リー・ハーヴェイ・オズワルド

提供: miniwiki
2018/8/26/ (日) 14:06時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版 (1版 をインポートしました)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先:案内検索
ファイル:Lewis Exh1-20-533.jpg
リー・ハーヴェイ・オズワルド

リー・ハーヴェイ・オズワルドLee Harvey Oswald、別名Alek J.HidellあるいはO.H. Lee1939年10月18日 - 1963年11月24日)は、アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディ暗殺の実行犯とされている人物。ルイジアナ州ニューオーリンズ生まれ。逮捕直後にジャック・ルビーによって暗殺される。

経歴

ニューオーリンズで生まれ育つ、父親はオズワルドが生まれる前に死亡しており、おじのチャールズ・マレット(ダッツという異名があった)に幼児期から思春期の生活を見てもらっていた。マレットはカルロス・マルセロの組織の人間でもあった。兄弟とともに母親に育てられ、成績は平均的。年少期はスパイドラマが好きだった。登校拒否の経験がある。兄が海兵隊に入隊した時、オズワルドは民間の航空部隊(CAP)に参加していた。この頃からロシアの新聞を購読し始める。17歳で海兵隊に入隊、公務の一環としてロシア語を専門的に勉強した。

海兵隊員

ファイル:Lee Harvey Oswald-USMC.jpg
海兵隊時代のオズワルド

1957年から翌1958年日本厚木基地(海軍厚木航空施設)に勤務していた際には航空管制官を務めた。その頃の月給は85ドル以下。軍病院によると性感染症を「職務の一環」で患っていた。この頃、同僚殺害の容疑を掛けられたことがあるほか、銃の不法所持および発射の罪状で軍法会議において有罪判決を受けている。後述するソ連への亡命時、厚木基地勤務時代に得たロッキードU2偵察機の機密情報をソ連当局に提供し、この情報が元で1960年5月1日にソビエト上空で偵察飛行を行っていた同型機が撃墜されたのではないかといわれている(U-2撃墜事件)。

「射撃の名手」説

オズワルドは海兵隊在籍中に、特級射手(expert)、一級射手(sharpshooter) 、二級射手(marksman)の資格について、1956年12月には、一級射手の資格に必要な得点をクリアしている。1959年5月には、二級射手 の資格に必要な得点はクリアしているが、一級射手の資格に必要な得点はクリアしていない[1]。そのため、オズワルドがライフルで、彼が証言した位置から移動するケネディを正確に素早く狙撃したという説に対し、一部の懐疑論者は疑問を呈している。

ファイル:Oswaldrifle.jpg
オズワルドが使用したとされるライフル銃・カルカノ

(ケネディ狙撃時にオズワルドが使用したとされる)イタリア製「カルカノM1938ライフル銃および通販で同時購入した4x18倍率の日本製スコープ[2]を使用した、狙撃のエキスパートによる実験では成功例もあるが、オズワルドにそれが可能であったかどうかは判定できない。

ソ連への亡命

オズワルドは日本の厚木基地勤務時代にロシア語を学び、除隊後の1959年ソ連に旅行に出かけ、そのまま亡命した。アメリカのスパイとして疑われ、追放されることを避けるために自殺を試みた。その後ソ連当局はオズワルドにミンスクでの生活を許可した。彼はテレビ工場で働き、ソ連人女性マリーナ(旧名 Nicholayevna Prusakova または Alexandrovna Medvedeva)と結婚した[3]。マリーナとの間にジューン・リー・オズワルド(1962年2月15日生まれ)とオードリー・マリナ・レイチェル・オズワルド(1963年10月20日生まれ)の2人の娘がいる。

ソ連時代のオズワルドは自身をマルクス主義者であると主張し、駐モスクワアメリカ大使館パスポートを返却してアメリカ市民権を放棄しようとし、大使館員の説得を受けてそのまま帰宅した。この試みについては、ソ連から国家機密を盗み出すためのCIAの工作説や、その後の諜報活動のために「共産主義シンパ」を装うためであったといった説がある。

アメリカへの帰還

その後考えを変え、マリーナと娘を連れて1962年にアメリカへ帰国。入国許可が下りるまでに6ヶ月間を要したが、亡命し軍事機密を引き渡した疑いのある人物の帰国をアメリカ合衆国連邦政府は許可した(ただし米軍側はオズワルドが亡命した際コールサイン周波数等を大金を投じ変更する等、漏洩に対する対策を取っている)。仮想敵国の国民であった妻子の入国も許可された。

