中越戦争

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中越戦争
戦争: 第三次インドシナ戦争
年月日: 1979年2月17日 - 3月16日
場所: ベトナム北部
結果: * 中国人民解放軍がベトナム北部を占領したのちに撤退。
  • ベトナムはカンボジア占領継続(~1989年)
  • 中越国境は1990年まで緊張状態。
交戦勢力
 ベトナム 中華人民共和国の旗 中国
戦力
陸上軍70,000–100,000
国境警備民兵約150,000
陸上軍200,000
損害
中国側主張:戦闘員:52,000死亡 民間人:70,000死亡
ベトナム側主張:民間人:100,000以上死亡 戦闘員:30000
中国側主張:
戦死6954、戦傷18,400
ベトナム側主張:
戦死26,000

中越戦争(ちゅうえつせんそう、ベトナム語: Chiến tranh biên giới Việt-Trung / 戰爭邊界越-中?英語: Sino-Vietnamese War)は、中華人民共和国ベトナム社会主義共和国の間で、1979年に行われた戦争である。

大量虐殺を行ったカンボジアポル・ポト政権はベトナムの侵攻で崩壊。カンボジアを支援していた中華人民共和国は、これに対して「ベトナムへの懲罰行為」と称した軍事侵攻を開始。敵主力の留守を突く形で侵攻した中国人民解放軍は、大きく優越する戦力で守備隊を圧倒しようとした。しかしベトナム戦争で実戦経験を積み、装備にも優れたベトナム人民軍相手に、中国人民解放軍は多大な損害を出して撤退した。

概要

ほぼ同時期に成立した統一ベトナムは、実質上北ベトナム南ベトナムを併呑したものであり、そのベトナムは隣国ラオスとも軍事同盟を結んでベトナム軍を駐留させた。一連の行為はカンボジアから見れば、北ベトナムが着々とインドシナ全域へ支配領域を広げているかのように解釈され、次はカンボジアが併呑される強い危機感があった。またフランス支配以前の両国はメコンデルタの領有権を争っており、旧来からの因縁があった。結果、両国間では対立が激化し、1978年1月に国境紛争によって国交を断絶した。

ベトナムはカンボジアから亡命していたクメール・ルージュの軍司令官ヘン・サムリンたちを支援するという形でカンボジアに侵攻し、1979年1月にプノンペンを攻略、ヘン・サムリンによる親ベトナムのカンボジア政権を樹立した。ポル・ポトは密林地帯に逃亡しポル・ポト政権は崩壊した。カンボジア側からすれば、ベトナムがインドシナの覇権を握る野望を持っているという危惧が、現実のものとなったのである。一方、当時のベトナム政府にとっては、カンボジアとの未確定の国境問題、ポル・ポト政権が、カンボジア領内のベトナム系住民への迫害を含む恐怖政治を行い、小規模だが繰り返されるベトナムへの侵攻・挑発は看過できないことであった。

ポル・ポト政権には中国が後ろ盾となっていた。またベトナムが中国の反ソ政策に同調しない態度だった事に対応し、当時、ソ連への敵意が強かった中国の鄧小平華国鋒はベトナムをソ連の手先と見なし開戦を決断した。中国にしてみれば、ベトナム戦争で中国の支援を受けたベトナム政府が親ソ連となり、中国から援助された武器も使って、中国の友好国であるカンボジアのポル・ポト政権を崩壊させたことは、「恩を忘れた裏切り行為」であった。また、統一ベトナム成立後の社会主義化政策は旧南ベトナム地域の経済を握っていた華僑資本家層を圧迫しており、民族主義的反発も要因の一つだった。

当時、ソ連とモンゴル人民共和国を修正主義国家と見なして敵視した中国は、ソ連軍と珍宝島で衝突するなど対立関係(中ソ対立)にあった。しかしながらソ連と戦争をすると、確実に核兵器の脅威が迫ることを予知した中国は、ベトナムに怒りの矛先を向けた。

