ワールドプロレスリング

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ワールドプロレスリングWorld Pro Wrestling)は、1969年7月2日からNET(日本教育テレビ)⇒テレビ朝日および系列局で放送されているプロレス中継番組である。略称は「ワープロ」もしくは「WPW」。

1973年3月30日までは日本プロレス中継番組として、同年4月6日以降は新日本プロレス中継番組として放送されている。1988年3月までは生中継で放送されていたが、現在は録画中継番組となっている[1]2007年10月からハイビジョン制作番組となっている。

新日本プロレス中継を開始してから2018年4月7日に45周年を迎えるなど、現在のプロレス中継番組として最長寿番組でもある[2]。2018年7月に日本プロレス中継時代から使用してきた番組ロゴを一新した。

日本プロレス中継時代

放送開始まで

1968年1月に国際プロレスからブッカーとして招聘され、その1か月後に国際プロレスとの路線対立により日本マット界を追われたグレート東郷が、1969年1月にルー・テーズと組んで日本再進出並びにその新団体『トーゴー&テーズ・カンパニー』(ナショナル・レスリング・エンタープライズ = 仮称)のテレビ中継を目論み、同時に東郷は力道山のマネージャーであった吉村義雄を日本における代理人に指名し、NETフジテレビに対してコンタクトを開始した(後にフジテレビは断念)[3]。この情報を聞きつけた日本プロレスは、同年1月下旬に企業防衛を開始し、吉村道明をアメリカに派遣し東郷による新団体旗揚げ阻止工作に動いた他、国内においても遠藤幸吉専務が東京スポーツに対して「ルー・テーズが極秘来日」(実際には1969年にテーズは来日していなかった)などの飛ばし記事を書くよう要請するなど、東郷による新団体の旗揚げやNETにおける中継阻止に動いた[3]

日本プロレスは1969年2月に、NETの辻井博編成局長に対して「東郷による新団体の中継は中止してほしい。日本プロレスの試合を中継したいのなら協力する」とアプローチをかけ、同年3月には『三菱ダイヤモンド・アワー日本プロレス中継』として日本プロレス中継を独占放送してきた日本テレビに対し、NETの参入許可に関する打診を開始し、同年4月に日本テレビは日本プロレスに対し、以下の試合は日本テレビの『日本プロレス中継』内の放送での独占中継とし、NETでは放送してはならないという条件で放送を許可することを通達した[4][5]

そして、NETと日本テレビとの間で放送協定が結ばれ、NETは1969年5月12日に赤坂プリンスホテルにおいて、日本プロレスから芳の里淳三社長、遠藤専務、アントニオ猪木大木金太郎ユセフ・トルコが、NETから辻井編成局長がそれぞれ出席の上で、同年7月2日からNETでも日本プロレス中継を開始することを発表した。NETは猪木を番組上でのメインイベンターに抜擢し、猪木・大木・吉村の試合を中心に放送することになった。これにより、東郷による新団体旗揚げ計画は頓挫した[5]

放送開始 - NET独占放送へ

1969年7月2日より、毎週水曜日21:00 - 21:56において『NETワールドプロレスリング』としてNETにおける日本プロレス中継が開始された。開始当初からカラー放送であり、日本プロレス中継時代は一貫してNETの局名を冠していた。開始当初は録画中継であった。開始当日の新聞に掲載されたキャッチコピーは「NETプロレス中継開始!」「世界最強の男たち10チャンネルに登場!」であった。『NETワールドプロレスリング』第1回は1969年6月23日に大田区体育館で行われた猪木&吉村vsクルト・フォン・スタイガー&カール・フォン・スタイガーと大木vsエドワード・ペレスの録画中継で、吉岡晋也が実況を担当し、桂小金治をゲストに迎えて放送された。なお、吉村は本番組の放送初回当日に裏番組である『あっぱれ!親バカ』(日本テレビ)にも馬場と共に出演していた[6]。本番組で中継される日本プロレスの興行におけるリング横幕は、三菱電機がスポンサーに付いていた『日本プロレス中継』と異なり、小松製作所などの本番組の番組スポンサーが付いたNET仕様の横幕が使用された。開始当初の視聴率は、NET局内でベスト5に入っていた他、同年12月31日には、ドリー・ファンク・ジュニアVS猪木とのNWA世界ヘビー級王座戦(12月2日に大阪府立体育会館で開催)の録画中継を通常放送したが、『第20回NHK紅白歌合戦』の影響で視聴率は4.8%に終わる[7]

1970年4月6日から毎週月曜日20:00 - 20:56に変更されると同時に生中継も開始され(生中継初回は4月27日開催の「第12回ワールドリーグ戦」愛知県体育館大会)、同時に坂口の試合中継も同年4月20日から解禁されたが[7]、同年に開催された「第1回NWAタッグ・リーグ戦」が引き金となり、日本プロレスは馬場派と猪木派に二分し、後に分裂の危機に立たされることとなった[8]1971年にはワールドリーグ公式戦中継も解禁されたが[8]、同年12月13日に猪木が追放処分となって看板を失い(最後の猪木出場試合の中継は12月27日放送のディック・スタインボーン戦(12月6日の茨城県立スポーツセンター体育館大会)の録画中継、猪木は1972年3月に新日本プロレスを創立)、そのためNETは坂口を新たなメインイベンターに起用して放送することになった。

猪木という看板選手を失い、視聴率も平均で3%も低下したNETは、1972年1月から日本プロレスに対し馬場の試合中継を要求した。本番組自体の視聴率は、同年2月21日に録画中継されたキング・クローVS坂口のUNヘビー級選手権戦(2月11日にロサンゼルスオリンピック・オーディトリアムで開催)は視聴率に影響しなかった他、同年3月13日に宮城県スポーツセンターから生中継された坂口VSハーリー・レイスのUNヘビー級選手権戦も10.2%に終わった。NETは、放映権料を100万円アップした1週あたり約450万円にすることを提示した他、馬場を本番組に登場させるという要求が受け入れられなければ1972年3月一杯をもって番組を打ち切ると警告し、最終的に日本プロレスはNETの要求を飲むことになった[9]。そして日本プロレス役員会は馬場の反対を押し切ってNETにおける馬場の試合中継を認め、1972年4月3日放送の「第14回ワールドリーグ戦」新潟市体育館大会において『ジャイアント馬場初登場』と銘打ち馬場を本番組の中継に出場させた(馬場&坂口vsディック・マードック&マイティ・ブルータス)ことから日本テレビと『日本プロレス中継』のスポンサーである三菱電機が激怒。日本テレビは三菱電機との協議の末、同年5月15日の記者会見において同年5月12日放送分の東京都体育館大会(「第14回ワールドリーグ戦決勝戦」などを放送)をもって『日本プロレス中継』を打ち切ることを正式発表した(1972年5月19日以降は『日本プロレス選手権特集』として過去の名勝負集を同年7月14日まで放送)[10][11]

日本プロレスの中継は日本テレビが打ち切りを発表した同年5月15日以降はNETが独占する形となったと同時に(独占中継初回は「第14回ワールドリーグ戦」最終戦石川県小松市体育館大会の生中継で、メインは坂口&吉村VSアブドーラ・ザ・ブッチャー&カリプス・ハリケーンアジアタッグ王座戦)、日本プロレスのリング横幕も完全にNET仕様となった。ゴールデンタイムで放送されるプロレス実況中継番組は『日本プロレス中継』打ち切りの他にも、馬場のNET初登場前日である1972年4月2日にTBSTWWAプロレス中継』が日曜18時台へ移動したことも相まって、1972年5月15日から10月6日までは本番組のみとなり、同時にNETにおける馬場の試合中継も無条件で放送されるようになった[4]

しかし、NETによる日本プロレス中継の独占中継化の代償は大きかった。当時はANNフルネット局が少なかったことや、クロスネット局でもメイン系列の番組を放送していたため、大半の地域では日本プロレス中継自体が遅れネット化され、特に石川・宮崎沖縄の3県は、NETの日本プロレス中継独占中継化以降、実況生中継で放送されるレギュラー中継のプロレス中継が完全に消滅することになった他(この3県におけるプロレス中継は、本番組はフジテレビ系列局で〈石川テレビ沖縄テレビは途中打ち切りとなった後に北陸朝日放送琉球朝日放送にてネット再開、テレビ宮崎は途中打ち切り〉、『全日本プロレス中継』はTBS系列局で〈北陸放送テレビ金沢開局まで放送、宮崎放送琉球放送は途中打ち切り〉でそれぞれ放送)、「第14回ワールドリーグ戦」新潟大会の中継協力局でかつ『日本プロレス中継』も放送していた新潟総合テレビでは、新潟テレビ21テレビ新潟開局まで、本番組並びに『全日本プロレス中継』は遅れネットで放送された他、当時変則クロスネットを組んでいた中京広域圏(本番組を放送していた中京テレビと『日本プロレス中継』を放送していた名古屋テレビ)でも、1972年10月に実施された名古屋テレビにおける土曜20時台の日本テレビ同時ネットからNET同時ネットへの変更も相まって(これにより『全日本プロレス中継』は中京テレビでの放送となった)、馬場の試合の放映権が中京テレビへ完全に移行することになった。馬場は「第14回ワールドリーグ戦」新潟大会直後に日本プロレスを退団する意向を示していた。また日本テレビも「第14回ワールドリーグ戦」新潟大会直後からNETに対する報復手段を取り始め、猪木に対し新日本プロレス中継開始を打診していた他、『日本プロレス中継』打ち切り直後に極秘裏に馬場に接触し、新団体旗揚げなどを持ちかけるようになっていた[11][12][13]。国際プロレスも、『TWWAプロレス中継』のネットを打ち切ったり、遅れネットへ変更した局があったものの、金網デスマッチの人気が沸騰して超満員札止めの会場も現れるなど[14]、人気面で日本プロレスに猛追する勢いになっていた。

「金8枠」進出 - 新日本プロレス中継への変更

1972年7月28日、日本テレビでの日本プロレスの過去の名勝負を放送した『日本プロレス選手権特集』が終了した2週間後、同局の「金8枠」(毎週金曜日の20:00 - 20:54)の中継を引き継ぐ形で『NET日本プロレスリング中継』という中継枠が設けられた。当日の新聞に掲載されたキャッチコピーは「金曜よるの興奮プロレス中継!! 今晩8時から10チャンネルがおとどけします」であり、なおかつ馬場と坂口の写真を掲載することで今後の「金8枠」におけるプロレス中継はNETで放送することをアピールした[4]。「金8枠」第1回は7月24日に後楽園ホールで開幕した「第1次サマー・ビッグ・シリーズ」第4戦後楽園ホールからの生中継で、メインイベントは馬場VSキラー・ジョー・ノボのシングルマッチだった。

