七人の侍

提供: miniwiki
2018/10/14/ (日) 01:45時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版 (1版 をインポートしました)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先:案内検索
七人の侍
監督 黒澤明
脚本 黒澤明
橋本忍
小国英雄
製作 本木莊二郎
出演者 三船敏郎
志村喬
津島恵子
木村功
加東大介
宮口精二
稲葉義男
千秋実
土屋嘉男
藤原釜足
高堂国典
島崎雪子
音楽 早坂文雄
撮影 中井朝一
編集 岩下広一
製作会社 東宝
配給 日本の旗 東宝
公開 日本の旗 1954年4月26日
イタリアの旗 1954年8月
フランスの旗 1955年11月30日
アメリカ合衆国の旗 1956年7月
上映時間 207分(オリジナル版)
160分(短縮版)
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
製作費 2億1,000万円(当時の金額で)
配給収入 2億6,823万円[1]
テンプレートを表示

七人の侍』(しちにんのさむらい)は、1954年昭和29年)4月26日に公開された日本映画である。東宝製作・配給。監督は黒澤明、主演は三船敏郎志村喬モノクロスタンダード・サイズ、207分。

当時の通常作品の7倍ほどに匹敵する製作費をかけ、何千人ものスタッフ・キャストを動員、1年余りの撮影期間がかかったが、興行的には成功し、700万人の観客動員を記録した。日本の戦国時代(劇中の台詞によると1586年[2])を舞台とし、野武士の略奪により困窮した百姓に雇われる形で集った7人のが、身分差による軋轢を乗り越えながら協力して野武士の一団と戦う物語。

黒澤明が初めてマルチカム方式(複数のカメラで同時に撮影する方式〈英語版〉)を採用し、望遠レンズを多用した。ダイナミックな編集を駆使して、豪雨の決戦シーン等迫力あるアクションシーンを生み出した。さらにその技術と共に、脚本、綿密な時代考証等により、アクション映画・時代劇におけるリアリズムを確立した。

黒澤明が尊敬するジョン・フォード西部劇から影響を受け、この作品自体も世界の映画人・映画作品に多大な影響を与えた。1960年にはアメリカ合衆国で『荒野の七人[3]として、2016年には『マグニフィセント・セブン[4]としてリメイクされている。ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞。

概要・あらすじ

前半部と後半部の間に5分間のインターミッション(途中休憩)を含む上映形式。前半部では主に侍集めと戦の準備が、後半部では野武士との本格的な決戦が描かれるが、「侍集め」、「戦闘の準備(侍と百姓の交流)」、「野武士との戦い」が時間的にほぼ均等で、構成的には3部形式であるという見方もできる。

前編

戦国時代末期のとある山間の農村。村人たちは戦によりあぶれて盗賊と化した野武士(百姓たちは「野伏せり」と呼ぶ)たちに、は始終おびえていた。春、山で野武士達の話を盗み聞いた者がおり、その年も麦が実ると同時に、40騎の野武士達が村へ略奪に来ることが判明する。これまでの経験から代官は今回も頼りにならないことは明白であり、村人たちは絶望のどん底に叩き落とされていたが、若い百姓の利吉は、野武士と戦うことを主張する。村人たちは怖気づいて反対するが、長老儀作は戦うことを選択し、「食い詰めて腹を空かした侍」を雇うことを提案する。

力を貸してくれる侍を求めて宿場町に出た利吉・茂助万造与平の4人は、木賃宿に滞在しながら白米を腹いっぱい食わせることを条件として侍らに声をかけるが、ことごとく断られ途方にくれる。そんな中、近隣の農家に盗賊が押し入り、子供を人質にとって立てこもる事件が発生する。周囲の者が手をこまねく中、通りかかった初老の侍がに扮して乗り込み、子供を救い出すと同時に盗賊を斬り捨てる。侍は勘兵衛という浪人で、騒ぎを見ていた得体の知れない浪人風の男が絡んだり、若侍の勝四郎が弟子入り志願したりする中、利吉が野武士退治を頼みこむ。勘兵衛は飯を食わせるだけでは無理だと一蹴、村の概要を聞くに仮にやるとしても、侍が7人は必要だという。しかし、これを聞いていた同宿の人足が、これまで利吉ら百姓を馬鹿にしていたにもかかわらず、百姓の苦衷を分かっていながら行動しない勘兵衛を詰る。勘兵衛は翻意して、この困難かつ金や出世とは無縁の依頼を引き受けることを決意する。「この飯、おろそかには食わんぞ」

共に闘う侍を求める勘兵衛の下に、勘兵衛の人柄に惹かれたという五郎兵衛、勘兵衛のかつての相棒七郎次、気さくなふざけ屋の平八剣術に秀でた久蔵が集う。さらに利吉達の強い願いで、まだ子供だとして数に入っていなかった勝四郎も6人目として迎えられる。7人目をあきらめて村に翌日出立しようとしたところに、例の得体の知れない浪人風の男が泥酔して現れる。男は家系図を手に菊千代と名乗り侍であることを主張するが、勘兵衛らに出自を偽っていることを見破られてからかわれる。勘兵衛らは菊千代を相手にしないまま村に向かうが、菊千代は勝手について来る。

一行は村に到着するが、先に帰ってきていた万造が「侍が来たら何をされるかわからない」と、強制的に娘の志乃の髪を切って男装させてしまったのもあって、村人は怯えて姿を見せようとしない。が、危急を知らせる盤木の音が鳴り響くや、野武士襲来と勘違いした村人は一斉に家を飛び出し侍に助けを求める。これは菊千代の仕業であった。顔合わせを成立させたことで、菊千代は侍の7人目として認められる。勘兵衛たちは村の周囲を巡り、村の防御方法を考案し、百姓たちも戦いの為に組分けされ、侍達の指導により鍛え上げられる。一方、勝四郎は山の中で男装させられていた志乃と出会い、互いに惹かれてゆく。そんな折、菊千代が村人らから集めたを侍らの元に持ち込んでくる。それは村人が落ち武者狩りによって入手したものだった。負け戦での辛酸を舐めてきた侍たちはこれを見て気色ばむが、菊千代は「お前たち、百姓を仏様だと思っていたか!百姓ほど悪ズレした生き物はないんだ!でもそうさせたのはお前ら侍だ!」と激昂する。菊千代は、侍にあこがれ村を飛び出した農民だったのだ。彼の出自と農民の事情を察した侍達は怒りを収める。

村人は侍の指導の下で村の防衛線を固めるが、村はずれの数軒の家はどうしても防衛線の外になってしまう。守りきれない離れ家は引き払って欲しいとの申し出を聞いた茂助は、自分たちの家だけを守ろうと結束を乱す。それに対し勘兵衛は抜刀して追い立て、村人に改めて戦の心構えを説く。

