ルイ17世

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ルイ17世: Louis XVII, 1785年3月27日 - 1795年6月8日)は、フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの次男。兄の死により王太子ドーファン)となった(1791年9月からはプランス・ロワイヤルfrançais版)。8月10日事件以後、国王一家と共にタンプル塔に幽閉されていたが、父ルイ16世の処刑により、王党派は名目上のフランス国王(在位:1793年1月21日1795年6月8日)に即位したものと見なした。名目上のナバラ国王でもあった(ナバラ国王としてはルイス6世)。しかし解放されることなく2年後に病死した。

洗礼名によりルイ=シャルルLouis-Charles de France)とも呼ばれる。

生涯

革命以前

出生と同時にノルマンディー公爵の爵位を受け、兄ルイ=ジョゼフの夭逝後は王太子となった。姉はのちに従兄のアングレーム公爵ルイ・アントワーヌ(後のシャルル10世の長男)の妃となり、ブルボン朝最後の王太子妃となるマリー・テレーズである。

第2王子として誕生を喜ばれ、「赤字夫人」とまで呼ばれたマリー・アントワネットも子供ができると一時落ち着いた生活を送るようになったという。しかし、フランスは絶対王政が次第に揺るぎ始めていた時代でもあったため、その人生は不運なものだった。短い幸せな宮廷生活では姉のマリー・テレーズと共にフランス革命後に養育係となったトゥルゼル夫人の娘ポーリーヌを慕い憧れた。4歳の時に兄が病死し、ドーファンとなる。

幼年ながらも目鼻立ちは整い、赤みがかったブロンドの髪に碧眼を持つ美しい顔立ちと愛嬌もあり、活発な性格で宮廷内の人々を魅了した。マリー・アントワネットは「愛のキャベツ」とあだ名をつけ、愛情を注いだ。だが、神経質で慣れない物音に怯えること、軽率な面があり、嘘をつくつもりはないが想像力により話に尾ひれをつける癖がある欠点をトゥルゼル夫人宛ての書簡に記載している。

フランス革命の勃発からルイ16世の処刑まで

1789年7月14日にフランス革命が勃発、10月5日ヴェルサイユ行進が起こると、国王一家はパリテュイルリー宮殿へ移され軟禁状態となった。パリへの移動の際は馬車の窓から顔を出し「ママを許してあげて!」と群集に向け叫び続けた。新たな住居では宮殿に出入りする国民衛兵の子供たちと衛兵ごっこをして遊び、監視の国民衛兵にも陽気に振舞い両親を安心させた。国王一家は2年後の1791年ヴァレンヌ逃亡事件を起こし、民衆によって8月13日タンプル塔に幽閉された。このときルイ=シャルルは6歳だった。

タンプル塔に幽閉されると、父からラテン語フランス文学歴史地理を教わり、叔母エリザベート王女からは姉とともに数学を学んだ。数学が理解できない牢番は、暗号の通信文を子供たちが書いていると勘違いした。この頃の国王一家はまだ待遇良く扱われ、庭への散歩も許可されており、ゲームで遊んだり、国王一家に同情した職員からルイ=シャルルに贈られた愛犬ココと過ごした[1](この犬は後に生き延びたマリー・テレーズの亡命生活を供にし、1801年ワルシャワ滞在中に事故死している)[2]

1793年1月21日、ルイ16世が処刑されると、マリー・アントワネットは息子にひざまずき「国王崩御、国王万歳」と言い、立ち上がるとマリー・テレーズ、エリザベートと共に深々とおじぎをした。1月28日ヴェストファーレンにいた叔父のプロヴァンス伯爵(後のルイ18世)ら反革命派や亡命貴族は、処刑されたルイ16世の追悼式を行い、王太子を国王ルイ17世とする宣言をした。しかし、ルイ=シャルル本人は、革命真っ只中のパリで監禁された身では戴冠式を行うことも叶わず、自分が国王と呼ばれていることさえ知る由もなかった[3]

恐怖政治下の監禁生活

恐怖政治下にあったタンプル塔収容者への待遇は次第に悪くなり、1793年5月初めに高熱と脇腹の痛みを訴えたルイ17世のため、マリー・アントワネットは診察を要求したが、何度も拒否され続けた。その後、診察が行われ、熱は下がったが腹痛は治まらなかった。以後、ルイ17世は体調を崩したままとなる。