しかし、「金8枠」進出翌日の同年7月29日に、馬場が8月18日の宮城県石巻市中央広場大会で終了する「第1次サマー・ビッグ・シリーズ」をもって日本プロレスを退団することを正式発表したため(NETにおける最後の馬場出場試合中継は8月21日放送<8月16日に新潟県三条市厚生福祉会館で開催>の馬場&坂口VSエル・ソリタリオ&ジミー・バリアントの録画中継)、同年8月25日に開幕の「第2次サマー・ビッグ・シリーズ」以降は坂口が新しい番組上でのメインイベンターとなった。NETにおける馬場の試合の視聴率は月曜が10%、金曜が13%であった[15]。「金8枠」開始以前に、馬場は日本テレビと新団体設立や新団体のテレビ中継に関する協議がすでに合意に達していた(馬場は同年9月に全日本プロレス旗揚げも発表し、同年10月7日から日本テレビにおいて『全日本プロレス中継』がスタート。これにより日本テレビによる新日本プロレス中継開始計画は頓挫)[16]。なお馬場は、日本プロレス退団後はテレビ朝日の番組には長年出演しなかった。

NETが放送した馬場の出場試合は下表のとおりである(特記がない場合は録画中継並びに『NETワールドプロレスリング』にて放送。『NET日本プロレスリング中継』は1972年8月4日は放送休止)。

1972年10月改編期まで、しばらくの間は旧来の『NETワールドプロレスリング』としての放送枠(当時は月曜20時台であった)と並行して放送、その間は日本プロレスの中継枠がゴールデン枠に2つ存在していた。しかし、馬場と猪木の抜けた穴は大きく、馬場離脱後は本番組の視聴率や、日本プロレス自体の観客動員数も大きく減少した他(実況を担当していた舟橋慶一は「観客よりも中継スタッフの方が多い会場があった」と公言している[15][17])、選手に対する給料の未払いも発生するようになる[18]。同年9月8日と9月11日に放送された坂口VSザ・シークのUNヘビー級選手権戦(9月6日開催の田園コロシアム大会は9月8日に、9月7日開催の大阪府立体育館大会は9月11日にそれぞれ録画中継)の視聴率も10%前後で視聴率回復には至らなかった。このため、NETは日本プロレス中継の週2回放送は視聴率的に無理と判断し、月曜20時の『NETワールドプロレスリング』は同年9月25日に行われた「第3回NWAタッグ・リーグ戦」開幕戦宮城県スポーツセンター大会の生中継をもって終了し(当日は坂口VSラリー・ハミルトンなどを放送)、同年9月29日からは金曜20時の『NET日本プロレスリング中継』枠に一元化された[15]

NETは1972年10月に日本プロレスを相手取り、馬場の退団は契約違反として東京地裁に告訴した[15]。日本プロレスの低迷を受けてNETはこの頃から本番組打ち切りをちらつかせるようになる[19]。この時点ではNETは新日本プロレス中継への変更は明言していなかったものの、「金8枠」一本化時からNETは馬場と日本テレビとの関係同様に、日本プロレス首脳陣や選手会長である大木に極秘裏で猪木や坂口(マサ斎藤も数回出席)に接触し(最初にNETが坂口に接触し、後に坂口が猪木に接触)[18]、新日本プロレス中継開始に関する話し合いを持つようになった。

新日本プロレス自体も、テレビ中継がないことに加え、外国人招聘ルートが脆弱だったため日本プロレスや国際プロレスと比べて外国人選手の質が低く、累積赤字に苦しんでいた[13]。それでも、旗揚げシリーズ第2弾となる「オープニング・シリーズ第2弾」では1972年5月11日に大阪府立体育館、シリーズ最終戦である5月24日には岩手県営体育館盛岡市における日プロの興行は、1971年6月13日開催の「'71ゴールデン・シリーズ」をもって撤退しており、岩手県における日プロの興行成績も、国際プロレスよりも興行成績で劣勢に立たされていた[20])でそれぞれ初興行を行い[21]、7月開幕の「ニュー・サマー・シリーズ」では8月7日に愛知県体育館、8月14日に広島県立体育館でそれぞれ初興行[22]を行うなどして、政令指定都市や県庁所在地(主に日本プロレスの興行から撤退した都市)に所在する大会場で積極的に興行を打って地盤を固めていき、9月開幕の「ニュー・ゴールデン・シリーズ」では、旗揚げシリーズ以来となる猪木VSカール・ゴッチが再度実現、その模様は東京12チャンネル(現:テレビ東京)で録画中継された(後述)。

一方の日本プロレスは、ワルドー・フォン・エリックダニー・ホッジネルソン・ロイヤルなどを「第3回NWAタッグ・リーグ戦」に招聘したが、1972年10月に旗揚げを控えていた全日本プロレスは、ブルーノ・サンマルチノフレッド・ブラッシーテリー・ファンクドリー・ファンク・シニアダッチ・サベージらを旗揚げシリーズの「'72ジャイアント・シリーズ」に招聘。国際プロレスも、同年9月12日に開幕した「'72ダイナマイト・シリーズ」には常連外国人だったビル・ロビンソンの他、前年の日本プロレス「第2回NWAタッグ・リーグ戦」に参戦したバディ・オースチンビル・ドロモなどを招聘した。宮崎県都城市体育館における国際プロレスとの興行戦争では(国際プロレスが10月2日、日本プロレスが10月7日にそれぞれ開催)、日本プロレスは大木&坂口VSフリッツ・フォン・ゲーリング&ジョー・ハミルトンをメインに勝負をかけるも、ストロング小林VSオースチンの金網デスマッチを仕掛けた国際プロレスの前に観客数などで大惨敗に終わわる。さらに、国際プロレスよりも興行面で劣勢に立たされていた岩手県と宮城県における興行は[20]、開幕戦の仙台大会と翌9月26日開催の大船渡青果市場特設リング大会をもって撤退に追い込まれた他、当時ANNフルネット局が瀬戸内海放送のみだった四国地方における興行並びに、当時ANNフルネット局が九州朝日放送のみだった九州地方における興行(本シリーズでは、10月1日には坂口の日本プロレス時代最後の凱旋興行となった福岡県久留米市小頭町公園広場特設リング大会が行われていた)も本シリーズが最後となるなど、日本プロレスは本シリーズ以降、悪化傾向が進むことになる。本番組の放送時間も、同年10月6日から金曜20:00 - 20:55に1分短縮された。

「'72インターナショナル選手権シリーズ」でも、興行を大都市中心のサーキットとした上で、シリーズ自体も前年よりも5戦削減された。外国人選手も、ジン・キニスキーボボ・ブラジルファビュラス・カンガルーズアル・コステロドン・ケント)、ザ・ストンパーキラー・カール・コックスなどの豪華外国人を招聘して人気回復に努めようとした。だが、前シリーズの「第3回NWAタッグ・リーグ戦」終了3日前である10月28日に「'72ビッグ・ウインター・シリーズ」を開幕させた国際プロレスは、オースチンが前シリーズから継続参戦した他、かつて日本プロレスに参戦したディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーマリオ・ミラノなどを招聘。全日本プロレスも「'72ジャイアント・シリーズ第2弾」にザ・デストロイヤー、同年の「第14回ワールドリーグ戦」に参戦したブッチャーとサイクロン・ネグロなどを招聘した。愛知県体育館における国際との興行戦争(日本プロレスが11月21日に、国際プロレスが11月27日にそれぞれ開催)では、日本プロレスは坂口&吉村VSカンガルーズのアジアタッグ王座戦を組むも、小林&グレート草津VSブルーザー&クラッシャーの金網タッグ・デスマッチを仕掛けた国際の前に、前述の都城大会同様にカードの質や観客数で大惨敗を喫し[14]、12月2日に東京都内で全日本プロレスに興行戦争を仕掛けられたと同時に(日本プロレスは蔵前国技館、全日本プロレスは足立区体育館でそれぞれ開催。日本プロレスのメインは坂口&大木VSキニスキー&ブラジルのインターナショナル・タッグ王座戦、全日本プロレスのメインは馬場&サンダー杉山VSデストロイヤー&ネグロ)、興行成績でも2ヶ月前に『全日本プロレス中継』を開始した全日本が猛追を見せるなど、末期症状を呈していた[15]。同時に日本プロレスは、本シリーズをもって蔵前国技館、札幌中島スポーツセンター、広島県立体育館から撤退した。

一方の猪木、坂口、NETの3者は、1972年12月末には新日本プロレス中継開始に関する基本合意に至り[15]、新日本プロレスも、1972年11月シリーズである「ニュー・ダイヤモンド・シリーズ」では、前半に日本プロレスが「第3回NWAタッグ・リーグ戦」をもって撤退した四国・九州地方中心でサーキットを組むなど、地盤をさらに固めていった。外国人選手も「ニュー・ダイヤモンド・シリーズ」ではジョニー・ロンドス、次期シリーズである「'73新春バッファロー・シリーズ」ではトニー・チャールズなど、後に常連外国人となる選手をそれぞれ招聘した。

1973年に入ると、日本プロレスはさらなる悪循環に陥ってしまう。「'73新春チャンピオン・シリーズ」は参加外国人の質が低下し、6人招聘した外国人選手もザ・スポイラーレッド・デビルなど、ビリー・レッド・ライオン以外すべて覆面レスラーという布陣となり、さらには観客数の減少傾向にも歯止めがかからなかった[15]。本シリーズでは、都道府県庁所在地における興行も後楽園ホールと大阪府立体育館(大阪府立体育館は「第2次サマー・ビッグ・シリーズ」から4シリーズ連続の興行となった)のみとした上で、かつ北海道青森県中心のサーキットとなり、1月20日から1月25日まで6日間も休養日が設定された。1月26日に後楽園ホールから生中継された高千穂明久VSグレート小鹿戦で14.8%の視聴率を記録し、翌日放送の『全日本プロレス中継』の視聴率(12.3%)を何とか上回った[23]。だが、本番組自体の視聴率も「'73新春チャンピオン・シリーズ」以降は10%を割り込む週が目立ち、1月末にはNETと新日本プロレスとの間で新日本プロレス中継開始に関する最終合意に至った[15]。同時期には日本プロレスと新日本プロレスの合併話が持ち上がり、NETは日本プロレスに対して「猪木・新日本プロレスとの合併を認めなければ中継を打ち切る」と強硬姿勢に出るに至り、同年2月8日には猪木・坂口・NETによる合併記者会見を一旦は行った。

