1972,1974-1982
所属チーム '68-'69,'76-'80 ロータス
'70 マーチ
'71-'72,'82 フェラーリ
'74-'76 パーネリ
'81 アルファロメオ
'82 ウィリアムズ
出走回数 128
タイトル 1 (1978)
優勝回数 12
表彰台(3位以内)回数 19
通算獲得ポイント 180
ポールポジション 18
ファステストラップ 10
初戦 1968年イタリアGP
初勝利 1971年南アフリカGP
最終勝利 1978年オランダGP
最終戦 1982年ラスベガスGP
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マリオ・ガブリエーレ・アンドレッティMario Gabriele Andretti1940年2月28日 - )はアメリカ人のレーシングドライバー。1978年のF1ワールドチャンピオンであり、インディカーでも4回のチャンピオンを獲得した。インディ500デイトナ500とF1チャンピオンを全て獲得した唯一のドライバーである。

プロフィール

アメリカでの成功

ファイル:AndrettiHawk.jpg
1969年のインディ500で優勝したホークのレプリカ

マリオ・アンドレッティは当時イタリア領のモンタナ・ディストリア(Montona d'Istria 、現在のクロアチアモトヴン)で生まれ、第二次世界大戦後に一家でアメリカへ移住した。

アメリカへ移るとすぐ、1959年にダートオーバルレースからレーシングキャリアをスタートさせた。1964年にアメリカ国籍を獲得し、アメリカ合衆国自動車クラブ (USAC) のオープンホイールカー・シリーズ(後のCARTシリーズ)に参戦するようになる。1965年にはUSACのナショナルチャンピオンを獲得し、1966年、1969年にもチャンピオンに輝いた。

世界三大レースのひとつであるインディ500では1965年にルーキー・オブ・ザ・イヤー、1966年に初ポールポジション、1969年に初優勝を達成した。また、ストックカーレースNASCAR)のデイトナ500でも1967年に優勝し、名実共にアメリカを代表するドライバーのひとりになった。

また、スポーツカーレースにおいてもセブリング12時間レースで3勝、デイトナ24時間レースで1勝し、ル・マン24時間レースカナディアン-アメリカン・チャレンジカップ (Can-Am) に参戦するなど、車両やコースの種類を問わないオールマイティーな才能をみせた。

F1参戦

ファイル:AndrettiMario19690801Lotus63-Allrad-3.jpg
4WDロータス・63をドライブするアンドレッティ(1969年)
ファイル:Andretti celebrating at 1978 Dutch Grand Prix.jpg
1978年オランダグランプリで優勝したアンドレッティ

1968年、アンドレッティはロータスよりスポット参戦でF1に参戦を開始した。初参戦はイタリアグランプリだったが、予選走行後、同週末に開催されたフージャー100に参戦するためにアメリカに戻った。イタリアグランプリ主催者は、アンドレッティがフージャー100に参戦した場合には、レースの24時間以内に別のレースに参戦することを禁じたルールに従い、イタリアグランプリへの出走を禁じるとしていた。アンドレッティはアメリカに戻り、イタリアグランプリ決勝には出走しなかった[1]。2度目の参戦はアメリカグランプリだった。このレースでアンドレッティはポールポジションを獲得した。F1では、初めて決勝に進出したレースをデビュー戦とするため、アンドレッティは「デビュー戦でポールポジション」を獲得したことになる。F1デビュー戦でPPを獲得したのは史上4人しかいない[2]

1971年にはフェラーリに乗り、開幕戦南アフリカグランプリでF1初優勝を記録。1975年にはアメリカチームのパーネリでフル参戦するが、撤退により1976年途中からロータスに加入。コーリン・チャップマンと協力して当時低迷していたチームを徐々に上位に押し上げて行く。同年に日本で初めて開催されたF1レース、F1世界選手権イン・ジャパンでは、豪雨の中でロータス・77を見事に操り、5年ぶりの優勝を飾った。1977年シーズンは年間最多勝(4勝)を記録した。

1978年は最強のウィングカーロータス・79を得て年間6勝を挙げ、フィル・ヒル(1961年)以来2人目となるアメリカ人F1ワールドチャンピオンとなった。ただし一部には「チームメイトのロニー・ピーターソンの方がアンドレッティより速いのに、チームオーダーでアンドレッティを先行させていた」という説も存在する。当時アンドレッティ自身、「チーム内の約束がなければロニーが勝てたレースはまだ2つか3つはあっただろう」と語っている。しかしながら、この年のロータス・79の活躍はアンドレッティの卓越したマシン開発能力によるものであることは疑いようもない事実である。

ロータスには1980年まで在籍し、1981年シーズンをアルファロメオで過ごした後、F1へのフル参戦に区切りをつけた。しかし1982年、カルロス・ロイテマンの突然の引退を埋める形でウィリアムズに加わり、アメリカ西グランプリに出走。同年終盤のイタリアグランプリとラスベガスグランプリには、ジル・ヴィルヌーヴディディエ・ピローニのレギュラー2人を相次いで欠く事態に見舞われたフェラーリの要請に応える形で出走し、イタリアグランプリでは予選1位、決勝3位と活躍した。

再びアメリカへ

1982年をもってF1での活動は完全に終了し、活躍の場をアメリカに戻した。アンドレッティのF1撤退後35年間に、F1に参戦したアメリカ人ドライバーはエディ・チーバーダニー・サリバン、息子のマイケル、スコット・スピードアレクサンダー・ロッシのわずか5人だけである。

1984年には4回目となるCARTのタイトルを獲得し、1994年までCARTにレギュラー参戦した。その後も2000年までル・マン24時間レースに参戦。アメリカとヨーロッパの大レースで輝かしい成績を残してきたものの、ル・マンでの勝利だけは実現できなかった(最高位は1995年の2位)。