7月3日、ルイ17世は家族と引き離され、階下のルイ16世が使用していた部屋に移動させられた。王室を汚い言葉で罵る新聞を発行するジャック・ルネ・エベールから後見人兼教育係として命令を受けた文盲の靴屋アントワーヌ・シモンEnglish版の元で過ごすことになった。シモン、エベール、パリ・コミューンの指導者アナクサゴラス・ショーメットEnglish版による監視及び、貴族的なものを忘れ良き市民となるための再教育が行われた。彼らはサンキュロットに見える様に、ルイ17世の喪服を脱がせ、革命党員の制服を着用させた。そして「ラ・マルセイエーズ」などの革命歌、カトリックや王室の家族を否定し冒涜する言葉、わいせつな言葉を教え込ませた。やがて教育は虐待が加わり、具合が悪くなるまで無理やり酒を飲ませたり、「ギロチンにかけて殺す」とまで脅す有様であった。また、シモンはルイ17世を自分の使用人として給仕や雑用を行わせた。暴力は日常茶飯事となり、番兵たちも虐待を見るのを嫌がったというパリ・コミューン総会議事録の記載も残されている。偶然シモンの虐待を目撃したパリ市通商取次人[4]のルブーフは、自らの教師と判事という立場から非人道的な扱いを告発するが投獄され、後に命の危険を感じ、パリ・コミューンを退職しパリを去った。シモンの妻マリー=ジャンヌはルイ17世の身の回りの世話をしたが、夫の行き過ぎた虐待をやめさせることは出来なかった。ルイ17世は暴力と罵倒や脅迫による精神的圧力によってすっかり臆病になり、かつての快活さは消え去った。この頃、スペインの外相とイギリスの外相はタンプル塔に潜入させていたスパイから、売春婦に8歳のルイ17世を強姦させ性病に感染させたという知らせを受けていた。

さらに、マリー・アントワネットを処刑に持ち込みたいエベールとショーメットは、彼女が不利になる証拠を作るため、シモンはルイ17世に自慰を覚えさせた。母と叔母はそれを見て楽しみ、近親相姦の事実があったという書類に10月6日に強制的に署名をさせる。翌日、マリー・テレーズとエリザベートはそれぞれ別々にルイ17世の部屋に呼び出され、尋問を受けたが、ルイ17世はショーメットらのでっちあげた罪状が事実であると繰り返した。そしてこの尋問はルイ17世が家族の姿を見た最後となった。

マリー・アントワネットの処刑後、今度はエリザベートを処刑するための証拠を作ろうとした。既にエベールらに洗脳されていたルイ17世は、かつて叔母が行っていた密書の送り方などをあっさりと告白した。この頃ショーメットは、常にルイ17世と過ごしているシモンが王党派に買収されるのではないかと不安になり、シモンを厳しい監視下に置いた。この待遇が面白くないシモンは、ルイ17世にさらに暴力を振るうことで鬱憤を晴らした。パリ・コミューンはシモンに圧力をかけ、1794年1月19日にシモンはルイ17世の後見人を辞職、妻とともにタンプル塔から去った。次の後見人は指名されなかった。

国内の王党派や外国の君主からは正式なフランス国王とみなされ、政治的に利用されることを恐れたショーメットとエベールは2月1日、元は家族の食堂であった部屋にルイ17世を押し込んだ。厚さが10フィートもある壁にある窓には鎧戸と鉄格子があり、ほとんど光は入らなかった。不潔な状況下にルイ17世を置き、貶めるために、室内にはあえてトイレや室内用便器は置かれなかった。そのため、ルイ17世は部屋の床で用を足すことになり、タンプル塔で働く者はこの部屋の清掃と室内の換気は禁止された。また、本やおもちゃも与えられず、ろうそくの使用、着替えの衣類の差し入れも禁止された。この頃は下痢が慢性化していたが、治療は行われなかった。食事は1日2回、厚切りのパンとスープだけが監視窓の鉄格子からするりと入れられた。ルイ17世に呼び鈴を与えられたが、暴力や罵倒を恐れたため使うことはなかった。監禁から数週間は差し入れの水で自ら体を洗い、部屋の清掃も行っていたが、ルイ17世はくる病になり、歩けなくなった。その後は不潔なぼろ服を着たまま、排泄物だらけの部屋の床や蚤と虱だらけのベッドで一日中横になっていた。室内はネズミや害虫でいっぱいになっていた。深夜の監視人交代の際に生存確認が行われ、食事が差し入れられる鉄格子の前に立つと「戻ってよし」と言われるまで「せむしの倅」「暴君の息子」「カペーのガキ」などと長々と罵倒を続けた。番兵の遅刻があった日は、同じ夜に何度もこの行為は繰り返された。もはや彼に人間的な扱いをする者は誰も居なかった。