日本プロレスは1973年2月16日に、ジョニー・バレンタインをエース格として、「'73ダイナミック・シリーズ」を全11戦の日程で開幕させた。猪木・坂口・NETの方針に対し、大木が開幕戦後楽園ホール大会にて合併反対会見を行い、一部を除く日本プロレスの役員や選手会も大木に賛同したため、合併交渉が白紙に戻ったが[24]、NETは4月から新日本プロレス中継を放送する方針には変わりはなかった。これにより合併賛成派だった坂口は1973年2月に木村聖裔小沢正志、大城勤(大城大五郎)の3選手を連れて同年3月8日の「'73ダイナミック・シリーズ」終了を以って日本プロレスを脱退すること並びに新日本プロレスへの入団を決定し、吉村も3月3日の近大記念会館大会をもって引退することを決断した。これにより、日本プロレス残留を決めた大木派と新日本プロレスへ移籍する坂口派との対立は、シリーズが進むにつれて深刻さを増し、日本プロレス幹部と大木派は本シリーズにおいて、猪木の日本プロレス除名時と同様に、坂口派に対する妨害工作を開始した(引退が決定していた吉村と、すでに坂口派に付いていたNETは中立の立場を貫いていた)。同年2月23日の大阪府立体育館大会当日に行われた選手会の会合では(大木派はレフェリーの長沢日一を加えた8人、坂口派は4人の他にレフェリーの田中米太郎を加えた5人がそれぞれ出席。大木派についていた高千穂と桜田一男は出席せず)、大木が坂口に対し、日本プロレスへの慰留を強く要請したものの物別れに終わるなど紛糾した[25]。タイトル自体も、大木&坂口が保持していたインターナショナル・タッグ王座は、大阪大会にてバレンタイン&キラー・カール・クラップに敗れて王座を陥落したが、国際プロレスが同年3月2日に愛知県体育館で行った前述の小林&草津VSブルーザー&クラッシャーの暴動騒ぎにおけるお詫び無料興行(国際プロレスのメインはマイティ井上VSホセ・クインテロの金網デスマッチ)にぶつける形で3月6日に行われた愛知県体育館大会でのリターンマッチにおいて、大木は坂口に代わる新パートナーとして上田馬之助を指名して勝利し、日本陣営が奪還に成功した。坂口が保持していたユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座も、最後の実況生中継となった同年3月2日の横浜文化体育館大会にてバレンタインに敗れて王座を陥落したが、シリーズ最終戦かつ最後の番組収録となった同年3月8日開催の栃木県佐野市民会館大会にて、高千穂が勝利して、日本陣営が王座を奪還した。アジアタッグ王座も、吉村&坂口が王座を返上したため、近大記念会館大会にて行われた王座決定戦である小鹿&松岡巌鉄VSクラップ&クルト・フォン・スタイガーにおいて、小鹿&松岡が勝利した。

NETは坂口に同調する形で、「'73ダイナミック・シリーズ」終了翌日である1973年3月9日に、3月30日限りで『NET日本プロレスリング中継』を打ち切った上で、翌週4月6日から新日本プロレス中継に変更することを正式発表した。これを受けて日本プロレスは25戦で予定していた次期シリーズ「アイアン・クロー・シリーズ」を一旦キャンセルするとともに、NETも日本プロレス中継終了まで同年3月3日に行われた近大記念会館大会(吉村道明引退興行、吉村の引退試合は3月9日に録画中継)と同年3月8日に行われた佐野大会の2大会の録画中継のみとする内容変更を実施した。NETによる新日本プロレス中継開始正式決定後も大木は、菊池孝に対し、「NETは日プロを見捨てることはないだろう。新日本中継を開始しても、隔週で日プロを放送するだろう」と楽観する意見を述べていたが、NETは当然ながら、日本プロレスに対してそんな温情を見せるはずもなかった。

坂口の新日本プロレス移籍並びにNETの新日本プロレス中継への変更により、NETは予定通り1973年3月30日限りで3年7カ月続いた「NET日本プロレスリング中継」を終了した。最後の日本プロレス中継は、NETの新日本プロレス中継開始会見の前日である佐野大会で行われたバレンタインVS高千穂のUNヘビー級選手権戦の録画中継であった。これにより日本テレビ単独中継時代から19年1カ月続いた日本プロレスのテレビ中継は幕を下ろしたと同時に、終了同日には翌週4月6日から実況中継される新日本プロレス「ビッグ・ファイト・シリーズ」が大田区体育館で開幕した。木村、小沢、大城は大田区大会から、坂口も同年4月1日の第2戦佐賀県鹿島市大会からそれぞれ新日本に参戦した[26]

坂口、木村、小沢、大城の4人は、「'73ダイナミック・シリーズ」佐野大会終了直後に自家用車で新日本プロレス道場へ直行し、到着が深夜にもかかわらず、山本小鉄藤波辰巳が出迎えたという。メイン実況を務めていた舟橋は「NET日本プロレスリング中継」最終回当日、新日本プロレス「ビッグ・ファイト・シリーズ」開幕戦に直接出向き、新日本プロレス中継開始に備えて新日本の試合内容などをチェックしていたという[27]。なお、『NET日本プロレスリング中継』最終収録地となった佐野市民会館では、新日本プロレス中継開始前日の同年4月5日に「ビッグ・ファイト・シリーズ」第4戦が行われている[26]

日本プロレス中継終了後

本番組が新日本プロレス中継に変更されたためにテレビ中継とそれに伴う放映権料を完全に失い、なおかつ吉村が前述の通り1973年3月3日に引退し、坂口が同年4月1日に新日本プロレスへ移籍したために看板選手を失った日本プロレスは、大木や高千穂ら選手会が1973年4月に一旦キャンセルとなった「アイアン・クロー・シリーズ」を全6戦で選手会主催興行とし、フリッツ・フォン・エリックを外国人エース格として興行を強行したものの[28]、新日本プロレスは猪木が全国ネットのテレビ中継に再登場して坂口が移籍し、全日本プロレスも「第1回チャンピオン・カーニバル」を開催し、国際プロレスもラッシャー木村の海外遠征からの帰国を控え、木村の遠征中も小林、草津、井上が奮闘しており、質と量の両面において、他団体との外国人選手やカードなどの差は歴然としていた。

日本プロレスは同年4月13日の開幕戦である大阪府立体育館大会(大木vsフリッツ・フォン・エリックのインターナショナル・ヘビー級選手権など)が不入りに終わった事を受けて、翌4月14日に解散を決定し、同年4月20日の群馬県吉井町大会を以って、新日本プロレス中継へ変更されてわずか3週で崩壊した。大阪府立体育館では新日本プロレスと全日本プロレスの後発2団体に興行戦争を仕掛けられ(新日本プロレスは4月18日〈当日のメインは猪木VSジャン・ウィルキンス〉に、全日本プロレスは日本プロレス崩壊の4日後である4月24日〈当日のメインは馬場VSシークのPWFヘビー級王座戦〉にそれぞれ開催)、日本プロレス崩壊当日は新日本プロレスで猪木&坂口の黄金コンビが復活した日でもあった(後述)[26]。日本プロレスの残党9名も崩壊の翌週である4月27日に日本テレビと1976年3月31日までの3年契約を結ばされた上で、全日本プロレスへ参戦した。このように、当時のプロレス団体はテレビ中継の有無で団体存続が左右されていた時代であった[29]

日本プロレス残党9名の内、大木・高千穂・上田・桜田の4名は後に全日本を退団して新日本に参戦し、かつ本番組に再登場した一方で、日本テレビとの3年契約の満了後に全日本に正式入団した小鹿・ミツ・ヒライ羽田光男伊藤正男の4名と1974年に引退した松岡は、日本プロレス崩壊後はテレビ朝日のプロレス中継に登場することはなかった。

日本プロレスが管理していたタイトルに関しては、大木が保持していたインターナショナル・ヘビー級王座は、崩壊後も大木が保持し続け、1980年2月の国際プロレス入団(東京12チャンネル主導での入団)までは日本での防衛戦は行わずに、韓国のみで防衛戦を行い、国際プロレスでも防衛戦を4回行ったが、大木は同年11月に東京12チャンネルから契約を解除されて国際プロレスを退団し、NWA非加盟の国際プロレスにて防衛戦を行ったのは問題として、翌1981年にNWAから返上勧告を受けて返上した。大木&上田が保持していたインターナショナル・タッグ王座は、崩壊2日前である1973年4月18日の静岡県焼津市体育館大会にて、フリッツ・フォン・エリック&キラー・カール・クラップに敗れて海外に流出した。高千穂が保持していたユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座と、小鹿&松岡が保持していたアジアタッグ王座も、全日本プロレスに移籍後にそれぞれ返上した上で、全日本プロレスによって1976年まで封印させられた。なお、大木が返上したインターナショナル・ヘビー級王座は1981年4月に全日本プロレスにおいて王座争奪トーナメントを開催し、その後は全日本プロレスの王座として定着した。インターナショナル・タッグ王座も、1975年2月に馬場&ジャンボ鶴田ザ・ファンクスドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク)から奪取し、1年10か月ぶりに日本へ戻った。ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座も、1976年8月に鶴田VSジャック・ブリスコとの王座決定戦の末に鶴田が新王者となり、アジアタッグ王座も、小鹿が大熊元司を新パートナーに迎えて極道コンビを結成し、1976年3月に王座を奪取した。インターナショナル・タッグ王座、ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座、アジアタッグ王座の3タイトルも、全日本プロレスの王座として定着した。

日本プロレス残党のまとめ役で、かつ馬場との仲介役を務めた小鹿の証言によれば、当初馬場は残党全員を引き取るつもりはなかったものの、最終的に小鹿が説得した上で残党全員を全日本プロレスに引き取ってもらったという[30]。日本プロレスが管理するチャンピオンベルトやチャンピオントロフィーを、NETが日本プロレスに残務整理のため一人残っていた長谷川淳三社長から買い取る話があったという[31]

新日本プロレス中継時代

前史

1972年3月に旗揚げした新日本プロレスはテレビ中継がないままに旗揚げし、それが故に旗揚げ半年で累積赤字が1億円に達するなど経営難に陥っていた[13]。『日本プロレス中継』打ち切り直前から新日本は日本テレビから試合中継開始を打診され、新日本も交渉に応じようとしたが(『日本プロレス中継』のプロデューサーだった原章は猪木と親密だった)、日本テレビは馬場に付いた上で『全日本プロレス中継』を開始したため日本テレビにおける新日本中継は実現しなかった[12][13]。初の新日本プロレス中継は東京12チャンネル(現:テレビ東京)が放送し、単発放送として2回放送され、1972年10月4日に行われた猪木VSカール・ゴッチ戦を当日の22時30分から、10月10日に行われた猪木VSゴッチ戦を11月6日の20時からそれぞれ1時間枠で特別番組として録画中継した。単発放送ながらも、猪木の試合中継が10か月ぶりに復活した。

