マルキ・ド・サド

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マルキ・ド・サド(Marquis de Sade, 1740年6月2日 - 1814年12月2日)は、フランス革命期の貴族小説家。マルキはフランス語で侯爵の意であり、正式な名は、ドナスィヤン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド(Donatien Alphonse François de Sade [dɔnaˈsjɛ̃ alˈfɔ̃ːs fʀɑ̃ˈswa dəˈsad])。

サドの作品は暴力的なポルノグラフィーを含み、道徳的に、宗教的に、そして法律的に制約を受けず、哲学者の究極の自由(あるいは放逸)と、個人の肉体的快楽を最も高く追求することを原則としている。サドは虐待と放蕩の廉で、パリ刑務所精神病院に入れられた。バスティーユ牢獄に11年、コンシェルジュリーに1ヶ月、ビセートル病院(刑務所でもあった)に3年、要塞に2年、サン・ラザール監獄に1年、そしてシャラントン精神病院に13年入れられた。サドの作品のほとんどは獄中で書かれたものであり、しばらくは正当に評価されることがなかったが、現在その書籍は高い評価を受けている。サディズムという言葉は、彼の名に由来する。

生涯

生い立ちと教育

マルキ・ド・サドは、パリのオテル・ド・コンデ(fr:Hôtel de Condé、かつてのコンデ公の邸宅。現在のパリ6区コンデ通りfrançais版ヴォージラール通りfrançais版付近)にて、サド伯爵ジャン・バティスト・フランソワ・ジョセフと、マリー・エレオノール・ド・マイエ・ド・カルマン(コンデ公爵夫人の女官。宰相リシュリューの親族)の間に生まれた。彼は伯父のジャック・ド・サド修道士による教育を受けた。サドは後にイエズス会のリセに学んだが、軍人を志して七年戦争に従軍し、騎兵連隊の大佐となって闘った。

1763年に戦争から帰還すると同時に、サドは金持ちの治安判事の娘に求婚する。しかし、彼女の父はサドの請願を拒絶した。その代わりとして、彼女の姉ルネ・ペラジー・コルディエ・ド・ローネー・ド・モントルイユとの結婚を取り決めた。結婚後、サドは息子2人と娘を1人もうけた[1]

1766年、サドはプロヴァンスのラコストの自分の城に、私用の劇場を建設した。サドの父は1767年1月に亡くなった。

牢獄と病院

サド家は伯爵から侯爵となった。祖父ギャスパー・フランスワ・ド・サドは最初の侯爵であった[2]。時折、資料では「マルキ・ド・マザン」と表記される。

サドは「復活祭の日に、物乞いをしていた未亡人を騙し暴行(アルクイユ事件)」、「マルセイユの娼館で乱交し、娼婦に危険な媚薬を飲ます」等の犯罪行為を犯し、マルセイユの娼館の件では「毒殺未遂と肛門性交の罪」で死刑判決が出ている。1778年にシャトー・ド・ヴァンセンヌに収監され、1784年にはバスティーユ牢獄にうつされた。

獄中にて精力的に長大な小説をいくつか執筆した。それらは、リベラル思想に裏打ちされた背徳的な思弁小説であり、エロティシズム、徹底した無神論キリスト教の権威を超越した思想を描いた小説でもある。だが、『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』をはじめ、淫猥にして残酷な描写が描かれた作品が多いため、19世紀には禁書扱いされており、ごく限られた人しか読むことはなかった。

サドは革命直前の1789年7月2日、バスティーユから「彼らはここで囚人を殺している!」と叫び、革命のきっかけの一つを作ったと言われる。間もなくシャラントン精神病院にうつされたが、1790年に解放された。当初共和政を支持したが、彼の財産への侵害が行われると次第に反共和政的になった。1793年12月5日から1年間は投獄されている。1801年、ナポレオン・ボナパルトは、匿名で出版されていた『美徳の不幸』と『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』を書いた人物を投獄するよう命じた。サドは裁判無しに投獄され、1803年にシャラントン精神病院に入れられ、1814年に没するまでそこで暮らした。

