ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ

提供: miniwiki
2018/9/26/ (水) 02:21時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版 (1版 をインポートしました)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先:案内検索


ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ
Johann Gottlieb Fichte
生誕 (1762-05-19) 1762年5月19日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
25px ザクセン選帝侯領 ランメナウDeutsch版English版
死没 (1814-01-27) 1814年1月27日(51歳没)
プロイセン王国の旗 プロイセン王国 ベルリン
時代 18世紀の哲学
19世紀の哲学
地域 西洋哲学
学派 ドイツ観念論、ポスト・カント主義超越論的観念論、イエナ・ロマン主義(ロマン主義ドイツ・イエナ派)、ナショナル・ロマンティシズム(Romantic nationalism)
研究分野 形而上学、自意識(自己意識)と自己認識、倫理学政治哲学
主な概念 絶対的意識、「テーゼ(定立) - アンチテーゼ(反定立) - ジンテーゼ(総合)」、非自己、努力、相互承認、知識学、衝撃、事行、促し、知的直観、行為
テンプレートを表示

ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte、1762年5月19日 - 1814年1月27日)は、ドイツ哲学者である。先行のイマヌエル・カントの哲学に大きく影響を受け、のちのG.W.F.ヘーゲルフリードリヒ・シェリングらに影響を与えたドイツ観念論の哲学者である。息子のイマヌエル・フィヒテ(通称:小フィヒテ)も哲学者。ナポレオン占領下のベルリンでの講演「ドイツ国民に告ぐ」で広く知られる[1]

生涯

ドレスデン近郊の寒村ランメナウDeutsch版English版の農家の息子として生まれた。貧困のため修学できず、近くの教会で行われた説教や親族に聞かされたゲルマン神話などを糧に少年時代をすごす。教会で聞いた説教の全てをほぼ完璧に覚えていたため、たまたま教会で説教を聴きそこなった貴族ミリティツ侯にそれを聞かせたところ、侯から学資の援助をしてもらえることになった。

そこで、後にドイツの名門校プフォルタ学院Deutsch版English版に進学(ここは後にニーチェランケも通う)、ここからイェナ大学へと進学することができた。しかし、ミリティツ侯が死去し学資が止まったため、26歳のとき大学での研究は潰える。自殺を決心するほどの貧困に苦しんだが、友人の紹介でスイスにおいて家庭教師の職を得る。そこで、カント哲学を教材として扱い、カントの哲学に興味を覚え、1791年に70歳近くになったカントのいるケーニヒスベルク(現在のカリーニングラード)を訪ねる。そこで、カントの実践理性批判を元に宗教概念を論じた処女作『あらゆる啓示批判の試み』(Versuch einer Kritik aller Offenbarung) をカントの仲介で出版。一躍、著名になる。

翌年にはイェーナ大学教授に就任。この頃の大学での講義における「人がどんな哲学を選ぶかはその人間がどんな人間かによる」という言葉が有名。『全知識学の基礎』(Grundlage der gesamten Wissenschaftslehre) などを著す。1799年には、神概念のあり方をめぐり、無神論論争(Atheismusstreit)を引き起こした。結局無神論者のレッテルを貼られ、イエナを去った。後に、主としてベルリンに滞在した。このころに、『人間の使命』(Die Bestimmung des Menschen)などを著す。一般に1801年以降を後期思想とよぶ。後期思想では自我概念が後退し、絶対者あるいは神が中心的な主題として現れてくる。この神はキリスト教の神そのままではなく、自由な道徳的主体の総体である我々(das Wir)を可能にする根拠であり、そのような神的な性格をもつものとしての絶対者をいう。ベルリン大学が開講されると、その初代の哲学教授に就任した。ナポレオン1世のベルリンの占領下で一般大衆向けに行われた講演『ドイツ国民に告ぐDeutsch版English版』(Reden an die Deutsche Nation)[2]、『浄福なる生への指教』(Die Anweisung zum seligen Leben) などを行う他、知識学の講義も行っている。

ファイル:Humboldt Universitaet Berlin.jpg
ベルリン大学(現在はフンボルト大学)

晩年はスイスの教育者ペスタロッチにも傾倒。自らも『学者の使命・学者の本質』(Einige Vorlesungen Über die Bestimmung des Gelehrten)を著した。晩年はリューマチ熱に苦しんだ。ナポレオンがプロイセンから敗退した後、混乱する国内の救援に夫人がボランティア看護婦として参加したが、その間にチフスに感染した。夫人を看護し続けたフィヒテもチフスに感染、間もなく急死。51歳であった。遺体はベルリンのドローデン墓地へ埋葬された。フィヒテの後にはヘーゲルがベルリン大学教授として招聘された。後年、ヘーゲルの強い希望により、ヘーゲルの遺体はフィヒテの墓のとなりに埋葬されることになった。現在は、フィヒテ夫婦とヘーゲル夫婦の墓が隣り合わせに並んでいる。

日本語訳著作

全集

日本語版「全集」は晢書房より刊行(1995-2016年)。

  • 第1巻:初期宗教論・啓示批判
  • 第2巻:初期政治論
  • 第3巻:初期哲学論集
  • 第4巻:初期知識学
  • 第5巻:言語論・解釈学・文学作品
  • 第6巻:自然法論
  • 第7巻:イェーナ時代後期の知識学
  • 第8巻:論理学・形而上学講義
  • 第9巻:道徳論の体系
  • 第10巻:哲学評論・哲学的書簡集
  • 第11巻:無神論論争・人間の使命
  • 第12巻:一八〇一‐〇二年の知識学
  • 第13巻:一八〇四年の『知識学』
  • 第14巻:一八〇五‐〇七年の知識学
  • 第15巻:現代の根本特徴・幸いなる生への導き
  • 第16巻:封鎖商業国家論 国家論講義
  • 第17巻:ドイツ国民に告ぐ・政治論集
  • 第18巻:超越論的論理学・自然哲学
  • 第19巻:ベルリン大学哲学講義 1
  • 第20巻:ベルリン大学哲学講義 2
  • 第21巻:社会哲学講義
  • 第22巻:教育論・大学論・学者論
  • 第23巻:ベルリン大学哲学講義 3
  • 補巻:フィヒテの生涯 フリッツ・メディクス

関連項目

脚注

  1. 『大辞泉』
  2. 池上俊一 『森と山と川でたどるドイツ史』 岩波書店、2015年。ISBN 978-4-00-500817-9。

外部リンク