戦況の推移

テンプレート:ベトナム

1979年1月1日以降、中国は56万人の兵隊をベトナム国境に集結させ威圧を開始。2月15日、中国共産党最高機関中央委員会の副主席の鄧小平は「同盟国カンボジアへの侵攻と同国内の中国系華人の追放(ベトナム側はこれを否定)」を理由とし、「ベトナムに対する懲罰的軍事行動」を正式発表することをもって宣戦布告を行う。次いで2月17日、中越国境地帯全域から1500門の重砲による砲撃を行った後、ラオカイカオバンランソン各市街の占拠を第一目標として、10個軍30万名からなる軍勢をもって西部・北部・東北部の三方面からベトナム国境を侵犯した。
中国ではこの戦争と80年代の国境紛争とを併せて「対越自衛反撃戦」と呼び、ソ連・ベトナム連合の侵攻を恐れての行動と主張している。この時期、ベトナム軍主力はカンボジアにあり、とくに西部には第316歩兵師団、第345歩兵師団を中心とした正規軍2個師団ほど(約2万人)と民兵しかいなかったが、西部に限らずこの民兵はベトナム戦争において米軍に勝ちベトナムを統一した主力退役兵を再集した部隊であったために、実戦経験が豊富であり、さらにベトナム戦争時の大量のソ連製や中国製の長距離砲を含む各種の武器、弾薬も確保していた。そればかりでなく、旧南ベトナム政府軍ラオス内戦当時の右派ミャオ族から接収したアメリカ製兵器(M16A1アサルトライフル、M101 105mm榴弾砲M114 155mm榴弾砲M113装甲兵員輸送車M41ウォーカー・ブルドッグM48パットンUH-1 イロコイ汎用ヘリ、F-5 フリーダムファイター軽戦闘機、A-37 ドラゴンフライ軽攻撃機、A-1 スカイレイダー攻撃機など)の大半も使用可能であり、正規軍に匹敵する精鋭が揃っていた。
中国人民解放軍は、国産の62式軽戦車T-54中戦車をライセンス生産した59式中戦車を主力にベトナム各地に侵攻したが、ソ連から供与されたRPG-7対戦車ロケット砲や9M14対戦車ミサイルといったベトナム軍の対戦車兵器により多数が撃破され、またベトナム国境付近は地雷原になっていたために、人海戦術を用いてさえ歩兵を進めるのは困難だった。そのため中国軍は軽戦車から69式戦車といった MBTまでを投入し、地域によっては山越えをしてベトナムの側面に回りこむ策に出、さらにゲリラ戦に遭うのを防ぐため徹底的に山やジャングルを70式130mm30連装自走ロケット砲火炎放射器で攻撃した。
文化大革命の悪影響や兵站等の準備不足に加え、初期の戦闘で中国軍の損害を大きくした原因の一つにベトナム軍の長距離砲(例えば第3歩兵師団ではソ連製の122mm長距離榴弾砲(M-30D-30と思われる)を使用していたことが確認されている)があり、加えてベトナム軍の砲兵陣地は強固で、それを潰さない限りベトナム軍の防衛線を突破できない事が明白であったため、中国軍は対砲兵レーダーをも使用した。対するベトナム軍は、兵力において圧倒的に勝る中国軍の背後機動を防ぐため、複数の陣地を構築し、敵に損害を与えつつ後退する縦深陣地戦を多用した。中国軍はその後、主力を欠くベトナム軍の後退に合わせて進軍し、2月25日カオバン2月26日ラオカイを、3月5日にはベトナム東北部の要所ランソンを占領することに成功し、ベトナム北部の五つの省を制圧したが、野戦軍はその過程で大きな被害を受けており、支払った代償は多大であった。一方、ベトナム軍は包囲されることなくランソンから後退し、南方に約100km離れたハノイ郊外に構築された巨大陣地に入った。ハノイ市民も陣地構築を手伝い、軍とともに小銃や対戦車火器を抱いて陣地に入り、決戦の構えをみせた。
