ミヤコ蝶々

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ミヤコ蝶々(ミヤコ ちょうちょう、女性、1920年7月6日 - 2000年10月12日)は、日本女優漫才師。本名、日向 鈴子(ひゅうが すずこ)。長らく上方漫才・喜劇界をリードした関西を代表するコメディアンであった。

生涯・来歴

1920年(大正9年)東京府東京市日本橋区小伝馬町(現・東京都中央区日本橋小伝馬町)生まれ。鈴子が0歳、兄が4歳のときに両親が離婚し、1924年(大正13年)に父親と兵庫県神戸市へ移住した。

父はデパートで家具の販売をしながら神戸・元町で小さな家具屋を営んだ。父は芸事が好きで新内節を唄ったり寄席芸人を招いては宴を楽しんでいた。

1927年(昭和2年)家具屋をたたみ、父親の思いつきで芝居一座を結成し、娘を座長にさせた。九州の炭坑町の小さな劇場で安来節を唄い、初舞台を踏む。

その後もあらゆる芸(漫才[1]、喜劇、女剣舞、バレエ、三味線など)を身に付ける。

1942年(昭和17年)に吉本興業入りし一座を解散、三遊亭柳枝結婚した。終戦後は柳枝劇団を旗揚げするが、柳枝の浮気が元で離婚。 初代ミスワカナの死後、一時期二代目ワカナを名乗る。 1947年に弟子だった鈴夫(本名・吉村朝治、のちの南都雄二)と再婚(事実婚だったという)し、JR美章園駅近く(大阪市東住吉区)のガード下の部屋を借り、夫婦生活を始める。

1948年(昭和23年)に「蝶々・鈴夫改め上方トンボ」として夫婦漫才コンビ結成して、三重県津市の曙座でコンビで初舞台。 1949年(昭和24年)から、秋田實の誘いを受け、大阪でラジオ番組を始めた。このとき上方トンボ改め南都雄二となる。が、初代ワカナと同じく当時芸能界で蔓延していたヒロポン覚醒剤の一種)に手を出し、強度の依存症となったが、治療のため入院するなどして克服。

1952年(昭和27年)に、秋田實の宝塚新芸座に参加し、大阪・道頓堀中座を拠点に活躍した。民間ラジオ放送草創期の人気番組『漫才学校』『夫婦善哉』(いずれもABCラジオ)の司会などで知名度を高めた。 特に1955年(昭和30年)に始まった「夫婦善哉」はラジオからテレビへと20年の長きにわたって続く長寿番組となった。

雄二とは「おしどり夫婦」と思われていたが、内情は雄二の浮気癖で早くから家庭内は不毛であったという。 1958年(昭和33年)の「離婚」後も数年は公にせず「夫婦善哉」の司会など"夫婦コンビ"としての活動を続けたが、週刊誌等で話題になってきたことなどもあり、「夫婦善哉」の番組内で離婚していたことを告白した。 離婚後はソロの女優としても活動するようになった。

雄二とは公私共に付き合いは続き、1972年(昭和47年)に雄二が糖尿病を悪化させ入院し翌年の1973年(昭和48年)に亡くなるまで一切の面倒を見たのは蝶々だった(雄二が、蝶々と別れた後に結婚した女性と離婚していたことや、ほかに面倒を看る人がいなかったため)。

1974年(昭和49年)に道頓堀の中座で1ヶ月公演を実施、脚本・主演・演出の3役をこなした。 大好評であったことからその後25年間定期公演を続けるという偉業をなし遂げる。その他、名古屋などでも定期公演を行うなど舞台女優として大きくはばたく。

その一方でタレントとしても『2時のワイドショー』での辛口コメントなどで健在ぶりを発揮していた。

1971年に第8回放送批評家賞(ギャラクシー賞)を受賞。1984年(昭和59年)に紫綬褒章を、1993年(平成5年)に勲四等宝冠章を受章。 1998年『幸せのために…』05月21日発売 昔から腎臓に持病があり、晩年は車椅子で移動しないといけないほど体調も悪化したが、舞台に対する思いは強く積極的に舞台に上がった。その様子は『NHKスペシャル』でも取り上げられ話題となった。