後編

初夏、麦刈りが行われ、しばしの平和な時も束の間、ついに物見(偵察)の野武士が現れる。物見を捕らえ、本拠のありかを聞き出した侍達は、先手を打つため利吉の案内で野武士の本拠へと赴き、焼き討ちを図る。侍たちはあぶりだされた野武士を切り伏せ、囲われていた女たちを逃すが、その中の美しく着飾ったひとりは、野武士に談合の代償に奪われた利吉の女房だった。利吉の姿に気づいた彼女は火の中へ再び飛び込む。それを追おうとする利吉を取り押さえた平八は野武士の銃弾に倒れる。村に戻り、皆が平八の死を悼む中、菊千代は平八が作り上げた旗を村の中心に高く掲げる。それと同時に野武士達が村へ来襲、戦いの幕が切って落とされる。

築いた柵と堀によって野武士の侵入は防がれたものの、離れ家と長老の水車小屋には次々と火が放たれる。水車小屋から動こうとしない儀作を引き戻そうとした息子夫婦も野武士の手にかかる。唯一助かった赤子を抱き上げる菊千代は「こいつは俺だ」と号泣する。

夜半から朝へと時は流れる中、勘兵衛の地形を生かした作戦が功を奏し、侍と村人は野武士を分断し徐々にその数を減らしていく。しかし、種子島(火縄銃)をひとりで分捕ってきた久蔵を勝四郎が「本当の侍」と評したことから、菊千代は対抗意識から持ち場を離れ、単独で野武士を襲撃する。菊千代は種子島を持ち帰って来たものの、不在にしていた持ち場が野武士による襲撃を受け、さらに野武士の流鏑馬騎射兵)が村に入り込んだため、与平を含む多くの村人が戦死し、侍のうち五郎兵衛も斃れる。

日が暮れ戦いは一時やむ。相次ぐ戦いで村人らも疲弊するが、数を減らされ追い詰められて焦っている野武士達も明日は死に物狂いで来るだろうことが予想された。その夜、勝四郎は志乃に誘われ初めて体を重ねる。その場を見咎めた万造が激高し騒動となるが、妻を亡った利吉が野武士にくれてやったのとは訳が違うと万造に一喝して場を収める。

夜が明けると、豪雨の中、残る13騎の野武士が襲来する。あえてこれらをすべて村に入れ、決戦が始まる。野武士らは1騎また1騎と討ち取られていくが、野武士の頭目は逃れて村の女子供が隠れていた小屋に入り込む。大勢が決したころ、久蔵が小屋に潜んでいた頭目が放った銃弾によって斃れる。続いて菊千代も撃たれるが、菊千代は鬼気迫る迫力で追いつめた頭目を刺し殺し、自らもその場で果て、野武士はついに壊滅する。

野武士を撃退した村には日常が戻り、晴れ空の下で村人は笛や太鼓で囃しながら田植にいそしむ。活力に満ちて新たな生活を切り拓いていく村人たちとは対照的に、その様子を見つめる生き残った3人の侍の表情は浮かない。侍たちの横を田植に向かう村の娘たちが通り過ぎていく。その中に志乃がおり、勝四郎を見て躊躇うが、何も言わずに振り切って田に駆け込む。そのまま田植歌を口ずさみながら、勝四郎を忘れるように志乃は一心に苗を植えていく。

勘兵衛がつぶやく。

「今度もまた、負け戦だったな」

怪訝な顔をする七郎次に対して「勝ったのはあの百姓たちだ、わしたちではない」と述べて勘兵衛は丘を見上げる。その上には、墓標代わりに刀が突きたてられた4つの土饅頭があった。

登場人物

ファイル:TOHO STUDIOS Seven Samurai.JPG
東宝スタジオの壁面に描かれた七人の侍。
左から、五郎兵衛・菊千代・七郎次・平八(奥)・勝四郎(手前)・勘兵衛・久蔵。

七人の侍

島田勘兵衛{{safesubst
#invoke:Anchor|main}}(しまだかんべえ)
演:志村喬
7人の侍を率いることになる浪人。そろそろ50に手が届く白髪の目立つ風貌。歴戦の智将だが、合戦は敗戦続きで浪人となる。普段は笑顔が多く、温厚で冷静沈着だが、リーダーとして鋭く叱責することもある。また若い頃の「一国一城の主」という志も肉体的、年齢的に既に叶わぬ己の身に一抹の憂いを見せる場面もある。剃髪した頭をなでるのが癖。
剃髪して僧に成りすまし、豪農の子供を盗人から無償で救ったことで利吉達に助けを求められる。当初は「できぬ相談」と拒んでいたが、百姓の犠牲的な熱意や人足の言葉に負け、引き受ける。野武士との戦では地形を生かした策を繰り広げ、戦いを有利に進める。
本朝武芸小伝』にある上泉信綱の強盗から子供を救出する逸話を映像化している(上泉信綱の逸話では強盗さえ殺さずに救出するが、この映画では強盗を斬っているという違いがある)。向かってくる騎馬武者を一刀で叩き斬ったり、最終決戦において村に突入してきた騎馬を、豪雨の中しぶきを飛ばしながら弓で次々に射落すなど個人的な戦闘能力も見せる。 衣装は平造・合口拵えの短刀に、打刀拵え太刀と、戦国時代後期の初老の侍のいでたちをしている。
菊千代(きくちよ)
演:三船敏郎
勘兵衛の強さに惹かれ勝手についてくる山犬のような男。弟子入りしたいが、作法が分からず、勝四郎に先を越されてしまう。長大な刀を肩に担いで浪人のように振舞っているが、侍としてあるまじき無礼や、前後不覚の泥酔状態になったりと、勘兵衛には即座に侍ではないと見破られている。
百姓の出で、戦禍で親を失い孤児として育つ。「菊千代」という名前は勘兵衛に侍だと思われたいがために、泥酔しながら、盗んだ武家の家系図の上に指し示した元服前の子供の名前で、後に仲間として受け入れられた時にそのまま定着する。
型破りの乱暴者だが子供好きであるらしく、村の子供たちの前でおどけて見せるシーンも多い。野武士との戦では東の川沿いの守りを任される。抜け駆けせんと持ち場を離れた結果、五郎兵衛や与平を戦死させた為、最後の決戦では、勘兵衛の指示を守りながら爆発的な働きを見せる。額当てのように、篭手を頭に巻く。
基本的にコメディ・リリーフであるが、自らの失策で相棒の与平を死なせてから、悲壮感が漂うようになる。
当初は膳兵衛という名前で、戦国が生んだ鬼という久蔵に似た暗いキャラクターとして描かれていたが、黒澤明が侍の中に型破りで明るく、また侍と百姓をつなぐキャラクターが欲しいという要望で、三船敏郎の性格をモデルに菊千代へとキャラクターが変更された。 その三船敏郎は脚本に軽く目を通した際、黒澤明に向かって「この菊千代というのが僕ですね」と配役も告げていない段階で言い当てた。
7人の中で最も多く野武士を倒している(頭目を含む)、ある意味、最強の男である。黒澤明の三船敏郎に対する配慮が窺える。
黒澤明が「用心棒」、「椿三十郎」に先駆け、三船敏郎に演じさせた最初の名無しの権兵衛である。
岡本勝四郎{{safesubst
#invoke:Anchor|main}}(おかもとかつしろう)
演:木村功
育ちがいい裕福な郷士の末子で半人前の浪人。7人の中では最年少で、まだ前髪も下ろしていない。浪人になりたいと親に頼んでも許されないので家を飛び出して旅をしている。勘兵衛の姿に憧れて付いて行こうとするが、勘兵衛に浪人の辛い現実を教えられ一時動揺する。実戦経験はなく、すべてが新しい経験ばかりで、事件を若々しい敏感な感情で受け取る。野武士との戦では伝令役を任される。
敬愛する久蔵の死に仇を討とうとするも菊千代に制され、結果、2人の生死を分けることになる。そして、やり場のない怒りにただ、号泣する。
森の中で百姓の娘の志乃と出会い、互いに惹かれ合う。
片山五郎兵衛{{safesubst
#invoke:Anchor|main}}(かたやまごろべえ)
演:稲葉義男
勘兵衛が腕試しのために仕掛けた待ち伏せを事前に一目で見抜いた。勘兵衛の人柄に惹かれて助力する浪人。いつでも静かでおだやかだが、その物柔らかさの下に何か人をなだめるような力がある。軍学は相当でき、経験も豊富。野武士との戦では勘兵衛の参謀役を務める。
腕試しを見抜くシーンは塚原卜伝のエピソードをモデルにしている。
七郎次(しちろうじ)
演:加東大介
かつての勘兵衛の最も忠実な家臣。過去の戦(負け戦)で勘兵衛と離れ離れになった後、物売りとして過ごしていた。再会時には勘兵衛の顔付きだけでその求むところを知り、ただちにそれに従って動く。
村に、落ち武者狩りによる武具があるのを見たときは真っ先に激昂したが、戦の最中は百姓たちを常に励まし、自分の組に入った万造への気遣いも見せる。野武士との戦では西の入り口の守りを受け持ち、侍たちの中で唯一長を振るう。
林田平八{{safesubst
#invoke:Anchor|main}}(はやしだへいはち)
演:千秋実
苦境の中でも深刻にならない、愛想の良い浪人。明るく柔軟で人懐っこく、よく冗談を言う。茶店で代金代わりに薪割りをしているところを五郎兵衛に誘われる。武士としての腕は少し心もとなく、五郎兵衛はその腕を「中の下」と評した。頑なな心の利吉を気遣い、結果野武士に狙撃され最初の犠牲者となる。
「戦に何か高く翻げるものがないと寂しい」と、百姓を表す「た」の字と侍を表す○を6つ、菊千代を表す△を1つ描いたを作る。
久蔵(きゅうぞう)
演:宮口精二
修業の旅を続ける凄腕の剣客。勘兵衛の誘いを1度は断ったものの、気が変わり加わる。勘兵衛は「己をたたき上げる、ただそれだけに凝り固まった奴」と評し、口数が少なくあまり感情を表さないが、根は優しいという側面を多々見せる。野武士との戦では北の裏山の守りを受け持つ。「肩衣」はつけておらず、合戦時も他の侍と異なり、籠手(こて)や額当(勘兵衛。菊千代は半首)、腹巻(勝四郎)・腹当などの防具は着用していない[5]。黙々と自分の役目をこなし、危険な仕事も率先して受け持ち確実に成果を上げる姿を、勝四郎は「素晴らしい人」と絶賛した。
宮本武蔵もしくは柳生三厳がモデルで、初登場シーンにおける浪人との果し合いは三厳のエピソードをモデルとしている。
イメージキャストは三船敏郎である。