評価

サドの作品は、作者の精神状態を反映してか特に暴力的な描写において文法的に破綻を来してしまっているようなところが数多いが、20世紀に入ってから、そういった点がシュルレアリストたちによって再評価され、全集の出版が行われることになる。日本には木々高太郎式場隆三郎田辺貞之助、「丸木砂土」こと秦豊吉遠藤周作澁澤龍彦片山正樹たちによって紹介された。澁澤による『悪徳の栄え』の翻訳出版を巡って引き起こされた悪徳の栄え事件は、澁澤側の有罪(罰金刑)を以て終わった。

河出文庫などから出版されている澁澤の翻訳は、全訳ではなく抄訳のものが多い。水声社からサド全集が刊行中であるほか、全訳をうたった抄訳も出版されている[3]異常心理学の研究者である佐藤晴夫が全訳を試みたものが未知谷青土社から出版されている。

影響

オーストリア精神医学リヒャルト・フォン・クラフト=エビングは、「異常性欲」について、「フェティシズム」、「同性愛」、「サディズム」、「マゾヒズム」の4つに分類している。このうちの「サディズム」は、相手に対して、精神的で身体的な屈辱と苦痛を与えることによって性的な快楽や満足を得ることを意味し、サドの名前に因んで名付けられた。

主な作品

日本語訳

  • 『ジュスチーヌ物語又は美徳の不幸』
    • 澁澤龍彦訳、河出書房、1956年『ジュスチイヌ』(河出文庫、1987年『新ジュスティーヌ』※抄訳)
    • 佐藤晴夫訳、未知谷、1991年
    • 植田祐次訳、『ジュスチーヌまたは美徳の不幸』岩波文庫、2001年 
  • 『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』
    • 澁澤龍彦訳、現代思潮新社、1959年(河出文庫、1990年)『悪徳の栄え』
    • 佐藤晴夫訳、未知谷、1992年
  • 『アリーヌとヴァルクール又は哲学小説』
    • 佐藤晴夫訳、未知谷、1994年
    • 原好男訳、『アリーヌとヴァルクールあるいは哲学的物語』水声社、1998年 
  • 『食人国旅行記』(澁澤龍彦訳、桃源社、1963年)、河出文庫、1987年
  • 『恋の罪』(澁澤龍彦訳、桃源社、1963年)、河出文庫、1988年
  • 『短篇集 恋の罪』(植田祐次訳、岩波文庫、1996年)
  • ※『サド全集』(水声社、1995年-)、5巻分が刊行

映像化作品

伝記

  • 式場隆三郎『愛の異教徒 マルキ・ド・サドの生涯と芸術』綜合出版社 1947
  • 式場隆三郎『サド侯爵夫人』鱒書房 1956
  • 澁澤龍彦『サド侯爵の生涯 牢獄文学者はいかにして誕生したか』桃源社 1965。中公文庫(改訂版) 1983
    • 訳・解説『サド侯爵の手紙』筑摩書房 1980。ちくま文庫 1988
    • 澁澤龍彦『サド侯爵あるいは城と牢獄』河出文庫 2004。文庫新編
  • ジェフリー・ゴーラ『マルキ・ド・サド その生涯と思想』大竹勝訳 荒地出版社 1966
  • ジルベール・レリー『サド侯爵 その生涯と作品の研究』澁澤龍彦訳 筑摩叢書 1970。ちくま学芸文庫 1998
  • ヴァルター・レニッヒ『サド侯爵』飯塚信雄訳 理想社 1972
  • ジャン=ジャック・ブロシエ『サド』山辺雅彦訳 審美社 1975
  • ジャン=ジャック・ポーヴェール『サド侯爵の生涯』全3巻、長谷泰訳 河出書房新社 1998、新版2012
  • フィリップ・ソレルス『サド侯爵の幻の手紙 至高存在に抗するサド』鈴木創士訳 せりか書房 1999
  • シャンタル・トマ『サド侯爵 新たなる肖像』田中雅志訳 三交社 2006

サドを扱った作品

書籍

演劇・映画・小説

関連項目

脚注

  1. Love, Brenda (2002). The Encyclopedia of Unusual Sex Practices. UK: Abacus, p145. ISBN 0-349-11535-4. 
  2. Vie du Marquis de Sade by Gilbert Lêly, 1961
  3. 秋吉良人 『哲学の現代を読む6 サド - 切断と衝突の哲学』白水社、2007年、272頁。

外部リンク