猪木と当時日本プロレス所属だった坂口は、東京12チャンネルにおける単発放送前からNETとの新日本のレギュラー中継開始交渉を日本プロレスと日本プロレス選手会に極秘裏で開始し、1973年1月には最終合意に達し、同年3月9日にNETによる新日本プロレスレギュラー中継開始が発表された(前述)。

放送開始 - 古舘の全盛期

1973年4月6日、新日本プロレスの中継番組として、半年ぶりに『ワールドプロレスリング』のタイトルが復活した上で再スタートして放送開始。それまでの『NET日本プロレスリング中継』枠同様に「金8枠」に主に生放送され、猪木の試合が1年4カ月ぶりに全国ネットプロレス中継に復活したと同時に、定期的に放映権料が入ることになったことで旗揚げから経営難にあえいでいた新日本プロレスの経営も立て直すことができた(新日本プロレス中継開始当初は、中継席やカメラの設置位置を決める前にチケットを販売したプロモーターもあったが、座席を買い戻すのは制作費が増加してしまうため、後にチケット発売開始前に中継席やカメラの設置位置を決めるようになった[32])。

第1回は『NET日本プロレスリング中継』終了と同日に開幕した「ビッグ・ファイト・シリーズ」第5戦の栃木県宇都宮スポーツセンターからの生中継で、猪木&柴田勝久VSジャン・ウィルキンス&マヌエル・ソトと坂口vsプロフェッサー・バーン・ジールのダブルメインイベントが放送された。本番組の新日本中継への変更と同時に、テレビのレギュラー放送が開始するまでという条件で参戦していた豊登は新日本を退団した。開始3週目である同年4月20日の蔵前国技館大会では、猪木の日本プロレス除名処分以来途絶えていた猪木&坂口のコンビが復活して試合が生中継された。タイガー・ジェット・シンが初来日した同年5月開幕の「ゴールデン・ファイト・シリーズ」以降は、開幕戦から放送されるようになったと同時に、猪木vsシンの抗争がスタートする。シン以外にも、日本プロレス中継最終シリーズに参戦していたジョニー・バレンタインNWF世界ヘビー級王者ジョニー・パワーズなどの大物外国人を招聘したことから、視聴率は末期の視聴率が8〜10%台だった『NET日本プロレスリング中継』よりアップし、1973年末には15〜18%台に達してプロレス中継ではトップの座に躍り出る[33]

1974年2月には、ストロング小林が国際プロレスを退団し、新日本へ移籍。同年3月19日に行われた猪木VS小林の初対決は19.8%を記録した。同年10月には大木が新日本へ参戦し、10月10日に行われた猪木VS大木は、20.2%を記録した。猪木VS大木を境に、視聴率もビッグマッチの度に、20%越えを記録するようになる[32]。1975年3月27日にはソウル奨忠体育館にて、猪木が大木が保持するインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦。その模様は3分間のダイジェストではあったが、本番組で録画中継された[34]

1976年2月6日の「格闘技世界一決定戦・猪木vsウィレム・ルスカ」の生中継(途中で放送終了)で、最高視聴率34.6%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録する(翌週に同年2月5日に行われた坂口&ストロング小林VSシン&ブルータス・ムルンバとの北米タッグ王座戦とセットで放送された再放送も26.8%を記録)[35]1978年9月19日に大阪府立体育館で行われた上田VSシンは、大阪府立体育館で行われた興行としては初の超満員札止めとなった[36]

金曜→月曜時代は原則生中継であったが[37]、放送が途中で終了した場合は翌週に放送終了後の試合を最初に録画中継で放送するという便宜を図っていた他[32]、当時の新日本プロレスは、外国人選手のギャラの支払いが週給単位であった関係で、放送前日の木曜にシリーズ最終戦を組むことが多かったため[38][39]、シリーズ最終戦もしくは最終戦直前に大会場で行われた試合は2〜3週に分割した録画中継(1週目はメインイベント、2週目以降はセミファイナル以前の試合)となることが多かった他、1週目を丸々メインイベントに割く事もあった。試合は生中継や録画中継に関わらず、現在とは異なりノーカットで放送された[32]。また、テレビ朝日は金曜にプロ野球中継を基本的に編成しなかったため、プロ野球中継の有無で放送時間が左右されていたゴールデンタイム時代の『全日本プロレス中継』や、特別番組放送による放送休止が頻発していた国際プロレスアワー』(東京12チャンネル)とは異なり、放送時間が当日時差ネットに変更されたり、休止となったりすることは、ほとんどなかった[40][41]

1979年4月7日に『全日本プロレス中継』が「土8枠」(土曜20時枠)から土曜17:30枠へ移動し、1981年3月28日に「土8枠」で放送していた『国際プロレスアワー』(東京12チャンネル)が終了したのに伴い、全国ネットで生中継を実施し、かつゴールデンタイムで放送されるプロレス中継は1981年4月3日から1985年10月18日まで本番組のみとなった。

初代タイガーマスクが登場した1981年には全日本プロレスとの外国人引き抜き戦争が勃発し、新日本がアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜いた報復として全日本がタイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンの2大外国人選手を引き抜いたが、翌1982年から1983年にかけては、古舘伊知郎の実況(当時テレビ朝日アナウンサーだった古舘にとっては「出世作」となる)、WWFとの提携強化によるハルク・ホーガンなどの新しい外国人スター選手の登場、長州力らの「維新軍団」の台頭、ほとどが実況生中継という要因によって視聴率も20%超えの絶頂期を迎える[35]

新日本プロレスの海外遠征に帯同しての現地からの中継や各シリーズの最終中継日に次期シリーズ来日レスラーの紹介(BGMとしてジェフ・ベックの『スター・サイクル(Star Cycle)』が流れる)など、現在では見られなくなった企画もあった。後者は当時、現在とは違って日本人VS外国人という図式がメインで、シリーズ毎に目新しい外国人選手の出場が多かったため。日本人同士の抗争がメインになって以降は、登場する外国人もほとんど変わらず、対戦カードの変更こそあれ総体的な陣容に特に変化が無い、日本人同士の対決に重きを置いたため、行われていない。

これから戦う選手名(つまり対戦カード)のテロップが表示されるのは、この頃にはすでに導入されている。ただし、1982年辺りの視聴率がピークの頃は、古舘の実況に合わせる様に選手が花道を入場してくる際に“燃える闘魂”“人間山脈”“超人”“世界の荒鷲”“SUPERロデオマシン”“激怒 アニマル浜口”などといったレスラーの別名(ニックネーム)のテロップが場を盛り上げていた。また前述の「次期シリーズ参加外国人選手」の予告にも同様に、古舘の実況の文言がテロップで矢継ぎ早に表示された(例:「マット上、戦況は混沌としております。内乱・テロ・リボリューションと様々な断面を見せながら、過激なプロレスを超えたシュールな戦い模様であります」「燎原の火、逆巻く次期ブラディ・ファイト・シリーズにどうぞご期待下さい」「○○(西暦)年の掉尾を飾りますMSGタッグリーグの参加チームを覗いて見ましょう」「新日猪木砦に黄色信号。維新決起の大坂夏の陣」「世界各地域を勝ち抜いてきた列強がひしめき合う第○回IWGPの出場選手の紹介です」)。同時に放映ネット局のロールも流れていた。

生中継を行っていたころは、それが故のトラブルもあった。1982年3月26日に広島県立体育館で行われた「第5回MSGシリーズ」第21戦の生中継では、セミファイナルの藤波辰巳VSキラー・カーン戦が30分引き分けに終わったために放送尺がなくなり、メインイベントの猪木VSアンドレ・ザ・ジャイアント戦では、放送終了前にアンドレが勝利したことに不満を持った観客がリングに乱入するという騒ぎとなった[42]

1983年以後、リングサイドの横断幕も、それまでの協賛スポンサー(開始当初はライオングループ龍角散カンロ飴→のちにライオングループ、佐藤製薬陶陶酒小松製作所(コマツ)・小松フォークリフト三協アルミニウムなど)の広告だったのが、「10(ロゴ) ワールドプロレスリング」の番組ロゴのものに変更された[43]。スポンサー付マットは現在は復活している。

1984年から1985年にかけては維新軍団(後のジャパンプロレス)や後のカルガリー・ハリケーンズが新日本を退団かつ全日本プロレスへ参戦した他、前田日明なども新日本を退団してUWFを旗揚げし、さらに新日本プロレスとWWFとの業務提携が終了したためマッチメイクに変化が生じる。大量離脱を補填すべく、1985年3月には全日本プロレスの外国人引き抜きの報復としてブルーザー・ブロディを引き抜き、同年8月には全日本プロレスを退団した越中詩郎がアジア・プロレス所属の形で参戦し、同年10月からはケビン・フォン・エリックケリー・フォン・エリックエリック兄弟、ランボー・サクラダ→ケンドー・ナガサキに変身した上でフリーランスとなっていた桜田が参戦して立て直しを図るが、1985年8月に日本テレビが『全日本プロレス中継』を同年10月19日からゴールデンタイムに復帰させることを発表したため、本番組は6年半ぶりに『全日本プロレス中継』との視聴率競争に晒されることになった[44]

ブロディ、エリック兄弟、サクラダ、レイ・キャンディバッドニュース・アレンコンガ・ザ・バーバリアンなどが参戦するも、1985年10月4日に開幕した「'85バーニング・スピリット・イン・オータム」は、新日本プロレスや番組が悪循環に陥ってしまう。本シリーズでは開幕戦の札幌中島体育センター大会(実況生中継)と10月31日開催の東京都体育館大会(11月1日に録画中継)で行われた猪木VSブロディを軸とし、北海道サーキットからシリーズを開始したが、本州サーキットに突入した当日である10月8日には『アフタヌーンショーやらせ事件が発覚したと同時に、テレビ朝日全体の不振が本格化し[45]、10月18日の後楽園ホール大会(実況生中継で、ブロディVSサクラダなどを放送)の翌10月19日には『全日本プロレス中継』がゴールデンタイムに復帰、最終戦当日である10月31日には新日本とWWFとの提携が終了した。これらの要因により、1985年10月以降の本番組の視聴率はジャパンプロレス勢が登場していた『全日本プロレス中継』よりも下回るようになっていく。翌シリーズである「'85IWGPタッグ・リーグ戦」では、ブロディ&ジミー・スヌーカが優勝決定戦をボイコットし、ブロディは新日本から永久追放処分を受けることになる(永久追放処分は1986年9月に解除)。WWFとの業務提携終了以降の外国人出場選手は、シリーズ毎に主に大剛鉄之助ルートやビル・ワットのMSWAルートでブッキングした新しい外国人選手(スティーブ・ウィリアムスハクソー・ジム・ドゥガンなど)の出場が多くなって行く傾向が強まると同時に、前田などのUWF勢の参戦による日本人対決もあって徐々にではあるが持ち直したが[44]、1986年にはアンドレの特例での出場契約が終了した。