村の百姓

儀作(ぎさく)
演:高堂国典
離れの水車小屋に住む長老。百姓たちには「じさま(爺様)」と呼ばれており、村の知恵袋的存在。利吉の野武士と戦う提案に侍を雇うことを教える(侍を雇い野武士を退けた村の事例を知っていたため)。最期まで水車小屋から離れる事を頑なに拒み、野武士襲撃の際に燃え盛る水車小屋と運命を共にする。
利吉(りきち)
演:土屋嘉男
年若の百姓。迫り来る野武士と戦おうと、絶望する皆の前で真っ先に言い出し、儀作の教えで浪人探しに町へ出る。侍探しには最も積極的。女房を野武士にさらわれたことで野武士に強い恨みを持っているが、感情を押し殺す性格で常に険しい表情をしており、平八に気遣われながらも心を閉ざし続ける。村に着いた侍たちに家を明け渡し、炊事等の世話役を務める。
茂助(もすけ)
演:小杉義男
壮年の百姓。利吉たちと共に浪人探しに出る。普段は百姓達のまとめ役でしっかり者だが、防御線の外にある自分の家を捨てねばならないと知った時は猛反発して独断行動をとる事もあった。しかし勘兵衛の大喝によって泣く泣く家をあきらめ、村を守る為に奔走する。合戦時は久蔵の組に入る。
万造(まんぞう)
演:藤原釜足
壮年の百姓。志乃の父。自己保身ばかり考えており、すぐにふてくされる、身勝手な性格。野武士と戦うことに消極的だが儀作の提案で嫌々浪人探しに町へ出る。
利吉とは何かと折り合いが悪く、積極的な利吉に毒を吐いて喧嘩になることが多い。
利吉の女房の二の舞を危惧し、親心から娘を守ろうと、泣き叫び抵抗する志乃の髪を切って無理矢理男装させるが、それが原因で村中騒然となる。勘兵衛ら侍達にも娘を取られるのではと警戒しており、志乃を男装させたままにする。合戦時は七郎次の組に入る。
与平(よへい)
演:左卜全
やや鈍く、間の抜けた中年の百姓。意気地がなく、すぐに泣きべそをかく上に、失敗が多い。利吉たちと共に浪人探しに町へ出る。合戦時には菊千代の組に入る。菊千代には「阿呆」呼ばわりされ、小突かれながらも親しい間柄となる。痩せ馬を一頭持っており、後に菊千代が乗ることになる。
合戦時の合間に菊千代が持ち場を離れたため、再び襲ってきた野武士に防具の無い背後から弓で襲われて死亡する。(ただし、シナリオの決定稿では死ぬことはなく、ラストの田植えにも参加している)与平の死は菊千代の心境に大きな変化をもたらす。
志乃(しの)
演:津島恵子
万造の娘。万造の手により髪を切られ男装することになる。勝四郎に思いを寄せる。素朴で純情な少女だが、情熱的なものを内に秘めている。
利吉の女房
演:島崎雪子
収穫物を野武士に強奪される代わりとして、村から人身御供で差し出された女性。野武士の山塞に囚われの身となり慰み者にされる。菊千代らの手によって火が放たれた際に、火に気付くと叫んだり逃げたりもせず凄味のある笑みを浮かべた。幽鬼のような状態で外に出てくるが、眼前に現れた夫・利吉に驚き、焼け崩れる山塞の中に走り姿を消す。出番は非常に少ないが、オープニングの出演者クレジットでは、津島恵子と共に2番手に表記されている(七人の侍役キャストでは、志村・三船が1番手、加東・千秋・宮口・木村が3番手、稲葉のみ4番手グループだが、代わりに藤原が3番手グループに表記されている)。
伍作(ごさく)
演:榊田敬二
芝刈りの最中に野武士を最初に目撃する村人。
儀作の息子夫婦
演:熊谷二良(息子)、登山晴子(息子の嫁)
儀作と暮らす夫婦で、赤子が一人いる。戦の始まりとともに水車小屋に篭った儀作を連れ戻そうとして野武士に襲われ、助けに来た菊千代に赤子を託して絶命する。
久右エ門の婆様
演:自称、トメさん(ロケ地近くの老人ホームの入居者で本名不詳)声:三好栄子
かつて野武士に家族を殺された老女。捕えられた野武士の斥候に鍬で一撃する。
演じたトメさんはB-29による空襲で家族を失ったという全く同じ境遇の人物で撮影中もスタッフが懸命にセリフを覚えさせたが、本番になると「Bが、Bが」と繰り返し、スタッフを困らせた。しかし、黒澤は「これがいい」といって、セリフだけ三好栄子にアフレコをさせた。
完成の遅れから、トメさんは作品を見ることなく世を去った。
その他
百姓:峰三平、松下正秀、池田兼雄、川越一平鈴川二郎夏木順平、神山恭一、鈴木治夫、天野五郎、吉頂寺晃岩本弘司山田彰今井和雄中西英介伊原徳大塚秀雄大江秀大西康雄、下田巡、河辺昌義、加藤茂雄川又吉一篠原正記※、松本光男※、海上日出男
百姓女:本間文子、小野松枝、一万慈多鶴恵、大城政子、小沢経子、須川操、高原とり子
百姓の娘:上遠野路子、中野俊子、東静子森啓子、河辺美智子、戸川夕子、北野八代子記平佳枝