ランソンを中国軍が占領したその日の夜、ついにカンボジア方面に展開中だったベトナム軍主力が合流を開始し、ハノイ郊外の巨大陣地には5個師団が入った。ベトナム軍主力と軍事衝突すれば、野戦軍のさらなる被害増大と占領地の維持が危うくなることから、直ちに中国中央軍事委員会は撤退を決定、翌日の3月6日の「ベトナムへの軍事的懲罰の完了」宣言とともに、中国軍に対して撤退を命じた。撤退を始めた中国軍に対してベトナム軍主力は追撃を開始するも、中国軍は占領していた省から撤退するにあたり、社会基盤やインフラをも破壊する非人道的な焦土作戦を繰り返してベトナム軍の追撃を断ち切り、3月16日までにベトナム領から撤退した。その後中国政府は内外に向けて戦争勝利を宣伝する。
当時の装備の面ではベトナム軍は、開戦直後よりソ連からの全面的な支援を受け陸上戦力・航空戦力ともに高い水準を維持していた。中国では中ソ対立以前のソ連製の兵器をもとに装備の開発をおこなってきた。例えば、当時中国軍の最新型戦闘機殲撃七型であったが、ベトナム軍ではMiG-21の完成型であるMiG-21bisが運用されていた。中国軍の主力機は殲撃七型、レーダーを積んだ殲撃六型レーダーを搭載せず武装搭載量も貧弱な殲撃五型で、爆撃機轟炸五型轟炸六型であった。地上では、中国軍はT-54のデッドコピーである59式戦車や、それをスケールダウンした62式軽戦車が多く、ベトナム陸軍も関係悪化以前に供与されていた59式戦車と、そのオリジナルであるT-54やT-55が主力であり、旧式なT-34-85さえも使用[1]されていた。
両国の戦果/被害報告が一致しないこともあり、世界各国では現在も中越戦争の結果についての分析が続いてはいるが、中国にとって朝鮮戦争以来の大規模な対外作戦となった本戦争は、ベトナム北部の一時的な制圧という政治目的こそ達成されたものの、純軍事的には悲惨な完敗に終わったとの見方が大勢である。戦争を取材した欧米の記者達は、中国軍がベトナム軍の縦深防御陣地に自殺的な突撃を行い大量の死者を出していると発信した。また、当時の人民解放軍はプロレタリア文化大革命の影響で階級を廃止しており、複数の部隊が合流したり共同して戦闘を行う際にそれぞれの指揮官の序列が曖昧になり、混乱をきたした。また、指揮官が戦死、あるいは戦傷で指揮が不能になった時に、代わって指揮をとる次級者の序列が存在せず、指揮命令系統が崩壊する例が多かったと言われる。この戦争の後、中国において軍の近代化が最優先の国家目標とされることとなる。
中国は短期間でベトナムを制圧できると考えていたにもかかわらず、自国の指揮系統が内部崩壊することを全く想定していなかった。この戦争の犠牲者に関しては、中国人民解放軍の昆明軍区の報告書である「対越自衛反撃戦総結」では2月17日から2月27日までにベトナム軍1万5000人を殲滅し、2月28日から3月16日までに3万7000人を殲滅したと主張し、自軍の戦死者は6954人戦傷者は1万4800人ほどだと報告している。一方ベトナム国防省の軍事歴史院が編集した「ベトナム人民軍50年 (1944-1994)」では60万人の中国軍の内2万人が戦死し、4万人が負傷し、合わせて1割の死傷者が出たと記している。
ベトナムはヘン・サムリン体制を保護するため、その後もカンボジア駐留を続け、1980年6月には隣国ラオスタイの国境紛争に介入してタイに侵攻するなど、影響力強化のための軍事介入を続けた。改革開放路線であるドイモイ体制が始まって、1989年9月にようやく撤収した。