2000年には国際モータースポーツ殿堂に殿堂入りした。

2003年には負傷したトニー・カナーンの代役として、63歳にしてインディ500参戦を表明[3]。プライベートテストに参加したが、直前にケニー・ブラックがクラッシュした際の破片を踏んだマシンが空中高く舞い上がるクラッシュを演じてしまう。マシンはフェンスに接触した上に縦に3回転したものの幸い元の体勢で着地し、アンドレッティ自身に怪我はなかった。

2006年にはディズニーピクサーの映画カーズで、本人役で声優として出演した。(ただし、アニメの設定上のマリオ・アンドレッティは往年の名レーサーの「車」である。)

2012年にはアンバサダーを務めるサーキット・オブ・ジ・アメリカズ (COTA) の開業セレモニーで、往年のロータス・79をドライブして初走行を行った[4]

2013年には、アニメ映画『ターボ』にゲスト声優として参加した[5]

なお、エイミー・グラントの1991年のヒット曲『Good For Me』の中で歌われている。

アンドレッティ・ファミリー

ファイル:MarioAndrettiAndJohnAndrettiMay2007.jpg
マリオと甥のジョン(2007年のインディ500にて)

アンドレッティ家はレーシング一族としても知られ、息子のマイケルジェフもレーサーになった。マイケルはCARTでチャンピオンを獲得し、F1にも参戦していた。マイケルの子である孫のマルコもレーシングドライバーとしてデビューし、IRLで参戦1年目で史上最年少優勝を遂げている。

マリオの一卵性双生児の兄アルドも元ドライバーで、その息子で甥のジョンアダムNASCARで活躍する。

アンドレッティ家のドライバーは、インディ500で好走しながらもトラブルに見舞われるなど勝利できないジンクスを持ち、いまだマリオが1勝したのみである。息子であるマイケルとジェフ兄弟や、マイケルの従兄ジョン、果ては孫のマルコまでもインディ500は未勝利で、アンサーファミリーが一族で何度か勝利経験を持つのとは対照的である。2006年にはレース最終盤までマルコ-マイケルの親子1-2態勢を築きながら、ラスト3周でマイケルが、更にチェッカー寸前にマルコまでもが、それまで3位につけていたサム・ホーニッシュ・ジュニアに交わされ、2位と3位に終わった。

F1での年度別成績

所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 WDC ポイント
1968年 ロータス 49B RSA ESP MON BEL NED FRA GBR GER ITA
DNS
CAN USA
Ret
MEX NC
(38位)
0
1969年 RSA
Ret
ESP MON NED FRA GBR NC
(26位)
0
63 GER
Ret
ITA CAN USA
Ret
MEX
1970年 マーチSTP 701 RSA
Ret
ESP
3
MON BEL NED FRA GBR
Ret
GER
Ret
AUT
Ret
ITA CAN USA MEX 16位 4
1971年 フェラーリ 312B RSA
1
ESP
Ret
MON
DNQ
NED
Ret
FRA GBR 8位 12
312B2 GER
4
AUT ITA CAN
13
USA
DNS
1972年 ARG
Ret
RSA
4
ESP
Ret
MON
BEL
FRA
GBR
GER
AUT
ITA
7
CAN
USA
6
12位 4
1974年 パーネリ VPJ4 ARG BRA RSA ESP BEL MON SWE NED FRA GBR GER AUT ITA CAN
7
USA
DSQ
NC
(25位)
0
1975年 ARG
Ret
BRA
7
RSA
17
ESP
Ret
MON
Ret
BEL SWE
4
NED FRA
5
GBR
12
GER
10
AUT
Ret
ITA
Ret
USA
Ret
14位 5
1976年 ロータス 77 BRA
Ret
ESP
Ret
BEL
Ret
MON SWE
Ret
FRA
5
GBR
Ret
GER
12
AUT
5
NED
3
ITA
Ret
CAN
3
USA
Ret
JPN
1
6位 22
パーネリ VPJ4B RSA
6
USW
Ret
1977年 ロータス 78 ARG
5
BRA
Ret
RSA
Ret
USW
1
ESP
1
MON
5
BEL
Ret
SWE
6
FRA
1
GBR
14
GER
Ret
AUT
Ret
NED
Ret
ITA
1
USA
2
CAN
9
JPN
Ret
3位 47
1978年 ARG
1
BRA
4
RSA
7
USW
2
MON
11
1位 64
79 BEL
1
ESP
1
SWE
Ret
FRA
1
GBR
Ret
GER
1
AUT
Ret
NED
1
ITA
6
USA
Ret
CAN
10
1979年 ARG
5
BRA
Ret
RSA
4
USW
4
BEL
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
AUT
Ret
NED
Ret
ITA
5
CAN
10
USA
Ret
12位 14
80 ESP
3
MON
Ret
FRA
Ret
1980年 81 ARG
Ret
BRA
Ret
RSA
12
USW
Ret
BEL
Ret
MON
7
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
7
AUT
Ret
NED
8
ITA
Ret
CAN
Ret
USA
6
20位 1
1981年 アルファロメオ 179C USW
4
BRA
Ret
ARG
8
SMR
Ret
BEL
10
MON
Ret
ESP
8
FRA
8
GBR
Ret
GER
9
AUT
Ret
NED
Ret
ITA
Ret
CAN
7
CPL
Ret
17位 3
1982年 ウィリアムズ FW07C RSA BRA USW
Ret
SMR BEL MON DET CAN NED GBR FRA GER AUT SUI 19位 4
フェラーリ 126C ITA
3
CPL
Ret

脚注

関連項目

外部リンク

先代:
ニキ・ラウダ
F1ドライバーズチャンピオン
1978年
次代:
ジョディー・シェクター

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