町の登場人物

人足
演:多々良純(人足A)、堺左千夫(人足B)、関猛(人足C)
仕事がなく、木賃宿でずっと飲んだくれて博打を打っている。Aは口数が多く、侍を雇うという利吉達の提案を馬鹿にして、嫌味をずっと言っている。しかし勘兵衛が利吉たちの頼みに断りを入れて立ち去ろうとする時、一肌脱ぎ、勘兵衛が野武士退治を引き受けるきっかけを作り、その後も他の人足達と一緒に、菊千代を木賃宿に連れて来るなど、協力している。
饅頭売
演:渡辺篤
木賃宿で売れ残った饅頭を売ろうとするが、誰にも相手にされず、結局自分で饅頭を自棄食いした。
琵琶法師
演:上山草人
木賃宿の客で、周りでどんな騒ぎがあろうとも黙々と琵琶を弾いている。
僧侶
演:千葉一郎
盗賊の人質となった子供を助けるために僧侶の格好になる勘兵衛の剃髪を行い、袈裟や数珠を貸す。
盗人
演:東野英治郎
豪農家の子供を人質に小屋に立てこもる。しかし、勘兵衛の策略にまんまと引っ掛かり斬られる。
強そうな浪人
演:山形勲
かなりの腕前のある浪人で、勘兵衛の浪人集めの試験に合格するが報酬がないことに腹を立てて「自分の志はもうちょっと高い」と言って拒否する。
果し合いの浪人
演:牧壮吉
久蔵と竹刀で果たし合いをして相打ちとなるが、真剣で勝負を挑もうとする。しかし、久蔵に「真剣ならば貴様は死ぬ」と言われ逆上しながら自信満々で挑み、斬られてしまう。
利吉を蹴飛ばす浪人
演:清水元
利吉らが最初にオファーした長槍を持った浪人。「貴様らの施しは受けん!」と言って利吉を蹴飛ばし、最後に「たわけ」と吐き捨ててその場を去った。
茶屋の親爺
演:杉寛
自分の茶店で休憩をとる五郎兵衛に、駄賃の代わりに薪割りをさせている平八を紹介する。
弱い浪人
演:林幹
木賃宿の客の一人。侍が見つからなくて困っている利吉達に名乗りを上げるが、人足たちに弱いことをからかわれて諦める。
豪農家の一家
演:小川虎之助(祖父)、千石規子(娘)、安芸津広(亭主)
子供が盗賊の人質に遭った豪農家の家族。
その他
豪農の前の百姓:堤康久片桐常雄岡豊
豪農の前の百姓女:馬野都留子
町を歩く浪人:仲代達矢※、宇津井健※、加藤武

野武士

野武士の頭目
演:高木新平
四十人の野武士集団を率いる。
副頭目
演:大友伸
片目に眼帯をつけた男。雨中の決戦にて、わずかな隙を衝かれ久蔵に斬られる。
斥候
演:上田吉二郎(斥候A)、谷晃(斥候B)、中島春雄(斥候C)
村を偵察に来たところをBとCは待ち伏せしていた久蔵に斬られ、Aは捕縛されて村へ連れて行かれる。百姓たちに殺されそうになったところを「敵の情報を話した上こうやった命乞いしている者を無下にはできない」と勘兵衛に庇われるが、久右エ門の婆様に倅の仇として討たれる。
鉄砲の野武士
演:高原駿雄
味方のふりをして近づいてきた菊千代に斬られて、種子島(鉄砲)を奪われる。
その他
屋根の野武士:大久保正信
離脱する野武士:大村千吉、成田孝
野武士:西條悦郎伊藤実坂本晴哉、桜井巨郎、渋谷英男鴨田清広瀬正一宇野晃司橘正晃坪野鎌之、中恭二、宮川珍男兒、砂川繁視草間璋夫、天見竜太郎、三上淳
※は、ノンクレジット

スタッフ

製作

撮影に入るまで

黒澤は『生きる』に続く作品に時代劇を撮る予定であった。それまでの時代劇は歌舞伎などの影響を受けすぎており、黒澤はこれまでの時代劇を根底から覆すリアルな作品を撮ることを考え、橋本忍にシナリオ初稿の執筆を依頼。まず、城勤めの下級武士の平凡な一日がストーリーの根幹になる物語『侍の一日』を検討したが、橋本が武士の日常の詳細を調べるために国立国会図書館支部上野図書館に通っていたところ、「当時の武士の昼食は、弁当持参だったのか、給食が出たのか」「当時は1日2食であり、昼食を摂る習慣はなかったのではないか」等の疑問が解決できなかったため、「物語のリアリティが保てない」という理由で断念した。

次に上泉信綱などの剣豪伝をオムニバスで描く作品を考え、橋本が脚本初稿を執筆したが、「クライマックスの連続では映画にならない」とこれも断念。本作の誕生までに二度の流産を経ていたことになる。ちなみにこの脚本で描かれた剣豪たちのキャラクターは、この作品の七人の侍達の設定に生かされることとなった。その後、戦国時代の浪人は武者修行の折りにどうやって食べていけるのかを調べていったところ、農民達に飯と宿を与えてもらう代わりに寝ずの番をして「ヤカラ」から村を守るという話が出てきたため、「武士を雇う農民」をストーリーの根幹に据えることとなった[6]。そしてこれを基に1952年12月に小国英雄を加え、3名は熱海の旅館「水口園」に投宿して共同執筆に入った[7]