1986年10月24日から放送される『ミュージックステーション』の番組立ち上げに伴い、テレビ朝日は同年10月13日から本番組を「月8枠」(月曜20:00-20:54)に移動することを決定した。「金8枠」最後のシリーズとなった「チャレンジ・スピリット'86」は、中継を行った4会場(後楽園ホール〈8月29日〉、千葉公園体育館〈9月5日〉、山形県体育館〈9月12日〉、福岡スポーツセンター〈9月19日〉)全てで実況生中継を組み、ブロディも9月16日開催の大阪城ホール大会(テレビ未収録)と福岡大会に特別参戦したが、エース格のドゥガンは自身の都合により、同年9月8日開催の福島県棚倉町大会(テレビ未収録)からの参戦となった。そして1986年9月19日・9月26日の2週に渡って放送された「チャレンジ・スピリット'86」福岡大会(9月19日は生中継で当日のメインイベントは藤波vsブロディ、9月26日は録画中継)を以って日本プロレス中継時代から14年2か月間続いた「金8枠」における放送が終了し、同時に日本テレビが「金8枠」にプロレス中継が進出した1958年9月から続いてきた「金8枠」におけるプロレス中継も、28年の歴史に幕を下ろした。

1986年10月13日から「月8枠」(月曜20:00-20:54)に移動し、14年ぶりに「月8枠」で放送されることになった。「月8枠」への移動と同時に海外武者修行から帰国した武藤敬司を大々的に売り出すなどマッチメイク面でテコ入れを図るが、「月8枠」移動後は「金8枠」と異なり休止が頻発していた。以降、1987年4月6日の90分スペシャル(1987年3月26日開催の大阪城ホール大会の録画中継)をもって古舘が番組を降板し、「月8枠」における放送が終了したと同時にレギュラー放送における生中継も終了した。

「ギブUPまで待てない!!」へリニューアル - ゴールデン撤退

翌日の1987年4月7日、火曜日の20:00からの放送に移行。バラエティの要素を加えた『ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング』として番組をリニューアル。「プロレス+バラエティ=面白すぎるスポーツ番組の登場!」といったコンセプトのもとに、山田邦子をメインパーソナリティとしたスタジオ収録のバラエティを中心にそれに試合中継を挟み込む構成とした。これに伴い、試合は全て録画中継となり、製作もスポーツ局から編成局制作3部(実際にはIVSテレビ制作が制作)に変更された。時間変更やリニューアルを行った背景には、前番組である『ビートたけしのスポーツ大将』が、ビートたけしたけし軍団によるフライデー襲撃事件が発生した影響で番組打ち切りを余儀なくされ、穴埋め番組として枠を移動した上で、たけしと同じ太田プロダクション所属の山田邦子を起用したバラエティスポーツ番組を製作することになったという[46]。当初は、試合会場とスタジオとを二元中継の形で結ぶこともあった。しかし初回から試合中の良い場面で「驚く山田の顔がアップになる」などの的外れな演出に、プロレスファンが猛反発。前週まで10%台あった視聴率が5%以下に落ちたともいわれている[47][48]。このバラエティー部分は後にスタジオでの選手へのインタビュー中心に変わり、末期には消滅した。この番組の中期、山田が一時帰国中の馳浩にインタビューした際「(試合中の怪我による)血って簡単に止まるものなんですか?」と聞いたのに対し、馳が「止まる訳ないだろ、つまんないこと聞くなよ!」と山田に向かって憤慨したエピソードがある。同時期にはジャパンプロレスが分裂し、長州力小林邦昭などの一部選手が新日本へ復帰した。

1987年10月5日からは再び月曜日の20:00に復帰、「ワールドプロレスリング」のタイトルが復活したうえ番組も元の試合中継のスタイルに戻り、制作も再度スポーツ局の担当となった[46]。この時オープニングテーマとして使われたのは自局のスポーツテーマではなく、CHAGE and ASKAの『狂想曲 〜ラプソディ〜』だった。しかし、放送時間変更後は新日本や番組が悪循環に陥ってしまう。放送時間変更と同時期にはアブドーラ・ザ・ブッチャーとブルーザー・ブロディは全日本へ復帰した他、視聴率はプロ野球シーズンオフだったことも重なって『全日本プロレス中継』よりもさらに悪化していた。「'87ジャパン・カップ争奪タッグリーグ戦」では前田日明による長州力への顔面襲撃事件が発生し、前田は1988年2月に新日本を解雇となり、後に第2次UWFを旗揚げした。1987年12月27日に行われた両国国技館大会では、たけしプロレス軍団ビッグバン・ベイダーの登場に激怒した観客が設備を破壊するなどの暴動が発生し、これを受けて日本相撲協会は新日本に対し無期限使用禁止を通告[49]。これにより、新日本は日本武道館を使用していなかったことや東京体育館が当時建替工事中だったことも相まって、1989年2月の両国国技館の使用解禁まで都内における大会場を失い、大会場におけるビッグマッチ並びに中継は新日本と提携していた時代の国際プロレス並びに『国際プロレスアワー』同様、大阪府立体育会館愛知県体育館札幌中島体育センターに頼らざるを得なくなった。

1988年4月よりかつて『ビッグスポーツ』を放送していた土曜日の16:00 - 16:54に移行。タイトルも「'88(エイティエイト) ワールドプロレスリング」と改められたと同時に、日曜22時30分枠へ移動した『全日本プロレス中継』共々ゴールデンタイムを外されたため、ゴールデンタイムで放送されるレギュラー放送のプロレス中継は消滅した。チーフプロデューサーに「川口浩探検隊」シリーズを手掛けたプロデューサーを迎え、田中信夫による同番組を彷彿とさせるナレーションを冒頭に入れるというスタイルを導入するが、1989年1月から3たび「ワールドプロレスリング」に戻る。この時間帯はゴルフ中継が頻繁に放送され、しかもそちらの方が優先されたことから毎週の放送ができずにファンからは不評だった[50]。同時にローカルセールス枠での放送となった。

1994年4月から土曜の深夜時間帯に移動しほぼ毎週放送されるようになった。同じく1994年4月に『全日本プロレス中継』が30分に短縮されたのに伴い、それ以降は本番組が唯一の1時間枠で放送される全国ネットのプロレス中継となった。1996年1月、2000年4月の東京ドーム大会は即日に特番で放送。猪木が引退した1998年の東京ドーム大会では、後日特番でゴールデンで放送された。

2001年4月、大阪ドーム大会(4月9日)の特番に突如としてタレントの乙葉が「ワールドプロレスリングイメージガール(番組イメージキャラクター)」なる肩書で登場、以後、2002年までの約1年にわたりビッグマッチの度にゲスト解説を務めた。この起用の狙いを番組プロデューサーは「プロレスを知らない彼女が出来たとしたら、貴方はどのようにしてプロレスに興味を持たせるかという一種のシミュレーションと考えてくれればいい」と当時語っていた。

2003年、無名時代の安めぐみをイメージキャラクターに起用したが、数回登場した後に番組の縮小もあり「イメージキャラクター」そのものが事実上立ち消えとなった。以後は番組イメージキャラクターの設定はない。

放送時間短縮 - 現在

2004年4月には、放送時間が30分に短縮されたと同時に、1時間枠で放送される全国ネットのプロレス中継は消滅した。放送時間短縮後は、ジュニアヘビー級の試合がタイトルマッチとリーグ戦以外ほとんど放送されなくなり、「金8枠」時代のシリーズ最終戦や、最末期の『全日本プロレス中継』→『プロレスリング・ノア中継』(日本テレビ系)、末期の『TWWAプロレス中継』(TBS系)同様に分割放送となった上で1試合かせいぜい2試合しか放送しなくなった。時を同じくしてBS朝日では全カードを中継する『ワールドプロレスリング 完全版』がスタート。2005年4月からは地上波未放送試合をカバーする目的で『闘魂スーパーバトル』と題した60分のレギュラー番組にリニューアルしたが、これも2008年に終了。2008年4月からはスカパー!テレ朝チャンネル1(2013年3月までテレ朝チャンネル)で再び新作の『-完全版』が放送されている他、2012年4月に『-完全版』の放送を開始したテレ朝チャンネル2(2013年3月まで朝日ニュースター)では月1回生放送も実施しており、「ワールドプロレスリングLIVE」として2012年5月27日放送の「BEST OF THE SUPER Jr.XIX」開幕戦を第1弾に生中継を再開した(放送は不定期)。

この放送時間の短縮は、「年6回の特番を放送するという新日本プロレスとの条件付き」とされた。しかし、2013年現在では東京ドーム大会などのビッグマッチはおける特別編成での放送は新春スペシャルとして一部系列局で深夜に放送されているのが現状である。かつてはゴールデンタイムでの特番や日曜夕方の生放送特番を年数回行っていたが、2002年5月の放送を最後にプライムタイムでの特番は放送されていない。またかつてはG1 CLIMAXの決勝戦を日曜夕方にて放送していたが、こちらも2003年が最後となっている[51]。2012年からはGET SPORTS内でG1 CLIMAXの決勝戦が中継されている。

2009年3月をもって『プロレスリング・ノア中継』が終了したため、同年4月以降は地上波において全国中継されるプロレス中継では本番組が唯一の番組となった[52]。このように、地上波でのプロレス中継自体が減少している現在、毎年3月頃になると絶えず打ち切りの噂が広まるが実際に打ち切られておらず噂の範囲内にとどまっている。

新日本プロレスの中継がメインだが近年はプロレス団体の門戸が開いたことに対応し、他団体に乗り込む新日本プロレス所属選手の戦いぶりを映像素材を借りて放送することも多くなった。特にプロレスリング・ノアビッグマウス・ラウドといった団体の試合も登場する。

最近は放送されるほとんどの大会をHD(ハイビジョン)で収録している。同じ映像素材を使用するBS朝日の『闘魂スーパーバトル』は番組開始当初からHDでの放送であったが、「ワールドプロレスリング」は2007年9月まで4:3SDでの放送であった。同年10月からHDでの放送がスタート。

2006年藤波辰爾主宰の無我ワールド・プロレスリングというプロレス団体が発足。同団体の設立に際し、同年3月に藤波の個人芸能事務所「シーホース・コーポレーション」社が「ワールドプロレスリング」の商標登録申請をした(しかし結果は拒絶査定となっている)。