最後の舞台は1999年(平成11年)10月15日の『じゅんさいはん』(中座)。 特別ゲストとして登場し、自身のホームグラウンドと称していた中座の閉館を惜しんだ。

2000年(平成12年)3月にテレビ出演したのが公式の場に出た最後となり、10月12日午後1時7分に慢性腎不全で、大阪市の病院で死去。享年80。墓所は大阪市天王寺区大善寺。

没後、地価約4億円といわれる大阪府箕面市の自宅を記念館として整備したいという義弟のひとりと売却を主張する他の親族とで約8年にわたって争いが続いていたが、土地の一部分割・売却で決着。改装を経て、2008年(平成20年)5月24日ミヤコ蝶々記念館がオープンしたが、2018年6月10日にて入館者の減少して財政困難のため閉館した[2]

亡くなった後も関西地方では根強い人気があり、大阪府のひったくり予防キャンペーンのCMにかつての映像が登場するなど、親しまれている。

エピソード

  • 早くから舞台生活を送ったため、十分な教育を受けられなかった。このため、「蝶々・トンボ」時代までは台本に書かれた難しい漢字が読めず、夫に「何という字?」と稽古中に何度も尋ねていた。この光景を見た秋田實が「南都雄二」という芸名を思いつき上方トンボから改めさせた、という話が知られているが俗説である。喜味こいしによると、「南都雄二」という芸名は「上方トンボ」という芸名を嫌っていた雄二がこいしの兄の夢路いとしに改名を相談し、俳優の堀雄二の「雄二」と、蝶々の「ミヤコ」に対して「南都」を付けた名前に改名したものであるという。[3]
  • 大須演芸場の支援者の一人であり、自ら独演会を開いて足立席亭を励ました。
  • 森田健作の一人息子の名づけ親でもある。
  • 国民的映画『男はつらいよ』の初期作品において主人公車寅次郎の実の母・キクの役を味の有る演技でこなしている。
  • 海原千里・万里(特に千里(後に上沼恵美子)を高く評価していた。1987年にリニューアルされた夫婦善哉も新司会者に上沼が起用されている。
  • 北野武との共演番組で女性の初体験の時の場所が話題になり、北野より彼女に話が振られたときに、若い時から舞台に立っていたので裏でそんな事があったかもと虚実はぐらかして答えている。

テレビ番組

映画

CM

弟子

著書

  • 『女ひとり』鶴書房 1966
  • 『蝶々女のらくがき』海潮社 1975
  • 『おもろうて、やがて哀し』ほるぷ総連合 ほるぷ自伝選集 女性の自画像 1980 日本図書センター 人間の記録 2012
  • 『泣き笑い放浪星』女の自叙伝 婦人画報社 1985
  • 『蝶々のつづればなし』毎日新聞社 1986

ミヤコ蝶々を演じた女優

  • 中村玉緒(1967年・朝日放送 近鉄金曜劇場『女ひとり』全13回 ミヤコ蝶々の自伝『女ひとり』のテレビドラマ化。南都雄二役は長門裕之。最終回には、靴磨きの夫婦役で、ミヤコ蝶々、南都雄二も出演している)
ミヤコ蝶々の自伝「女ひとり」は、1967年、テレビドラマ化と同時に、東宝で映画化の予定であったが、撮影には至らず中断した。蝶々役は高峰秀子の予定で、『女ひとり』単行本の帯には、「東宝映画化」の文字と共に、蝶々の扮装をした高峰の写真が載っていた。

関連人物

関連項目

脚注

  1. 最初の相方は人間ポンプで名を馳せた安田里美(1923=大正12年-1995=平成8年)である。
  2. 中村正憲 (2018年6月7日). “「ミヤコ蝶々記念館」閉館へ 10日 来館者減り運営厳しく”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 朝刊 大阪市内版 
  3. 喜味こいし 『いとしこいし想い出がたり』 戸田学(聞き手)、岩波書店、2008年、102-103頁。
  4. 『ACC CM年鑑'79』(全日本CM協議会編集、誠文堂新光社、1979年 38頁)

外部リンク