当初は志村喬扮するリーダーの勘兵衛と、三船敏郎扮する最強の侍、久蔵の生きざまを勝四郎の視点で悲恋を交えて描いた黒澤得意の師弟物語という構想であったが、三船の演じるキャラクターの変更に伴い、物語の主眼も変わり、二人の師匠から、二人の弟子の生き死にという構図となる。本編上でも菊千代がいなければ、三船の久蔵が最後に登場、仲間入りし、討ち死にするという構成になっていることが分かる。

3人は45日間「水口園」に閉じこもって脚本を書いていたのだが、その緊迫感はお茶を運びに来た女中も怖くて声をかけられないほどであった。七人の侍のキャラクターのイメージは大学ノート数冊にびっしりと書かれていたという。主に黒澤と橋本が同じシーンを競作(コンペ)したものを小國がジャッジし、出来の良かった方が採用されるという、極めてシビアな執筆活動であった。

黒澤は、この映画を何十回も見たという井上ひさしとの対談で、どうやったらこのような絶妙なシナリオが書けるのか問われると、この脚本の根底にあるのはトルストイの『戦争と平和』である。その中からいろいろなことを学んでいる。また、アレクサンドル・ファジェーエフの『壊滅』も下敷きになっていると答えた[8]

黒澤は日本画壇の長老前田青邨を美術監修に迎えた[7](青邨はクレジットされていない)。青邨は「(歌舞伎の影響の強い)従来の時代劇のはおかしい。虎屋の羊かん見たいながのっかっているのは言語両断、もっと剃り込んでいて低いはず」と、鬘の形を指摘し、鬘は従来のものよりも月代を耳の近くまで剃り込み、側面の髪を低くしたものを採用した。また、青邨の弟子である江崎孝坪も衣装考証として参加。鎧兜や三船敏郎が着用した武具は甲冑師の明珍宗恭が製作指導に当たった。

撮入前の本読みが始まると、扮装テストも毎日行われ、黒澤は着物の柄を描いたり役者のスケッチをしたりした。本作のために黒澤にスカウトされた土屋嘉男は、黒澤自身から丹念にメイクアップされ、日毎訂正された。衣装が出来上がってくると、黒澤は「役の上では着たきり雀だから」と、俳優たちに着物(三着同じものが用意された)を渡し、それぞれ持ち帰って撮影中は毎日着て汚し、垢じみた感じにしてくれと命じた。なかなか汚れない着物に、じれったくなった土屋は土の上に寝転んだり魚釣りに着て行ったりしたので、「あそこの息子は可哀想に変になった」などとうわさされた。困った土屋はを染み込ませた上から軽石でこすって、うまく着古した感じを出して工夫した。

やがて衣装に愛着の湧いてきた土屋に、黒澤は「完成したら一着お前にやる」と約束したので、土屋は期待していたが、結局本作の衣装はフランスのフィルムライブラリーに寄贈されてしまった。また、黒澤は「今までの時代劇とは全く違う鬘を作ってくれ」と「山田かつら」の山田順次郎に頼み、実際の髷のように生え際が後に逃げ、毛は少なく髷も細く、羽二重もリアルな材質にしてもらった[9]

黒澤は「ジョン・フォードみたいな時代劇が作りたい」と考え、本作に取りかかった。小国英雄によると、黒澤は「一人の人間が何十人もの相手を斬るって言うのは嘘だ」と語っており、「何十本もの刀を用意して刀を替えながら戦った」という剣の名人の足利義輝に倣って、菊千代に刀を地面に立てさせ、何人か斬る毎に刀を替える場面を挿入している。小国は「そういうふうなことを、彼(黒澤)はやたらに一生懸命勉強したわけですよ。立ち回りでもなんでもね。その努力のたまものですよ、あの場面の張りつめた面白さは」と語っている。衣装やこうした立ち回りすべてが、黒澤のリアル志向の表れだった[10]

また黒澤監督はドボルザークの『新世界交響曲』が好きで、土屋に「助監督の頃からこれをずーっと聴いていてね、今に監督になったらこんな感じの映画を撮りたいと思い続けていたんだよ。そしてそれが実現しつつあるんだよ」と語り、『七人の侍』の原動力は『新世界交響曲』だとしている。黒澤監督は常に音楽を先行させて、イメージを膨らませ、作品作りを行っていた[11]

撮影の開始

撮影は一部砧スタジオで行われた分を除き、大部分が東宝撮影所付近の田園(現:世田谷通り大蔵団地前)に作られた巨大な村のオープンセットと、伊豆から箱根にかけて、丹那トンネル直上や伊豆市堀切など各地の山村でのロケーション撮影で行われた。ロケ地にもオープンセットと違和感なくつながるように村の一部を建設したため建設費も大きくなった。劇中、菊千代が与平の裸馬にまたがり、己の馬術を披露し、茂助の小屋の陰で落馬するコミカルなシーンがあるが、この茂助の小屋には当時電柱が建てられており、そのままでは撮影ができない状態であったが、黒澤が一言「どかせ」といい、撮影のために撤去された。このエピソードは「クロサワ天皇」の逸話の最初期のものと言える。

落ち武者狩りをする百姓の本性を知り、複雑な心境の侍たちに菊千代が怒りをぶちまけるシーンで、三船は黒澤に「監督、俺は百姓なんだから、青っ洟にしたほうがいいでしょう」といい、黒澤はその意気込みで演じてくれればいい芝居になると思い、「いいね」と応じた。すると三船は本当に涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしてしまい、黒澤は大いに圧倒され、感動するも「三船ちゃん、本当に素晴らしい演技だったけど、ちょっと汚く見えるから撮り直すね」といってリテイクした。三船はこの他にも侍たちを付け回すシーンで「立ち小便でもしましょうか?」など破天荒なアイデアを沢山出したが、黒澤が笑いながら却下した。しかし、黒澤の三船に対する評価は益々上がった。

ファイル:Shizuoka pref. with Mount Fuji 20120821.jpg
冒頭の武士が村を見下ろす場面と、大俯瞰の村々のセットは丹那トンネル真上に作られた。写真は丹那トンネル直上からの景色。

1953年5月27日に撮影が開始[12]され、利吉(土屋)と万造(藤原)の取っ組み合いの喧嘩の場面から撮影が始まった。スタジオ撮影では、水車小屋のセットでの撮影で、黒澤監督がイライラしはじめ、スタッフや役者にまでイライラが伝染して難渋。土屋が原因を調べたところ、換気設備が老朽化して機能していなかった。監督たちは湿気のためにイライラしていたのである。以後、このステージは「地獄小屋」と呼ばれてスタッフに恐れられた。野武士の騎馬と竹槍農民との合戦は、伊豆でロケされた[13]

本作には町を歩く浪人役で無名時代の仲代達矢と、宇津井健も出演している。本作出演の決まった仲代は毎朝早くに撮影所に出掛け、家に帰る頃には足の親指と人差し指の間が(鼻緒で)擦れて血だらけになっていて、仲代は加地健太郎に「いやぁ、黒澤監督ってのはすごいよ、今日も一日歩かされた」と語っている。浪人が歩く数秒のカットだけで、黒澤監督は何日もリハーサルを重ねて撮影に臨んでいた[14]