2007年12月よりテレ朝チャンネルにおいて過去の当番組の映像を再放送する「ワールドプロレスリング クラシックス」の放送が開始されたことに伴い、同じテレ朝チャンネルで放送される他の番組でも過去映像の使用が解禁された。これに伴い「上田ちゃんネル」など一部の番組で、過去の試合を振り返る企画がスタートしている。これとは別でスカイ・エースポーツプラスでも「ワールドプロレスリング 不滅の闘魂伝説」を以前から放送している。

実況担当アナウンサーに対する因縁や襲撃が多く(例:1999年頃の、真鍋由アナウンサーと大仁田厚の因縁。2011年4月の、飯塚高史による野上慎平アナウンサーへの襲撃)、2012年には、その2件を中心にアナウンサー受難映像をまとめた「ワールドプロレスリング 実況アナウンサー2大受難史 〜飯塚vs野上 大仁田vs真鍋〜」というDVDが発売された。

2016年10月1日からの本番組は、アニメ『タイガーマスクW』との連動放送となり、テレビ朝日の日曜2:45 - 3:45(土曜深夜)はプロレス番組枠となる他、朝日放送など、多くの系列局(メ〜テレなど一部は除く)では、左記番組との一体編成(コンプレックス編成)、またはそれに準じる番組日程が組まれていた。これは、左記番組に新日本プロレスが監修・協賛していることによるものである[53]

主な実況アナウンサー

現在

テレビ朝日

ANN系列局

過去

テレビ朝日

ANN系列局

主な解説者

現在

試合に出場しない選手をゲスト解説に迎えることがある。

過去

パーソナリティ、イメージキャラクター

ナレーター

※深夜に移行後は、テレビ朝日のアナウンサーが担当する場合がある(過去に実況担当の田畑らが兼ねた例もあった)。

テーマ曲

オープニング

  • ワールド・プロレス吹奏楽団『ワールドプロレスリングのテーマ』 ※行進曲風のもの。

上記の演奏者は、レコードのクレジット上のもの。

上記は、完全な形でのソフト(音源)化が現在でも成されていない。

エンディング

その他

  • Jeff Beck 『StarCycle』来日外国人紹介時


古舘伊知郎の功罪

ワールドプロレスリングで実況を担当したアナウンサーの多くは、テレビ朝日の中核をなすアナウンサーへと成長した。そのなかでも古舘伊知郎が実況を担当していた時期(レギュラーは1979年から1987年3月30日まで。その後、当時猪木の最後の試合になると噂された1988年8月8日の藤波vs猪木のIWGPヘビー級選手権、及び1998年4月4日の猪木引退試合を担当)は、新日本プロレスの隆盛と共に番組の視聴率も最高潮だった。プロレスを「闘いのワンダーランド」と形容するなど、豊富なボキャブラリーを総動員する手法で、数々の名実況を残した古舘はプロレス実況を卒業した後もフリーアナウンサーとしてF1中継の実況やバラエティ番組の司会として大活躍し、プロレス実況経験者アナウンサーしては最も成功した人物の一人になったと言える。

しかし、その影響はワールドプロレスリングの後任だけに留まらず各テレビ局(特に民放)のプロレス・格闘技中継の実況アナウンサー、ひいては他の一般的なスポーツ中継の実況アナウンサーにまで及び、常に古舘の実況と比較されるようになった。ワールドプロレスリングに関しては、視聴率の面で苦戦する要因となった。後任の辻義就や藤井暁は古舘と比べられることに悩み、古舘に直接相談したこともあったという。現在に於いても、プロレス・格闘技のみならず、他の一般的なスポーツ中継に於いてまで古舘のエピゴーネンとも呼べる(ある状況や選手個人に対しての過剰とも言えるキャッチフレーズや修飾語句などを連呼したり、場面を問わずに意味もなく絶叫するような)実況が散見され、そのことを批判したり揶揄したりする意見も多い。

ちなみに、1982年には局アナの立場でありながらタイガーマスクの応援歌として作られた『燃えろ! 吠えろ! タイガーマスク』を歌っている。これはシングルレコード化されただけでなく、ボーカル入りのバージョンがそのまま、タイガーマスク自身の入場テーマ曲としても使われた。

ネット局と放送時間

現在のネット局

※2017年9月現在

放送対象地域 放送局 系列 放送曜日
および放送時間
備考
関東広域圏 テレビ朝日(EX) テレビ朝日系列 日曜 2:00 - 2:30(土曜深夜) 【制作局】
福島県 福島放送(KFB) 日曜 2:00 - 2:30(土曜深夜) 同時ネット
新潟県 新潟テレビ21(UX) 金曜 2:55 - 3:25(木曜深夜) 遅れネット
山口県 山口朝日放送(yab) 日曜 1:45 - 2:15(土曜深夜)
岩手県 岩手朝日テレビ(IAT)[57] 日曜 2:15 - 2:45(土曜深夜)
鹿児島県 鹿児島放送(KKB)
中京広域圏 メ〜テレ(NBN)[58] 日曜 2:33 - 3:03(土曜深夜)
大分県 大分朝日放送(OAB) 日曜 2:50 - 3:20(土曜深夜)
福岡県 九州朝日放送(KBC) 日曜 3:47 - 4:17(土曜深夜)
香川県・岡山県 瀬戸内海放送(KSB) 月曜 1:15 - 1:45(日曜深夜)[59]
秋田県 秋田朝日放送(AAB) 月曜 1:55 - 2:25(日曜深夜)
近畿広域圏 朝日放送テレビ(ABC)[60] 木曜 3:15 - 3:45(水曜深夜)[61]
熊本県 熊本朝日放送(KAB) 木曜 2:15 - 2:45(水曜深夜)
広島県 広島ホームテレビ(HOME) 金曜 2:20 - 2:50(木曜深夜)
石川県 北陸朝日放送(HAB) 日曜 1:45 - 2:15(土曜深夜)
静岡県 静岡朝日テレビ(SATV) 日曜 2:20 - 2:50(土曜深夜)
宮城県 東日本放送(KHB) 日曜 3:00 - 3:30(土曜深夜)
長野県 長野朝日放送(abn) 月曜 1:10 - 1:40(日曜深夜)
山形県 山形テレビ(YTS) 月曜 1:28 - 1:58(日曜深夜)
沖縄県 琉球朝日放送(QAB) 木曜 1:20 - 1:50(水曜深夜)
長崎県 長崎文化放送(NCC) 木曜 1:51 - 2:21(水曜深夜)
青森県 青森朝日放送(ABA) 金曜 2:45 - 3:15(木曜深夜)
北海道 北海道テレビ(HTB) 日曜 2:45 - 3:15(土曜深夜)
愛媛県 愛媛朝日テレビ(eat) 日曜 2:35 - 3:05(日曜深夜)
高知県 テレビ高知(KUTV) TBS系列 月曜 0:55 - 1:25(日曜深夜)[62]

過去のネット局

※系列は現在の系列。また、テレビ朝日系新局開局やネットチェンジ、電波相互乗り入れに伴う終了は○、現在のネット局から一時期放映権移行を受けて放送していた局は●、放送当時テレビ朝日系列局や他系列とのクロスネット局だった局は△とそれぞれ表記した。

放送対象地域 放送局 系列 備考
青森県 青森テレビ TBS系列 月曜のみ1972年9月まで同時ネット[63]
青森放送 日本テレビ系列 1991年9月まで ○△
岩手県 テレビ岩手 打ち切り時期不詳[64]
IBC岩手放送 TBS系列 1983年から、1996年3月打ち切り[65]
宮城県 東北放送 1970年9月まで
ミヤギテレビ 日本テレビ系列 1975年9月まで ○△
秋田県 秋田放送 1986年9月まで、1987年4月から1992年9月まで
秋田テレビ フジテレビ系列 1986年10月から1987年3月まで同時ネット
山形県 山形放送 日本テレビ系列 1985年4月から1993年3月まで ●△
福島県 福島中央テレビ 1981年9月まで ○△
山梨県 テレビ山梨 TBS系列 1976年4月から1977年3月まで
山梨放送 日本テレビ系列 1977年9月から1978年7月までと1978年10月から1979年4月まで
1983年2月に再開したが1988年4月打ち切り
新潟県 新潟総合テレビ フジテレビ系列 1983年9月まで ○△
長野県 長野放送 1980年9月まで
テレビ信州 日本テレビ系列 1980年10月から1991年3月まで ○△
静岡県 静岡放送 TBS系列 1970年10月から1978年9月まで[66][67]
富山県 北日本放送 日本テレビ系列 1969年10月開始、打ち切り時期不詳
石川県 石川テレビ フジテレビ系列 1972年1月開始、北陸朝日放送開局以前に途中打ち切り[68]
福井県 福井放送 日本テレビ系列
テレビ朝日系列
1970年開始、打ち切り時期不詳
中京広域圏 中京テレビ 日本テレビ系列 1969年10月から1973年3月まで[69] ●△
近畿広域圏 毎日放送 TBS系列 1975年3月まで ○△
島根県・鳥取県 山陰中央テレビ フジテレビ系列 2004年10月打ち切り
岡山県 岡山放送 1979年3月まで
電波相互乗り入れで瀬戸内海放送へ一本化[70]
○△
広島県 中国放送 TBS系列 1969年から1970年11月まで[71]
山口県 テレビ山口 1970年4月から1978年9月まで[63] ○△
山口放送 日本テレビ系列 1978年10月から1993年9月まで
徳島県 四国放送
愛媛県 テレビ愛媛 フジテレビ系列
高知県 高知放送 日本テレビ系列 1985年打ち切り
長崎県 長崎放送 TBS系列 1990年3月まで
熊本県 テレビくまもと フジテレビ系列 1989年9月まで ○△
大分県 大分放送 TBS系列 大分朝日放送の開局以前に途中打ち切り
宮崎県 テレビ宮崎 フジテレビ系列
日本テレビ系列
テレビ朝日系列
[72]
鹿児島県 鹿児島テレビ フジテレビ系列 1982年9月まで ○△
沖縄県 沖縄テレビ 1992年3月打ち切り

