ムラト3世

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ムラト3世(Murad III, 1546年7月4日 - 1595年1月15日)は、オスマン帝国の第12代皇帝(在位:1574年12月15日 - 1595年1月15日)。第11代皇帝セリム2世の子。

生涯

父の後を受けて即位した後は、祖父スレイマン1世(大帝)時代の大宰相ソコルル・メフメト・パシャや、その後を受けた妃サフィエ・スルタンの補佐を受け、彼自身は何もしなくても名宰相たちが政務をやってくれるという体制が続いた。

対外政策においては、1578年から1590年までの12年間、イランサファヴィー朝と交戦してこれに勝利し、グルジアアゼルバイジャンなどを手に入れた。しかしこれも、名宰相たちのおかげでしかなかった。1579年にソコルル・メフメト・パシャは暗殺されたが、帝国の政体は軍事国家から官僚国家に移行して行くことになる。

ムラト3世自身はハレムに入り浸って快楽に溺れたために、自身の楽しみに乱費して、オスマン帝国の財政をかえって悪化させ、帝国の衰退の原因を作り出してしまった。ムラト3世は、トプカプ宮殿の第2の庭に、自分のハレムを建設させた。トプカプ宮殿内に正式にハレムが建設されたのは、彼の代になってからだったまた、12年間におよぶ戦争で勝利したとはいえ、やはりその莫大な戦費は財政悪化の一因となってしまった。

やがてセルジューク・トルコの王族の末裔を称するシェムシ・パシャを寵愛し、その入れ知恵で大金を提供する者達に官職を与えるようになった。強欲な皇帝が公然と売官・収賄する腐敗ぶりを見て、シェムシ・パシャは公然と「わが王朝を滅ぼしたオスマン家に今や報復することが出来るぞ。腐敗は必ずや帝国を滅亡させるであろうから」と揚言したという。晩年にはイングランド女王エリザベス1世の国使が来訪している。

1595年、50歳で死去。後宮での快楽に溺れ、性関係の病で死んだともいわれている。跡を子のメフメト3世が継いだ。

フィクション

トルコの作家、オルハン・パムクの小説『わたしの名は紅』では1591年のムラト3世の宮廷を題材に、「東洋と西洋の力の逆転」を描いている。

脚注


関連項目