会社側は8月いっぱいで撮影と編集を終了させ、秋に公開するという勘定だったが、撮影は8月が過ぎても一向に終わる気配がなく、秋になると「一体いつ終わるのか」と賭けをする者もあらわれ、黒澤自身までその賭けの仲間に入った。そうこうするうちに年越しの気配となり、撮影所所長が余りの予算と日数のオーバーの責任をとって、辞表を出す騒ぎとなった。こうしてついに東宝本社は撮影中止命令を出し、「撮影済みのフィルムを編集して完成させる」と決定。重役らを集めて試写を行った。

試写フィルムは、野武士が山の斜面を駆け下り、菊千代(三船敏郎)が「ウワー、来やがった、来やがった!」と屋根で飛び上がり、利吉の家に旗がひらめいたところで終わり、ここから合戦という場面でフィルムがストップする。がっくりきた重役達は「存分にお撮り下さい」と黒澤に伝え、撮影所所長は復帰。黒澤は「最初からこうなることを予測して、最も肝心な最後の大決戦の所を後回しにして撮らなかったんだよ」と土屋に語っている。撮影再開が決まり、黒澤家ではスタッフキャストを集めて乱痴気騒ぎの大宴会が開かれた[15]

この試写の現場では、重役から「これの続きは」と詰め寄られ、黒澤は「ここから先はひとコマも撮っていません」と告白(これはハッタリではなく本当に撮っていなかった)[16]、そのまま予算会議となり、追加予算を付けてもらったともいわれている。

また、三船は度重なる撮影の中断中に本多猪四郎監督の『太平洋の鷲』の友永丈市大尉役で出演するが、菊千代の髭を剃ることができなかったので、何とも奇妙な友永大尉になってしまった。

過酷な撮影

1953年秋になって野武士の山塞を襲撃する場面が撮影された。この場面は8台のミッチェル・キャメラを用意し、それぞれがアップ、ロングなど別々の画を撮った。このため、キャメラをとられて撮影が出来なくなり、休みになった組もあった[17]

撮影所の大オープンセットでの撮影初日、宣伝部は見学者を入れてしまった。これを極端に嫌う黒澤監督は激怒し、脚本を地面に叩きつけて帰ってしまい、その日の撮影は休みとなってしまった。この野武士の山塞襲撃での、砦に火を点けるシーンは、実際に砦を燃やしての撮影だったため、消防署立ち会いの下、消防ポンプが待機していた。しかし黒澤監督が中止としたので、これも出番は翌日繰り越しとなった。ところが翌日は乾燥注意報が出て、あちこちで火事があり、消防ポンプが出払ってしまって、ポンプが来たのはかなり遅い時間になってしまった。その間にスタッフが「よく燃えるように」と小屋にガソリンをかけたことで、大変な事態となってしまった。利吉役の土屋が女房を追って砦の中に入るシーンで、バックドラフト現象が起きてしまったのである。突然の爆風と、想像以上に激しい火の勢いのため、土屋は意識を失ってしまい、以後のことは覚えていないと語っている。この爆発で、つながれていた馬はすべて自分で綱を切って逃げてしまい、野武士たちも残らず逃げてしまった。土屋は熱風により鬘も眉も焦げ、顔は火ぶくれを負って膨れ上がった。望遠キャメラだけが土屋を追っていたが、ラッシュフィルムには黒澤や消防士まで写っていて、この場面は使えなかった。大金をかけたセットは焼失し、スタッフルームで土屋がしょんぼりしていると、そばで黒澤もうつむいて涙を浮かべていた。土屋はその晩病院で一泊する羽目となっている。後日、主映像となるカットを撮り直したものの「やはり当日のものが迫力があっていい」と、土屋の場面はそのまま使われた。完成後、黒澤は土屋に「俺も君も、あの山塞のことは一生忘れないだろうね・・・」とぽつりと語ったという[18]

利吉の女房役島崎雪子はこの場面で限界まで演技をしたため、撮影直後に火ぶくれで顔がみるみる腫上がった。また、その時に大事な小道具を砦の中に落とし、砦もろとも焼失している。消火活動も困難だったらしく、砦のセットの周りの森も焼け果てていた。

クライマックスの雨中の合戦では、黒澤は雨をより激しく見せるため、雨の中に墨汁を混ぜて撮影を行った。映画では9月ごろという設定(米との二毛作の麦は収穫が初夏であり、終わりの場面で田植えをしている、揚げ雲雀が鳴いているなどのことから季節は初夏という見方もある)であるが、撮影は2月の極寒の積雪の中で行われ、三船や加東大介をはじめ肌着一枚やほぼ裸の役者にとってはとてもきついものであった[19]。実は「雨の決戦」というシチュエーションも、積雪がある2月の撮影ゆえに誕生したものだった。オープンセットに積もった雪を溶かすために消防ポンプ数台でぐちゃぐちゃにし、さらに大量の水をポンプで撒いたため、現場全体が泥濘と化し、これを逆に利用したのである。 当時のハリウッドにおけるアクション娯楽映画といえば西部劇がまだ幅を利かせている頃で、対決シーンというと炎天下の砂塵が吹く中での対決が主流となっており(そもそも降雨が少ない)、豪雨の中での合戦シーンというそれまでになかった手法に、ハリウッドだけでなく世界中の映画関係者や映画ファンを驚かせた。

黒澤監督はこの雨のシーンについて、「アメリカの西部劇では常に晴れている、だからこそ雨にしようと思いついた」と語っている。監督はじめ全員が凍りつく雨の中で何日も頑張ったが、誰一人風邪をひかなかった。土屋嘉男は「今思えば、あの時のオープンセットは、泥と共に、一同のアドレナリンが飛び交っていたように思える。一日の撮影が終わるごとに、皆一様に、『戦い終わり日が暮れて・・・』を実感した」と振り返っている。皆撮影が終わると、撮影所で風呂に入り、家でまた風呂に入ったが、泥がなかなか落ちなかった。三船敏郎は「尻についた泥がどうしても落ちない」と毎朝顔を合わせる度に吠えていたという。完成から15年ほどのちに、土屋ら一同が顔を合わせたが、全員が「あんな撮影はもう二度とできない。体力の限界!」との言葉が期せずして口から出たという[20]

『七人の侍』の音楽

本作で最も有名な曲である「侍のテーマ」は早坂文雄が作曲した。はじめ黒澤は、早坂が用意していた曲がすべて気に入らずに没案となったが、困った早坂がごみの中に捨てていた楽譜の一枚をピアノで演奏したところ、採用となった[21]

土屋嘉男によると、黒澤は「侍のテーマが決まったよ」とハミングで歌ってみせ、土屋に「これ大変だったんだよ、早坂がねえ、20曲くらい作って早坂の家で一つ一つピアノで弾いてくれたけど、どれも気に入らないんだよ。全部弾き終わったけど黙って首をひねっていたら急にもぞもぞ部屋の隅の紙屑箱の中に手を突っ込んで、『こんなのもあるけど』とぐちゃぐちゃに丸めた紙を出して、その皺を伸ばして弾き始めたんだよ。それを聴いた途端、これ! これ! と、これに決まったんだよ」と語っている。早坂は当時、肺結核の身を押して、本作のために60日かけて300枚の曲のデッサンを書いている。「農民のテーマ」について、黒澤は土屋に「これねえ、早坂が日本中の古い囃言葉を調べて作ったんだよ、面白いよ」と教えてくれた。田植えの場面は撮影最後になったが、土屋が一年かかった撮影を思って高らかにこのテーマを歌った。「ドッコイコラコラ、サーッサッ」というところにくると、黒澤監督はキャメラの横で「得も言われぬ顔でニコーッと笑った」という。土屋は「なぜそこにくると笑うのかは知らないが、監督のあの笑顔は今も忘れるものではない」と述懐している[22]