オズワルドは帰国後、ダラスのフォートワース地区に居住しコーヒー会社で働いた。1963年の春から夏にかけては伯父のダッツ・マレットが運営するニューオーリンズの競馬賭博事業で掛け金徴収人として働いた。1963年4月10日、反共主義者として知られたエドウィン・ウォーカー将軍(Edwin Anderson Walker)を狙撃したとされる。オズワルドはニューオーリンズに居を移し、フィデル・カストロの支援団体「キューバ公平委員会(Fair Play for Cuba Committiee)に参加、ビラ配布の際に逮捕されている。

1963年9月27日にはメキシコに赴き、ソ連大使館、キューバ大使館を訪問した。オズワルドがソ連大使館で面会した2人の大使館員(ヴァレリー・コスチコフ、パベル・ヤスコフ)はKGBの工作員であったとされる。この頃にはロシア人妻との結婚生活はほとんど破綻していた上、仕事もなく無一文だった(帰国した当初はコーヒー会社で働いていたが、2ヶ月で解雇されている)。

その後、デイヴィッド・フェリー、ガイ・バニスターといった反カストロ派の活動家と頻繁に会うようになる[4]。しかし一方で、オズワルドはカストロ支持者として活動するなど矛盾した行動をとった。

暗殺と逮捕

ウォーレン委員会は、1963年11月22日午後0時32分、遊説中のジョン・F・ケネディ大統領をオズワルドがテキサス州ダラスの教科書倉庫ビル5階の窓から狙撃し、暗殺したと発表している。事件発生直後、2階の食堂で食事をしているところを同ビルの従業員に目撃されており、また巡回中の警察官にも確認されている。警察官が管理人にオズワルドのことを尋ねると「ここで働いている」と答えた。その後、建物を出たオズワルドはJ・D・ティピットEnglish版巡査職務質問中に殺害、その後でテキサス劇場で警察官殺害容疑で逮捕されている。

オズワルドは、逮捕直後から記者団の前で「過去の亡命につけこまれた」「自分は嵌められた」「身代わり(patsy)」と主張し、また弁護士不在についても異議を唱えている。記者に顔の傷の事を問われると「取調べ中に警官に殴られた」と語っている。なお、ダラス警察のジェシー・カリー本部長は拘留中のインタビューで、取調中のオズワルドの様子について「非常に横柄な態度」「犯行は全面否認しているが、(自分は)彼が間違いなく犯人と信じている」とコメントしているが、拘留中の尋問調書などは全く残っていない。逮捕から2日後の11月24日午前11時20分頃、ダラス警察の地下駐車場で、郡刑務所へ移送される車に乗る直前にジャック・ルビーによって銃撃された。すぐに救急車でパークランド病院へ搬送されたが、警察は同日午後1時7分に死亡したと発表した。

疑惑

暗殺事件前後に「オズワルド」を自称する者が複数目撃されたという証言や、狙撃時のオズワルドの所在について、教科書倉庫ビル2階の食堂で昼食を摂っていた姿を目撃した証言もあるなど、オズワルドは実行犯ではなく身代わりとして行動したと主張する論者が多数存在する。

マフィアとの関係が指摘されるルビーが何故容易に警察署に入ることができたのかという疑問や、ルビーがオズワルドを暗殺した理由が不可解(ルビー曰く「ジャクリーン夫人が悲しむのを見て義憤にかられた」)であること、オズワルドとルビーの間には共通の知人が何人もいたこと、さらに2人が顔見知りであったという証言もあるなど、暗殺の実行犯はオズワルドではない、あるいは単独犯ではないという説は未だ根強い。しかしながらウォーレン委員会の正告によると、「様々な物的証拠を検証するとオズワルド単独犯で説明がつく」と結論されている。真実は2039年に解禁されるという。

オズワルドの母親のマーゲリート・オズワルドは、マルセロの運転手兼ボディーガードを務めたことのあるサム・テルミネという男や他にも暗黒街の男と親しく付き合っていたという。

関連邦語書籍

  • マーク・レーン『ケネディ暗殺の謎 オズワルド弁護人の反証』中野国雄訳.徳間書店,1967.
  • レオ・ソヴァージュ『ケネディ暗殺事件』西川一郎訳.合同出版,1967-68.
  • エドワード・J.エプスタイン『アメリカを撃った男 オズワルドの謎』高田正純訳.早川書房,1981
  • ジョン・ニューマン『オズワルド 「ケネディ暗殺犯」と疑惑のCIAファイル』浅野輔,池村千秋訳.ティビーエス・ブリタニカ,1997

関連項目

脚注

  1. Warren commission report
  2. 輸入販売元はカリフォルニアのOrdnance Optics Inc。「Japan」の刻印があり、OEM製品と思われる
  3. マリーナはオズワルドの死後、別の男性と再婚してマリーナ・オズワルド・ポーターと改名した。
  4. フェリーもバニスターもカルロス・マルセロの仕事を請け負ったことのある人物であった。

外部リンク