パリ・コミューンの派閥争いにより、エベールは支持者らと共に3月24日に処刑され、その3週間後にショーメットも処刑された。5月11日ロベスピエールはタンプル塔の様子を見学した。その後、7月28日にロベスピエールやロベスピエール派だったかつてのルイ17世の後見人シモンも処刑された。

国民公会末期のルイ17世とその死

ジャコバン派の旧貴族で後に総裁となるポール・バラスは、ロベスピエール処刑の日にマリー・テレーズとルイ17世を訪ねた。バラスは2人に礼儀正しく接し、「王子」「王女」と呼んだ。バラスは悪臭漂う独房の子供用の小さなベッドに衰弱したまま横になったルイ17世を目撃し、その衰弱ぶりと不潔な室内に驚愕する。バラスは当時24歳だったマルティニック島出身のジャン・ジャック・クリストフ・ローランを新たな後見人にすることに成功した。

ローランは9月1日にルイ17世の独房の清掃を2人の男性に行わせ、マリー・テレーズに依頼されて虱と蚤だらけのルイ17世のベッドを処分し、彼女が使用していたベッドをルイ17世に使用させた。ローランは自らルイ17世を入浴させ、身体にたかった虫を取り、着替えさせた。室内の家具とカーテンの焼却も命じた。この日、ルイ17世は医師の診察を受けた。この頃のルイ17世は、栄養失調と病気のため灰色がかった肌色をし、こけた顔にぎょろりと大きくなった目、体中に黒や青や黄色の蚯蚓腫れがあり、爪は異常に伸びきっていた。ローランはタンプル塔の屋上にルイ17世を散歩に連れ出すが、食事の質が改善されなかったことと病気での衰弱がひどく、一人では歩けなかった。

11月8日国民公会はルイ17世の世話をジャン・バティスト・ゴマンに命じた。ゴマンはルイ17世の衰弱した姿に驚き、国民公会の再視察を依頼した。ルイ17世は長く続いたローランとゴマンの親切な対応に驚いたが、徐々に彼らになついた。11月末に役人のデルボイがルイ17世の元にやってきたが、もうこの頃のルイ17世は衰弱しきっており、デルボイと会話をすることができなかった。しかし、デルボイはルイ17世の部屋の窓にかけられた柵を取り払うよう命じた。ルイ17世はおよそ2年ぶりに、日の光が入る部屋で過ごせるようになった。ゴマンはルイ17世の病状を国民公会に確かめるよう何度も嘆願し、外で遊ばせる許可を得た。しかしルイ17世の体調は悪く、独房の火の側で過ごした。

この頃にはフランス国内の空気も変化し、タンプル塔で行われていたルイ17世への虐待や現在の待遇も国民の話題となっていた。11月26日、「世界通信」紙はルイ17世のひどい待遇が行われていた事実を公式に認める記事を発表した。関係者らは逮捕され、国民公会に連行され、保安委員会のマテューは公式に王党色の強い新聞記事を否定し、革命支持者のためにルイ17世は一般の囚人と変わらぬ扱いを受けていると説明した。

スペイン王室はルイ17世の引き渡しを条件にフランス共和国を認めると、1795年の早い時期に申し出たが、スペイン側がこれに関し争う気が見えないため、フランス側は要求を拒否した。この当時のヨーロッパ外交において、ルイ17世は見捨てられた存在であった。

1795年3月31日エティエンヌ・ラーヌfrançais版が世話係に加わった。ラーヌはルイ17世はラーヌにはなつかなかったという記録を残している。その後、ローランは別の役職に就き、ゴマンが後見人となった。5月8日にローランとゴマンの再三にわたる要求により、ピエール=ジョゼフ・ドゥゾーEnglish版医師によるルイ17世の診察が許可された。ドゥゾーは「出くわした子供は頭がおかしく、死にかけている。最も救いがたい惨状と放棄の犠牲者で、最も残忍な仕打ちを受けたのだ。私には元に戻すことができない。なんたる犯罪だ!」と正直に意見を述べた[5]。毎日午前中に往診に訪れ、ルイ17世から感謝されていたドゥゾーは、5月29日に招待された国民公会公式晩餐会の後、急に具合が悪くなり、3日後に死去した。彼の助手もその後死去したので、暗殺が疑われた。次の医師が決まるまで、重態のルイ17世は治療を受けられなかった。6月6日、新たに主治医となったフィリップ=ジャン・ペルタンEnglish版医師が治療に向かった。彼は「子供の神経に触るような閂、錠の音を控えるように」と士官を咎め、日よけを外して新鮮な空気に当たれるようにすることを命じた。孤独な幽閉から1年半近く経過したこの日、独房の鎧戸や鉄格子、閂がようやく取り外され、白いカーテンで飾られた窓辺をルイ17世は喜び、少し様態が改善した。