その後

2016年2月23日には現存する4K解像度で修復が行われ、公開された[23]

東宝の保管庫を調査した際にオリジナルネガが発見できなかったため、作業は最も状態の良かったマスターポジ(オリジナルネガを焼いたもの)とデュープネガ(マスターポジの複製)を用いて行われた。スタッフがチェックしたところ、マスターポジには繰り返しデュープネガを作った影響で傷や洗浄不可能なホコリがあり、部分によっては数コマ欠損している場合もあった。修復作業では3種類のソフトウェアを使い分けて傷や汚れを消したり、欠損したコマに前後のコマを合成するなどが行われた。さらに音声の方もフィルムに焼き付けられている音声画像を直接デジタルに変換する方法で取り込み、ノイズを除去することで、原音に近いものを再現している。[24][25]

完成された4Kリマスター版を見て、『生きる』以降の全黒澤映画のスクリプターを担当した野上照代は「黒澤さんにも見せたかった」と目に涙を浮かべながら語った[26]。また野上は、音声修復にも触れ、「三船(敏郎)ちゃんもセリフがわからないって言われていて、かわいそうだった。(リマスター版では)よく分かりますね」と述べている[26]

受賞・ランキング

アカデミー賞

ノミネート
1957年:第29回アカデミー賞 美術賞 (白黒部門)松山崇
1957年:第29回アカデミー賞 衣裳デザイン賞江崎孝坪

その他の受賞

ランキング

  • 1979年:「日本公開外国映画ベストテン(キネ旬戦後復刊800号記念)」(キネマ旬報発表)第1位
  • 1989年:「日本映画史上ベストテン(キネ旬戦後復刊1000号記念)」(キネ旬発表)第1位
  • 1989年:「大アンケートによる日本映画ベスト150」(文藝春秋発表)第1位
  • 1995年:「オールタイムベストテン」(キネ旬発表)
    • 「日本映画編」第2位
    • 「世界映画編」第1位
  • 1999年:「映画人が選ぶオールタイムベスト100・日本映画編(キネ旬創刊80周年記念)」(キネ旬発表)第1位
  • 2009年:「映画人が選ぶオールタイムベスト100・日本映画編(キネ旬創刊90周年記念)」(キネ旬発表)第2位

以下は海外でのランキング

  • 「映画史上最高の作品ベストテン」(英国映画協会『Sight&Sound』誌発表)※10年毎に選出
    • 1982年:「映画批評家が選ぶベストテン」第3位
    • 1992年:「映画批評家が選ぶベストテン」第17位
    • 1992年:「映画監督が選ぶベストテン」第10位
    • 2002年:「映画批評家が選ぶベストテン」第11位
    • 2002年:「映画監督が選ぶベストテン」第9位
    • 2012年:「映画批評家が選ぶベストテン」第17位
    • 2012年:「映画監督が選ぶベストテン」第17位
  • 2000年:「20世紀の映画リスト」(米『ヴィレッジ・ヴォイス』紙発表)第23位
  • 2008年:「歴代最高の映画ランキング500」(英『エンパイア』誌発表)第50位
  • 2008年:「史上最高の映画100本」(仏『カイエ・デュ・シネマ』誌発表)第50位
  • 2010年:「史上最高の外国語映画100本」(英『エンパイア』誌発表)第1位
  • 2010年:「エッセンシャル100」(トロント国際映画祭発表)第6位
  • 2013年:「オールタイムベスト100」(米『エンターテイメント・ウィークリー』誌発表)第17位

短縮版

本作はヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門に出品するため、既定の160分に収まるように再編集された短縮版がある。

黒澤には過去に国策や会社の方針など、自身の与り知らぬ不本意な再編集を施された作品がいくつかあるが、この短縮版は黒澤本人が編集を行っている。過去の短縮版に対するあてつけのような気合の入った編集になっており、オミットされたシーンに関する説明字幕は一切ない。また、当時の東宝の新設備であるテープレコーダーをフル活用し、音楽の若干の早回しや、カットの辻褄を合わせるため、いくつかのセリフのオリジナルキャストによる新規アフレコ、黒澤得意のワイプ処理など随所にこだわりがみられる。特に早坂文雄の新規録音(同時期に録音されながら全長版で未使用になっていた可能性もある)音楽はオリジナル版にはない箇所に多数使用され、様々な意味でオリジナルとは別の印象を与える工夫がなされている。早坂の新録曲はサントラCDにも収録されていないが、エンドタイトルのオリジナルより勇壮な印象のファンファーレ曲のみブルーレイディスクのメニュー画面で聴くことが出来る。こうして再編集された黒澤渾身の短縮版は見事に1954年のヴェネツィア銀獅子賞を獲得し、以降、同年9月の国内凱旋公開を皮切りに海外にもこの短縮版(ユル・ブリンナーが観たのもこれである)が輸出された。

荒野の七人」公開時の便乗リバイバル時や1967年のリバイバルもこの版が上映され(併映は「用心棒」)、2番館、3番館でもこれが定番となっていたが、1975年のオリジナル版のリバイバル以降、国内においては全くと言っていいほど見る機会を失ってしまった。海外においても1980年代以降のビデオソフト全盛の時代にオリジナル版がリリースされるようになったのを機に次第に重要視されなくなる。

この短縮版は菊千代にスポットが当たるように編集されており、この作品の主人公を明確にしている。

スティーヴン・スピルバーグは後年、オリジナル版を観たとき、「全く別の映画のようだ!」と感想を述べている。

現在はドイツでリリースされているDVD(PAL版)のみで編集した160分版を見ることが出来るが、音声はドイツ語吹替、現地オリジナルのBGMなど、原型を留めてはいない。日本語トラックのほうも編集された映像を元にオリジナル版をシンクロさせただけのものであり、新録音声を聴くことはできない。

この短縮版は特に封印するというアナウンスは公式にはない。

多くの研究書もこの短縮版について考察しているものは皆無に等しく、存在が触れられているのみである。

なお、凱旋公開記念に山口淑子による主題歌のSP盤が発売、このB面曲は「稲刈り」のBGMがそのまま収録されており、事実上、日本映画史上最初のサントラ盤でもある。

俳優七人のその後

七人は1972年に東宝創立40周年の記念にTBS系列で放映された特番に勢ぞろいし、座談会を行った。その後、1975年の加東大介を皮切りに1982年までに木村功、志村喬が没し、志村の逝去時に当時のマスコミは「生き残った三人が先に逝った」と書き立てた。1985年に宮口精二が没して以降、残る三人はしばらく健在であったが、1997年に三船、1998年に稲葉、1999年に千秋と立て続けにこの世を去った。皮肉にも劇中最初に討死した平八を演じた千秋が最後の侍となった。