戦争後

中越関係はその後も改善せず、1979年から1989年にかけて中越国境紛争赤瓜礁海戦などが引き起こされ、敗れたベトナムは、中国にとって有利な条件での国境線画定を余儀なくされた。結局、中国の支配地域が増すこととなった。

冷戦終結後、両国関係はおおむね安定しているが、ベトナムでは自国への侵略戦争として、中国では一般的に中越戦争を裏切り者(ベトナムは中国の支援のもとで対南ベトナム・アメリカの戦争を戦った)への侵攻と認識され、また旧南ベトナムの経済を支配していた華僑への迫害や、ベトナム難民(ボート・ピープル)が20年に渡って香港の深刻な社会問題となっていたため、中華圏でのベトナムのイメージは、中越戦争以降悪いままである。大陸国境線は2000年代に入って画定したが、西沙諸島および南沙諸島の国境線は画定されていない。

ベトナムは戦後、中国に対し中越戦争は侵略戦争として再三謝罪を要請しているが、中国側はベトナム側に対し、「ベトナムのカンボジアへの軍事的侵略によるものだ」と謝罪を一貫して拒否している。

2004年には、ファン・ヴァン・カイ首相と温家宝首相が相互訪問。両国の緊密化は進んだ。2006年8月22日 - 26日、ノン・ドク・マイン書記長が訪中、胡錦涛総書記と首脳会談。共同プレス発表では、資源エネルギー分野を中心とした協力推進を表明し、「良き隣人、良き友、良き同志、良きパートナー」と中越の関係強化を強調。両国海域を跨ぐ北部湾(トンキン湾)の石油天然ガス田の探査及び開発などの協力を加速させるとした。その後も同年10月末にグエン・タン・ズン首相が南寧での中国・ASEAN首脳会議の際に温家宝首相と会談。11月16日にはAPECのため訪越した胡錦涛主席がノン・ドク・マイン書記長らと会談するなど、活発に首脳交流が行われている。こうして中越関係は、ベトナム戦争期における社会主義兄弟国としての友情、カンボジア問題をめぐる憎悪と対立を経て、ビジネスライクに共通利益を目指す共存関係へと変化した。

しかしながら、西沙諸島および南沙諸島の領有権を巡って領土問題は残されており、双方の武装船が相手方漁船を銃撃する事件がたびたび起こった。2011年に入ると南シナ海で両国の対立が激化し、6月には南沙諸島の周辺海域においてベトナムの漁船が中国軍艦艇から銃撃を受ける、ベトナムの石油探査船の調査用ケーブルが中国の海洋監視船に切断されるなどの事件が頻発した。また、同海域において中国軍、ベトナム軍が共に大規模軍事演習を行うなど緊張が高まっている。一方ベトナム国内でも、思想や表現の自由がない共産党政権下では異例の大規模反中デモが度々認められるなど、国民の間でも反中感情が高まっている[2]。これらの事情からベトナム政府は1979年以来となる徴兵令を発令して、アメリカ軍との合同軍事演習も予定している。多数の第四世代戦闘機をはじめとした膨大な戦力を有する中国人民解放軍との戦力格差は歴然としており、ベトナムと中国との微妙な緊張関係が続いている。

関連書籍

  • 田岡俊次. 2007. 『北朝鮮・中国はどれだけ恐いか』朝日新聞社. ISBN 4022731362.
  • 昆明軍区.『對越自衛反撃戦総結』
  • ベトナム軍事歴史院.『ベトナム人民軍50年(1944-1994)』
  • 『三月七日、ランソンにて―「赤旗」ハノイ特派員高野功記者の記録』高野功(中国兵による銃撃で殺害された) 1979年 新日本出版社
  • 『MC☆あくしず Vol.43』 ワールドバトルフィールドサテライト(印度洋一郎、P83~P91) イカロス出版 2017年2月1日発行

中越戦争を描いた作品

映画

音楽

  • 血染的風采
中越紛争に従軍した音楽大学の学生が作曲した。歌詞の内容から、のち六四天安門事件の代表曲の一つにもなった。

脚注

  1. アメリカ軍が撤収時に置いていったM41やM48が中越戦争で実戦使用された記録はないが、M113兵員輸送車やM101 105mm榴弾砲は活用された。M113は一部が中国軍に鹵獲されている。
  2. ベトナムで反中デモ、異例の3週連続

関連項目


テンプレート:中華人民共和国の紛争