ネット局に関する備考

  • 地方大会の中継の場合、各ネット局が「制作協力」としてクレジットされる場合がある。
  • 現在は新春特番として深夜帯に年1回程特別番組が組まれることがあるが、レギュラー枠と異なり、同時ネット放送もしくは最大でも8日遅れネットとなるため、編成上の都合で未ネットとなる局もある。2017年1月4日の東京ドーム大会当日に放送された特番は、系列局が通常編成を取ったため、関東ローカルのみでの放送となった。
  • スポーツ中継や機器メンテナンスなどにより、ネット局によっては遅れ幅が縮小・拡大する場合がある。テレビ朝日はスポーツ中継が1時間30分以上延長された場合(本番組が日曜4:30以降の放送になる場合)は休止となる。
  • 現在はANNフルネット24局とTBS系列局であるテレビ高知での放送となっており、福井放送・テレビ宮崎のクロスネット2局でもかつては放送されていたが、2局とも途中打ち切りとなっている。かつてはネット局によっては日本テレビ『日本プロレス中継』→『全日本プロレス中継』やTBSTWWAプロレス中継』も放送していた局もあったため、1局のみでプロレス中継を行っていた地域もあった。
  • 一方でANNフルネット局が所在しない地方大会の中継は現在は行っておらず、ANNフルネット局が所在しない地域で行われた地方大会の中継を行っていた頃は、クロスネット局や日本テレビ系非マストバイ局で放送されていた地域で行われた大会の中継が中心で、TBS系列やフジテレビ系列局で放送されていた地域で行われた大会の中継は稀であった[37]
  • ゴールデンタイムで放送されていた当時は、ANNフルネット局でなおかつ同時ネット局が少なく(新日本時代の月曜20時台における同時ネット局はANNフルネット12局と当時フジテレビ系列とのクロスネット局だった秋田テレビの13局)、大半の地域は深夜帯など時差ネットでなおかつ録画放送で放送していた。
  • なお1990年頃より、テレビ朝日系列においても他系列局同様に深夜帯など時差ネットに切り替えるようになった(例:1990年4月に、朝日放送と名古屋テレビが深夜帯に移動)。

一時期他局に移行していた地域

地域によっては、一時期他局へ放映権移行が行われ、ネットを開始した放送局に放映権が復帰した地域もあった(太字は一時期ネットした放送局、一時移行先の放送局の系列は当時の系列)。一時期放送していた局の内、山形放送と中京テレビの2局は本番組の中継協力に携わっていた他、『全日本プロレス中継』もネットしていた(中京テレビは本番組は同時ネットで、『全日本プロレス中継』は1972年12月までは遅れネットで、1973年1月以降は同時ネットでそれぞれ放送。山形放送は本番組は遅れネットで、『全日本プロレス中継』はローカル枠時代は遅れネットで、ゴールデンタイム時代は同時ネットで放送)[73]

現在のネット局におけるケース
  • 名古屋テレビ→中京テレビ→名古屋テレビ
    • 名古屋テレビは日本プロレス中継時代の1969年7月にネットを開始し、本番組と『日本プロレス中継』の両方の日本プロレス中継番組を放送することになった。同年10月に開局した中京テレビ(日本テレビ系列・NETテレビ系列)に本番組の放映権を移行したものの(名古屋テレビは1969年10月以降は『日本プロレス中継』のみ放送)[58]、本番組が新日本プロレス中継に移行した1973年4月に変則クロスネット終了に伴いANNフルネット局となった名古屋テレビに再移行し、名古屋テレビにおけるプロレス中継が1972年7月の『日本プロレス選手権特集』終了以来9か月ぶりに復活した。
  • 山形テレビ→山形放送→山形テレビ
    • 山形テレビはフジテレビ系列時代の1985年3月まで放送されていたが、編成上の都合で同年4月に山形放送(日本テレビ系列・テレビ朝日系列)へ放映権を移行したものの、1993年4月に行われた山形テレビのテレビ朝日系列へのネットチェンジに伴い再移行。
過去のネット局におけるケース
  • 秋田放送→秋田テレビ→秋田放送
    • 秋田放送は1986年9月まで遅れネットで放送されていたが、同年10月の月曜20時枠への移行とともに、当時月曜20時台がテレビ朝日系同時ネット枠だった秋田テレビ(フジテレビ系列・テレビ朝日系列)へ放映権を移行したものの、半年後の1987年4月に火曜20時枠への移行と秋田テレビのANN脱退・FNS再単独系列化に伴い秋田放送に再移行されたと同時に再度遅れネットへ変更され、1992年10月に秋田朝日放送開局に伴い秋田朝日放送へ再々移行。

現在放送している関連番組

過去の関連番組

  • 闘魂スーパーバトル(BS朝日)
    2005年 - 2008年。地上波中継を補完する意味合いでスタートした1時間番組。のちに中継から漏れたジュニアヘビー級に特化した編成に移行した。