影響

以後の映画作品に多大な影響を与え、また他国の映画監督にもファンが多い。

黒澤の最初の訪ソ時には歓迎昼食会で『惑星ソラリス』撮影中のアンドレイ・タルコフスキーと会い、レストランで黒澤と乾杯したタルコフスキーは酒に酔って音楽を流しているスピーカーを切り「七人の侍」のテーマを大声で歌い出したと黒澤は述懐している。『惑星ソラリス』における近未来の都市を模した東京の高速道路の景色は、空港から黒澤宅への道のりをそのまま撮影したものであると言われる。タルコフスキーの前作『アンドレイ・ルブリョフ』におけるタタール来寇の場面では、『七人の侍』のシーンをそのまま借用した箇所も見られる。多くのタルコフスキー作品では、潜在的テーマとして、映画人生における父親的存在としての「黒澤明」という人物がモチーフとして織り込まれている。

フランシス・フォード・コッポラは「影響を受けた映画」と言い、ジョージ・ルーカスは「『スター・ウォーズ』シリーズはSFという舞台で黒澤のサムライ劇を再現したかった」と述べている。幼少期に黒澤作品に触れて多大な影響を受けたというスティーヴン・スピルバーグは、映画の撮影前や製作に行き詰まったときに、もの作りの原点に立ち戻るために必ずこの映画を見ると発言している。また本作を通じて侍の精神や武士道の考え方なども影響を与え『スター・ウォーズ』のジェダイの騎士は七人の侍のキャラクターを元に創作されたとジョージ・ルーカスは述べている。

オマージュ・リメイク

「腕利きの7人(または数人)の個性的なプロフェッショナルが、弱者を守る・秘宝を盗むなどの目的のために結集して戦う」というプロットは、「7人」という登場人物の映画・ドラマの原点とも言われている。

※発表年順

メディアミックス

※発表年順

漫画

アニメ・ゲーム

アニメ
  • 2004年、GONZOにより『SAMURAI 7』としてアニメ化された。
ゲーム ※上記アニメを原作とするゲーム作品
  • 『SEVEN SAMURAI 20XX』 - 2004年発売。サミーからPS2用ソフトとして発売されたアクションゲーム。舞台は近未来設定となっている。
  • SAMURAI 7』 - 2006年発売。アイディアファクトリーからPS2用ソフトとして発売されたアドベンチャーゲーム。

パチンコ

2008年にビスティからパチンコ機・『CR七人の侍』がリリースされ、このパチンコ機用に新規撮影が行われた。

舞台

2010年に『KANSAI SUPER SHOW 七人の侍』として舞台化された。

脚注

  1. 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)112頁
  2. 作中、「天正2年甲戌2月17日生まれ」と記されている菊千代の家系図を見て、彼を「13歳」と揶揄する場面があり、1586年と知れる。
  3. 原題は『The Magnificent Seven』で2016年公開の『マグニフィセント・セブン』と同一
  4. 原題は『The Magnificent Seven』で1960年公開の『荒野の七人』と同一
  5. 戦国時代盛期には、このような居合い抜きの剣豪はいなかったが、侍の個性の幅を出すためにこのタイプの侍も採用された。
  6. 企画の順序は橋本忍『複眼の映像』から
  7. 7.0 7.1 都築政昭『黒澤明 全作品と全生涯』東京書籍、2010年
  8. 『黒澤明「夢は天才である」』文藝春秋、1999年
  9. 土屋嘉男「喧嘩も才能のうち」、『クロサワさーん! 黒澤明との素晴らしき日々』に収録(新潮社、1999年)
  10. 『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』「楽しき哉、チャンバラ映画づくり」(サンケイ出版)
  11. 土屋嘉男「新世界交響曲」、『クロサワさーん!』より(新潮社)
  12. 『黒澤明全集 第四巻』黒澤明
  13. 『クロサワさ~ん!』(土屋嘉男、新潮社)より
  14. 『東映ヒーローMAX VOL4』「東映ヒーロー悪役俳優列伝 加地健太郎」(辰巳出版)
  15. ここまで『クロサワさ~ん!』(土屋嘉男、新潮社)より
  16. 西村雄一郎『黒澤明と早坂文雄』(筑摩書房、2005年)によると、そう言ったのはプロデューサーの本木荘二郎だったという説もある。p718
  17. 『クロサワさ~ん!』(土屋嘉男、新潮社)
  18. ここまで『クロサワさ~ん!』「みんな燃えちゃったあ」(土屋嘉男、新潮社)より
  19. 役者の吐く息が白くなっているのが映画でも確認できる。
  20. この段、黒澤と土屋のコメントは『クロサワさ~ん!』「戦い終えて日が暮れて」(土屋嘉男、新潮社)より
  21. 西村雄一郎『黒澤明と早坂文雄』(筑摩書房、2005年)中の佐藤勝談によると、曲が当時流行していた「ブルー・カナリア」(アメリカではダイナ・ショア、日本では雪村いづみが歌っていた)と非常に似ていたため破棄したものだという。p711
  22. 『クロサワさ~ん!』「ドッコイコラコラ」(土屋嘉男、新潮社)
  23. NHK (2016年2月23日). “映画「七人の侍」 4Kの高画質で修復”. オリジナル2016年2月23日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160223104038/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160223/k10010419301000.html . 2016閲覧. 
  24. YOMIURI ONLINE. “デジタル修復、「七人の侍」のここがスゴい 2/3”. . 2017閲覧.
  25. 映画.com. “「七人の侍」「生きる」が4Kデジタルリマスターで復活、午前十時の映画祭7で上映”. . 2017閲覧.
  26. 26.0 26.1 映画.com. “仲代達矢&野上照代「七人の侍」4Kデジタル上映に涙「黒澤監督に見せたかった」”. . 2017閲覧.
  27. G. P. Sippy, Indian Filmmaker Whose ‘Sholay’ Was a Bollywood Hit, Dies at 93The New York Times, DEC. 27, 2007
  28. 28.0 28.1 四方田犬彦は、以下の作品のプロットにも影響が見られると説く。

参考文献

  • 『全集黒澤明 第4巻』 岩波書店、1988年、作品台本・随筆、解題佐藤忠男ほか
  • 黒澤明・宮崎駿 『何が映画か - 「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』 徳間書店、1993年 ISBN 4195552729
  • 都築政昭 『黒澤明と「七人の侍」』 朝日文庫、2006年 ISBN 4022615036
    • 元版 『黒澤明と『七人の侍』 “映画の中の映画”誕生ドキュメント』 朝日ソノラマ、1999年

関連文献(2000年代以降)

  • 『黒澤明「七人の侍」 創作ノート』 2巻組、野上照代編・解説、文藝春秋、2010年8月
  • 『黒澤明MEMORIAL10 七人の侍』 小学館 野上照代監修、2010年7月、本編DVDと解説冊子(全10巻シリーズ)
  • 四方田犬彦 『「七人の侍」と現代 黒澤明再考』 岩波新書、2010年6月

外部リンク

テンプレート:黒澤明監督作品