しかし、ペルタンは「不運なことに援助はすべて遅すぎた。何の望みもなかった」と報告している。6月7日、ルイ17世は衰弱し、一時は意識を失う。夜遅くに様態が急変し、ペルタンは薬の投与指示をして、翌6月8日朝に訪れたが、この時初めてルイ17世が瀕死の状態で昼夜とわず看護もされていないことを知った。ゴマンは看護婦を求めに行っている午後、ルイ17世の意識が薄れ始めていた。午後3時ごろ、激しい呼吸困難に気がついたラーヌは症状を和らげようとルイ17世を抱き上げ、両腕を自らの首に回した。しかし間もなく、長いため息の後、全身の力が抜け、ルイ17世の短い生涯は終わりを告げた。

ルイ17世は生前に、母と叔母の死を知ることはなかった。独房に墨で書かれた「ママ、僕は…(Maman je)」という書きかけの言葉と花の絵が残されたことや、塔の屋上に散歩に出た際に見つけた花を摘み取り、花好きの母のためにと、既に住人がいないことを知らぬルイ17世が母の部屋の前にそっと置いたというエピソードが残されている。

死後

ファイル:Coeur de Louis Charles de France (Louis XVII).jpg
クリスタルの壺に入ったルイ17世の心臓

ルイ17世の死に際し、後見人たちは慎重に行動した。何事もなかったように食事の用意をさせ、部屋に運んだ。翌6月9日、ペルタンはジャン・バティスト・デュマンジャン医師、ピエール・ラシュ医師、ニコラ・ジャンロワ教授を引きつれ、遺体の解剖を5時間かけ丁寧に行った。ペルタンの記録によると「胃は非常に膨らんでいた。右膝の内側に我々は腫瘍を発見した。そして左手首の近くの橈骨に小さな腫瘍があった。膝の腫瘍は2オンスの灰色がかった物質を含んでいたが、それは膿とリンパ液でいっぱいだった。手首の腫瘍にも同じような物質を含んだが、もっと濃い色をしていた」。開頭され、脳があらわになると、ジャンロワ教授は「この分野に就いて40年になるが、この年齢の子供で素晴らしく発達した脳を見たのは初めてだ。博識な男性を思わせるほど完成度が高く発達している」と述べた。胃の内部からは1パイントを超える非常に臭い液体が流れ出て、腸は膨れ上がり腹壁で癒着をしていた。内臓全体と両肺付近にさまざまな大きさの腫瘍がみつかり、彼らは死因を「腺病質の傾向がしばらくの間滞在していたため」結核が死因であるとした。[6]国民へのルイ17世死去の発表は4日後に行われ、遺体は共同墓地のサン・マルグリット墓地に葬られた。

死亡証明書には「故ルイ・シャルル・カペーの記録。牧月20日午後3時、10歳2ヶ月没、出生地ヴェルサイユ、住所パリ・タンプル塔、フランス人最後の国王ルイ・カペーとオーストリアのマリー・アントワネット・ジョゼフジャンヌの息子」と記載された[7]

ペルタンは検死の際、ハンカチにルイ17世の心臓を包み、コートのポケットに入れて持ち出した。心臓はペルタンの自宅において、蒸留したワインのアルコールを塗られて書棚に隠されたが、数年の時を経てアルコールは蒸発し、心臓は石のごとく硬くなってしまった[8]

ルイ17世への虐待に加わった者たちは苦しんだ。夫婦でタンプル塔で働いていたティゾン夫人は神経衰弱となり、その後何年間も、自分はルイ17世脱出の手助けをしたと主張した。シモン夫人マリー=ジャンヌは、ルイ17世の死後19年経過してから「施療院の自分の部屋にルイ17世がやってきた」と言い出した。毒殺説も流れたが、ベルタン医師が否定した。後にルイ17世の死を知ったマリー・テレーズは「弟を殺害した唯一の毒は、捕え人の残忍な行為である」と述べた。