脚注

  1. CS(衛星放送)の朝日ニュースター(2013年4月以降はテレ朝チャンネル2)では、『ワールドプロレスリングLIVE』として2012年5月から生中継を再開している(放送は不定期)。
  2. 日本テレビにおけるプロレス中継最長寿番組は『全日本プロレス中継』の27年9カ月。
  3. 3.0 3.1 『日本プロレス事件史 Vol.2』、P8
  4. 4.0 4.1 4.2 高木マニア堂東スポweb 2012年12月14日
  5. 5.0 5.1 『日本プロレス事件史 Vol.2』、P9
  6. 『日本プロレス事件史 Vol.2』、P11
  7. 7.0 7.1 『日本プロレス事件史 Vol.2』、P12
  8. 8.0 8.1 『日本プロレス事件史 Vol.2』、P13
  9. 『日本プロレス事件史 Vol.2』、P14 - P15
  10. 『日本プロレス事件史 Vol.2』、P18 - P19
  11. 11.0 11.1 AERA1998年3月23日号
  12. 12.0 12.1 『日本プロレス事件史 Vol.2』、P20
  13. 13.0 13.1 13.2 13.3 『日本プロレス事件史 Vol.12』、P15
  14. 14.0 14.1 『日本プロレス事件史 Vol.10』、P2 - P11
  15. 15.0 15.1 15.2 15.3 15.4 15.5 15.6 15.7 『日本プロレス事件史 Vol.2』、P24
  16. 『日本プロレス事件史 Vol.2』、P21
  17. 舟橋によると、1972年8月28日開催の「第2次サマー・ビッグ・シリーズ」大阪府堺市金岡体育館大会において、観客の入りが極端に少なかったために(主催者発表で2500人であったが実数はそれ以下であった)、NETや中継協力局であった毎日放送の中継スタッフを総動員してリングサイドに座らせた上で、中継用の照明を暗くして番組収録を行ったとされる。
  18. 18.0 18.1 大木金太郎との遺恨試合…坂口征二<1>YOMIURI ONLINE 2014年9月1日(2015年7月22日閲覧)
  19. 東京スポーツ 2009年11月25日付
  20. 20.0 20.1 『想い出のプロレス会場物語』P38 - P39
  21. NJPW 1972 Opening Series IIPuroresu.com 2018年4月25日閲覧
  22. NJPW 1972 New Summer SeriesPuroresu.com 2018年4月25日閲覧
  23. 『日本プロレス事件史 Vol.2』、P50
  24. 東京スポーツ・2009年12月2日付 6面 『格斗半世紀』第83回
  25. 日本プロレス崩壊への軌跡6 「三冠王坂口が無冠に、日本プロの坂口潰しの真相」ミック博士の昭和プロレス研究室
  26. 26.0 26.1 26.2 NJPW 1973 Big Fight SeriesPuroresu.com 2015年7月21日閲覧
  27. 『日本プロレス事件史 Vol.2』、P26
  28. 長谷川淳三社長はテレビ中継打ち切りと同時に興行活動を断念する意向を示したものの、大木ら選手会が選手会主催興行として興行を強行した。
  29. 日本プロレス崩壊当日は、新日本プロレスが蔵前国技館、全日本プロレスが新潟市体育館、国際プロレスが青森県八戸市体育館でそれぞれ興行を行っている。国際プロレスも、1974年3月にTBSによる『TWWAプロレス中継』が打ち切られ、同年10月から東京12チャンネルに放映権が移行したものの、1981年3月における試合中継(『国際プロレスアワー』)自体が打ち切られ、1981年8月に崩壊している。
  30. 裏目に出た猪木の改革への思い…グレート小鹿<3>”. YOMIURI ONLINE (2015年3月4日). . 2016閲覧.
  31. 分裂に向かう日本プロレス小鹿注意報!(グレート小鹿公式ブログ) 2006年6月25日
  32. 32.0 32.1 32.2 32.3 『日本プロレス事件史 Vol.2』、P30
  33. 『日本プロレス事件史 Vol.2』、P25
  34. 『想い出のプロレス会場物語』P84
  35. 35.0 35.1 『日本プロレス事件史 Vol.2』、P4
  36. 『想い出のプロレス会場物語』P24-25
  37. 37.0 37.1 当時の金曜日に行われる地方開催はANNフルネット局、他系列とのクロスネット局、日本テレビ系列非マストバイ局において放送されていた地域が多く、TBS系列やフジテレビ系列で放送されていた地域では金曜日に日程が組まれることは稀だった。極端な場合はANNフルネット局で行われた大会のみ金曜に日程が組まれることもあった。例として、「金8枠」終了直前のシリーズであった1986年の「バーニング・スピリット・イン・サマー」の地方開催における生中継の制作協力局は、名古屋テレビ(テレビ朝日系列)・テレビ信州(当時はテレビ朝日系列・日本テレビ系列)・秋田放送(日本テレビ系非マストバイ局)であった。
  38. 『日本プロレス事件史 Vol.8』、P63
  39. 地方の小会場で最終戦が行われた場合は、例外で最終戦直前の都内や大阪・福岡などの大会場の試合を録画中継していた。
  40. 広島ホームテレビでは、時折本番組を深夜枠等での遅れネットとした上で広島東洋カープ戦中継を県域ローカルで放送することがあった。
  41. 例外として、1982年10月8日にプロ野球セ・リーグの優勝争いに関わる横浜大洋ホエールズ読売ジャイアンツのナイター中継が組まれていたが、試合が雨天中止となったため、長州の造反劇を生放送で流すことができた。
  42. 田中ケロブログ「ケロぐ」2007年6月12日
  43. 日本プロレス中継の頃は、日本テレビの三菱ダイヤモンド・アワーの方式に同じく、メインイベントなどの前に行われた花束贈呈で、「試合に先立ちまして、(スポンサー社名)より、両選手・レフリーに花束の贈呈でございます…」と番組スポンサー協賛の読み上げが行われた。
  44. 44.0 44.1 『日本プロレス事件史 Vol.3』、P32
  45. NJPW 1985 Burning Spirit in AutumnPuroresu.com 2017年10月27日閲覧
  46. 46.0 46.1 『日本プロレス事件史 Vol.10』、P48
  47. 「ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング」の第1回では、以下のような演出が行われた。
    • クラッシャー・バンバン・ビガロ個人の、今でいう「煽りビデオ」を放映。ビル街のセットからビガロが顔を出して吼えるという、怪獣映画チックな作り。
    • 試合前の猪木の控室に、レポーターとして笑福亭笑瓶が登場。一通りインタビューを行ったが、その後スタジオから山田が「今日ビガロにかける技を笑瓶さんにかけてください」と呼びかけ、猪木を唖然とさせる。
    • 一方のビガロの控室では、藤井暁アナウンサーがビガロへのインタビューを試みたが、激高したビガロが、藤井のスーツの両袖部分を一気に引き裂き、さらに尻を蹴るという暴行を加えた。
    • 前月(1987年3月)の試合で猪木との遺恨が出来たマサ斎藤が、突如スタジオに現われ、手錠を片手に猪木との再戦をアピール。「こんなんで試合出来るか!?」と言いつつ、なぎら健壱に手錠をかけてその場を去っていった。
    • 会場での猪木の入場時に、花道はおろかエプロン下までスモークが焚かれる。
    なお、当時の東スポによれば、マサ斎藤はアメリカ流のプロパガンダ的なTVインタビューに慣れていたこともあって『ギブUPまで-』の開始に関しては「日本にもこういう番組が現われたか」と喜んでいたという。事実、その後もマサ斎藤は『ギブUPまで-』において幾度もインタビューをこなしており、自身の座右の銘という“Go for broke”もこの頃、インタビューのなかで吐いている。
  48. 試合中継のパートの途中で、スタジオにいる山田邦子を始めとする出演者の表情が、(いわゆるワイプではなく)一瞬アップで断続的に挟み込まれる演出は、当時のプロレス雑誌の読者欄に「山田邦子のギブアップ顔は見たくない!」という投書が寄せられるほど不評だった。また『ギブUPまで-』の第2回では、試合中継パートが事前収録でありながら、メインイベントの試合中に「ここで放送時間がなくなってしまいました!」と突然途中でカットしてしまうという、本末転倒な演出が行われた。
  49. 『日本プロレス事件史 vol.10』P58
  50. 土曜日の16:00 - 16:54という時間帯に移動したものの、移動から暫く後より、この時間帯を使って、不定期かつ単発という形でゴルフの各大会の中継が行われるようになり、さらにそれが度重なる状況になったため、その割を食う形で当番組が不規則な形で休止される機会が多くなった。当時の「週刊プロレス」誌には、読者コーナー「あぶない木曜日」にて、ゴルフ中継を渋い顔で見ているファンの絵に「鬼のテレ朝!冷血な10チャン!」という一文が添えられた投書が大きく取り上げられたり、また、やはり不規則な休止に不満を持っていたという、当時のリングアナウンサー・田中秀和が、地方大会のMCで「この次の土曜日は…ゴルフを見ていただきます」と口にしたという話が伝えられていた。
  51. 前述の年6回の特番に関しては番組解説者でもある安田拡了が発言したものであるが縮小以後はせいぜい年1回特番を放送する程であり、安田の創作である可能性も指摘されている。
  52. 「プロレスリング・ノア中継」の終了に伴い、ANNフルネット局がない地域では地上波の全国ネットのプロレス中継が視聴できなくなってしまった。
  53. タイガーマスク アニメで34年半ぶり復活 テレ朝、新日と完全連動デイリースポーツ 2016年9月7日
  54. 現在では、この番組をプロデューサー担当している。
  55. 実際には、2012年7月1日に行われた『全日本プロレス新日本プロレス創立40周年記念興行』での実況が最後の出演である。
  56. 大会の開場時にも使用されている。
  57. 2012年5月5日 - 8月11日まで『日食なつこのコトテン』が放送されたため、5分繰り下がった。
  58. 58.0 58.1 番組開始(1969年7月) - 1969年10月初旬は、メ〜テレにて数日遅れのネットで放送されていた(土曜 22:30 - 23:30、同年7月12日 - 10月4日)。1969年10月8日から、中京テレビにてキー局と同時ネット。
  59. 第2日曜は2:15 - 2:45。
  60. 2018年3月(本番組の2017年度最終放送日)までは、同年4月1日の認定放送持株会社移行に伴う商号変更並びに分社化前のため、朝日放送。
  61. 2011年3月以前は日曜深夜に放送されていたが、編成の都合で放送時間が不定期に近かった。
  62. 当初はテレビ高知でネットを開始し、後に高知放送へ放映権移行。2014年10月5日から高知県における放送が29年ぶりに再開。
  63. 63.0 63.1 青森テレビ・テレビ山口開局後も「ナショナル劇場」(『水戸黄門』他)のネット受けが青森テレビのANN脱退・JNN正式加盟、テレビ山口のANN脱退まで青森放送・山口放送で継続されたため、青森テレビは月曜20時台の時代は同時ネットで、テレビ山口は金曜20時台の時代は3日遅れの月曜日20:00枠でそれぞれ放送された。
  64. 1970年代末期まではネット局に名前を確認できる。後年のIBCでのネット開始までは、岩手は当番組について長らく空白地区となった。
  65. 当初はテレビ岩手で放送されていたが、テレビ岩手のテレビ朝日系列脱退に伴う途中打ち切り後は放送空白期間となった。IBC岩手放送が1983年から深夜で時差ネット再開したが、岩手朝日テレビへのテレビ朝日系番組の移行準備のため、IBC岩手放送が放送していた他のテレビ朝日系番組と同様に1996年3月に途中打ち切り。
  66. 静岡県民放送(現:静岡朝日テレビ)開局後もスポンサーの関係で10月改編まで引き続き放送した。
  67. これに先駆けて静岡放送では、1970年8月29日(土)15:00 - 15:56に「特別番組 『日本プロレス サマー・ビッグ・シリーズ』」が放映されている。同年8月24日(月)に静岡県・焼津スケートセンターで行われた大会より、アントニオ猪木、星野勘太郎組vsアブドーラ・ザ・ブッチャー、プリンス・ピューリン組及び、坂口征二vsカール・ハイジンガーを録画にて放送したもの。これはキー局において、同年8月24日(月)に生中継という形で放送された、当番組と同じ内容である(当時の新聞のテレビ番組表では、猪木のパートナーは大木金太郎となっているが、実際には星野とのタッグで出場した)。なお、土曜15:00 - 15:56という時間帯は、そのまま同年10月から、同局での当番組の枠として使用された。
  68. 石川テレビは、新日本プロレスの中継に移行した頃から時差ネットを行っていた。なお北陸放送は、石川テレビの打ち切りでネットの空白期間があった際、金沢市での試合の中継についてのみ、単発で放映した経験あり(当時の週刊プロレスに、そうした内容の情報が掲載)。
  69. 1969年7月 - 10月の名古屋テレビでは土曜22:30から。7月12日に開始、10月4日に終了。中京テレビでの開始は10月8日から。
  70. 1979年3月までの放送エリアは岡山県のみ。
  71. 2017年現在も、新日本プロレスの広島県での興行時に、テレビ朝日・広島ホームテレビとともに後援に名を連ねている。
  72. 開局当時は同時ネットだったがのちに日曜10:05 - 11:00に遅れネット
  73. 中京広域圏は名古屋テレビにおける『日本プロレス中継』終了と同時にジャイアント馬場の試合の放映権が中京テレビへ完全に移行。山形県におけるブルーザー・ブロディの試合の放送は、山形放送への放映権移行直前にブロディが新日本プロレスに移籍したため、一貫して山形放送での放送となった。
  74. BS朝日 - ワールドプロレスリング・リターンズ 番組公式サイト

関連項目

  • アメーバピグ - おでかけエリアの「テレビ朝日ランド」内にワールドプロレスリングを題材にした「プロレス広場」がある。
  • 新日本プロレスワールド - 新日本プロレスとテレビ朝日による有料動画配信サービス。過去のワールドプロレスリングの試合映像の配信に加え、注目大会の生配信も行われる(ビッグマッチはスカチャンPPVもしくはテレ朝チャンネル2「ワールドプロレスリングLIVE」との同時放送。FIGHTING TV サムライでの生中継試合はサムライTVと同内容での配信。一部ビックマッチはワールド独占生配信(テレビ朝日制作)。前哨戦の一部は定点カメラによる実況なしでの配信)
  • AbemaTV - サイバーエージェントとテレビ朝日による無料動画配信サービス。格闘チャンネルで主要大会の映像が全試合配信されているが、一部入場曲は著作権上の理由により、挿し替えになっている。

参考文献

  • 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 Vol.2』 ベースボール・マガジン社、2014年。ISBN 9784583621876。
  • 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 Vol.3』 ベースボール・マガジン社、2014年。ISBN 9784583622026。
  • 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 Vol.8』 ベースボール・マガジン社、2015年。ISBN 9784583622699。
  • 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 Vol.10』 ベースボール・マガジン社、2015年。ISBN 9784583622996。
  • 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 Vol.12』 ベースボール・マガジン社、2015年。ISBN 9784583623252。
  • 『想い出のプロレス会場物語』 ベースボール・マガジン社、2016年。ISBN 9784583624372。

外部リンク

NET系列 水曜21時台
前番組 番組名 次番組
NETワールドプロレスリング
(1969年7月 - 1970年3月)
NET系列 月曜20時台
NETワールドプロレスリング
(1970年4月 - 1972年9月)
NET→テレビ朝日系列 金曜20時台
洋画特別席
(19:30 - 20:56)
日本プロレスリング中継

ワールドプロレスリング(新日版)
(1972年7月 - 1986年9月)
NET 金曜20:55 - 20:56
洋画特別席
(19:30 - 20:56)
日本プロレスリング中継
(1972年7月 - 1972年9月)
【1分縮小して継続】
ANNニュース
(20:55 - 21:00)
【1分拡大して継続】
NET 金曜20:54 - 20:55
日本プロレスリング中継
(20:00 - 20:56)
日本プロレスリング中継

ワールドプロレスリング(新日版)
(1972年10月 - 1975年9月)
【さらに1分縮小して継続】
ANNニュース
(20:54 - 21:00)
【さらに1分拡大して継続】
テレビ朝日系列 月曜20時台
予告
(20:00 - 20:02)
月曜ワイド劇場
(20:02 - 21:48)
ワールドプロレスリング(新日版)
(1986年10月 - 1987年3月)
ナイトライダー
(水曜21:00より移動)
テレビ朝日系列 火曜20時台
ギブUPまで待てない!!
ワールドプロレスリング
(1987年4月 - 1987年9月)
テレビ朝日系列 月曜20時台
ナイトライダー
(水曜21:00へ移動)
ワールドプロレスリング(新日版)
(1987年10月 - 1988年3月)
テレビ朝日 土曜16時台
'88ワールドプロレスリング

ワールドプロレスリング(新日版)
(1988年4月 - 1994年3月)
(単発枠)

テンプレート:新日本プロレス テンプレート:古舘伊知郎