生存説とその否定

生存中から「タンプル塔にいるのは重病の別の子供であり、ルイ17世は逃亡している」と噂が流れており、実際にタンプル塔で勤務する者もヴェルサイユ時代、もしくはテュイルリー宮殿時代の彼を知るものは皆無であり、独房で幽閉されている姿を見た者もごくわずかである。死去の際にルイ17世の世話をしていたローラン、ゴマン、ペルタン医師も同様である。そのため「ルイ17世は逃亡しており、亡くなった少年は別人なのではないか」という噂が立った。そのためブルボン家の財産を目当てにして、自分こそが逃亡した王太子だと名乗り出るものが、ヨーロッパだけではなくアメリカ大陸やセイシェル諸島にまで出没する有様だった。アメリカの作家マーク・トウェイン1885年発表の『ハックルベリー・フィンの冒険』において、偽王太子をからかう一節を記している。

フランス北東部のシャロン=シュル=マルヌ付近で発見されたジャン・マリー・エルヴァゴーという少年は牢番がかごに入れ脱走させたルイ17世だ、という噂が流れ、総裁政府やフェルセン伯爵までもが振り回された。偽王太子の中でもドイツに現れたカール・ヴィルヘルム・ナウンドルフEnglish版という人物は有名であるが、DNA鑑定の結果、マリー・アントワネットとは何の関係もなかったとされている。

1814年、復古王政期に改葬された際、サン・マルグリット共同墓地で遺体の捜索が行われた。ルイ16世、マリー・アントワネット、エリザベート王女の遺体は他とは別に埋葬されていたために証言から発掘できたが、ルイ17世の遺体については埋葬時を詳しく知る人物はほとんど死去しており、証言する者の記憶も曖昧であったため、掘り起こした少年の遺体がルイ17世のものか確証がなかった。腐敗した遺体は膨張していて、10歳の少年の遺体には見えないという者がいたため、このことも、別人とすり替わったのではないかと憶測される原因となった。

2000年4月、マリー・アントワネットの遺髪と、ルイ17世のものと思われる心臓[9]のDNA鑑定がなされた。しかし、心臓の損傷が激しいため、鑑定にはかなりの時間を要することとなった(マリー・アントワネットの兄弟姉妹やいとこ、現在のハプスブルク=ロートリンゲン家の人物との比較でDNA鑑定は行われた)。その結果は「心臓はルイ17世のものに間違いない」というもので、2004年6月にようやくルイ17世のものと判定され、フランス王家の墓地があるサン=ドニ大聖堂に心臓が埋葬された。

脚注・出典

  1. TBS系「クイズふしぎ発見」2013年7月20日放送より
  2. スーザン、p233
  3. 後に復古王政下では、既に亡くなったルイ17世の即位を正式なものであるように取り繕う儀式を行った。このため、プロヴァンス伯爵はルイ18世の名乗りを変えずに改めて即位した。ルイ17世は即位と統治の実態が全くないが、フランス・ブルボン家の論理では正統なフランス国王である。
  4. デボラ p181 第一刷では「~市の代表である通称取次人のルブーフ~」とあるが、おそらく誤植。テンプレート:Google books quoteでは「~municipal representative known as Commissionaire Leboueuf~」とされている。
  5. デボラ P240-241
  6. デボラ p246-247
  7. デボラ p249-250
  8. デボラ p250-251
  9. 検視に立ち会った医師のジャン・フィリップ・ペルタンがハンカチに包んで隠し、アルコール溶液に浸して保存したと伝えられるもの

参考文献

  • デボラ・キャドベリー(Deborah Cadbury)著、櫻井郁恵訳『ルイ十七世の謎と母マリー・アントワネット 革命、復讐、DNAの真実』(原題:THE LOST KING OF FRANCE: HOW DNA SOLVED THE MYSTERY OF THE MURDERED SON OF LOUIS XVI AND MARIE ANTOINETTE)近代文芸社 ISBN 978-4-7733-7678-4
  • スーザン・ネーゲル(Susan Nagel)著、櫻井郁恵訳『マリー・テレーズ 恐怖政治の子供、マリー・アントワネットの娘の運命』(原題:Marie-Therese, Child of Terror: The Fate of Marie Antoinette's Daughter) ISBN 978-4-7733-7678-4

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